第3話 三者三様
「その……見事な梅でございますね」
先日の一件もあって気まずいのだろう、庭に咲く梅と、
「うむ。まだ咲き残っていて良かった」
今日は屋敷の主として客を迎える立場になった
「いずれお主の住まいになるのだ。そう落ち着きなくきょろきょろするものではない」
「はは……きついご冗談を……」
先日、妻を譲れ云々と言われたことへの意趣返しのように、金弥は吉太郎を困らせて愉しんでいるようだった。客に対して非礼なのはもちろんのこと、今の夫と次の夫と同時に対面しなければならない八重にとっても質が悪い物言いだ。自然、彼女の声はわずかながら剣呑な響きを帯びる。
「まことに。今のお言葉は悪ふざけが過ぎまする。今日は、何よりもまず吉太郎殿にお詫び申し上げなければならぬというのに」
「俺は詫びが必要なことはしていないからな。──吉太殿。用件は、あらかじめ伝えているはずだが」
「は──」
殿方ふたりのやり取りによって、八重は自身の発言が促されているのを知った。依然として面白がるような表情の金弥を一瞬だけ睨んでから──吉太郎に向き直る。先日彼がしていたのをなぞって。否、それよりもなお深く、頭を下げる。
「──先日の非礼は詫びる言葉もございませぬ。吉太郎殿の言い分を何ひとつ聞かず怒鳴り散らすなど……。聞けば、父の頼みを引き受けて、
「八重様、どうかお顔を上げてくださいませぬか。先だってのあれは、某こそおふた方を怒らせるように仕向けたのですから」
「ですが──あの、今、何と……?」
何があっても顔を上げないつもりだったのに。吉太郎の声が思いのほかに穏やかで──というか困惑の風さえ漂わせていて、八重の身体から力が抜ける。それでも畳に手はついたまま、上目遣いに見上げてみると吉太郎は半端に手を持ち上げた体勢で、しきりに八重と金弥の間で視線を左右させていた。
「褒められた話ではないのは某もよくよく承知しておりますので……金弥殿に殴っていただければ少しは身の置きどころも見つかるかと思ったのです。まあ実際には八重様からの一撃だった訳ですが、いずれ相応のこと──当然の、報いでございます」
新しい婿とはいえ、彼はまだ八重に手を触れられる立場ではない。だから早く起きさせてくれと、金弥に助けを求めているようなのだが──彼女の今の夫は、まだ意趣返しを続けるつもりのようだった。
「お主はどう見ても俺を挑発していたからな。先に乗ったのが八重だったというだけで」
「いや、あの時は返す言葉もございませんで」
「あまりに見え透いた芝居だと怒る気にもならぬと初めて知ったぞ。いや、かえって腹立たしいか……」
「はい。重ね重ねのご無礼で──まことに、ごもっともでございます」
(芝居……本当に? 私は、気付かなかったのに)
あるいは、金弥は吉太郎を虐める振りで八重を
「あの……私を許してくださるのですか」
「妻子を捨てる上におふたりの間に割って入ろうというのです。許すの許さないのと、言えるような立場ではございません」
吉太郎の顔を正面から見るのは、まだ気後れがしたけれど──躊躇う八重の目を受け止める吉太郎のそれは、優しかった。ずいぶん年下の青年に対して不思議なことだが、彼女の気性の激しさを包み込んで受け止めようというかのような。金弥にあしらわれるのとはまた違う居心地の悪さが、意地を張ることの無意味さを教えてくれる。
(くどくどと繰り返すだけ時間の無駄、と仰るのか……)
八重は座り直し、背筋を正した。謝った気はまったくしないが、話は進めなければならない。彼女は、吉太郎のことをもっと知らなければならないのだから。
「……ご自身の栄達のためと仰ったのも、挑発だと? 父の考えを教えてくださらなかったのは、恩に着せたくはないということですか」
「それもありますし、某の考えではないことを自慢げに話すこともできますまい」
「──では、お主の本当の思惑は、何だ? 八重はそこが気になって仕方ないようなのだが」
横から問うた金弥の声も眼差しも鋭く、悪ふざけの気配は完全に拭われていた。八重と金弥から同時に睨むように見つめられて、吉太郎の口元が笑みに似た形に引き攣った。
「まあ、そこを明かさねば信用ならぬでしょうなあ」
「妻と実家の将来が懸かっているのだから当然であろう」
「はい、まことに」
軽く頷いてから、茶を口に運んだ吉太郎の胆力は大したものだった。彼のほうでも、覚悟を定める猶予が必要だったということかもしれないが。茶器を置き、居住まいを正し──彼はやっと口を開く。
「
「
吉太郎の主君は、江戸城西の丸に住まう将軍世子。つまりは次代の将軍になるはずの御方。父は、婿養子の話も容易に承知してくださらなかったほどの寵愛ぶりと漏らしていた。それは、吉太郎の忠誠を、幼い御方も感じ取っているからなのだろうか。
訝しむ八重の呟きに応えて、吉太郎は、はい、と今度は大きく頷いた。
「大納言様が将軍位にお就き遊ばされた際は、ご実父の
「このような場だ。誰を憚ることもあるまい。俺も八重も口外はせぬ」
一橋卿も越中守──
「……一橋様は野心家でいらっしゃる。それも、冷徹な。大納言様を将軍世子に据えるまでは
「そんな……そのような……!」
観念したように、吉太郎が渋々と告げたことは、確かに公では決して言えない類のことだった。御三家御三卿も含めて、諸侯はなべて天下のために幕府に仕えなければならないのだろうに。自身の子を将軍位に就けるために画策するなど、あってはならないこととしか思えない。まして、そのために意次を、他者を利用しては切り捨てるなど。
(主殿頭様は、あくまでも幕府のためにお心を尽くしたのではないのか……!?)
絶句した八重に同情を示すように、吉太郎は眉を寄せた。
「そして、越中守様は。まだ将軍位への未練がおありのようにも思います。いえ、
先ほどは褒めた梅の枝に目を遣って、吉太郎は顔を顰めた。本物の花には罪はないが、梅鉢紋を帯びる松平越中守を想起したのだろう。いつもは朗らかな表情に、幼君への痛ましさと、越中守への憤りが険となってちらりと過ぎる。だが、それも一瞬のこと。八重たちに再び目を合わせた吉太郎は、穏やかに、けれどきっぱりと言い切った。
「いずれにしても、大納言様には少々窮屈な次第になりそうで──近侍には目先の変わった、某のような者がいたほうが良いのではないかと、まあ、僭越はなはだしくはありますが、考えたのでございます」
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