2話
ひと昔前のドライブ・インを改装したような、古びた赤屋根の喫茶店だった。立地の割には、建物内に余剰な空間が多い気がする。現に今も、がらんとした印象が強く、扉の前まで近づくには若干の勇気が必要だった。
扉の上には「喫茶ウェスタ」と書かれた看板が掛かっている。取っ手を押して中に入ると、右の壁際に作られたバー・カウンタに一人だけ立っていた店員が顔を上げて、いらっしゃいませ、と言った。
「お好きな席へどうぞ」
店員は、男性で、見た目は三十代半ばほど。史岐よりも背が高かったが、柔らかな声音とエプロン姿のおかげで威圧感はない。左手の薬指には銀の指輪が嵌まっていた。
今は、他に客はいないようだ。内装を見ながら歩いて行くうちに、史岐は、入り口と対角の壁に掛かっている一枚の絵に気が付いた。
両手で持てるほどの大きさだが、きちんと額装がされている。画面の右上から左下に向かって、巨大な彗星が尾を引いている構図だった。
店の中に飾られている絵はその一枚だけで、史岐は、何となく気を引かれて、その絵に近いボックス席に腰を下ろした。
店員が水の入ったグラスを運んで来て、史岐はホットのコーヒーとレモン・タルトを注文する。
コーヒーが先に運ばれて来て、史岐はカップを手に取った。オリジナル・ブレンドを頼んだが、史岐好みの深煎りで満足出来た。
熱いカフェインで幾分か意識が冴えてきた頃、続いてレモン・タルトが届いた。金の塗料で縁取りが施されたアンティークの皿に、銀のフォークが付いている。フォークの先にひねった紙ナプキンが巻きつけられているささやかな配慮に、史岐は少しだけ気分が良くなった。
レモン・タルトの端をフォークで切り分けて口に運ぶ。
再訪を決意させるには十分な味だった。
コーヒーとタルトを交互に口に運びながら、脇の壁に掛けられた絵を観察した。
こうしてそばに来ると、やはり、ホールに飾っておくには大きすぎるのではないか、と感じる。自分が近くに座っているから余計にそう感じるのかもしれないが、単に、店内の装飾だけを目的として飾られている物ではないように思えた。
背景は、何度も色を塗り重ねた深い群青。そこに、天の一点から噴きこぼれたように青白い光の束が走っている。
誰が描いたのか。いつ、どこに現れた彗星なのか。そういった付加情報は一切書き込まれていない。さほど強烈な印象のある絵ではなかった。
途中からは、史岐の視線も徐々に窓の方へと逸れていき、彼の頭の中では、ここ数週間の生活の変化にまつわるいくつかの確認と質疑応答が行われた。初めて訪れた人間でも、そういった考え事に没頭できるだけの静けさとプライバシィが、この店では確保されている、という事だ。
出てきたものを食べ終える頃には、史岐は最初に抱いた違和感の事などすっかり忘れて、鼻歌でも歌いたいような気分で会計のカウンタに向かっていた。
精算を終え、ドアの取っ手を握った所で、ふと思い出して振り返る。
「あの、ここって煙草は吸えますか?」
「ランチの時間帯以外は、全席喫煙可能となっております」
最高だ、と思いながら、史岐は礼を言って店を出た。
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