12話

 店を去る時、千堂は、不快な思いをさせてしまったがどうか今後も懇意にしてほしい、と売り物のビスケットを手土産に持たせてくれた。

 ビスケットの箱は利玖が抱えて車の助手席に乗った。史岐の車にはシートが二つしかないので、荷物の損傷を防ぐ為にはこうするのが最も手っ取り早い。

「駐車帯にいる時に教えればよかったね」ギアを入れて車を発進させながら史岐が言った。暗いトーンの声だったが、店を出る前に比べるとかなり感情が戻っている。「利玖ちゃんがこんなに驚くとは思わなかった。ごめん」

「あ、そうか、腕時計ですね?」利玖はシフト・ノブを握っている彼の左手首を見て気がついた。「うーん、それじゃ、情報工学とは言えないか……」

「何の話?」

「いえ、何でも」

 史岐の提案で、彼の部屋に寄ってシャワーを使わせてもらう事になった。柏名山からは彼のアパートの方が近いし、浴室の設備も整っている。シャワー・ヘッドに工夫がしてあって、体に当たる湯の感触がとても気持ち良いのだ。有り体に言ってしまえば、高級、という事になるのだろう。

 登別のぼりべつがまだ残っていたかな、と史岐が呟いた。

 旅行先の候補ではない。近所のドラッグ・ストアで買ってきた入浴剤の銘柄の事を言っているのだ。それを聞いて、利玖はシャワーだけではなく、湯船も使わせてもらえる事を確信して、めざましく気分が持ち直した。

 アパートの駐車場に車を停め、エントランスからエレベータに乗る。最上階で降りて、通路を進んだ突き当たりに史岐の部屋がある。一人暮らしで、学生なのに、1LDKなのが信じられない、と利玖は時々考えてしまう。

 史岐が鍵を開けて入っていき、利玖も後に続こうとした。

 だが、玄関に上がる前に、巨大な空気の圧力を受けたような抵抗を感じて後ずさる。

「え?」靴を脱ぎかけていた史岐がびっくりしたように振り向いた。「どうしたの? 虫?」

「いや、ここ、何かが……」利玖は両手を出して、自分の前の空間を探る。何もないように見えるが、ちょうど敷居を跨ぐ位置に、固化したゼリィに触ったような強い手応えがあった。「ちょっと、中へ入って行けません」

「結界が効いちゃってるのかな」史岐が靴を履き直して戻って来る。

「賃貸物件にそんな物騒なものをかけているんですか?」

「僕の場合、気づかずに色々と持ち込んじゃう事の方が物騒なの」そう言うと、史岐は慣れた様子で利玖の頭、首の後ろ、背中と順番にボディ・チェックを行っていく。「あ、これか」

 足元で史岐が何かを掴むような動きをした途端、ひいっ、と悲鳴が上がった。

 利玖に見える高さまで持ち上げられた史岐の手の中で、それは既に、蛍光灯の光ではっきりと実体化している。質感は泥そのものだが、ヘビのように強靱に姿勢を保持し、上の方には、利玖の小指ほどの大きさの目玉がついていた。

「あ……!」利玖は、思わず声を上げたが、自分がまだアパートの共用部分に立っている事を思い出し、慌てて声をひそめた。

「この方、さっき、わたしが外で彗星を探していた時に飛びついてこられたのです。腕にくっつかれたものですから、だんだん重さが辛くなってきて、しゃがみ込んだ所に史岐さん達が駆けつけてくれた、という次第でして」

「へえ……」史岐は無表情のまま腕を振った。「じゃあ、もう、言わなくてもわかると思うけど、これ、あやかしだからね。結界にも引っかかったし」

「耳はついていませんが、胴が長くて、ちょっとした毛並みもありますから、泥遊びをしてきたカワウソだと言ったら信じられるかもしれませんね」

「あまり興味津々で凝視しない事」史岐が妖を掴んでいる手をそれとなく利玖から遠ざける。「何の用があって、ここまでついて来たのかな」

「はい、初めに、黙って近づいた御無礼を、ええ、お許し頂きたいのですが……」

 泥状の物体がぷつぷつと喋り始めた。柏名山で聞いた時よりも、かなり、ヒトの自然な話し方に近い発音を獲得している。

「恐れ多くも、我らの頭領、柏名山のあるじからの申し出です。

 どうか、あの千堂という男を山から追い出してほしい。潮蕊湖に封じられた恐ろしい神、銀箭ぎんせんが、彼を使って復活しようと企んでいるのです」

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