始まりの春と、靴の音


  *


 祭式の講義が終わり、男子更衣室の喧噪の中でナユタとカラハは、何を話すでもなくただ並んで着替えていた。何故並んでかと言えば、ナユタが荷物を運んだ際に同じ場所に置いていたからという、ただそれだけの理由だった。


 白衣を着る際には襦袢と呼ばれる肌着、本体である白衣と呼ばれる着物、腰に巻く帯、袴、そして足袋を着用する。全ては清浄を表す白。それに加えて外を歩く際には草履と、男子なら笏、女子ならばぼんぼりと呼ばれる扇を持つ。これで一式だ。


 着物の畳み方は知らなければ面倒な印象があるが、実際にはそう難しくない。全てが平面で構成されている為に、一度覚えてしまえば綺麗な四角に畳めるものだ。


 この大學に来てから初めて和装に触れるような慣れない学生らはあたふたとしているが、いつも着慣れているナユタやカラハにとっては大した作業でもない。他にも手早い者が幾人も見受けられるが、恐らく社家出身者、つまり実家が神社の者達だろう。


 また、神道学科の授業にはスーツで出席すべしとのしきたりがあった。これは『形を正せば心まで直される』という神道の『正直』の思想に則ったもので、授業を受けるならばきちんとした服装でなければならないとの考えがルール化したものだ。


 故にこの祭式の授業も、行き帰りはスーツを着用し白衣に着替えて講義を受けるという面倒な手順があるのだが、その手間が更衣室の混沌具合に拍車を掛けている一因なのは間違い無かった。


 そんな中、ナユタは壁の方を向いてちまちまと着替えていた。恥ずかしい訳でも無いが、かと言って堂々と下着一枚で胸を張る程の自信家でも無かった。袴を落とし帯を解いてから白衣を脱ぐより先にスラックスを履く。そして肌着代わりのTシャツを着てから白衣を畳み始める。


 一方、カラハは気にする事なく一旦全部脱いでから、ボクサーパンツ一枚の姿のまま平気で白衣を畳みに掛かった。横で見るとはなしに見ていたナユタは、おいおいパンイチかよとか寒くないのかとかツッコミ台詞が頭の中でぐるぐると回ったが、結局何も口にはしなかった。


 他の学科よりも寮生の率が高い神道学科において、カラハは特異な存在だ。故に否が応でも周囲の注目を集める事になるのだが、本人は全く気にしてはいない。常に自然体で堂々としていた。


 それにしても、とナユタは改めてカラハを眺める。全身に付いた無駄の無い筋肉、均整の取れた身体。肌の浅黒さに関してはよく見ると腰の辺りから膝の上くらいまでは少し色が薄いことから、元々色素が濃いだけでなく日焼けも相まってのものだと推察出来る。見下ろした少し彫りの深い横顔はよく整っており、些か鋭すぎるきらいのある切れ長の瞳は長い睫毛によってその印象を和らげられていた。長めに伸ばされた黒髪は艶を帯び、組紐で一本に纏められた後ろ髪の傍から覗くうなじが少しだけ白くて、言い様のない色気を感じさせる。


 どう控え目に見てもカラハは完璧だった。──まあ、モテない筈は無いよな、とナユタは心の中で舌打ちをする。


 そうこうしている内に、白衣をすっかり片付け終わったカラハが立ち上がった。傍で見るとより身長の高さが際立ち、ナユタの中の劣等感が微かに胸の内で暴れる気配がした。


「あのさ、」


 ナユタは思い切って小声でカラハに話し掛ける。皆が来るまではあんなに自然に話せていたのに、今は少しだけ、勇気が必要だった。


「この後さ、授業ある? もし時間があれば、少し話したい事があるんだけど」


「んン……授業は無ェけど、ちィとヤボ用があるんだよなァ。悪りィな、また今度でいいか?」


「あ、そうなんだ。ゴメン」


「や。こっちこそ」


 シャツのボタンを止めながら答えるカラハに、ナユタも何でも無い風を装う。喧噪の中、再び二人の周囲を沈黙が包む。


 そして二人は同じタイミングでネクタイを結ぶ。ナユタは濃いグレーのスーツに合わせて落ち着いた紺の斜めストライプ、カラハはやや光沢のある三つ揃えに映える細身ボルドーの柄織り。それぞれに手を動かしながらも妙なシンクロに空気は和らぎ、ふとカラハは口を開いた。


「俺さァ、明日誕生日なんだわ」


「へえ、そうなんだ。おめでと。ハタチになるの?」


「そ。でも明日って金曜なんだよな」


「あー、十三日の金曜日」


「だからってまァ、何って訳でも無いけどな。なんかちィと気になるよな」


「なるね。確かになる」


 どちらともなく二人はハハ、と笑った。


 そして身支度を確認すると、連れ立って教室を出る。ぐるり建物を回ってロータリー側にある砂利道へ歩みを進めると、なーおっ、と芝生で寝転んでいた黒猫が慌てて駆け寄ってきた。


「おー。大人しく待ってたみてェだな、よーしよしよし」


 身を屈めてカラハが猫を片手で抱き上げ肩に乗せる。と、そこが気に入ったのか猫は、なーおなーおと鳴きながらぺとりと肩にしがみ付いた。


「スーツ、高そうだけど。いいの?」


「ま、しゃあねェわな」


 ナユタの心配に言葉よりも軽い口調でそう言うと、カラハは鞄の肩紐を掛け直す。そしてロータリーとは反対、学生用の駐車場がある南西の方向へ顎をしゃくった。


「ちィと考えが湧いたんで、一旦こいつ連れてくわ。あっと、俺バイクあっちだから──」


「ああ、うんそれなら猫任せるよ。じゃあ僕こっちだから。んじゃ、またね、かな?」


「おう、またなァ」


 そしてひらひらと手を振り、カラハは猫をくっ付けたまま悠然と歩き出す。そんな彼の姿に、行き交う女子寮生達がひそひそキャーキャーと声を上げている。


 ナユタは肩を竦め背の高い友人を見送ってから、きびすを返して目的の教授棟へと歩き始めた。


 *


 相変わらず風はそよいで、舞い散る桜は雪のようで。浮かれたざわめきは波のようで、霞みに空は華やいで。


 動き出した運命を彩るのは、そんな光景。キャンパスに満ちる靴音と笑い声は、どこまでも軽やかに響いた。


  *


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