鈍色の槍と、金の爪
*
ダンッ、と床を踏み抜かんばかりの鋭く重い音が、朝の清廉な空気に響き渡る。
「──ッ!!」
虎に負けじと気迫を発した青年は、大上段に構えていた槍を右足を踏み込む勢いそのままに、力強く一閃した。即ち、自分目掛けて飛び掛かる巨大な黒虎のあやかしに対し、流れるような動きで半月を描いて斬りかかったのだ。
あたかも開きかけた花の横顔めいた形を持つ槍の矛先、その剣のように突き出た三つ叉の中央の刃を、虎の左肩から右足の付け根に至る軌道を選んで全身を使って斬り下ろす。
一方、振り下ろされれば一撃で致命傷となるであろう恐ろしき黄金の爪は、しかし青年に届く事は無く、虚しく空を掻いたに留まった。虎の金色の瞳が驚きに大きく見開かれる。
鈍い光が虎の瘴気を切り裂き、肉に到達し、そして振り抜いた刃が空を穿つ。空気を震わせる咆哮が、知らず虎の口から漏れ出でた。
血飛沫の如く噴き出した闇色の瘴気を浴びながら、青年は片膝をついた姿勢で詰めていた息を大きく吐いた。勢いに乱れた漆黒の髪がさらり、頬に落ちる。
はらり、圧に当てられ舞い上がっていた桜の花弁がゆらゆらと再び両者の間に舞い降りてゆく。
遅れて響く、ズン、と大きな物が倒れるかのような音。無事、勝敗は決した。
──かに見えた。
ざわ、と首筋に走る悪寒。瞬間、青年は地を蹴り床を転がる。それは思考ではない、積み重ねてきた経験と鍛え上げられた勘によって身体が反応したものだ。
間髪入れずそれまで青年が膝を突いていた場所に、重い質量を伴った瘴気が黄金の線を引いて打ち込まれる。
──体勢を崩したままの青年が息を飲んだ。床に突き刺さったそれは、途中から引き千切られた痕も生々しい、金色の爪が禍々しく光る黒虎の腕そのものだったからだ。
三たび舞う桜の花弁の向こう、青年の黒い瞳は見た。意図せず、ギリ、と食い縛る歯が音を立てる。
虎は倒れ伏してなどいなかった。槍の一撃で深手を負いながらもなお、恐ろしき俊敏さをもって立ち上がり、こちらを睨み据えていたのだ。自ら噛み千切った左前脚の傷口から血のように流れ出る瘴気が、黒く凝りあたかも義足のように虎の身体を支えていた。
「──畜生がッ! ンなのアリかよッ」
毒づきながらも再び相対する為に構え距離を取ろうとした青年を追い、虎は唸りながらにじり寄る。充分に距離が取れないこの状況では、槍の力を存分に発揮出来ないと下がろうとしたその時──青年の、顔色が変わった。
背が、祭壇に触れたのだ。
いつの間にそこまで追い詰められていたのか。青年は胸程の高さのある祭壇の直ぐ際に立っていた。状況を理解した瞬間、背中に、額に、冷や汗が伝う。
流石に助走も無く槍を構えたままで後ろにある祭壇に飛び移るなど、どだい無理な芸当だろう。少なくともあの虎に隙を見せずにそれをこなせる程の身体能力は、今は持ち合わせていなかった。
また、祭壇の中央には壇上に昇る為の階段が設けられているが、転がり体勢を立て直す際に斜めに移動したのが禍いした。今いる場所からは少なく見積もって三歩は必要だが、その僅かな時間ですら相手にとっては好機となり得る筈だ。はたまた逆側に逃げようとも、こちらは壁が近い。隅に追い詰められては万事休すだ。
焦りが僅かばかり、判断を迷わせた。その躊躇が、命取りとなる。
逡巡の隙を突き、虎が吼えた。
「ゴアアアアーッ!」
「く──」
虎の巨体がのしかかるかの如く迫り、右前脚が大きく振りかぶられた。黄金の爪が、強く光る。およそ受け止め切れる筈も無いと分かっていながらも、青年はせめてもの抵抗にと、頭を庇うように両手で握った槍を頭上で構えた。
虎の咆哮と青年の歯噛みの音が重なり、これも命運、と青年が覚悟を決めたその時。
──タンッ。
軽い、余りにも軽い音が響いた。
見上げる青年の前で、虎が動きを止める。掲げた右前脚が力を失い、ゆるりと慣性に従って下ろされてゆく。
そして虎の額の真ん中、小さく開いた穴から、血のように黒い瘴気が噴き出し始めた。虎はそのままずるずると力を失い、ガスが抜けるようにくたりとその身体を縮めてゆく。
「何が──」
呆然としたまま槍を下ろし呟く青年が、しおれてゆく虎越しに見たのは。
「間一髪、だったかな」
右手で横向きに真鍮色の拳銃を構え、少し困ったように笑う眼鏡の青年──ナユタの姿。左手で袂を押さえる上品な仕草が銃という武骨な武器と余りにミスマッチで、青年は少しだけ目を見張った。
ゆらり、音も無く桜の花弁が舞い落ちてゆく。花弁の中央に穿たれたのは、少し焦げた丸い穴。それは、虎の額を貫いた穴と同じ大きさだ。
床に静かに身を横たえた花弁はもう二度と、舞い上がる事は無かった。
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