第3話 後悔と寂しさと
その日の夕餉の席で、
「
「ええ……」
八重の目が、専用の座布団の上で毛繕いしている華に向いているのに気付いたのだろう、
「すでに与えているのだから。無駄に肥えたら哀れだろう」
「はい、承知しておりますが」
華の満足そうな表情は、
「あの……今日は見苦しい真似をいたしました。頭に血が上って──その、つい……」
八重はついに箸を置くと、目を伏せた。彼女の喉を塞いでいるのは怒りばかりだけではない。言い過ぎたしやり過ぎた、という後悔もまた、身の置き所をなくさせて食事を楽しむ気分を失せさせるのだ。
彼女が無為に鱈の身を箸でほぐす間に、金弥は食事を終えていた。目で小姓に命じて出させた酒を含んでから、居心地悪く応えを待つ八重に、声をかける。
「お前らしいことだな」
「はい。申し訳ございませんでした」
父や
(見損なわれたのは私のほうであろうな……)
もっと冷静に振る舞うべきだった、と思い返せば理解できる。頭から怒鳴りつけるのではなく、父の狙いをもっと上手く吉太郎から聞き出せば良かった。偉そうなことを言っておいてこの様か、と。呆れられても嘲られても仕方のないところだろう。
「お前を宥めねば、と思うと怒っている場合ではなくなるのだ。本来なら、俺からも言いたいことは山ほどあったのだが」
「申し訳ございません……」
「まあ、お前から言ったほうが角が立たないだろうからな。言いたい放題言ってくれたのは……気分が良かったかもしれぬ」
金弥は静かに微笑んで酒杯を傾ける。かつての皮肉っぽさや刺々しさが、近ごろはとんとなりを潜めているような。夫は夫で開き直ったのか何なのか──皮肉に皮肉で、棘には棘で返すことに慣れてしまった八重には、その穏やかさがかえって落ち着かない。ただ、責められていないことは分かるので、くどくどと食い下がることはせず、話題を変える。過ぎたことよりも、この先のことへと。
「……吉太郎殿はお怒りでしょうか」
「多少つれなくされたくらいで諦める話ではあるまい。怒っているならなおのこと、謝罪を口実にまた会うことができる」
不安と後悔の混ざった呟きにあっさりと返されて、八重は目を瞠った。夫の物言いは、まるで吉太郎とまた会うのを歓迎しているかのようだ。あの男の図々しい物言いに、金弥も気分を害していたようだったのに。
「またお会いして……どうするのですか。この上何を──」
「また後ほど話そう。まずは食べてしまえ。そうしないとお前を肴に呑み続けなければならぬ」
手酌で杯を満たした金弥は、悪い冗談を言っているに違いなかった。月か花でも愛でるように杯を掲げて目を細めてみせるなど、悪趣味にもほどがある。見飽きた年増の顔が、どうして酒の肴になるものか。
「御酒が不味くなるでしょうに。肴にするなら華になさいませ」
華が、訝しげに、にゃ、と声を上げた。己の名を賢く覚えているのだ。金色の目で八重と金弥を見比べることしばし、無駄に呼ぶな、と言いたげな目つきで毛繕いに戻る猫を目の端に、八重は憤然と箸を取った。夫の悪ふざけを早く終わらせてやらねば、と思うとがぜん食欲が湧いてくるのは不思議なことだった。
金弥が後で、と言ったのは、もちろんふたりきりになった閨の中で、ということだ。彼女たちに侍る者のすべてが離縁のことを承知している訳ではない。まして、吉太郎のこととなると誰がどこまで知っているか見当もつかない。
(父上も誰に知られて良いかくらいは教えてくだされば良かったのに……!)
そう思うと、父への怒りも再燃するが──それはそれとして、拘泥しても仕方のないこととは承知している。だから八重は布団の上に端座して夫と向き合った。
「──吉太郎殿は信頼に足る御方とお考えなのですか?」
「俺やお前の怒りを買うのを承知で、頭を下げたのだろう。律義者と呼んでも間違いではないと思うが」
尋ねられるのを予想していたように、金弥はすらすらと答えるが、八重にしてみれば夫が憤りを見せないのが納得がいかない。
「殿もお怒りのご様子でしたのに……」
「それはそれ、ということだ。腹は立つが悪い男ではない。ある意味お前とは似合いなのかもしれぬ」
「私は、殿をお見捨てするつもりはございませぬ! あの……今日のようなことは、もういたしませぬから」
前言を守れなかったことへの皮肉なのか、と思って慌てて付け足すが──薄闇の中で見つめる金弥の表情は真剣で、悪意も怒りもふざける色も、まったく浮かんでいなかった。
「無理をせずとも良い」
「いいえ。やってみせますとも」
「本心で言っているのは分かる。だが、無理は無理だと、改めて分かった」
「そのような──」
短気によって夫の信頼を失ったのだと悟って、八重は俯いた。せっかく良い案を見つけたはずなのに──いや、そもそもそれを思いついたのも吉太郎と会ったからなのだから、ますます身の置き所がないのだが。
闇が動く気配がして、八重の項を金弥の吐息がくすぐった。あやすように抱き寄せられて、心臓が跳ねる。こんなことは、結婚してからの十年で初めてではないだろうか。
「お前の思いは嬉しいのだ。だが、別れた妻に、心を曲げさせてまで世話になろうとは思わない。だから──こうなれば、お前の幸せを考えるべきだと思う」
「吉太郎殿と幸せに、と……?」
見上げる金弥の顔が、近い。なのに口に出すのがほかの男の名前とは。不貞にも等しいことだろうと思うのに、八重の今の夫は妻を叱る気配もない。
「
「それは……そうなのでしょうが……」
日本橋で出会った時は、吉太郎の若々しさは眩く見えたのだ。既に洋々たる将来を半ば約束されながら、さらに上を目指すのは今となっては強欲と思えるけれど。男とはそういうものなのか、その野心を父は買ったのか。──家のためになる縁であるのは、確かに間違いないのだろうけれど。
「妻子を捨てて栄達を望むような男でございますよ?」
「出羽守様に命じられれば逆らえぬ。悔しさを紛らわすために強がったということもあるだろう」
夫はやけに吉太郎の肩を持つ。……違う。吉太郎を良く見せることで、自身を諦めさせようとしている。離縁も再縁もいたし方のないこと、知らぬ顔で幸せを掴めと言っているのだ。八重がそのように器用な真似ができる女でないと、誰よりよく知っているのだろうに。
「でも……では、殿はどうなさいますか。
「そもそもお前の厚意に縋ろうというのが不甲斐ないことであった。身軽になった後ならどうとでもしてやる」
「まあ……」
夫の真意をようやく掴んだ気がして、八重は少しだけ微笑んだ。これまた初めてのことだろうが、夫の胸に甘えるように凭れながら、囁く。
「そこまで仰るのでしたら──吉太郎殿の御心に、今少し踏み込んで話したいと思います。今日のことを謝罪して、許していただくようにしませんと」
「それが良かろう」
金弥は子供の出来が良いのを褒める時の口調で頷いた。やはり、こうなることを狙っていたのだろう。夫ばかりに苦労はさせぬと、八重が自ら折れるように仕向けたのだ。不仲なりに十年に渡って夫婦であったのは伊達ではない。いつの間に、なのだろう。金弥は八重の扱い方をよく心得るようになっている。──すべてを理解するには、ほど遠いが。
「でも──私の夫は、今は貴方様ですから。他人行儀に行けと言われるのは、寂しゅうございます」
八重自身が、勝手に動いた自らの舌と、夫の胸に縋る自らの手に驚いていた。自身にこれほどの大胆さとはしたなさがあるなど、今の今まで知らなかった。だから、夫が絶句して身体を強張らせたのも無理はない。けれどそれも一瞬のこと、すぐに力強い抱擁が返された。そうして、夫は思いを伝えてくれた。
不意に倒れ込んで来た人間ふたりに驚いたのだろう、華が音もなく素早く布団から抜け出した。
夜中じゅう寝間から締め出されていた華は機嫌を損ねたようで、八重と金弥は、明け方、猫の爪が襖を引っ掻く音で叩き起こされた。華にしてみれば、居心地の良い寝床と温かい
その報せがもたらされたのは、朝餉の焼き鰆を与えて、夫婦して華を懐柔しようとしていた時だった。
「父上が……?」
「はい。若殿様と八重様に、上屋敷にお出でいただきたいとのお招きでございます」
昨日は呼ばれもしないのに押しかけたところ、今日はあちらから招かれるとは何とも慌ただしいことだ。とはいえ予想の範疇のことだから、八重は夫と視線を交わして微笑むことができた。
「昨日のお叱りでございますね、きっと」
「まあ、ちょうど良かろう。お詫びした上で仕切り直しとするか」
「ええ……!」
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