14話

 ブランディは未開封の状態で、常温で保存されていた。寝室の方にあったようだ。利玖には作り方だけを訊いて、史岐がキッチンに持って行く。

 どうしてそんなにそっと歩くのだろう。利玖は、その事が気になった。

 グラスを用意している史岐の背後に忍び寄る。少し待ってみたが、気づかれなかった。

「ブドウですか?」

 声をかけると、史岐はびくっと飛び上がった。その拍子にブランディの底がシンクとぶつかって、鈍い音が鳴る。

「びっ……、くりした」半分だけこちらを向いた史岐の顔には、半ば怒っているような、只ならぬ緊張が張り付いていた。「何?」

「以前、リンゴで作ったブランディを兄が買ってきてくれた事があります。ブランディだからといって、必ずしもブドウで作らなくてはいけないと決まっているわけではないようですよ」

「そうなんだ」史岐は舌打ちして、ブランディの瓶を片手で傾けた。「今、うちにあるのは、ブドウで作ったブランディだけだよ。別の物が良い?」

「どんなお酒でも、わたしは、史岐さんと飲むのなら楽しいです」利玖は少し背伸びをして彼に顔を近づける。「でも、出す時に、そんなに思い詰めたお顔をされると、いくら親しい相手でも勘繰ってしまいます。そのお酒には一体どんな物語があるのだろう、と」

 史岐は、黙っていたが、やがて利玖にも見えるように、リビングの明かりが届く位置にブランディを置いた。

 スーパや酒屋で見かける物よりも二回りほど小さい。ボトルの造形も凝っていて、酒瓶というよりも、アンティークの香水瓶みたいに見える。しかし、置く時には見た目に反して、重々しい音がした。

 瓶に貼られたラベルには金の箔押しがされた箇所があり、繋げると、アルファベットの形になった。癖のある崩し字風のデザインだったが、製造元のワイナリーの名前だと読み取る事が出来たのは、そこが、史岐のかつての婚約者・たいら梓葉あずはの一族が出資している事で有名な場所だったからだ。

「収穫の時期は人手がるから、よく手伝いに行っていて……」ぽつ、と史岐は話し始めた。「ワイナリーの中を見学させてもらった事もある。梓葉の相手だから、という事もあったんだろうけど、皆、本当に良い人で、親切にしてくれてね。成人する前は、特別に作ったブドウのジュースを飲ませたりしてくれた。それが今でも忘れられないくらい美味しくてね……」

 史岐は瓶を手に取って、再びシンクに置き、じっとそれを見つめた。しばらくそのまま、口をきかなかった。

「捨ててしまえば良かったんだろうけど」沈黙を経て最初に出た言葉は、それだった。

「この、たった一本の瓶に酒を詰める為に、どれだけの長い年月、試行錯誤が繰り返されて、手間がかけられてきたか、素人なりにでも知ってしまっているから……。封を切ったのに飲みもしないで流しに捨てるなんて事、出来なかった。かといって、一人で飲むには、度数が高過ぎて危ないし」

「どれくらいあるんですか?」

「六十パーセント」生理学実験みたいな数値が史岐から返ってくる。「絶対、そのまま飲んじゃ駄目だよ」

他人ひとのお酒を勝手に飲んだりしませんよ」

「今、ここで利玖ちゃんにあげるって言ったら、残りは全部飲んでくれる?」

 早口で言った後、史岐は、はっと苦い表情になって唇を噛んだ。

 利玖は、その問いかけには答えずに、リビングとキッチンを隔てる仕切りを回り込んで彼の隣に移動する。

 シンクの明かりはついておらず、手元は暗い。グラスが二つ並べられていたが、氷も炭酸水も、まだ用意されていないようだった。

 すぐ隣に史岐の右手があって、利玖は左手でそれを握った。何か理由を思いついたわけではない。

 トゥワイス・アップにしても約三十パーセント、と計算する。さすがに、普段通りのペースで飲める代物ではない。

 ここは思い切って、もっと別の使い方を試してみるのはどうだろうか。アフォガードを作る時、エスプレッソをアクセントとして使うように、バニラ・アイスにかけたら美味しいかもしれない。ちょうど瓶の容量だって、シロップみたいに少ないのだし……。

 暗いシンクでひっそりと寄り添う、透明な二つのグラスを見つめながら、利玖は心の中でそんな事を呟いていた。

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