集合時刻と、南風


  *


 翌日、よく晴れた土曜日の昼下がり。解放感に溢れたざわめきが週末のキャンパスに満ちていた。


 ロータリーから西に少し行ったところに、クラブハウスと呼ばれる二階建てのプレハブ小屋がある。部活やサークルの部室がずらり並ぶ、簡素な作りの建築物だ。その建物の二階南側、一番西の端の一室──開きっ放しのドアが、コンコンと軽くノックされた。


 扉に掛けられた『神話伝承研究会』のプレートが揺れる。ちィッス、と顔を覗かせたのはラフな私服姿のカラハだった。


「まだパパしか来てねェのか」


「おや、カラハ君。早いですね、てっきりナユタ君と一緒に来るものだと思ってたんですが」


 降ってきたカラハの声に、読んでいた本からパパこと寮生長タカサキ・ワタルは顔を上げた。カラハは手近な場所に腰を下ろすと、物珍しげに部屋の中を見渡す。


 八畳ほどの部屋の中央には長い会議机が二つくっつけて据えられており、その周囲をぐるり囲むように細長いベンチが設置されていた。左右の壁には天井まで届くスチール棚が並び、大量の本屋ら段ボールやらが雑然と収められている。奥にある南向きの大きな窓は開け放たれて、そこから流れる風がふわりと明るい色のカーテンを揺らしていた。


「あァ、俺は一旦マンション戻ってからこっち来たんだ。荷物とか洗濯物とかあったからな。なモンで別行動だよ」


 喋りながらも目ざとく見付けた灰皿を手に取ると、カラハはポケットから取り出した煙草を寮生長に掲げて見せた。パパは手の平で開いたままの窓を示し、そのジェスチャーに頷いたカラハは素早く窓際の席に移動する。


「随分と珍しいもの呑んでますね、それ近所で売ってます? 確か前はラッキーストライクだったような覚えがあるんですが」


 窓枠に肘を掛けたカラハが咥えた黒い煙草に火を点けるさまを眺めて、寮生長は本に栞を挟みながら柔らかく笑んだ。煙草を『呑む』とはまた時代錯誤な表現だな、と感じながらも深く吸った煙を窓の外に吐きながら、カラハは視線を遠くへ遊ばせる。


「駅前の商店街の煙草屋に置いてるんだ、こっちだと他じゃ見た事無ェ。そうだな、前は軽くなけりゃマルボロでもロスマンズでもJPSでも何でも良かったんだが、今後はこれに決めたかな」


 言いながらポリバケツを模した銀色の灰皿の蓋を取り灰を落とす。カラハは入り口付近の壁に掲げられた時計を見遣るが、集合時刻に指定された時間まではまだ二十分以上の余裕があった。


「で、パパは何読んでたんだ」


 カラハの問いに寮生長は持っていた本の表紙を持ち上げて見せる。古めかしく色褪せた、臙脂の布張りにタイトルと著者を箔押ししただけのシンプルな表紙。


「新大陸の神話や伝承が纏められた本です。アメリカやオセアニア辺りの話ですね」


「へえ、勉強熱心だな」


「いいや、……私は知らな過ぎるのでね」


 自嘲気味に笑う寮生長の言葉に、カラハは片眉を上げた。短くなった煙草を中皿で丁寧に潰し蓋を閉じると、灰皿を元あった場所に戻そうと立ち上がった。


「俺らも別に詳しい訳じゃ無ェぜ。多分、自分の得意分野以外の事はよく知らないなんて奴はザラだろうよ」


「ありがとう。でもそれじゃ駄目なんですよ」


 灰皿を置き振り返ったカラハの眼を、寮生長の視線が射る。口許には笑みを浮かべつつもその瞳におどけた様子は無く、カラハは黙ったまま言葉を待った。


「君達は実働隊です、ならば何も知らずとも極端な話、指示役の要求通りに動いて敵を倒せれば問題は無いかも知れません。──しかし私達のようなサポート役は違う。幾らデータベースが揃っていても、自らが無知では咄嗟の判断が間に合わない。その一瞬が手遅れを呼ぶ事だってある筈なんです」


 その真剣な声色に、カラハは寮生長の真向かいに位置する席に腰を下ろすと、腕を組み軽く目を伏せて口を開いた。


「アンタは、このまま『こちら側』に来るつもりなのか。アンタはそもそも一般人なんだろ? まだ戻れるんじゃねェのか、やり直せるんじゃねェのか。何でこちら側に身を置こうとする」


「……それは、多分親切心で言ってくれてるんでしょうね」


 寮生長は、ふふ、と軽く笑う。しかしその瞳に映る翳りは消えない。風が、二人の間をふわりと吹き抜ける。


「私には何も無いんです、全部無くなってしまった。だからよどんだ沼から脱したくて、自分をまっさらにしようと思って、ここへ来たんです、学生からやり直してみようと思ってね。──そこで見付けた新しいやり甲斐に、残りの人生を賭けてみるのは罪な事ですかね?」


 寮生長の過去に何があったかはカラハは知らないし、無理に知りたいとは思わなかった。だから彼の言葉をただそのまま受け留めて、ありのままに解釈する。カラハの薄く開いた切れ長の瞳に長い睫毛の影が落ち、整った顔の陰影を更に際立たせる。


「さっきのは、とんだお節介だったみてェだな。……自分で腹括ったんなら他人が口出しすンのは野暮ってモンだ、好きにすりゃアいい」


 カラハの言葉に、寮生長は表情を崩した。柔らかな笑みのまま、机に両肘を突き手を組んで笑う。


「感謝します」


「礼なんて言われるような事してねェさ」


「──私は君のそういうところ、好きですよ」


 カラハは何も言わず肩を竦めた。


 運動部や武道部系の練習の掛け声、部室から漏れる談笑、雅楽部や箏曲部の演奏、浪曲の歌声や詩吟──様々な音が大きなざわめきとなり、さざ波めいて風に乗り、緩やかに午後を渡って行く。


「ああ、そろそろ皆、来始める頃ですかね」


 時計を確認した寮生長は立ち上がり、栞を挟んだ本を戻そうと棚に歩み寄る。


 その時、開けっ放しの扉の向こう、廊下に二つの影が差した。


「失礼します。……あら、まだ二人だけしか来てないの?」


 涼やかな声が零れる。その二人を見た瞬間、カラハは片眼を見開き、寮生長は笑みを深くした。


 すらりとした黒髪ボブの清楚な女性と、その女性に隠れるように縋る明るい茶髪のショートヘアの少女。


 全くタイプの違う二人の美女が、入り口に佇んでいた。


  *


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