29話

 部屋の扉がしめやかにノックされ、佐倉川様、と声がかかった。

「はい」利玖は目元を拭って返事をする。「どうぞ、お入りください」

 黒子の従者が、裁縫箱のようなものを持って部屋に入ってきた。木製で、厚みがあったので、そんな風に感じたのだが、よく見るとミニチュアみたいな茶碗と、やはり小ぶりの白い急須が乗っている。

「当主からの差し入れでございます」

 それだけ言い置いて、従者は部屋を出て行った。

 利玖と史岐は顔を見合わせる。

 もう、茶も、干菓子も食べた後だったが、こちらが本命だったのだろうか。それとも、備え付けの茶葉などでは到底満足出来まい、という美蕗らしい心遣いか。

 急須の蓋を取ると、イチゴに似た甘い香りが広がった。茶葉は取り出されているようだ。同じ盆に乗っている二つの茶碗に注いで、ちょうど空になるくらいの量だった。

 利玖も史岐も、特に疑問を抱かずに茶を注いだ。

 正直な所、利玖は、史岐を説得する言葉を見つけられずに悩んでいるタイミングでこれが運ばれてきた助かった、と思っていた。もしかしたら、従者は少し前から扉の前で控えていて、自分達の会話が途切れるのを待っていたのかもしれない。

 なるべくゆっくりと茶を飲んで、その間に上手い言い方を考えよう、と思っていたが、気がついた時、利玖は近づいた覚えもないベッドの中で仰向けになって天井を見上げていた。

 しばらく、ぽかんとしてしまう。

 眠っていたらしい。ぽつぽつと熱がこもった指先と、体に残っただるさがそれを告げている。

 史岐の姿はなかった。

 自分だけが別室に運ばれたのか、それとも史岐が外に連れ出されたのか。とにかく、茶を半分ほど飲んだ所で記憶が途切れている。

 ベッドの中で半身を起こした姿勢のまま、辺りを見回したが、そもそも最初に入った時ですら、細部を見ている余裕などなかった部屋だ。調度品や内装が少し変わったくらいでは気づけないだろう。ただ、ベッドの数は二つで、それは変わっていない、という事だけはわかった。

 窓がある面を除いた三つの壁に一つずつ扉がついている。だが、そのうちの二つには鍵がかかっていて開かない。

 唯一開く扉のノブを回して、そうっと向こう側に押し開けた時、すぐ横に人影が見えて、利玖は息が止まりそうなほど驚いた。

「よう」

 扉の脇に立っていた冨田とみたしゅうが唇の端を持ち上げて挨拶をした。史岐の友人で、彼と同じ潟杜大工学部の三年生である。

 しかし、昨年の暮れには、なぜか槻本家の使者として利玖の生家を訪れた。彼は霊視の力を持っているので、それを取引の材料にして槻本家と何らかの契約を交わしたのではないか、というのが利玖の推察である。

 大学で見かける時にはいつもラフな格好で、髪もぼさぼさなのに、今は前髪を上げて上等な黒いスーツを着ている。一瞬、まったく知らない人物かと見紛うほどだった。

「史岐なら、別の部屋で寝てるよ。違う薬を使ったからな。あと二時間は起きてこない」

 利玖は無言で頷いた。

 おそらく、後から運ばれてきた茶碗に仕掛けがしてあったのだろう。大きさは同じだったが、片方には青の塗料で幾何学模様が、もう片方には薄紅色で小さな花が描かれていた。すっかり体に染みついた、ごく自然な習慣として、幾何学模様の茶碗を史岐が、花柄の茶碗を利玖が使ったのだ。

 自分にだけ、早く目が覚める薬が使われ、史岐と部屋を離された理由の察しはついている

「平気か?」利玖の顔を覗き込んで、柊牙が眉を曇らせた。「お嬢の時間はまだあるから、具合が悪ければもう少し後にしても良いが」

「いいえ」利玖はきっぱりと首を振る。「美蕗さんの所へ。ご相談したい事があります」

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