寮生長と、ジャスミンティー


  *


「──あれか」


 そして三人は揃って誠道寮南寮の玄関近く、人垣の後ろからそっと顔を覗かせた。


 そこは当然と言うべきか野次馬でごった返しており、このスーツの集団に紛れていればカラハが白鳥瑠璃子に見付かるであろう可能性は低そうだった。ほぼ全ての男子寮生が集まっているのではないかという程の混み具合である。


 とは言え万一の事が無いとも限らない。念の為にカラハとナユタは人混みの後ろの方に隠れ、こういう時にフットワークが軽い猪尻が張り切って隠密を勤めた。チョロチョロと前方へと人を擦り抜け首を突き出し、得た情報をまた引っ込んできていちいちカラハ達に伝えてくれる。


 普段は少し賑やかすぎる後輩だが、アクティブさがこういう時には役に立つものなんだな、とナユタは猪尻への評価を心の中で訂正した。


「……まだ泣き喚いとるけど、誰かが説得始めたみたいですわ」


「あ、ホントだ。誰だろ、こっからじゃよく見えないな」


「ちぃっと見て来るっすわ。……ああ、パパ先輩、寮生長ですわ。パパ先輩が説得っていうか宥めとる。包丁持っとる人相手に凄いっすね、パパ先輩」


 誠道寮には三役四幹と呼ばれる役員制度がある。毎年、二回生の中から寮生長一名、副寮生長二名、それに総務・風紀・美化・文化の四幹事を一名ずつ選出する。彼らは一般寮生の代表として寮生を導き、指導する責任を負うこととなる。ちなみに女子寮である貞華寮の寮役は、風紀を抜いた三役三幹となっている。


 そして毎年、男子寮の寮生長は何故かその学年で一番年齢が上の寮生が就くのが習わしとなっていた。大抵毎年二人三人は二十代の者が、特に神道学科などには存在するのが通常であるが、今年の二回生は特別だった。


「女の人泣き崩れとる。パパ先輩が撫で撫でしとります。なんかアレですわ、親子みたいですわ」


「瑠璃子先輩って、先輩だけど年下かよっていうぐらい可愛らしい系の人だからなあ。パパと一緒だと確かに親子っぽく見えるかも」


「パパってアレだろ、ガチで娘いるらしいし。今年で三十六って聞いたぞ。そりゃア親子にしか見えねェわな」


 そう、今年の寮生長は飛び抜けて年上だった。年齢三十六才、バツイチで娘もいるらしい。バリバリの社会人だったが自らを見つめ直す為に入学してきたという噂を持つ男、二回生国史学科、タカサキ・ワタル。皆には親しみを込めて『パパ』と呼ばれていた。


 定かではないが、一流企業に勤めるエリート営業マンだったとの噂もある。もしそれが本当ならば、こじらせた不思議ちゃんの説得も不可能ではないのかも知れない。そうでなくとも重ねた年齢は伊達ではないのだろう。


 現に、白鳥瑠璃子は握っていた包丁を投げ出して、わあわあと子供のように大声で泣きながらパパ寮生長によしよしと頭を撫でられているのだから。


「ホンマ凄いですわ。あんだけ殺す死ぬって喚いとった女の人が、あんな大人しくなってしもとる。──お、誰かセンセが来たみたいですわ」


「あれは、えーっと多分、ドイツ語の安江先生かな……?」


「あ、白衣着た女の人とか学生課の人とか、他にも何人か」


 ここで言う白衣の女性は、どうやら保健室に勤める養護の教員のようだ。神道の着物も同じ『白衣』である、紛らわしいが致し方ない。


 と、その時、野次馬から大きなどよめきが漏れた。


 パパ寮生長が白鳥瑠璃子をひょいと抱き上げたのだ。小柄とはいえ成人した女性であり、決して幼児のように軽い訳では無い。しかしまるで幼い娘をあやすかのように、タカサキ・ワタルは泣き続ける先輩をしっかりと抱き上げ、優しく背中をさすりながら歩き始めたのだ。


 寮生達から口笛や「パパ先輩カッコイー!」などのヤジが飛ぶが、本人は至って真剣で気にする素振りも無い。そして野次馬が見守る中、彼らは先生や事務員さんらと共に大學の方へと去って行った。


 ──彼らの退場をもって、この事件は一旦の収束を迎えることとなる。そしてこれが新たな事件の始まりであろうとは、未だ誰も予見してはいなかったのだった。


  *


 ざわざわと喧噪はかしましく、見送った余韻をまだ大いに引き摺っている。──誰かが「やべっ!」という声を上げるまでは。


「えっもうこんな時間!?」「昼休みもう無いじゃん」「まだ俺昼飯食ってねえ!」「遅刻する!」「急げ」「腹減った」「待って俺も行く」


 一気に野次馬達は三々五々動き出した。食堂へ、自室へ、玄関を出て大學へ、各々慌てた様子でそれぞれの方角へと向かう。急いでない者も玄関に留まる理由はもはや無く、さあっと波が引くように寮生達は移動を始めた。


 ナユタ達も自室へとスリッパをパタパタ鳴らし急いだ。ちなみにカラハのスリッパは玄関脇に置いてある来客用のものを無断で拝借していた。猪尻が気を利かせて取ってきたものだ。


「僕も猪尻君も三時限目あるけど、カラハは?」


「取ってるけど、荷物無ェしまだ出席取らねェしサボるわ。腹減ったし眠みィし部室でも行くかなって」


「寝てるだけなら僕の部屋でもバレないと思うけど。三時限目終わったらまたすぐ帰って来るし。カップラーメンとかポテチで良ければ食べて良いよ」


「えっいいのか!? ありがてェ」


「自分の部屋やと思うて寛いでもろてええですよ」


「猪尻君もそう言ってくれてるし。あれ、荷物ってまさか瑠璃子先輩の家?」


「いンや、部室。デケェから邪魔だと思って置いて来た」


「カラハって部活入ってたんだ。何部?」


「ン、書道部」


「マジか。イメージ違う」


「あ、俺お隣さんやから、授業終わってで良けりゃあ取って来ますよ?」


「え、マジで。すまねェ頼むわ。誰かは居る筈だから。黒くてデケェトランクの奴な」


「お隣ってまさか猪尻君て漫研だったの!? 今知った衝撃の事実なんだけど」


「いやあ、ゲームにつられて入ったんですわ」


 小走りで慌てながら滑り込むように部屋のドアを開け、ナユタと猪尻は上着や荷物を引っ掴んだ。カラハは逆に上着を脱ぎ、ネクタイを緩めて首許のボタンを外し始める。


「じゃ、行って来るから」「いてきますわー」


「おう。いってら」


 そしてきびすを返して走り去る二人を見送り、カラハはゆっくりとドアを閉めた。


 上着を椅子に適当に掛けて腰を下ろし溜息を一つ。先程の喧噪が嘘のように、寮全体がもう静けさに包まれている。時折聞こえる足音や話し声も控え目で、午後の気怠さをいや増す要素でしかなかった。


 カラハは机の上に置いたままのティーポットからすっかり冷めたジャスミンティーをカップに移すと、喉を鳴らして飲み下す。緊張が緩んだせいか眠気が脳を痺れさせる。空腹ではあるものの他人の部屋を物色するのは気が引けて、カラハは取り敢えず二段ベッドの下段に無造作に転がった。


「……なんか、疲れた」


 それだけ呟くと、カラハはゆっくり瞳を閉じ、深い闇の中へと意識を手放したのだった。


  *


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