征け神風のアインヘリア
神宅真言(カミヤ マコト)
第零章:桜舞い散るプロローグ
舞い散る桜と、黒き虎
*
──それは余りにも、非現実的な光景。
その日、その場面に立ち合った事こそが、彼にとっての全ての始まりとなったのだ。
そう、運命が交錯し回り始める──これは彼の、いや彼らの未来を変える一年の、その日々の記録である。
*
朝のキャンパスには気持ちの良い風がそよぎ、はらはらと散る桜の花弁が雪の如く、緑の多い風景に美しいコントラストを描いていた。
そんな人の疎らな道を足早に辿るのは、大きな鞄を片手に提げて白い着物と袴を着込んだ眼鏡の青年──この大學に通う学生、アラタ・ナユタだった。
まだ学生の殆ど居ない時刻にナユタが目指したのは、大學構内の中央ロータリーから少し西側に位置する、祭式教室と呼ばれる木造の古風な施設。
今日の一時限目には二回生になって初めての専門的な実技授業がここで行われる。受ける前に使用する教室を軽く掃除でもしようと、ナユタは講義が始まるよりも一時間以上早く到着するよう急いで寮を出て来たのだ。
──しかし、せっかく借りてきた鍵が無駄になっただけでなく、思わぬ先客に出くわす羽目となる事を、ナユタはまだ知らない。
「あれ、開いてる。おかしいな、誰か先に──?」
鍵が掛かっていない事を不思議がりながら開けた扉の先、神社の拝殿を模した教室の中。そこでは霊的な青白い光に照らされて、あたかもこの世ならざる情景が、物語の一幕めいた光景が広がっていた。
「──え、……!?」
──現実から隔絶されたかの如き静謐な空間の中、大きな虎と一人の青年による一騎討ちが繰り広げられていたのだ。
右手側、床から数段上に舞台のように高く設けられた祭壇には、黒い瘴気を撒き散らす巨大な虎のあやかしが、黄金に輝く瞳で対峙する青年を睨んでいた。
通常の虎とは逆に地肌が黒く、模様の線が金色に淡く光っている。いつでも飛び掛かれるようにか身を屈めた低い姿勢で、静かに息を整えていた。
対する青年は神職の装束である白衣袴を身に纏い、大きな三つ叉の槍を隙無く構えている。脱いだ片肌からすらり伸びる右腕は浅黒く日に焼けていて、無駄なく付いた筋肉をしなやかに際立たせていた。
均整の取れた身体と高い上背、そして長めの黒髪に縁取られた顔には見覚えがあった。
確か、彼は同じ学科の──とナユタが状況を受けとめきれずに呆然と立ち尽くしていると、振り向く事無く低く鋭い声が投げられる。
「おいお前ッ! 入って来られたって事ァ、『視え』てンだろ? 戸、早く閉めてくれねェか」
不意に掛けられた声に、は、とナユタは我を取り戻した。慌てて言われるがままに草履を脱いで扉を閉め中へと足を踏み入れると、ビリビリとした緊張感が肌を灼く。
ナユタは結界の中へは歩みを進めず、扉の内側から鍵を掛けながら注意深く周囲を確かめた。結界の種類によっては、空間を断絶しその境界を越えようものなら真っ二つに切り裂かれるような強力なものも存在するからだ。
広い板張りの教室の四隅に符らしき紙が視えた。書かれた文言から察するに、恐らく人払いの結界を張る為のもので、触れても何の問題も無い代物のようだ。普通の人間ならばこの建物自体に近寄らせない程度の効果はあるだろう。まだ人の少ないこの時間帯なら充分な効力がある筈だと、そうナユタが結論付けた瞬間──再び言葉が空間に響いた。
「すまねェが。アレを追いながら片手間で張ったモンだからよこの結界、──万一誰か近付いたりしねェか、見張っててくれるとありがてェんだけど」
槍の青年は微動だにせずにそうナユタに話し掛ける。虎と視線を合わせたままの彼の肩から、つう、と汗が流れた。よく見ると、彼の額や首許にも無数の汗が浮かび滴っている。
まだ四月も中旬、汗を掻く程暑い筈が無い。涼しい表情とは裏腹に、その事実が彼の緊張を、つまりは力の均衡の危うさを物語っていた。
「見たところ結界は問題無さそうだよ。それより、良ければ加勢を──」
「要らねェ。黙って見てろッ」
迂闊な発言に、押し殺した鋭い拒絶が飛んだ。
言葉は厳しいが、彼の拒絶は正しいと一瞬の後にナユタも理解した。初対面の二人が上手く連携を取れるとは限らないし、この危うい均衡の中でナユタが下手に手出しすれば、足手纏いにもなりかねない。
巨大な体躯、噴き上がる瘴気、何より闇の気配の威圧感──その虎のあやかしは確かに、間に合わせのタッグで簡単に倒せるほど甘い相手には到底見えなかった。
「解った」
意図を汲んだナユタは短くそれだけを返し、入口近くに放り出されていた青年の物と思しき荷物と自分の鞄を隅に置き、万一の時には直ぐに動けるよう素早く体勢を整えた。彼と同じ白衣袴の装束のまま、邪魔にならない壁際に静かに立つ。
気圧されるような瘴気と霊気の渦巻く極限まで張り詰めた空気の中で、両者は息すら殺しながら時を待っていた。この拮抗した状態では、恐らく──先に隙を見せた方が負けるに違いない。
きっと、勝負は一瞬で決まるだろう。ナユタはそう冷静に判断しながら眼鏡のずれを直し、そっと懐に手を入れる。
もし彼がやられた場合には、自分があの虎を倒さねばならないだろう。出来るだろうか、いや、やらなければいけないのだ──ナユタはその覚悟を密かに、心の中で確かめた。
*
燐光を放つ空気の中を、いたずらに風が抜ける。昨日誰かが閉め忘れたのか一カ所だけ開いている窓から、ひらり、一片の桜の花弁が舞い込んだ。
それは睨み合う両者の間を揺れるようにゆらりゆらりと舞い、ゆっくりと時間を掛けてはらり、はらり静かに、そして磨き上げられた板張りの床に舞い降りる。
痛い程の緊張の中、花弁が床に落ちるその音無き音が、あたかも水面の波紋の如く響きをもって微かに空気を震わせた。
──刹那。
動いたのは、同時だった。
虎が激しく咆哮し、限界まで溜めた両脚のバネを解放する瞬間。
槍の青年もまた、鋭い雄叫びを上げて一歩、大きく前に踏み込む。
「──ッガアアアァアッ!」
「──はあッッ!!」
虎の黄金の爪と、鈍色に光る三つ叉の槍が、空間を裂いて美しい軌跡を描いた。
*
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