13話
二人は同時に息をのんだ。
潮蕊湖は、潟杜市からおよそ三十キロメートル南東に位置する県内最大の湖だ。市街地の中心にあって、水深は浅い。電車で簡単に湖畔まで行く事が出来て、年中、様々な土地から観光客が訪れるが、彼らの目当ては湖そのものではなく、外縁にある
四つの社は等間隔に並んでいる訳ではなく、湖を挟むような形で、南北に二箇所ずつがまとまっている。そのうち、南側にある社の一つを、去年の秋に利玖と史岐も訪れた。
史岐が煙草を吸う為に境内を出た、そのわずかな隙に利玖が姿を消した。
後になってから、正確には利玖はまだ境内に『残って』いて、史岐に認識出来なくなっていただけだと説明されたが、残された側にしてみればどちらも同じ事である。
史岐が彼女を見失っている間に起きた出来事を──史岐には見えず、音も聞こえない、体の芯から震えがおこるような寒々しい雨が降りしきる中、
柏名山から遣わされた、この妖は、今、彼に『
利玖は無意識に、握りしめた手を胸に当てて身を乗り出した。息をするのが辛いほど鼓動が早くなっていた。
「銀箭は、なぜ、貴方達の住み処を
「お……、恐れながら」泥状の妖は体を振動させ始めた。「
言葉を切ると、妖は深く礼をするように体を折り曲げた。
「我が主は、《とほつみの道》で佐倉川様をお待ちしております。お
言い終えると、妖はあっという間に色を失い、真っ白な砂になって史岐の手の中から滑り落ちた。
「死んでしまったのですか?」利玖は訊く。その声が微かに揺れていた。
「いや、そうじゃないと思うよ」史岐は首を振る。「たぶん、山の方に本体がいて、その一部を切り離して僕らについて来させたんじゃないかな。髪の毛を一本、抜いて巻き付けるようなもの。本体は無傷だと思うよ」
「そうですか……」利玖は息を漏らした。「よかった」
その後、再び前進を試みると、今度は利玖も玄関を上がり、リビングまで進む事が出来た。史岐が壁のパネルを押して部屋の明かりを点ける。
「ああ、なんか、一度に色々起きて疲れたね」彼はそう呟きながらキッチンに行って、冷蔵庫の中を覗き込んだ。「お腹空かない?」
そういえば、喫茶ウェスタでは食事を取らなかった。部屋の中はそれほど寒くないのに、いつまでも手足が冷えたままで、重たくてだるい。エネルギィ不足で力が行き渡っていないような感じがした。
その事を正直に伝えると、史岐は、冷蔵庫からソーセージと卵を取り出してフライパンで炒めた。それと一緒に、厚切りのトーストも出来上がって、同じ皿で運ばれて来る。
ソーセージには細かく刻んだ香草が入っていて、スクランブル・エッグにも黒胡椒が効いていた。エスニックな風味と舌に感じる刺激が心地良い。こうなると、空腹が満たされても、もう一つ、別の欲求がわき上がって来る。
「何か飲みたいなあ」
利玖が考えていた事を、そっくりそのまま史岐が口にした。
利玖はトーストをかじっていたので、そのままの体勢で史岐を見て、こくこくと無言で頷く。
「ブランディがある」史岐は微笑んで立ち上がった。「僕も飲んだら、車を運転出来なくなるけど、今日は泊まっていく?」
利玖は、また頷いた。
こういう時の為に、実はもう、史岐のクロゼットに何組か着替えを置かせてもらっている。一日や二日程度なら、急にアパートへ帰る事が出来なくなっても問題はない。
それなのに、いざ実行に移す時には、必ずどちらかがこうして言葉で確認をせずにはいられない。そのくらい、まだどっちつかずで、予測の難しい、だけど、他の何物にも代えがたい浮遊感がある関係性だった。
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