第2話 未来の夢
小さく
「お疲れですか。早く帰りませんと」
当然のように、待たせた駕籠までまた手を貸そうというのだ。よほど小さい子供か病人に対してしかしないこと、武家が妻に対してやろうものなら、物笑いの種でしかない。事実、屋敷から連れて来た供の者たちは気まずそうに目を逸らしているし、道行く者の中には指さす者もいる。だが、八重があきらかに懐妊しているとあって、嘲りよりは微笑ましく見守る気配もある──かも、しれない。
(まあ、父上もご懸念のことであったし……)
親孝行のつもりで、八重は夫の手に頼って歩き出した。すると、形ばかりと思っていたのに、ほんの数歩歩いただけでも息切れしてしまう。思いのほかの不甲斐なさに、八重は言い訳がましく呟いた。
「今からこれでは、臨月が思い遣られます。まだまだ重くなる、のでございますよね?」
「はい。こればかりは男にはどうにも……なので、遠慮なく頼ってくださいますように」
前妻の経験を間近に見ている吉太郎が、同情を込めて八重を見ている。こうも真摯に哀れまれるほどのことなのかと、かえって彼女を暗澹とさせたのには気付いているのかどうか。溜息を呑み込もうとした八重の耳元に、吉太郎はそっと口を寄せて囁いた。
「無事に身ふたつになられたら、もっと気軽に出かけられましょう。来年の春になりますか。花見でも浅草の祭りでも。──
「──は?」
人目も憚らぬ振る舞いは、この内緒話のためだったのか。不意打ちにもほどがある囁きに、八重は思わず足を踏み外すところだった。無論、吉太郎は危なげなく支えてくれたけれど。だが、驚かせておいて澄ました顔をしている夫を、睨まずにはいられなかった。
「……よろしいのですか」
義絶したことになっている家同士で物見遊山など、世間の噂になりかねない。
「たまたま同じ日に同じところに出かけることもありましょう。人に聞かれればそう言えばよろしいかと」
「鬼の居ぬ間に悪だくみをなさるものです」
人の噂を気にしない、どころか、吉太郎は白々しい知らぬ振りを決め込むつもりらしい。しかも、父が国元にいる間ならばお叱りもないだろうとの魂胆も透けて見える。婿入りしたばかりでのこの大胆さとは呆れたものだ。
「とはいえ、
既に駕籠に収まっていた八重は、信じがたい思いで夫の顔をまじまじと見上げた。相変わらずの食えない笑みだが、目だけは彼女の表情を真剣に窺っている。だから──彼女が思い浮かべた姿は間違っていないはずだ。
「私が行くのは黙っておいて、ということでございますね?」
「でなければ来ないでしょうからな」
「会いたくないと思っておいでなのでは?」
「合わせる顔がないと、決め込んでいるだけでしょう。一度会ってしまえば良いのです」
誰とはひと言も言わぬままで話を進めるのは、その名を口にするのが憚られるからだ。八重の前の夫の、
「我が殿は寛容でいらっしゃるのかもの好きでいらっしゃるのか分かりませぬ」
大きくなった腹を抱えて、八重はこぼした。ほかの男との間に子を生した姿を、前の夫に見せたくはない。それでも会えば心が動いてしまうだろう。不貞など想像するだにおぞましいけれど、感情を完全に押し殺すことはできないだろうから。そしてそのような姿だって、今の夫に見せたくはないのだ。
「狭量でございますよ。八重様──八重殿との仲を、見せつけようというのですから」
「まさか」
駕籠に乗った八重と、その傍らに跪く吉太郎と。顔を寄せ合って何を話しているのかと、供の者たちが訝しむ気配が伝わって来る。辺りを憚らぬ睦言などではあり得ない、真剣な顔をしているから無理もない。長い話になるなら屋敷に帰ってからのほうが、と。頭では分かっているのだが、帰路の間ずっと、夫の真意に考えを巡らせるのは絶対に腹の子に良くないと思う。
八重の疑問の目に応えて、吉太郎は笑みを浮かべた。暗いのか明るいのか、間近に見ても分からない。あえていうならば、どこか邪気がある笑み、だろうか。
「どうせ過去には戻れぬならば、先を考えねばなりますまい。断ち切るには惜しい繋がりなのですから、前とは違った関係を結ばねば。私だとて気兼ねなくあの方を頼りたいし、頼っていただきたいのに。──そろそろ、と思うのですが」
「先を、考える……?」
夫の言葉を鸚鵡返しになぞることで、八重はその言葉を噛み締めた。過去に戻ってやり直せたら、とは何度も思った。今現在の憂いや悩みや理不尽に歯噛みしたことも。それを跳ね除けようと奮闘した時は、先を見据えていたつもりだった。だが、吉太郎が言うのはそんな目先の話ではないのだろう。
十年や二十年、あるいはもっと先──今のすべてが昔話になったころ。その時も大切な者たちが健やかでいて欲しい。当たり前の望みだ。今ある者たちだけでなく、これから生まれる子や孫も、かつて関わり、去ってしまうかもしれない者たちも。できることなら繋ぎ止めたい。同じ未来に進みたい。そのためには──意地だの後ろめたさだの、いつまでも拘っていられない、だろうか。
(夫婦でなくても……? ならばどのような──それも、これから、になるのか……?)
八重が考え込んだ時間は、思いのほかに長くなってしまったのかもしれない。吉太郎が、心配そうに駕籠の中に頭を突っ込んで来た。
「ああ、お疲れの折に唐突なことで申し訳ございませんでした。それこそ鬼の──
気分が悪くなったのかと疑ったのだろう。吉太郎の手が八重の額に触れる。知らぬ男の手だと、身体を強張らせた記憶も確かにある。だが、今はもちろんそのようなことはない。やはり八重の心も吉太郎の関係も、すでに変わっているのだ。
(ならば足踏みをしていても仕方ない、な)
「水野家の将来は殿にかかっております。気になさることはありますまい」
不意に得心した気がして、八重は微笑んだ。夫の着物の端を引っ張って、耳を彼女の口元に寄せさせる。内緒話の体で、悪戯っぽく囁いてみる。
「悪企みを教えてくださって嬉しゅうございます。父上のお言葉通り──先々に楽しみがあるのは、生きる甲斐になりますからなあ」
吉太郎とは会っている癖に、八重には何の便りも寄こさない。冷たい前の夫を驚かせて慌てさせる企みは、確かに楽しそうだった。不快に眉を寄せる顔が目に浮かぶけれど、それでもまた笑い合うこともできるだろう。時を重ねて互いに変わっていけば、きっと。
まだ遠い先を眺めて微笑む八重を見て、何を思ったのだろう。吉太郎は軽く目を瞠り、次いで目を細めて──そして、妻に応えて笑みを浮かべた。
「はい。久しく楽しく和やかに──そのようになれば。いえ……そうなるように。努めたいと存じまする」
吉太郎の手が八重から離れ、駕籠の戸がようやく閉められた。彼女が乗った駕籠を守って、吉太郎は騎乗して屋敷に戻るのだ。
駕籠が動き始めると、やはり疲れてしまっていたのだろう、眠気が押し寄せて来た。それに逆らうことなく、八重は揺れに身を任せて目を閉じた。
閉じた目蓋の裏に、これまでの諸々が浮かび上がっては沈む。万喜の涙、父の渋面、金弥の背けた横顔。その折々に感じた悲嘆も憤りも、共に。けれど確かに笑ったこともはしゃいだこともあって──楽しいこと嬉しいことを掬い上げれば、思いのほかに多くの記憶が手の中に残る。それらを大切に抱え込んで──そうして見る夢は、きっと明るいものだろうと思えた。
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最後までお読みいただき、ありがとうございました。
近況ノートに登場人物たちのその後(https://kakuyomu.jp/users/Veilchen/news/16817330658348391626)、限定近況ノートにちょっとしたSSを掲載しております(https://kakuyomu.jp/users/Veilchen/news/16817330658348428268)。よろしければ本編と併せてお楽しみください。
八重姫様御大変 悠井すみれ @Veilchen
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