白い森

箱女

01 ヒュー・ジェニングスと西の森

 ヒュー・ジェニングスは三十八歳になった。

 若いころにあまり美味いと感じなかったものを味わう忍耐と、その結果として抱く感想を振り返ったとき、彼は年齢の積み重ねというものを強く意識した。老けたと表現するのも間違いではないが、芯を食っていない。もっと主体であった十代や二十代前半の時代と比べて、ある時期を境に相手にゆだねる部分が増え始めた。ゆっくりと、しかし確実に。やすりで爪を削ればしっかりと白い領地が減っているように。

 身一つの根無し草を続けることが要求するものは多かった。体力だけでは足りず、知識があってもまだ不満な顔をした。経験を求められ、柔軟性を搾り取られ、果ては幸運が必要だと意地悪を言った。

 限界はまだ先にあったが、肉体はゆるやかにしぼんでいくのがヒューには誰よりもよくわかった。疲れもあった。だから彼はいまの生活をやめることを決めた。


 目的を定めた旅は面白いものだった。奇妙なもので、なぜか寛容になった。余裕が生まれた。野に咲く花を眺めるために足を止めることができるようになった。むしろあてのない旅のほうがそういった価値を持つ無意味に対して心の空白を開いておけるのではないか、と彼自身でも不思議に思うほどだった。決心してから日に日に許せる対象が増えていった。

 ひとつところに住むことこそ決めたが、どこでもいいわけではなかった。できれば規模のあまり大きくない町や村がよかった。土仕事と狩りで生きていけるような環境がほしかった。人並みに友人は好きだったが、騒がしい街並みは落ち着かないという理由であまり好きではなかった。だから求める町や村探しは難航したが、しかし条件に合う土地を探して方々を回ることそのものを彼は楽しんだ。

 星を見た。花を見た。青々と茂る草原を、つつけば崩れそうな乾きかたをした荒野を、晴れ渡る空を、ただただ遠くにある山脈を見るともなく見た。日ごとに空気の色が変わった。あたたかい雨があった。冷たい雨もあった。踏みしめる地面の感触に違いがあることにはじめて気付くことができた。どうしてこれまで何も感じなかったのだろうとヒューは不思議に思った。

 おおよそ一年ものあいだ旅をして、彼はやっと頷いた。


 地図で見ればその町よりも北と西にはどの規模の集落も存在していなかった。北は山脈がそれ以上の進入を阻み、その向こうにはわずかな森林地帯を挟んで海が広がっている。西はただただ深い森に塗りつぶされていた。いっそ地図の正確性を疑いたくなるほどに広大で、逆に遠く離れた海岸線の輪郭のほうがたしかな骨格を示していた。果てと言われれば首を縦に振るところに位置する町だった。

 なんとなくよさそうだ、という自分の感覚にヒューは従った。決して一目惚れではない。彼は一目で気に入るという感覚を信じていなかった。他人がそう主張することは否定しないが、自分にそれが起きるとはちっとも考えていなかった。だから、彼はまだ町が気に入ったわけではない。そういったものは中に入ってはじめて決まるものだと思っていた。

 入居の交渉は思いのほか早く済んだ。町長に話を聞きに行くといくつかの空き家を案内されて、彼はそのうちの西の外れのほうの家を選んだ。あまり新しくはないし、すこしガタが来ている部分もあった。町に出て買い物をするにも多少は距離がある。しかし彼の求める静けさと、土いじりをするためのスペースが十分にあった。家そのものの広さも必要はない。彼は独り身だったから。


 定住するのだと思うと気分が不思議なものになった。これまではずっと宿か野宿、場合によっては居候のような立場だったから、ついぞ明確な自分の場所というものの経験がないのだ。ずっと疎外感を抱いていたわけではない。ただ急に知らないものを手につかんでその感触に戸惑っているだけなのだ。きっと人間に突然に翼が生えたら似た反応をするだろう。いずれ馴染むが、いまはまだそこに至らない時間だった。

 いちばん近い家まで五分は歩く必要があって、そのせいか隣の家という感じはしなかった。そこからはすぐに町と呼べる建物の密度で、ヒューの家だけが例外的に外れていた。

 町の通りは石畳の部分もあったし、土が露わになった部分もあった。ちぐはぐな、というよりは未完成な印象を受ける。しかしこの通りが石畳で埋まって完成する図は不思議と描きにくかった。出来上がっていないのにそこで終わりであることが妥当なような気にさせた。そこには意図的でない空白を残した絵画を、だからこそ称賛するようなグロテスクさがあった。


 家の具合を整えて、仕事に取り掛かれる状況を作った。しばらくは何もしなくとも生きていける程度の金子を握ってはいたが、ただ呆けて日が昇って沈むのを見ている生活は怖かった。彼はまず最初に町長のところへと足を向けた。

 また話はするすると進んだ。ヒューがしたいと言った仕事は狩りと言えばいいのか猟といえばいいのか、野生動物の肉や毛皮を獲ってくるものだった。町長は小言さえなく容認した。それどころか町に住む同業の者と顔合わせができるように夜に酒席を手配さえしてくれた。それはヒューにとって望外の幸運だった。大して人口の多くない町だ、猟師も同様なのだろう。その面々と顔を合わせて事情のすり合わせや情報交換ができるのは願ってもないことだった。


「北の山裾の森でシゴト。これだけだァな。別に決まった猟場とかもねぇよ」


 わざとっぽく行儀悪く座った男は注文した酒に手をつける前に口を開いた。面倒な話を先に片づけたいと思ったのかもしれない。年季の入った指をしていた。皮膚の厚そうな色と質感だった。


「西の森は使えないのか?」


「言葉は合ってるが意味が違う。許可が出ないんじゃなくて生き物がいねぇんだ」


「生き物がいない? そんな森があるのか?」


「気になるなら自分で確かめな、入っちゃいけない決まりもねえしよ」


 しなければならない話は終わったとばかりに話をした猟師が酒をあおった。

 それからは酒の席というよりも食事に比重が置かれた場になった。席についたのは三人。ヒューと話をしてくれた先輩猟師ともうひとりだ。もうひとりは無口かどうかわからない。口を挟む隙間がなかっただけかもしれない。


「北の森には何がいるんだ?」


「珍しいのも含めりゃいろいろいる。ただ狙い目としちゃうさぎか鹿が中心になるだろう。イノシシもアブザもいる。いい毛皮が狙いならキツネかシロオオカミだな」


「アブザ?」


「この辺にしかいないやつさ。肉質が面白い。料理の心得があるやつに渡せば美味いものに生まれ変わるが、それができるやつは少ねえ。希少だからいい値するぜ」


 ある程度時間が経つととくに話をしていたわけでもないのに気安い感じが生まれていた。彼らは生業を同じくするものであり、それは大きな共通点だった。まったくの初対面どころか、ある意味では友人よりも深く理解できるポイントをはじめから持っているようなものだった。

 彼らの食事は職業のイメージとは違って、特別に荒々しいわけではなかった。たしかに上品とは間違っても言えないが、だからといって野生の動物を思わせるかと言われるとそうでもない。上品、平均、野生動物の三本の線を引いて、平均よりはすこし下といった具合の振る舞いだった。町の酒場で咎められるようなものではない。


 酒も入るとより滑らかに会話は進んだ。猟という共通の話題があると話が弾んだ。三人ともがくだらない失敗の話をして笑いあった。この町の、というよりは先輩二人のスタイルも聞くことができた。罠と弓が中心とのことだった。それはヒューと変わりのない戦い方であり、さらに打ち解けることができた。

 猟師によくみられる傾向と同じように、彼らの性格はカラッとしていた。ひとつの獲物に執着しているようではいけないからだ。逃げられて追いかけるようでは下の下というもので、深追いは命の危険を連れてくる。死んだ猟師は何があっても決して褒められることはない。幻の大物よりも手ごろな現実が評価される。幻は食べられず、加工もできないからだ。

 彼らは毛皮と肉の卸先も教えてくれた。この町は近辺では最も北にあるから氷室もあるようで、肉はあまりにも多すぎる量でなければ大抵は引き取ってくれるとのことだった。相場は日によって変わるから、数日おきに確認するといいとのアドバイスもあった。ヒューはまず明日にでも店に顔を出してみようと思った。

 二人はそれぞれコーリンとロブと名乗った。年嵩はどちらもヒューと大きくは変わらないといった感じだった。後継がいなければいずれ猟師が消滅しそうに思えた。

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