4話

 紅茶で体が温まって、多少、気分が良くなったのだろう。利玖はじっくりと彗星の絵を見始めた。

「これ……」キャンバスに触れないように気をつけながら指先を近づける。「魚に見えませんか?」

「どれ?」史岐も身を乗り出す。

 確かに、筆先の掠れにしては、はっきりと描き込まれた魚影のような点があった。

「ここにも、こっちにもあります」利玖は次々に指をさす。それから、椅子の背もたれに体を沈めて、また紅茶を飲んだ。「彗星の手前にもありますから、他の星だとは考えにくいですよね」

「彗星と魚が一度に視界に入るシチュエーションっていうものが、そうないよね」

「ええ。彗星の絵というと、大抵、街並みや森と一緒に描かれているものが多いと思います」

 少しずつ紅茶を飲みながら、利玖の視線はずっと絵に固定されている。だが、中央に大きく描かれている彗星よりも、方々に散らばっている魚影のような点の方が気になるようだ。彼女が持つ生物学の知識を総動員して、種類を絞り込もうとしているのだろうか。

 しかし、その途中でサンドイッチとトーストが運ばれてきた。

 厚切りのトーストにチーズをのせて、軽く焦げ目がつく程度にさっくりと焼いてある。その上からは、良い香りのする蜂蜜が惜しげもなくたっぷりとかけられていた。

 利玖は前のめりになって「わあ……」と感嘆の声を上げた。

「お好みで、こちらをお使いください」

 千堂はペッパー・ミルをテーブルの端に置いて去って行った。

 利玖は、早速ペッパー・ミルを掴む。彼女が取っ手を回すと、ごりごりと音を立てて、挽き立ての胡椒の香りがテーブルを包んだ。

 かぱっと口を開けてトーストにかぶりついた利玖は、そのまま、残りが約三分の一ほどになるまで黙々と食べ進めた。

「象徴主義、というものがありまして」ひと休みしようと思ったのか、利玖はナイフとフォークを置いて話し始める。「抽象的な概念や、作者の内側にあるイメージを表す為に、あえて『そこに存在し得ないもの』を描く。無論、鑑賞者にもある程度、その意図が伝わっている必要はありますが……。この彗星の絵も、そういった手法で描かれたものでしょうか?」

「想像と実写のコラージュって事か」史岐は頷く。「それはありそうだね」

「そもそも、これは本当に彗星を描いた物なのでしょうか? 夜光虫やホタルイカの発光を海上から見たイメージかもしれません。それであれば、魚影の存在にも納得がいきます」

「この県、海ないけど」

「うーん、じゃあ、やっぱり、何らかのメッセージを込めて描き足したのか……」利玖は両手で頬杖をつく。三分の一が残っているハニーチーズ・トーストの事は完全に忘れたらしい。「しかし、それにしては目立ちにくい気もしますね」

 千堂がボトルを持って来て、二人のグラスに水を注ぎ足したが、利玖は絵画を凝視したまま微動だにしない。

「熱心にご覧になっていますね」千堂が史岐に体を寄せて、ささやいた。「星がお好きですか?」

「あ、すみません」利玖がようやく千堂の存在に気づいて、彼に顔を向けた。

「はい。本当に綺麗な絵だと思います。ただ、この、魚影のような描き込みが気になりまして。彗星と魚が一つの画面に描かれている事に何らかの意図があるのか、あるいは、これは空を見上げた物ではなく、水中における発光現象を描いていて、その為に魚影が映り込んだのではないか、と議論していた所です」

「面白い発想ですね」千堂が微笑む。「今は他にお客様がいらっしゃらないので、特別に種明かしをしてしまうと、実は、そのどちらでもないんです。その絵の作者は私で、自分の目で見た景色をそのまま描きました」

 そう言うと、千堂は指を一本立てて天井を示した。

 建物の後方部分は、二階があるのか、天井は完全にフラットになっている。一方、前方部分では、史岐達が通ってきた入り口に向かって傾斜がついていた。その中央付近に、空を向いた天窓が一つある。

「今日は難しいですが、明日であれば、実物をお見せ出来ますよ」

 利玖と史岐は咄嗟に、無言でアイ・コンタクトを交わした。

「それは、彗星が見られる、という事ですか?」

 やがて、史岐が慎重な口調で問う。

「ええ、何と言うのか……、まあ、空にあるものだとしか……」

 千堂は少し困ったような、それでいて、ポケットの中に宝物を隠している子どものような顔で笑うと、では、ごゆっくり、と頭を下げてカウンタに戻って行った。

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