第2話 激昂

 ひどく引き攣った顔の小姓が、ぎくしゃくとした動きで八重やえたちの前に茶菓を供し、素早く辞していった。三人が三人とも黙り込んで目も合わさぬ不穏な気配を恐れたに違いない。


 茶から立ち上る湯気が消え、羊羹の表面が乾き始めたころになっても続いた、探り合うような沈黙をとうとう破ったのは、金弥きんやだった。


「……吉太きちた殿も災難であったな。本来ならばもっと機を見計らって打ち明けるはずだったのだろうに」


 夫は、思いのほかに砕けた言葉遣いで吉太郎きちたろうに接していた。名前を縮めて呼んだあたり、近い年ごろの同族同士、八重の知らないところで交際があったのかもしれない。ともあれ、夫の声から怒気が抜けているのを確かめて、八重もやっと肩の力を抜いた。


「父が、さぞ無理を申したのでございましょうな? 雪乃ゆきの殿にも午之助うまのすけ殿にも申し訳のないこと。その……何かお力になれることがあれば良いのですが」


 吉太郎に微笑んだ──つもりだったが、果たして成功しただろうか。憤りは父にぶつけるべきだと、八重にも分かってはいるのだが。家と妻子を捨てて年増を娶れ、などと無理難題にもほどがある。本家の権を振りかざされて、吉太郎も困り切った果てに断れなかったに違いないのだ。


「金弥殿。八重様。まことにもったいないお言葉、もったいないお心遣いでございます」


 微かに笑みを浮かべた吉太郎は、以前会った時と同じ、爽やかな青年に見えた。だから──八重は油断したのだろうか。


「ですが……その、どのように取り繕えば良いのか分からぬので、直截に申し上げますが」

「は……?」


 どうして吉太郎のまげを見下ろしているのか、不思議だった。いや、彼が先ほどよりもなお低く、畳に肘と額を擦り付けんばかりに平伏しているのは目に映っているのだが。どうしてそのような真似をするのか──間抜けに首を傾げる八重を前に、吉太郎は大きく息を吸った。


出羽守でわのかみ様からいただいた此度のお話、それがしとしては大変嬉しく光栄に思っておりまする。お二方のご不快もご心痛も重々承知ではございますが──八重様を、某にいただきたく……!」

「……は?」


 八重は、今度は間の抜けた声を上げることになってしまった。いっぽう、傍らの金弥は露骨に顔を顰める。


「そう言われてもな。出羽守様のご意向というなら俺に逆らう余地はないと思うのだが」

「それは……そう、かも知れませぬが」

「良い話だと思うなら誇っていれば良いだろう。俺が喜んで頷くとでも思っていたのか」

「いや、それは──」

「はいどうぞと言えるものではなかろう。かといって渡せぬと言える立場でもない。俺に何を求めている?」


 先ほど父に詰め寄った時と同様、金弥は激高するのではなく、淡々と語る中に怒りと不快をはっきりと滲ませている。いつになく険しい表情を浮かべた夫の横顔は、けれどほんの少しだけ八重の心を慰める。


(やすやすと思い切られた訳ではなかった、のか……)


 多少は気を置かずに語らえるようになっとはいえ、夫にはどこかで線を引かれていると思っていたのだ。どうせ離縁するのだから、と。次の婿を宛がわれようとしている状況に変わりはないし、かつて夫が言った通り、かえって別れが辛くなる恐れも感じるけれど。妻として女として愛されているのではないのも重々承知しているけれど──形ばかりでも、夫婦なりの情があると、感じることができた。


「──吉太郎殿」


 だが、それはそれとして吉太郎の言葉は聞き捨てならない。金弥の追及に返す言葉をなくしたらしい吉太郎のほうへ、八重はずいと膝を進めた。


「私からも伺いたいことがございます」

「は──」


 吉太郎はまた平伏しようとしたようだが、目を逸らすことなど許さない。八重は目に力をこめて、相手の挙動を縫い留める。声は低く、ひとつひとつの言葉を区切ることで、彼女の怒りを伝えるように。


「此度のこと、父に無理強いされたのではないと考えてよろしいですか。喜んでお受けになった、と……?」


 真冬だというのに、吉太郎の額には汗が浮いていた。さすがに自らの言葉を恥じる良心は残っているのかもしれないが、もう遅い。夫に対して妻を強請るなど、言葉の上での乱暴狼藉と変わらない。八重の中での吉太郎の心証は、一瞬にして地に堕ちたのだ。


 八重と金弥の冷ややかな目を浴びながら、吉太郎はごくりと喉を鳴らしてから、口を開いた。


「……はい。沼津ぬまづ三万石の大名家の跡取りの座でございますから。三千石の旗本家の、さらに次男に生まれた身には望外の幸運でございます」

「ほう……」


 ある意味潔い答えに、八重は感嘆の息を漏らした。敵ながら天晴れ、の気分だろうか。だが、だからといって追及の手を緩めることはない。


「雪乃殿と午之助殿、奥方と御子様についてはどのように?」

「実の父の栄達は、息子のためにもなりましょう。出羽守様は、午之助の行く末も請け合ってくださいました」


 開き直ったのか、吉太郎はまっすぐに八重の目を見返して淀みなく答える。息子のためでもあると、言い包めようとしているのかもしれないが。だが、八重としては父の手回しの良さに呆れるだけだ。それに、たとえ吉太郎が栄達の夢に目が眩んだとしても妻であり母である雪乃が納得するとは思えない。


「雪乃殿も同様のお考えか?」

「……家中の者は賛同してくれました。そもそも某が婿養子なのです。跡取りの午之助さえ残るのならば、家は安泰でございますから」


 吉太郎は、小狡く妻の雪乃に対する言及を避けた。それによって八重の予想は裏付けられ、怒りに火が注がれる。


(妻子を捨ててまで出世を望むのか……!)


 八重が息を吸ったのにちょうど合わせて、金弥が溜息を吐いた。どうせまた血の気が多すぎると言いたいのだろう。


「妥当な判断ではあるだろう。願ってもない婿がねと言ったのは、嘘ではないぞ」

「殿! 私はまだ言い足りませぬ。今ひとつ、お聞きしたいことがございます」


 夫が、吉太郎を庇うような位置に移動したのは心外極まりないことだった。だから八重は夫を一喝すると、すぐに吉太郎に向き直った。


「以前、気にするな、と申されましたなあ」

「は──」


 数か月も前のことだが、吉太郎も覚えていたらしい。明らかに目が泳いだ隙を逃さず、八重はさらに声を低める。結局のところ、彼女が何より気に喰わぬのはそのひと言だ。あの時は、世間の噂に動じるな、ともっともらしく聞こえたものだが。今となっては、まったく違うように響いてしまう。


「あれは、此度のこと、ご自身のことについてもそのように? 世の者にどのように囁かれようと知らぬ存ぜぬ──我が身さえ良ければそれで良い、と?」


「あの時は……まだお話をいただいておらず……。いえ、その通りでございます」


 言い訳を聞く気はない、と。口に出すまでもなく八重の視線だけで吉太郎は察したようだった。再び畳につくかと見えた手が、正座した膝の上に置かれて、背筋が真っ直ぐに正される。


「某の行いを、妬む者もそしる者もおりましょうな。ですが、関りのない者にどう思われようと、頓着する気にはなれませぬ。金弥殿にも八重様にも──雪乃にも、午之助にも。悪いとは重々思っておりますが、間違っているとは思いませぬ」


 そしてひと息に言い切った吉太郎は、なるほど堂々とした態度だった。憚ることなく八重を見返す目はいっそ挑戦的で、だからこそ彼女の怒りをいっそう駆り立てる。


「なるほど……!」


 呟きながら、八重は誰も手をつけていなかった茶碗を掴んだ。彼女自身も視界の外でのこと、あとのふたりに止める隙など与えない。


(冷めているのだから良いだろう!)


「八重……っ」


 金弥が叫んだのと、吉太郎が頭から茶を被ったのはほぼ同時だった。空になった茶碗をその場に投げ捨てると八重は立ち上がり、濡れ鼠になった吉太郎を見下ろして吐き捨てる。


「見損なった。貴方を殿と呼ばねばならぬのかと思うと虫唾が走る……!」


 日本橋の鶴田つるた屋での一幕で、気が晴れた、などと思ったのは不覚だった。世間の噂など「気にするな」、と言われて救われたように思ったのも。吉太郎がこのような身勝手な考えをするのだと知っていたら、耳を傾けたりしなかったのに。己の不甲斐なさが悔しくて恥ずかしくて、八重は顎が痛むほど奥歯を噛み締める。


 と、八重の手に金弥のそれが重ねられた。気付けば、彼女は痛いほどに拳を握りしめていた。憤りを堪えるためというだけで、吉太郎に殴りかかるつもりはなかったのだが。金弥が吉太郎にかける声には、呆れと、同情の響きさえ宿っているようだった。


「出羽守様は宥めよと仰られただろうに。どうしてややこしい真似をするのだ……!」

「八重様のご気性は、多少は存じておりますので……隠し立てをしては、かえってご不興を買うかと思いました」


 額から顎から茶の雫を滴らせながら、吉太郎は顔を拭うことをしなかった。弁明するつもりはない──つまりは、悪いとも思っていないと態度でも語っているようで、八重の苛立ちはまだ収まらない。


「父上がいらっしゃらぬのでは、もはやここに用はございませぬ。一刻も早く帰りとうございます」

「八重、こら──」


 吉太郎の顔を見るのも不快だと、八重は勢いよくそっぽを向いた。そのまま廊下へ足を進めると、しばし躊躇った気配の後に、金弥の影が追ってくる。だが、吉太郎は身動きせずにとどまっているようだった。

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