第6話 来客

 金弥きんや意次おきつぐを説得し、吉太郎きちたろうは主君の家斉いえなり公に内密の請願をする機会を窺う。為すべきことを抱えたふたりに対して、八重やえは当面無為な日々を送ることになった。


万喜まき様のご様子も気になるから……今度はこちらにお招きしても良いかもしれないが)


はな、以前もいらしてくれた万喜様は覚えているか? 吉太郎殿の時のように逃げたりせず、撫でさせて差し上げて欲しいものなのだが」


 やることといえば、ひたすら猫を撫でてはひとりごちるだけ。八重の膝を温かい座布団と心得ているらしい華はもちろん答えず、ごろごろと喉を鳴らす音が返るばかり。だが、猫の呑気な寝顔は八重の思い付きに少なくとも反対はしていないだろう。だから後押しを得た思いで、八重は招待の口実を考え始める。


 梅の季節は終わったが、浜町屋敷の庭では、そろそろ桜の蕾も膨らむころだ。上野の寛永寺かんえいじ飛鳥山あすかやま、隅田川辺りといった名所に比べれば無論見劣りはするのだろうが、万喜たちはまだ蟻のような人出に混ざる気にはなれないだろう。内輪での花見──いっそその下見ということでも、十分気晴らしになるだろうか。


「ご新造しんぞう様──」


 文を書くための紙と筆を命じよう、と。八重が息を吸った瞬間に、彼女の居室の襖が開いた。ちょうど良いところに、と喜ぶには、惨状した侍女の顔は硬く強張っていた。


「……どうした。何かあったのか」

「はい。分家の雪乃ゆきの様が、八重様にお会いしたい、と……」


 八重の身体が強張ったのを感じたのだろう、華が不満げに寝返りを打つ。掌で猫に触れてその柔らかさと温かさを感じながら、けれど八重の心臓は氷の楔でも撃ち込まれたかのように冷えていた。


「お断りいたしましょうか。ご新造様はご気分が優れられないとでも申しましょう」


 屋敷の奥向きに仕える者たちは、さすがに最近の騒動の全容を把握している。だからこそ雪乃の訪問の用件が楽しいものであるはずがないのも分かるのだろう。侍女の申し出は、思わず頷きたくなる魅力があったが──それに抗って、八重は静かに首を振る。


「いや……私にどうしても仰りたいことがあるのだろう。すぐに、伺う」

「は──」


 八重は、雪乃にはどのように罵られようとも当然の立場なのだ。彼女からは夫を、午之助うまのすけからは父を奪おうというのだから。重い溜息を呑み込んで──溜息を吐いて良いはずがないので──、八重は華を膝から降ろし、着替えのために立ち上がった。


      * * *


 八重の前に出た雪乃の顔は、白粉おしろいよりもなお白く、名前の通りに雪の色をしていた。化粧をしていても褪せた唇が紡ぐ声もごくか細く、風が冬の庭の枯れ木を揺らすかのようだった。


「八重様……」

「……父から話は聞いている。雪乃殿にも午之助殿にも申し訳のしようがないこと──今日は、どのようなご用件だろうか」


 雪乃の心情を慮って、なるべく地味な格好に着替えたつもりだった。無地の小袖に、裾だけに模様を入れた黒の打掛。それでも、着飾る心の余裕などなかったのであろう雪乃と対すると威圧しているように思えてならない。


「この場には私と貴女しかおらぬゆえ、どうぞ、お心のままに……」


 人払いをした座敷の広さを寒々しく感じながら、八重は蒼白な顔で俯いたままの雪乃を促した。本家の娘に対する遠慮も気遣いも無用、と。言外の宣言を察してくれたのだろう、雪乃はようやくわずかに目を上げ、口を開いた。


「……出羽守でわのかみ様のご命令で──決まったことと、聞かされました。奥方様に訴えても、もはや覆せぬとの冷たい仰りようで……!」


 雪乃は、八重よりも先に母に訴えていたらしい。実の父と母が、一族の若い女の心を踏み躙ったのを知らされた衝撃を、八重はしばし目を瞑ってやり過ごした。


(母上も承知していらっしゃったか……思えば、当然かもしれぬが)


 正月の時は、雪乃もまだ憂いなく笑っていた。思い返せば、母が吉太郎に言及していたのは、娘に次の婿の評判を聞かせるためだったのだ。夫を八重に奪われると知った雪乃は、そうと気付いて愕然としたことだろう。あの場にいた八重も、同罪と思われて当然だ。


「もはや頼りにできるのは八重様しかいらっしゃいませぬ。どうかどうか、父君様にお執り成しを。午之助はまだ七つなのです。どうして当主など務まりましょう……!」


 なのに雪乃は、八重を最後の頼みと縋るようににじり寄って来た。亡者が阿弥陀仏を求めるかのような必死の表情を、けれど八重は払いのけることしかできない。


「……気の毒にも申し訳なくも思っている。本当に。だが、私にもどうにもできないことなのだ」

「八重様……!」

「もはや主殿頭とのものかみ様のご権勢に頼ることはできない……水野家の将来は、吉太郎殿に託すほかない。父の考えは──家門のためには、最善なのだ。大納言だいなごん様もご承知のこと、なかったことには、どうあってもならぬ」


 ただでさえ白かった雪乃の顔色が、さらに青褪める。絶望に染まった従妹の顔を直視できずにわずかに目を逸らしながら、八重は懸命に舌を動かす。


「午之助殿の養育も将来も、何ひとつ不自由がないように取り計らおう。人手についても、不足があるなら本家から幾らでも差し向かわせる。吉太郎殿も──まったく会えなくなる、などということには、させぬ」

「八重様も離縁を強いられると伺いました! それも──致し方ないとのお考えなのですか……!?」


 雪乃の悲痛な叫びが、八重の胸を鋭く刺す。致し方ない、はずはない。けれど彼女は、既にほかに道がないことを悟ってしまっている。浅く息を吸っては吐き、心の痛みをどうにか宥めてから、できるだけ平静な声を装って、答える。


「致し方ない。武家の娘たるものは、家のために嫁すもの。私たちの場合は婿ではあるが……いずれ、そういうものなのだ」

「八重様は、ご夫君と不仲でいらっしゃるからそのように仰るのでしょう……!」


 雪乃の声は、懇願だけでなく非難の響きを帯びた。今度は、刺されるというよりも殴られたような衝撃を覚えて、八重は思わず頭を抑える。


(だから私は気にしていない、とでも……?)


 八重と金弥は、確かに長く不仲だった。だが、変わったのだ。お互いの心を知って、ぎこちなくはあっても幾らか歩み寄ることができた。ようやく、そして辛うじて芽生えた絆を惜しんで、過去を悔いて──それでも離縁は避けられぬのを、やっと呑み込もうとしているところだというのに。


「仰る通り、家のための結婚でした。父が亡き後、改易の憂き目に逢わぬための……でも、私は、吉太郎様と心を通わせました! 少しずつ打ち解けて、子を生して……それが、いつまでも続くと思っていたのに!」


 だが、雪乃に反駁することなど思いもよらない。八重たちに子はいないし、何より、彼女の父が命じたことである以上は、八重は雪乃に対して不満も憤りも漏らしてはならない。


「父の横暴については幾重にも詫びる。私に対しても、いかように罵っていただいても恨んでいただいても構わない。何があっても、午之助殿の扱いを変えたりはしない──させないと、神仏に誓う」

「情のない御方と見せつけられましたのに、どうして信じられましょう……」

「……当然のことだと思う。何度でも同じことを申せば、行動で示せば、いつかは信じていただけようか」


 今やはっきりと睨みつけられて、八重は怯む。このようにはっきりと敵意を向けられるのは初めてだった。大名家の娘として、彼女はこれまで敬われ甘やかされてきたのを思い知らされたのだ。


「八重様。信じられません。どうあっても」


 八重の顔色も青褪めたのだろう。それを目の当たりにして多少は満足したのか、雪乃が口の端をわずかに持ち上げた。笑った──と表現するには、あまりにも昏い表情だったが。


「だって……お世継ぎに恵まれなかったら、どうなさるおつもりですの……?」

「何……?」


 問われたことの意味が咄嗟に理解できなくて。呆然と呟くと、雪乃は苛立ったように膝を立て、音高く足を踏み鳴らした。乱れた裾から覗く脛(すね)が、やけに目に眩しい。場違いに考えた八重を、ゆらりと立ち上がった雪乃は見下ろして顔を歪める。


「その御年で今さら懐妊できるはずがない! 午之助を取り上げるおつもりなのでしょう!」

「そのようなことは──」


 いまだ何を言われているのか理解しきれない八重の目を、眩い煌めきが、逝った。雪乃が、帯に挿していた懐刀を抜いたのだ。武家の娘の心得として、よく手入れされているのだろう。いかにも鋭い白刃が、高くかざされる。


「渡さない……貴女なんかに……!」

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