11話
喫茶ウェスタは冬でも果物を多く仕入れているらしい。千堂が、まず利玖にすすめたのは、彼自身も冬によく飲むというホット・サングリアだった。
潟杜よりも少し南の土地で穫れる、香りと味の良いブドウで作った赤ワインに、オレンジやリンゴ、レモンのスライスを投入し、体を温める作用があるスパイスを足して火にかける。
店内に戻って、照明を点け、空調の温度を設定している間に動揺が静まったのだろう。ホット・サングリアについて説明する千堂の表情には、すっかり元の落ち着きが戻っていた。
利玖は少し考える。
千堂が明かりを点けてくれたので、今は手元でメニュー・ブックを開き、読む事が出来ている。しかし、そこにホット・サングリアは載っていない。
メニューにない物をわざわざ作ってもらうのは申し訳ない。しかし、千堂が話すホット・サングリアには、いかにも今の自分にぴったりだ、と思わされる魅力があって、強い誘惑を感じずにはいられなかった。
「ワインではなく、ブドウのジュースで作って頂く事は出来ますか?」
利玖はそう訊いてみた。どうせならば史岐も飲める物の方が良い、と思ったのだ。
「はい、ご用意出来ます」千堂は、頷くと、利玖が言い出すよりも先に史岐に目を向けた。「お連れ様も同じ物をお飲みになりますか?」
「ノンアルコールなら」
史岐は抑揚のない口調で答える。組んだ両手をテーブルに出し、何も作業をしているようには見えないのに、千堂の方を向かなかった。視線は指先の辺りに据えられたまま動かない。
千堂は微笑みを完璧に維持したまま、承知いたしました、と一礼して二人の前から去った。
やがて、厨房から果物を刻む音がし始めると、利玖はテーブルの上に身を乗り出して史岐の名前を呼んだ。
史岐は、かすかに顎を引き、頷くような仕草をしたが、何も言わない。
利玖と目を合わさないまま、煙草の箱を開けると、中から一本取り出した。
「たぶん、蓄光硝子」
それだけ言って、煙草に火をつける。彼の視線が一瞬だけ天窓の方に向いたのを、利玖は見逃さなかった。
そこは、今は再びスクリーンが下ろされている。いつ、その作業が行われたのか、利玖は記憶をさらってみたが、わからなかった。自分が外に出ている間の出来事だったのだろうか。
史岐の口数が極端に少なくなっている。だが、何か、怒っていたり、余裕がない、そういった風には感じられない。
これは、今年に入ってから、史岐と過ごす時間が顕著に増えた事で遭遇するようになった事象だった。たぶん、彼の周りにいるほとんどの人間は、史岐にそういった一面がある事を知らないのではないか。もしかしたら、彼の婚約者だった
だが、彼の両親は絶対に知らないだろう。それは、断言出来る。史岐の中にそういうイレギュラな要素が形成されている事、そして、その生成過程に自分達が大きく影響を及ぼした事を、彼らはきっと、死ぬまで理解できないだろうし、見たくない、と思うはずだ。
それを、自分の前では見せてくれる事を、特別に光栄だとは思わない。かといって、嫌だとか、困る、という風に感じているわけでもない気がする。
初めの頃こそ、自分が何かのきっかけを作ってしまったのだろうか、と気にした事もあったが、この頃では、ごく少ない彼の言葉や仕草から、自分が何を連想し、考えるのか、そのイメージの広がりを楽しんでいる節がある。
「硝子の中に、彗星を模した蓄光素材が埋め込まれているのですね? 粒の細かい、砂のような……」利玖は天窓の方を見上げて呟いた。「昨日は天気が良くありませんでした。だから、昼間に十分な光のエネルギィを蓄えられなかった。だけど、今日は晴れの予報で、実際、日が沈むまでは太陽が出ていましたから、夜になって店の中を暗くすると、その光が浮かび上がって、まるで本物の彗星が窓の外にあるように見えた」
史岐は黙って頷いた。彼の煙草の先からは、一定の速さで煙が流れ続けている。
「そりゃ、外に出て空を見たって、何も見えないわけですよねえ」
「体はもう何ともないの?」
「はい、大丈夫です」利玖はさっき彼に見せた手首を軽く振ってみせる。
本当は、あの泥のような物体について、もっと詳しく説明して、彼の意見を聞きたいと思っていたのだが、それは後で二人だけになってからにしよう、と考えた。
厨房の音がいつの間にか止んでいた。
利玖の後ろから足音が近づいて来て、席の横で止まる。
「お待たせいたしました」
利玖と史岐の前にサングリアのグラスが置かれた。
上半分はクリアな素材で、瑞々しいレモンのスライスが二枚、どの角度から見ても均整が取れるように少したわめられて入っている。下半分と取っ手の部分は薄い銀の金属でコーティングされていた。
二枚のレモンの間に、真っ直ぐな、茶色い小枝のようなものが挿し込まれている事に気がついて、顔を近づけてみると、香りでそれがシナモンだとわかった。
「ありがとうございます」利玖は千堂を見上げて微笑む。
その向かいでは、既に史岐がグラスを持ち上げて、ゆっくりと一口目を味わい始めていた。
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