第5話 叱咤
「我が身については、これまでの不徳もあって
「ですが、父は本当に笑うだけだったのですか!? 出羽守様にも助けを求めることはしなかった──本当に、
「我が子が殺された父の思いを、想像はできないか? そこまで憎まれる立場であると気付けば、できることなら幼い孫は逃したいと考えるのも無理はあるまい」
「龍助までも、兄のように……? まさか……!」
金弥の強張った声は、意知の遺体を思い出したのであろうとありありと伝えるものだった。線香の香り、白い死装束、
「滅多なことでは、あるが。だが、それほどに恐ろしく思われたのだろう……」
父の顔にもまた、深い悲しみと哀れみが浮かんでいた。
(ああ、昨日のお言葉は……)
誰のためだと思っているのか、とは、意次のために叫んだことだったのだと、八重はようやく悟った。助けようと思った恩人に、その思いを裏切られたことを疑ったからこその言葉だったのだ。けれど、実際に意次に会って、説得できなかったのを誰より悔しく歯がゆく思っている。
冷徹なだけではない──久しぶりに、父の人間らしい姿を目の当たりにして、八重はようやく言葉を発する気力をかき集めた。
「あの、父上。では、そもそも私たちの離縁をなかったことにはできませぬか? 周防守様は、金弥様が戻るから田沼様はご安泰と、そのような理屈を捏ねていらっしゃるとか。その前提が崩れるならば──」
意次や万喜や龍助のためではない、彼女自身の望みを託した提案だった。せっかく心を通わせることができた夫と離れたくない、と。後ろめたさは覚えながら、それでも、筋は通っているだろうと思ったのだ。だが──
「それも、ならぬのだ」
「なぜにございます!?」
父はすぐに首を振って娘の希望を打ち砕いた。ただ、意地悪で言っているのではないのも、苦渋に満ちた表情から分かってしまう。
「
重い溜息を漏らしたのが八重自身か金弥か、彼女にも区別がつかなかった。いつの間に、彼女たち夫婦はこうまで心を重ねてしまったのだろう。自分たちのことだけでなく、田沼家の人々のためにも足掻こうと誓ったところだというのに。将軍世子への非礼があってはならぬのは理解できるだけに、次の考えが浮かばない。
(では──どうすれば良い? せめて龍助殿だけでもどうにか……)
必死に思考を巡らせる八重の前で、父が動いた。座布団を降りて畳に直に座り、手をついて低頭する。まるで、昨日の吉太郎がしたことをなぞるかのように。
「だから──そなたたちには詫びるしかないのだ。勝手な目論みで離縁を申し付けて、しかも恩ある主殿頭殿に仇なす結果になってしまった。そのようなつもりは、などとは言い訳にもならぬ。何の役にも立たぬのは承知しているが、今となっては……!」
父の頭を見下ろすことになって、八重は思わず腰を浮かした。父の髪の白さ薄さ──それだけ父が老いていることなど、直視したいものではなかった。何より、諦めるしかない、などとは思いたくない。父も同じ思いであったと分かったなら、なおのこと。
だから八重は、ぎり、と歯を噛み締めてから、吠えるように叫んだ。
「……本当に役にも立たぬことは、お止めください!」
「おい」
父への暴言に金弥が狼狽えた声を上げるのにも、構わない。彼女は決して父を責め立てようとは思っていない。むしろ、奮い立って欲しいのだ。
「過ぎたことはもうくどくどとお話にならなくて結構! それよりも、せっかく老中のお立場ではございませんか! 周防守様は父上のご同輩でもいらっしゃいましょう? 主殿頭様とも、私や母上よりもよほど長いお付き合いでいらっしゃいましょう? 頭を下げる暇があるなら、お諫めすることはできないのですか!?」
八重の声は、怒りに任せて怒鳴りつけた時とは違う響きをしていたはずだ。より必死に切実に、心からの訴えになっていたはず。その証拠に、父はゆっくりと顔を上げて、実に不思議に娘を眺めた。
「──出羽守様。八重には何も伝えていなかったとのことですが、これは
「何だと?」
そこに、金弥も声を上げる。娘に続けて、父は婿にもひどく驚かされたようだった。目を剥いた父に、金弥はどこか悪戯っぽく笑う。
「たとえ離縁しても、
ちらりと寄こした流し目で、八重の心臓を跳ねさせてから、金弥は父と鏡合わせのように畳に手をついて頭を下げた。ぴしりとして一分の隙もない、実に見事な所作だった。
「八重さえいれば、婿など誰であろうとご安泰でございましょうな。ですから、先立ってからのお申し付け通り、離縁についてはご随意に。……ですが、今少し甘えてよろしければ、甥については父に残してやりたく存じます」
夫に一拍遅れて、八重も慌てて父に平伏した。
「子も生せなかった私どもでございます。せめて最後に、夫婦として何ごとかを為せれば、と──足掻くことを、お許しくださいますように」
同じ格好で手をついた八重と金弥を見比べて、父はしみじみと呟いた。
「……そうか。そうであったか……」
この十年間、親としても娘夫婦の不仲に思うところも大いにあったのだろう。様々な思いが父の胸に渦巻いていたのは想像に難くない。ずいぶんと長い間、父は黙し、何かしらの感慨に耽っていたようだった。
「ならば、まだ諦めるには早い、であろうなあ」
そしてついに口を開いた時、父は不敵な──頼もしいほどの笑みを浮かべていた。
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