第8話 再び、来客
浅いはずだった刀傷は、数日立つと
元より待つことしかできない八重だったが、ただの無聊に加えて布団に押し込められることになってしまった。慰めと言えば書画か猫の
(
「ご
「ああ……吉太郎殿か?」
「いいえ。ご当人ではございません。詫びだというのに代理の者を寄こすだなんて……!」
憤りに満ちた侍女の声音が不審で八重が身を起こすと、相手は勢いを得て前のめりに訴えて来た。幼いころから仕えてくれた侍女の、皺の刻まれた顔が八重の眼前に迫る。
「しかも、ほんの子供なのですよ。まったく、あちらの奥方がしでかしたことが分かっているのかどうか」
八重の周囲の者たちは、やはり雪乃を許してはいないのだ。それに心を痛めながら、八重は子供、という言葉を聞きとがめた。
「それは……もしや、十二、三の年ごろの、背の高い人懐こい子ではないか? 名は、何と?」
「それが、家名も名乗らず豊太郎と言えば分かる、ご新造様に直接お会いしたいの一点張りで。見た目は品よく仕上げておりましたが、まったく図々しくて、無礼な……!」
まさしく思い浮かべていた名を聞いて、八重は布団から勢いよく立ち上がった。外気に触れさせられた華が布団の奥に潜り込むのを目の端に捉えながら、短く命じる。
「すぐに会う。その遣いの子供には団子でも焼いてお出しするように」
傷を庇いながらの着替えは思ったよりも手こずってしまった。下ろしていた髪は、簡単に根結いの
そうして、化粧を済ませて奥を出るまでにずいぶん待たされただろうに。行儀良く姿勢良く端座していた豊太郎は、八重の姿を見るなり太陽が雲間から姿を見せるがごとく、晴れやかな笑みを浮かべた。
「八重様……!」
「またお会いできて大変嬉しゅう思う、豊太郎殿。若い方の成長の、なんと早いこと」
近しい間柄の
八重が座ると、豊太郎は表情を神妙に改めて、畳に手をついた。
「あの、此度のことでは大変心配しておりました。変わらぬお美しさを拝見して安心いたしました。……ご無事で、本当に良かった」
「相変わらずお上手でいらっしゃる。……家中のことでお耳を煩わせるとは、お恥ずかしい限りなのだが」
分家の遣いを名乗った時点で予想はしていたが、豊太郎は雪乃の一件を承知しているらしい。子供にいったい何をどのように聞かせたのか、と。吉太郎への怒りに八重の声尖ったのを聞き取ったのだろう、豊太郎は慌てた様子で腰を浮かせた。
「吉太郎は、詫びを人任せにして良しとする男ではございませぬ! ただ……出羽守様がまだお許しにならぬのと、夫ある方に見舞いなど外聞が悪いからというだけで。その、子供ならまだ会っていただけるのではないかと……私から、買って出たのです」
「ふむ……?」
「吉太郎殿は八重様を心から案じております。許しを願うことさえおこがましい、八重様が望まれるならお手打ちになっても構わないと──あの、私からは何とぞご寛恕を願うのですが」
「いや、そのようなことは望まないのだが」
少年の、意外なほどに熱のこもった言葉に気圧されて、八重は幾度か目を瞬かせた。豊太郎が単なる見舞いで八重を訪ねるはずがない。吉太郎に、詫び以外の思惑があるなら早く聞き出さなければならないのだろうが──つい、この子供と吉太郎の間柄が気になってしまう。
傷の疼きを散らすべく
「吉太郎殿はずいぶんと慕われているご様子。一族の者としては光栄に思うべきだろうか」
「できることなら
「ここにいらした以上はご存知なのだろうが、私は大納言様からあのお人を奪ってしまうかもしれないのだが」
豊太郎の口上は、商人が扱う品を売り込もうとしているかのようで微笑ましかった。それも、世慣れた商人ではない。八重も店先での買い物などほとんど経験がないのだが、初めての客を逃がすまいと意気込む丁稚というのはこのようであるかもしれない。
八重の無礼な想像も知らず、豊太郎は大きく頷いて続ける。
「はい。存じておりますし、八重様もご心痛かつお怒りだと聞きました。このようなことがあってはなおさら……ですが、どうか吉太郎を嫌いにならないでくださいますように。決して、悪い男ではないのです」
「それは、とてもよく存じている」
悪い男ではない──むしろ夫としても父としても真逆だったからこその、雪乃の狂乱なのだろう。迷いなく頷くことができたはずなのに、八重の胸を刀傷よりなおひどい痛みが過ぎる。それを振り払って、八重は豊太郎に笑みを繕った。夫婦のことも男女のことも、子供に聞かせることではない。そもそも彼女にも分からない。それよりも、伝えるべきことがある。
「吉太郎殿もさぞ落ち着かない心持ちでいらっしゃるだろう。父からもお叱りがあったと聞くし……」
「はい」
「私については、お気になさらぬように伝えてくださるか。そう……いつぞやお出しした茶を返していただいたまで、と。それで分かるだろう」
婿の話を聞かされた場で、怒りに任せて吉太郎に浴びせた茶のことだ。八重にしてみれば消え入りたくなるような恥ずべき的外れの激昂だったが、吉太郎のほうでは幾らか気が紛れたのだとか。勝手な気休めに過ぎないのは百も承知だが、雪乃の鬱憤を傷として受け止めたことで、八重は確かに救われたのだ。吉太郎なら、このような薄暗く後ろめたい考えも理解できるだろう。
(詫びの話はここまで……あとは──)
判じ物めいた物言いが腑に落ちないのだろう、首を傾げる豊太郎に、八重は改まった声をかけた。
「先ほど手打ちになっても良い、とのことだったが──」
「はい! でも──」
豊太郎は何か恐ろしい想像をしたらしい。その思い違いに微笑むのも一瞬のこと、すぐに表情を改める。
「そのようなことを命じるつもりはないから安心なされよ。ただ、私は吉太郎殿に難題を出そうとしている。あの方おひとりならば罪滅ぼしと思って遠慮なく押し付けることもできたのだが。──豊太郎殿は、すべての事情をご存知なのだろうか」
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