第7話 白刃
無造作に踏み出した
「雪乃殿っ、落ち着かれよ……!」
転がって凶刃を裂けながら、
「こうするしかないのです。誰も聞いてくださらぬ以上は……!」
八重をひたと見据えて懐刀を構え直す雪乃の目には、いささかの揺らぎも見えなかった。熱に浮かされたような眼差しも、緩んだ唇が描く笑みも、まったく正気のものではない。けれど取り乱してもいなかった。狂ったなりの理屈で、雪乃は執拗に八重を狙う。
「私を殺しても、
座ったままでは、あまりに分が悪い。邪魔な打掛を脱ぎ落しながら、八重は立ち上がり、雪乃と同じ目線になって訴えた。依然として、囁く声色に必死の懇願を乗せて。けれど、八重の気遣いを嘲るように、雪乃は声高らかに笑った。
「これだけのことをしでかせば、破談になります。吉太郎様には関係ないわ。
「雪乃殿……」
晴れ晴れとした笑顔のまま、雪乃は懐刀を腰に溜めて向かってくる。八重が呆気に取られて棒立ちになったのを好奇と見て取ったのだろう。ただ、彼女の思い違いを心底哀れんだだけだというのに。
(違う……そうはならないのだ……)
八重が死ぬか傷つくかすれば、確かに父は怒るだろう。表沙汰にはできぬまでも、分家には何らかの罰が下るはず。妻を凶行に至らせた男など、養子には相応しくないと考えるのも道理だろう。だが、養子の話は既に将軍世子にまで伝わっているのだ。父がいかに苦々しく思ったとしても、今さら覆ることはない。吉太郎はそこまで妻に伝えていないのか、それとも聞かなかったことにしたのか。いずれにしても、八重の言葉などもはや届くまい。
八重は目を閉じ息を吐き──諦めた。雪乃を説得することを。事情を話す暇などないし、話したところで雪乃の耳に届くとは思えない。ならば、後はできる限り雪乃の罪を軽くすることしかできない。つまり、大声を上げて人を呼ぶのだ。
「誰か! 早う参れ! 雪乃殿がご乱心だ!」
八重の声に答えて、襖を何枚か隔てて控えていた者たち慌てふためく気配が起きた。同時に、焦りの表情を浮かべた雪乃が殺意のこもった目で八重を睨む。どうして殺させてくれぬのか、とでも言いたげだ。
「なぜ……っ」
雪乃の叫びは、何もかもに対する疑問と怒りをこめていたのだろう。どうして離縁せねばならぬのか。どうして夫が奪われるのか。どうしてその相手が八重なのか。もはや答えなど望んでいないだろう。代わりに八重の命を求めて、ひと際早く鋭く、懐刀の刃が目の前に迫る。
「八重様! 雪乃様!」
「これはいったい──」
侍女たちの声も足音も、近づいてはいる。襖を開け放つ音も、ちょうど聞こえた。だが、雪乃の刃にもっとも近いのは、やはり八重だ。横から回り込む猶予などない。
(こんな小さな刀では人は死なぬ……!)
八重は必死に目を見開き、刃の軌道を見定めようと努めた。かの
「八重様……っ」
侍女の悲鳴を背に聞きながら、八重は刃ごと雪乃の身体を抱きとめる。左腕に熱を感じたのは、躱したつもりでも刃がかすめたのか。だが、命に係わる場所ではないだろう。いっそ安堵を覚えて、八重は雪乃と共に畳の上に倒れ込んだ。
脱ぎ捨てた打掛は滑り、手をつくと零れた茶が襦袢に染み込むのが不快だった。おまけに、雪乃を抑えつけようと身体を起こすと、どれだけの深さの傷なのか、左腕がじわじわと血に濡れていくのが分かる。痛みも、次第に感じられるようになっていった。
「離してっ、まだ……!」
まだ、とうてい気が済まぬのだろう。雪乃は懐刀を手放さぬまま暴れて、八重の傷を痛ませる。乱れる呼吸の下、八重は駆けつけた侍女たちを見上げて、命じる。
「早く……雪乃殿を……!」
「は、はい」
雪乃の手から、ようやく懐刀が奪われた。両手を抑えられて、八重の目の前から連れ去られる。
「ご
「大事ない。恐らくは。大事ないから……」
涙声の侍女に支えられて、ようやく八重は全身の力を抜いた。すると傷の痛みがいっそう強く押し寄せてくるが──雪乃の心痛には遠く及ぶまい。
(父上は何と仰るか……殿も……)
疲れ切った脳裏に父たちの顔を思い浮かべ、八重は深く重い息を吐いた。
* * *
夕刻になって父と
「八重……何ということだ……」
案の定、顔色を変えて枕元に詰め寄った父たちを安心させるべく、八重は慌てて身体を起こした。
「お見苦しい姿で申し訳ございませぬ。この通り大事はございませぬ。ほら、指もこのようにちゃんと動きますので」
手を掲げて指を開閉させるのは、それはそれで傷が痛んだけれど。八重は微笑みを浮かべることができたはずだった。なのに、父も夫も、どういう訳かますます険しい表情を浮かべた。
「吉太郎はきつく叱りつける。己が妻を御することもできぬ男とは思わなんだ……!」
「ですが父上。そもそもは父上の難題が原因でございます。……どうせ、なかったことにはならぬのでございましょう?」
どうせ、父は吉太郎を婿にせざるを得ないのだ。言外に指摘すると、父ははっきりと顔を顰めた。
「それでも、何も咎めなしでは通らぬ。あの者もかえって身の置き場がなくなるであろう」
「ですが──はい。ごもっともでございます」
雪乃に同情するあまり、愚かなことを求めようとしていたのに気付いて、八重は目を伏せた。たとえこの一件が屋敷の外に出ずとも、明確な沙汰がなかったとなれば、家中の者たちは喜んで吉太郎に仕えることはできまい。分家の者たちも、それこそ松本御大変の時のごとく落ち着かないことだろう。本家の当主から叱責されるという一幕は、絶対に必要なものなのだ。
「……せめて、約束は違えないでいただけますでしょうか。吉太郎殿が承諾してくださったのは、ご子息のためでもあると伺いました。
「もう七つになるのであったか。ならば母親の陰に隠れる歳でもないな。ならば……構わぬだろうが」
雪乃への怒りと嫌悪を隠さぬ父の、語気の荒さは刃の傷以上に八重に痛みを味わわせた。父のこの口振りでは、雪乃はもはや午之助の養育に関われないのかもしれない。我が子を奪われぬための凶行が、かえって逆の結果を生むとは。
この上の懇願は父を頑なにさせるだけだろう、と。八重は口を噤むことを選んだ。そこに、今まで黙っていた金弥が低く、声を漏らした。
「……吉太殿に遠慮するのは分かる。だが、父君や……俺の思いも、考えよ」
「殿……?」
睨むような険しい目を向けられるのが不思議で八重は首を傾げる。すると金弥はなぜか苛立った様子で膝を進め、声を荒げた。
「兄上の件から一年も経っていないのだぞ。斬りつけられたと聞いて、いったいどう感じたと思っている……!?」
心配されているのだ、と理解するまでに、数度、瞬きをしなければならなかった。次いで、金弥の兄、意知の凶報を聞いた後、詳細を知るまでの不安な思いが蘇る。当たり前のことだが、斬られた当人のほかは実際に会うまで傷の深さを確かめることはできないのだ。思えば、侍女たちの騒ぎようも昨年の事件を踏まえてのことだったのかもしれない。
「……はい。申し訳ございません」
恥じ入って呟くと、父が長々とした溜息を吐いて立ち上がった。
「儂は帰る。上屋敷に吉太郎を呼び出さなければならぬのでな」
吉太郎への言付けを頼む暇もなく、父は素早く去って行った。もしかしたら気を遣われたのだろうか、と気付いたのは、壊れ物に触れるような手つきで金弥の腕の中に収められてからだった。
「……本当に、大事ないのだな? 痛むのか。痕は、残るのか」
「まあ、相応には……。鋭い刃でしたから、傷はいずれ消えるだろうということですが」
大したことはないと示すため、生きている身体の熱を伝えるため、八重は夫の身体に凭れかかった。夫を安心させようとしてのことなのに、彼女のほうこそ頼れる温もりに縋ってしまいそうになっている。
「いずれ、か……」
唸るように呟いた金弥も、雪乃や吉太郎への憤りを抱えているのかもしれない。けれど、八重は努めて軽い口調で呟いた。
「本当に、かすり傷なのです。大げさにされただけですから」
この分だと、傷を負って安堵しているくらいなのだ、などとは誰にも言えそうにない。殴られたがっていた吉太郎と同じく、痛みによってほんの少しだけでも後ろめたさを和らげることができた、などと。八重にしてみれば、当然の報いを受けたとしか思えないのだ。
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