10話

 利玖は初め、藪から野生動物が飛び出してきたのかと思った。濡れた毛並みのような手ざわりを感じたのだ。単なる木っ端や、紙屑がぶつかってきた時とは明らかに違う。

 もし動物が相手だったら、下手に刺激しない方が良い。そう思って、利玖は叫びたいのを必死で我慢した。人間に慣れていない野生動物なら、それで逃げ去っていくはず、と考えたのである。

 しかし、纏わり付いてきた存在は、離れるどころか、逆に利玖の足を遡ってきた。腿まで辿り着いた所で、さながら樹々の間を自在に飛び交うジャングルのサルのように、俊敏に手首に飛び移ってくる。

 さすがの利玖も声を上げそうになったが、それよりも先に、じっとりと粘っこいものに覆われた手首がひとりでに振動し始めて、濁った声が聞こえた。

「……さくらがわ、りくさま……、と、おみうけします」

 爪先から手首に移ってきた事で、その物体の輪郭が、よりはっきりと見えるようになっていた。

 所々に剛毛のような黒っぽい繊維が生えているが、ほとんど、見た目は泥といって良い。呼吸をしているように、表面に小さな気泡がぽつっと膨らんでは、微量のガスを発して潰れる、それが全身の至る所で繰り返されている。潰れた跡の穴からは、雨上がりのような強い土のにおいが漂ってくる気がした。

 次第に、手首から肩にかけて、だるいような痺れが広がり始めた。泥状の物体が、絶えず体を震わせている為だろうか。

 重さに耐えきれなくなって、その場にしゃがみ込んで手をつくと、泥状の物体は驚いたように喋るのをやめた。

「大丈夫です」利玖は低く言う。「続けてください。わたしに何かご用が?」

 泥は、頷くように、ぐっとからだを前に傾けた。

「どうか、われらにおちからをかしていただきたいのです。うしべにふうじられた、ふるきかみ、ぎんせんを……」

(うしべ……、あっ、潮蕊うしべ?)

 心当たりのある地名に、利玖が思わず息をのんだ、その時、弾けるようなドアベルの音を響かせて史岐が外に飛び出してきた。数歩遅れて、千堂も後を追ってくる。

 彼らの姿が見えた途端、手首に感じていた冷たさも重さも、跡形もなく消え失せた。

「お客様……!」

 声をかけたのは千堂が先だった。両手を中途半端な高さで前に出し、狼狽えた表情を浮かべている。

 史岐は黙ったまま、利玖の脇に来て膝をついた。

 利玖は彼に向かって、泥がくっついていた手首を持ち上げてみせる。濡れた後のような、ひんやりとした感覚がまだ残っていたが、服の袖はまったく元通りに戻っていて、皺も染みも見当たらない。

 史岐は利玖の手首をとって、険しい面持ちで見つめていたが、やがて視線を少しだけ持ち上げて首を振った。自分には何も感じ取れない、というサインか、それとも、千堂の前で話すべきではない、という意味か。

 史岐に支えてもらいながら立ち上がり、利玖は千堂に頭を下げる。

「ご心配をおかけして申し訳ありません。もう、大丈夫です。立って歩けますから」

「すみません。お代は払いますから、何か体の温まる飲みものを作ってもらう事は出来ますか?」史岐が訊いた。

「や、そんな……、お代なんて頂戴しませんよ」千堂は前に出していた両手を、首とともに勢いよく振った。「もちろん、ご用意させて頂きます。お酒でもミルクでも……、あの……」彼は、利玖達に向かって手のひらを広げたまま、落ち着かなげに辺りを見回した。その後、開いたままの店のドアに気づき、萎縮したように横這いでそちらに近づいていく。

「ともかく、一度、中に戻りましょう。ここだと道路が近すぎますし、気温が低くて体に良くない。えっと、そう、明かりはすぐに、全部点けてきます。あ、暖房の設定温度も上げた方がいいかな……」

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