眠気覚ましと、お人形


  *


 極限の眠気には珈琲など効かないという事をカラハは体感していた。


 二日間ろくに寝ていないのだ。一日目はともかくとして二日目は不可抗力、しかも術を使ったり身体を張っての戦闘を強いられたりと、肉体的にも精神的にもかなり疲れている。少しばかり仮眠を取ったところで焼け石に水なのは当然と言えよう。


 しかしだからと言って、それが言い訳になるかどうかというのはまた別の問題なのだ。


 ──ゴツン!


「ア痛てェ!?」


 頬杖をついたままの姿勢ですっかり意識を失っていたカラハの頭に、容赦無く本の角が落とされた。


「堂々と眠るとはいい度胸だ。欠席扱いにされたいのか、この馬鹿者が」


 身体を起こすどころか、不意の痛みに悶え頭を抱えて机に突っ伏すカラハの頭上に、低いが張りのあるしなやかな佳い声の、それでいて絶対的な優位性を感じさせる尊大さを秘めた言葉が落ちる。クスクスと堪えきれない忍び笑いが教室のあちこちから漏れた。


 カラハは少し涙目になりながらも些かの怨みを込めて、叱責と本の角を自分の頭に落とした張本人の姿を見上げた。真っ直ぐに見下ろす目と視線がぶつかり、カラハは反射的に視線を逸らす。


「ん? 文句でもあるのか? あるなら言ってみろ。正当な理由なら聞いてやらんこともないが?」


「──無ェっス。すんません」


 カラハは素直に謝り、溜息を吐いてから手元の資料に集中する振りに戻った。眠気を耐えるのがやっとで、内容など頭に入ってくる筈も無い。


 そんなカラハの状態もお見通しだと言わんばかりに、声の主は含み笑いをしながら再び机の間を悠然と歩き始める。


 資料を読み上げる声は朗々と響き、その内容──古代の神々の営みを紐解くのにとても相応しく、威厳に満ちたものであった。


 その男の名はオウズ・ヒロヒトと言う。


 年齢四十三歳、将来を有望視されている若き教授だ。カラハ程ではないもののすらりと高い上背で、一目で上質と分かる三つ揃えを着こなしている。無造作に流した艶のある栗色の髪が大人の色気を醸し出しており、整った顔立ちに縁無しの眼鏡がとてもよく似合っている。比較宗教学・神話学を専門とする神道学科の講師であり、二年神道学科クラスの担当教員でもあった。


 ──良い声というのはそれだけで武器であり、罪なのだ、とナユタは撃沈寸前のカラハをどうにか起こしながら思う。オウズ教授の声は低い響きが心地良く、聴いているだけでとても自然に眠りに誘われてしまう。


 隣のカラハを起こさなければ、という義務と責任を感じているからこそナユタは起きていられるのであって、もし自分が一人で座っていたならば、うつらうつらとしていただろうことは疑うべくもなかった。それを証拠に──。


 ゴツン!


「あいたあ!?」


 宮元がカラハと同じ制裁を受けていた。


 ナユタは宮元に同情しつつも自分はその制裁を回避すべく、こっそりと口に放り込んだミントタブレットを奥歯で噛み砕くのだった。


  *


「あ。ちィっス」


「やあ。数時間ぶり」


 ようやく午前中の授業を乗り切ったナユタとカラハが連れ立って二号館のホールへ向かうと、そこには座ってココア牛乳を啜るイズミと掲示板をチェックするライジンがいた。


「眠そうだね。二人共だいじょぶ?」


「眠いです、何とか乗り切りましたけど。先輩方はどうでした?」


「俺っちも眠いよ。まあ仕方無いけどねっていう」


 はははと投げやりに笑うライジンにつられ、ナユタも苦笑した。


 イズミとライジンの二人はあの後どうしたかと言うと、目を覚まさないイズミを背負ってライジンがマンションに連れ帰ったそうだ。ライジンの自転車を大學に置いたまま帰ったので、今朝はわざわざ徒歩で登校してきたらしい。


 ナユタとライジンがそんな話をしている間、当のイズミは黙って座ったままストローでココア牛乳を吸い続けている。微動だにしないイズミを不審に思ったカラハが隣に座ってイズミの肩を突いてみるが、一切の反応を示さない。


「全然動かないけど、これ、大丈夫なんスか……?」


 カラハの言葉に困ったようにライジンが笑う。そうなんだよね、と言いながらライジンは溜息を漏らした。


「イズミちゃん先輩ね、さっきゼミに迎えに行ったらね、お人形になってたらしくってね


「お人形、ですか?」


「ナニも喋らない、反応しない、座ってるだけのお人形だったんだってさ。ちゃんと世話してる? って俺っちが教授に怒られちゃったよ」


 どういう反応をして良いか困惑したナユタは真顔で黙った。突っ込みどころが多すぎて笑う事すら出来そうにない。


 ベンチに背を預け煙草に火を点けたカラハが、溜息のように紫煙を吐きながら問うた。


「それってもしかして、寝不足だけじゃなくて、バッテリー切れの影響もあるんスか?」


「多分そうなんだと思う。ここまで酷いのは初めてだけどね」


 ライジンは軽く苦笑を漏らしながらイズミの前にしゃがみ込んだ。すっかり空になったココア牛乳のパックをイズミの手から取り上げて、ゴミ箱に投げ入れてからイズミの手を取った。


「ほらイズミちゃん先輩。立てる? ゴハン食べに学食行きましょうっす」


「……ゴハン」


 ゴハンの一言に、ロボットのようにぎこちなくではあるものの、ようやっとイズミは自分の力で立ち上がった。ライジンが手を引くと素直に従い、ゴハン、と呟きながらライジンを見上げた。


「じゃ俺っちら行くから。またね」


「はい、失礼します」


「ッス」


 手を振るライジンにナユタとカラハは軽く頭を下げた。去って行く二人の背中を見送り、カラハは二本目の煙草に火を点ける。


「特に要りそうな掲示も無いみたいだし。それ吸い終わったら、寮に帰ろうか」


 ナユタもカラハの隣に腰を下ろし、ふあ、と軽い欠伸を一つ。ついでに伸びをしてから、ふう、と息を吐いた。


 人もまばらになったホールに、紫煙がゆらりと流れる。ナユタは気怠げなカラハの横顔を盗み見て、何だかおかしくて少し笑った。そんなナユタの様子には気付かずに灰皿で煙草を揉み消すと、カラハは立ち上がりついでに手を組んで、ンン、と思い切り身体を伸ばす。


「……帰ろっか」


「そうだなァ」


「今日のお昼ご飯、確かカレーだよ」


「マジか! そいつァ楽しみだ」


 二人は顔を見合わせると、意味も無く笑った。


  *


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