11 繰り返すもの①

 がたごと揺れる馬車のなかで、ヒューは年季の入った幌の一点をただ見つめていた。そこには何もない。つまるところ、彼は何かに対して見るという意識を向けてはいなかった。人間の目が顔に対して前を向くように位置しているからそこに視線を合わせているだけで、別に目を閉じても問題はなかった。

 思考を支配するのはヘルツリヒのことだった。離れていったあとは姿を見せることなくどこかへ行ってしまった。先に北端の町に帰ったのかもしれないし、残ったのかもしれない。しかしそれは重要なことではないとヒューは理解していた。大事なのはヒューが町に戻ること。そして話を聞くことだった。予感だけの無責任な物言いが許されるなら、悪いものが走っていた。具体的なかたちは取っていない。空を見上げて気持ち悪いかたちの雲が待ち構えていたときの気分に近い。まだ“なんとなく”がすべてを支配している状況だったが、しかしこういった予感の的中率は馬鹿にはできないものだとヒューは知っている。


 馬車を降りるといつもののどかな町がヒューを出迎えた。急ぐもののない、停止に近い町。世界のどこかで大事件が起きてもその余波が届くのはおそらくいちばん遅いだろう。ふいと視線を上げると行き止まりの壁のような山脈がヒューを見下ろしていた。

 初めにやらなければならなかった肉屋のおかみへの報告を済ませると、ヒューは静かな場所を探し始めた。馬車のなかで一定程度は考えをまとめていたが、心を落ち着けてさらに考えを整理するための時間が必要だった。一連の流れの登場人物を見定めなければならない。この町では分断が起きている。少数の参加者と大多数の部外者に分けられて、何かが発生している。


 ヒューが歩いているのは町の南のあたりだった。彼が探している人物が住んでいるのはこの近くのはずだった。出かけられていたら無駄足になってしまうが、おそらくその心配はない。ヒューには確信があった。彼は必要に駆られない限り外出を控えるはずだからだ。

 近くにいた住民にジェレマイアの住居を聞くと、苦くやり切れないような表情を返された。わざわざ彼のもとを訪ねようとする人間にいい印象を持てないのだろう。狂ってしまったと認知されている人物だ。そしてこの町の人々はやさしい。そんな彼に大丈夫だと言い聞かせて安寧を与えようとしている。新しい刺激は悪い影響になりかねないと考えているのだ。本人の認識とかみ合っているかどうかは別にして、それは動かしようのない事実だ。軽口は叩いても心配こそあれ、誰も排除の方向に動いてはいない。

 しかしヒューはだからといってジェレマイアを諦めるわけにはいかなかった。彼がおそらく自身にとってのキーパーソンなのだろうとヒューは考えていた。事態の中心にいるかはわからない。しかし彼とヘルツリヒのあいだには何かがある。その直感がジェレマイアを探させた。


 最終的に足で一軒一軒まわって探すことになったが、ヒューはジェレマイアの家を探し当てることに成功した。外観は他の家と取り立てて差はない。見える範囲の窓はすべてカーテンが閉まっていた。それ自体はヒューも同じことをしていたから違和感はなかったが、彼の事情を頭に入れてからだと違った理由があるように思われた。

 手の甲で扉をノックする。返事はない。再度ノックする。また返事はない。三度目のノックをしようと手の甲を扉に向けると、ドアノブがひとりでに動いた。


「な、なん、誰だよ、し、静かにしてただろ」


「ジェレマイア。覚えているか、ヒューだ」


「あ、あんたかよ、はは、前の冗談が、あ、あ、頭に来たのか」


 ジェレマイアは視線を合わせずに卑屈に口元をゆがめた。無意味に弱々しく挑発的なのは自衛のためなのだろう。完全に失敗していたが。

 視線と顔と首がせわしなく動いて、その仕草はヒューをも落ち着かなくさせた。


「お前、もしかして他人には見えない人間が見えたりしていないか」


「た、他人には見えない? そ、そんなの、いるわけないだろ。げん、幻覚さ」


 無理に唇の片方を上げた笑顔は強張っていて、それはどう見てもつよがりだった。擦りむいた膝のケガを痛くないと言い張る子どものそれと種類は同じだったが、彼のほうが悲壮だった。ジェレマイアはもう嘘をつくことができないのかもしれない。

 しかし彼が嘘をつけないものだとして、それでもヒューは次の言葉に神経を使わなければならなかった。口を閉ざすことはジェレマイアにも可能だからだ。混乱を防ぐためにヘルツリヒが人間でないことはここでは伏せる必要があった。


「ヘルツリヒを知っているな?」


「あ……、あ? なん、どうして、いや、違、だ、誰だよ、それ」


 一種のギャンブルだった。ヒューは予想を立ててはいたが、それは確信を得られない種類のもので、尋ねてみなければ真偽の判断のつかないものだった。ギャンブルに勝ったことで得られたものはジェレマイアがヘルツリヒを知っている、そしてヘルツリヒがほとんどの人には知られていないという情報だ。

 ジェレマイアの動揺は露骨で、それ以上の言葉を必要としなかった。彼の隠そうとする意志は完全に無視された。しかし彼の日常と比べるとどちらが幸福なのかは判断をつけにくいものがあった。


「お前、ヘルツリヒに何をされてるんだ?」


「ま、待てよ、あんた、あ、ヘルツリヒを知ってるんだな? ほ、本当だな?」


「ああ」


「え、どういうことだ、じゃ、じゃあ。……お、おかしいぞお前」


 思考と判断を巡らせたあとにこの言葉が出てくるのだ、ジェレマイアは狂ってなどいない。なにか衝撃的なものを通り抜けたせいで常に怯えているだけなのだ。そこにヘルツリヒの存在が抜き差しがたく関わっているとヒューは見ていた。


「ヘルツリヒを知っている人間は何かをされるという意味か?」


「ま、前も言ったろう。あ、あ、あんたなんていなかったんだよ、ずっと」


「……俺が二か月前に来たこととそれは関係がないのか?」


「は? この町に、そ、存在してなかったんなら、い、いる、いるはずないだろ」


 あまりにも要領を得ない。会話のステージが違うといった感がヒューにはあった。どこか前提の部分にずれがある。ヒューは自身の状況とジェレマイアが置かれている状況をすり合わせる必要があった。考えて頭がおかしくなりそうな案だった。現実のすり合わせなんてまともな生活では出てこない発想だ。しかし彼らは、おそらくという注釈がつくが、そのまともな領域に立っていないらしかった。


「俺がこの町に来ることはあり得ないことなのか? ジェレマイアの現実では」


「だ、だって、だってお前いちども来てないじゃないか」


「そうだ。いままで生きてきて初めて来た」


「ヒュー。あ、あんた、繰り返しの外の人間なのか?」


 繰り返し。ヒューは以前にもジェレマイアからこの言葉を聞いた覚えがあった。単独で名詞として扱われているということは、それそのものが意味を有するということだ。前に聞いたことを総合しなくとも、繰り返しがおそらく事象としてジェレマイアに降りかかっているらしいことが読み取れる。


「たぶん違う。ただ繰り返しってのは何だ? お前は何を体験している?」


「こ、言葉の通りだ。繰り返すんだよ、い、一年か? それくらいが」


 言葉の通りに受け取るならば、それはどこにも不思議な部分のない発言だ。一年が終われば次の一年がやってくる。どこだってそうだ。だからその当たり前の意味ではないのだとヒューは理解した。そうでなければジェレマイアの怯えた様子と言葉選びに説明がつかない。昨日今日明日が繰り返すという発言。そしてヒューがいることに対する驚愕。まさか現実とは思えないが、ヒューに導ける結論はひとつだけだった。ジェレマイアが狂ってしまったと言われても仕方がない。突然そんなことを言われて誰が信じるというのか。


「同じ一年を、繰り返しているのか?」


「そ、そうだよ。み、みんなその日に応じて、に、似たような動きをするんだ。か、か、完全じゃないけどな」


「それで俺だけがまったく新しくやってきたってことか」


「あ、ああ。あんた、ほ、本当にあっち側のにん、人間じゃないんだろうな」


「信じてくれとしか言えないが、本当に違う」


 自分で結論を出してその答え合わせをしておきながら、ヒューは混乱していた。何をどの順番で考えればいいのかさえ、それどころかその順番について考えることすらできていなかった。いま反響しているのは思考と呼べる水準にないものだった。どういうことだ、という文字だけがただ頭を周回している。絶対に前に進むことのない空虚な同じ言葉の浪費が続いていた。

 心臓の脈に合わせて脳の太い血管に血が多量に流れ込むのがわかった。直に触ればその動きがわかるほどに脳が軋むような感じがあった。最悪でもこれを落ち着かせてからでなければものを考えるのは不可能だった。なにかひとつのものを見続けることができなかった。次から次へと自分の視線がさまようのをヒューは自覚した。


 気付けばジェレマイアの家の壁に二人は並んで背を預けていた。外から見ればその光景はただ彼らが仲良くなっただけのことに思えるだろう。しかし実情はそうではない。不思議な秘密をつかんでしまった人間と、それを明かしてしまった人間だ。もう取り返しはどちらにもつかない。前に進むしかない、というほどの状況ではないが、それ以外の道はおそらくすべて心が壊れるものだった。それぞれの違いがあるとするならば壊れ方の差でしかなかった。

 走っても石を投げても何かに拳をぶつけても、現実はまったく動かない。体を動かしてすっきりすることから不可能だった。

 混乱が先ほどと比べてすこしは収まりを見せたヒューは、隣にいるジェレマイアを見た。彼はやはり怯えていた。ふとヒューの頭によぎったのは、自分もその繰り返しのなかに放り込まれたのではないかということだった。


「……ジェレマイア、教えてくれ。お前以外に繰り返してる人はいるのか?」


「知らない。で、で、でも、俺一人なんじゃないか? お、俺みたいなやつなんか、ほかに、いないんだから」


 たしかに町で噂になるほど目立っているのはジェレマイアだけだった。繰り返しが発生する条件が何か、ということを考えたときに最初に挙がるのがヘルツリヒの存在だった。だからヒューは自分もそこに置かれた可能性を考えたのだが、そのことを納得できるように説明しようとした場合、最低でももうひとりはヘルツリヒの存在を知っている人間が必要だった。

 ひとり、思い当たる人間がいた。

 この町は大きくない。ほぼすべての住民がお互いの名前を知っているだろう。大事なのはジェレマイアもそのつながりのなかの一人ということだった。彼も町のみんなの名前を知っているのだ。


「ジェレマイア、ポーシャを知っているよな?」


「あ、ああ。あ、いや待てよ、お、おい、なんであいつの名前が出てくるんだ」


「知り合いなのか?」


「まあ、ちょ、ちょうど、それぐらいだ。し、しばらく話してない」


 ジェレマイアは語尾がしぼむほど気落ちした。昔は仲がよかったのかもしれない。しかしそのことはいまは大事ではなかった。優先されるべきは彼女もヘルツリヒを知っている可能性があるということだ。ポーシャが繰り返しを経験しているのなら、そのことは推論を一歩進める材料になる。


「ポーシャが繰り返しているかもしれないと思ったことはないか?」


「……ヒュー、あ、あんた、本当にな、何を言ってるんだ? お、おお俺みたいになってるやつは、ほ、ほかにいないし、それに」


「それに?」


「あ、あ、あいつが、し、し、死ぬ日が最後の日なんだぞ」


 これまでのジェレマイアとの会話のなかでいちばん舌がもつれた。吃音との区別がつかず、声は震えて上ずった。そのなかにどこか詰めるようなニュアンスが混じる。不謹慎なのだ。ジェレマイアにとっては。繰り返しの終点の日の最大の出来事がそれであることに彼は心を痛めている。正しいそれかどうかは別にして、見方によっては何度も死に続けているとも取れるのだ。もちろん彼が繰り返している一年のあいだに死んでしまう人も同じだ。


「あの子は死ぬのか」


「びょ、病気だ。治らなかったんだ。え、絵を、絵を完成させて、最後に」


 まるで言い訳のような言いぐさだった。誰も何も言っていないのに強く叱られている子どものようでさえあった。視線は下げられて、とても目を見て話すなんてことはさせてくれそうにない。奇妙にも思えるジェレマイアの反応は、しかし妥当なものだった。彼は、繰り返しているのだ。

 そのことに思い至ったヒューはジェレマイアに聞かなくてはならなかった。しかしそれを上手に言葉にして聞ける気がしなかった。

 だからヒューは地面の上で視線をさまよわせ続けているジェレマイアの肩に手を置くことしかできなかった。それを受け取ってもらうことしか思いつけなかった。


「は、は、話せるわけないだろ。病気で、し、死ぬから、き、気を付けろなんて」


 返せる言葉がなかった。想像力の欠如。ずっと苦しめられてきたそれは、ヒューの生涯にわたって影響を及ぼすらしかった。すこし考えればわかりそうなことだった。死ぬ未来を忠告しにくる人間なんてろくなものではない。信じても信じなくても、聞かされた人間は良い気分はしないだろう。誰がそんなことを告げられるというのか。

 引いたのは頭痛だけで、まだ混乱は続いていた。ヒューは何から話すべきなのかをまだ見失っている。掴めたのはジェレマイアが繰り返しに巻き込まれていることと、ヘルツリヒの存在が限定的に認識されていることだけだった。


「……ヘルツリヒ。そうだジェレマイア、俺を除いてお前だけがヘルツリヒを知っている。そしてお前だけが繰り返しに遭っている」


「あ、あ、待てよ、じゃあ、あんたが、あ、新しく繰り返しに?」


「ポーシャがヘルツリヒを見ている」


 ジェレマイアの問いかけをまるごと無視して、ヒューは混乱のなかでつなぎ合わせた最大の問題を投げた。おそらく今度はジェレマイアにとって処理しきれないほどの情報が流れ込んできたのだろう。幻覚であってほしかった存在の、他者による証明。彼の精神を壊しかけている現象とそれの関係の可能性。その現象が自分以外にも影響を及ぼしていると仮定しての、その意味するところ。ヘルツリヒが意志を持つ存在ならばそこには目的があり、そのために繰り返しが起きていることになる。

 目だけを大きく開けて、体の他の部分には力を入れることができないようだった。あらゆる実際的な対応の前にショックから抜け出ることをジェレマイアは選択しているらしかった。それが個人の思考の末の結論なのか、あるいは反射に近い本能的な肉体の返事なのかはわからない。彼は彼だけの意味も目的も判然としない地獄を歩いていたはずだったのに、その前提が途端に崩れ始めたのだ。それも被害者がほかにもいるという、なかったはずの可能性を引き連れて。

 隣でぶつぶつ呟くジェレマイアを横目でちらっと見てヒューは申し訳ない気持ちになった。しかし話を始めたからにはそのことを詫びるわけにはいかなかった。立場と言えばその通りなのだが、自身の正当性を主張するためではない。こうなることがわかっていて彼がポーシャの話題を出したのはそれが必要だからだ。避けてはいけない道を進むのに謝ってはいけない。後ろに退く口実になってしまう。だから彼は言ってはいけないことは言わない。ただし悪いのは全面的にヒューなのだ。


「……あいつ、あいつ、し、死に続けてるのか?」


「断言できることはひとつもない」


「だ、ダメだ、ダメだろそんなの。た、助けないと。でも、クソ、ど、どうやって」


「まずはポーシャに話を聞くつもりだ。お前の事情と何か違うかもしれない」


 はっとした表情でジェレマイアはヒューのほうへと振り向いた。ジェレマイアにはずっとできなかったことを、要はポーシャに対して死にまつわる話を聞くと言われたのだ。自然な反応だろう。ヒューのその意思表示は返答を求めていた。


「お、お、俺には、できない。無理だ」


「わかった」


「い、嫌になる。卑怯、卑怯者じゃないか、俺は」


 ヒューに言えることは何もなかった。

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