踏み込む脚と、差し出す手
*
「なァにが『間一髪』だよッ、そんなの持ってンなら早く助けろッての!」
軽い怒気と安堵を滲ませた言葉と同時、槍の石突きで床を打つ、カーン、という小気味良い音が響いた。
青年の足許で縮み続ける虎はもう、あやかしの体を成してはいなかった。元々槍の一撃が深手を与えていたのは間違い無く、余力を振り絞って自ら左前脚を噛み千切った上、眉間を撃ち抜かれたのがとどめとなったのだ。当然の結果と言える。
瘴気を噴き出しながら空気が抜けるかのように小さくなってゆく黒虎を避けつつ、槍の青年は歩み寄りながらナユタに話し掛ける。
「全く、久々に死ぬかと思ッたっての」
「だって手を出すなって言ったの、君自身だろ」
「言ったっけか、ンな事」
ナユタも軽い口調で返しつつ銃を構えていた右腕を下ろす。苦笑を浮かべながら眼鏡の位置を直すと、ナユタは近寄ってくる槍の青年を真っ直ぐに見上げた。
そう、見上げたのだ。改めて槍の青年の背の高さに驚かされる。身長差、二十センチ以上。ナユタは背が高いとは言えないものの決して小さくは無い筈なのに、彼に近くで相対すると自然と顔が上を向く事になる。
「えっと。マシバ・カラハ君……だよね」
「ちゃんと喋ンのは初めてだっけか」
「そりゃあ、君は通生だもの。クラス一緒だから同んなじ授業は多いけど、話すタイミングなんて無かったし」
通生とはこの大學特有の言い回しで、実家や下宿先から大學に通ってくる者を指す言葉だ。逆に、寮から通う者を寮生と呼ぶ。昔は学生全員が寮に入るのが強制だった時代もあり、その伝統ゆえか自然と寮生と通生の間には緩い溝が存在した。
だが槍の青年カラハはそんなナユタの言い回しを気にした様子も無く、どかり床に腰を下ろすと何かを拾い上げた。
「何にしろ、助かったのは事実だ。──ありがとな」
カラハが掲げて見せたのは、綺麗に穴の開いたあの桜の花弁。それは確かに、ナユタが銃を撃ったという証拠に他ならない。
「……ギリギリになってゴメン」
「いンや。結果オーライだ、気にしてねェよ」
そう屈託無く笑うカラハの様子に苦笑した後にしかし、そういえば、とナユタは改めて真面目な顔をした。
「カラハ君。君さ──手抜きしたろ」
ナユタの言葉にカラハは掌の上で花弁を弄びながら、少しだけ眼に鋭い輝きを見せた。口許は笑んだまま、先を促すように言葉は発さない。その雰囲気に些か怯みながらも、ナユタは考えを素直に述べる。
「君の実力なら、あの一撃で虎を真っ二つに出来ていた筈だ。……踏み込み、緩めたように見えたけど。何でか聞かせて貰ってもいいかな」
ナユタは胡座をかいたカラハを立ったまま正面から見下ろした。二人の視線がぶつかり、無言のまま絡み合う。やがてカラハはクク、と笑みを漏らし、破顔した。
「バレたってか! 俺が踏み込みを加減したの、判ったってのかお前! ……あァ、そうだよ緩めたさ。あれ思い切りやってたら、確かに仕留め損ねる事ァ無かったかもな。でもよ、何でか判るか? 何でそうしなかったのかよォ」
「……解らないね。倒せる機会があったってのに、それをみすみす逃すなんて、僕にはその理由なんてわからないよ」
「──床をなァ」
「え?」
「床をだなァ、踏み抜きそうだったからだよッ」
そう言ってカラハは大きな拳で床を、トンッ、と叩いた。自嘲に歪んだ唇からは、白い牙がちらり覗く。
「踏み抜くって、そんなまさか」
信じられないという顔で固まるナユタに、だろうな、とカラハはまたも、クッと短い笑いを漏らした。
「まさかって思うよなァ。──でもよ、俺ァ何度もやっちまってるんだ。道場の床とか、まあ色々、な。だからさ」
「だから、踏み込みをセーブしたって? そんなの──」
「だってよ。これから授業受ける教室、壊しちまっちゃイケネェだろ? なァ?」
屈託無く笑うカラハの様子に、ナユタは毒気を抜かれ、はぁと大きく溜息を漏らした。──こいつは、想像以上に規格外だ。
「でも死にかけたじゃないか。助かったのは結果論であって」
「まあ、奥の手もあるしな。イザとなったらどうにでもならァ。それに」
すい、と片肌を脱いだままのしなやかな右腕が伸ばされる。右手で銃の形を作り、カラハは笑いながらナユタに狙いを定めた。
「お前がいたからまァ、大丈夫だと思って、な。──お前、アラタ・ナユタだろ?」
「確かに僕はアラタ・ナユタだけど。どうして」
眼鏡の奥でグレー掛かった瞳を細め、ナユタはカラハを見詰めながら少し首を傾げた。灰色の長い前髪がさらさらと風に揺れる。そんなナユタの様子に、カラハはさも可笑しそうに牙を見せて笑みを零す。
「知ってる気配だって途中で気付いたんだよ。お前の爺様のアマタ老ンとこで昔、会った事ある奴だってな」
そして、バン、と銃を撃つ真似をした。その指先から穴の開いた花弁がはらり、くるくると円を描いて落ちてゆく。
「何だ、僕の正体バレちゃったのか」
「今日の今日まで気付かなかったけどな。お前、気配隠すの上手いのな、お前が術士だったなんて一年間分かンなかったぜ」
「僕は戦うのよりもそういうのの方が得意なんだよ」
笑顔のカラハとは対照的にナユタは諦め顔で銃を懐に仕舞う。白衣と呼ばれる神職の着用する着物の胸元は、銃を収めたというのに膨らむ気配は無い。内側に『収納』の術式を仕込んでいるお陰だ。
「……それで、カラハ君は」
何かを言いかけたナユタを制止、カラハは自分の槍を器用に後ろ手で回すと、上に放り投げた槍を真っ直ぐ両の手で受け止め──と思いきや、柄が手に収まる端から吸い込まれるように消えてゆく。これも術式なのだろう。
「──カラハだ」
「え?」
「呼び捨てでいい。カラハだ」
そして大きな右手を、ナユタに向かって差し出したのだった。
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