02 ヘルツリヒ

 翌朝は透き通るような空気だった。北は空気が澄む。森が近いこともあって、より静かに少ない湿気が地面に沈んでいった。家から出てすぐ見える森は西のものだが、奇妙なほど音がしない。風が吹いたら葉がこすれるはずだが、それでもしんとしていそうな気がした。

 ヒューはまず家からほど近いところにある西の森に入ってみることに決めていた。仕事はいつ始めてもよかったし、それよりも先に生物がいない森というものを体験してみたかった。もちろんそれはこの村独特のユーモアなのだろうと彼は解釈していたが、実際に行ってみないことには何も言えない。わかりやすい話のタネだ。西の森を見なければいいから行ってみろと言い、西の森に行ったと知れば本気にしたのか、とからかうことができる。ずるい会話の技術だ。


 森はただ深く、しかし人が踏み入ることを拒まない密度だった。木々の位置取りは乱雑なものだったから道らしい道はない。あまり入り込むと方位磁針がなければ出て来られなくなるかもしれないと思わせた。木に注目するとどれも背が高く、手を伸ばしても葉まではまるで届かない。かたちを見ると針葉樹らしい。幹を覆う樹皮はぱりっとしていて、冷たい空気を遮断する役割を持っていそうだった。材木として使えそうにも見えたが、ヒューは専門ではないため判断を下すことはできなかった。

 家から出たときにも思ったことだがやけに静かだ。森で? とヒューは足を一歩だけ踏み入れて立ち止まった。風がないのはたまたまにしても、鳥も虫も鳴かないことがあるだろうか。いま音を立てる主体はヒューひとりに限られていた。なかなか手の込んだ冗談だった。こんな不自然な自然があっていいはずがない。ぞっとする。森はこの状態こそが正常なのだと言葉にせずに主張していた。

 ヒューはそれ以上奥へと足を運ぶことができなかった。あと一歩でも進めば、森のもっと深いところからつるが伸びてきて絡めとられてしまう気がした。なにか大きなものがあるんじゃないか、という考えがいつの間にか頭に浮かんでいた。そこに自分が神聖なものを見るのか邪悪なものを見るのか、あるいは予期さえしないものを見るのかの想像がつかなかった。あるのは唾をのむような緊張感だけだった。

 たった一歩踏み込んだだけの森の縁で情けないと自身で思わないでもなかったが、彼にとってそれは大事なことではない。次の一歩から要求されるのは精度を著しく落とした勇気だ。そしてその呼び名は褒められたものではない。自分の家がこの森にいちばん近いことに彼は気味の悪さを覚えた。


 ヒューは明るくできない気分を抱えたままで、これから世話になる卸先の肉屋にあいさつに向かった。筋としてもそうだし、相場の調査としても正しい順番だ。

 これまでいくつもの場所を旅してきた彼の経験上、食品を扱う店は朝早くから営業しているものだった。だからヒューは森から退いたその足でまっすぐ町へと歩いて行った。本格的な活動が始まる前の町の姿が見えた。こういった光景はどの町でもだいたい変わらないものだ。洗濯物が干してあって、それがはためく。井戸から水を汲む姿が見られる。煙突があれば煙が引っ張られるように空へのぼっていく。

 肉屋は町の中心からすこしだけ離れたところにあった。しかしどの家庭もここへとやってくるのだから、範囲としてはここも中心に含まれるのだろう。雨の日の対策のために庇が出張って、その上に看板が乗っていた。住居としての家とはかたちが違うのに、違和感なく町並みに馴染むのはどうしてなのだろう。それとなく看板を眺めるとペンキの剥落が目についた。視線を落とすと、やはり店はすでに開いていた。

 せわしなく動いて掃除をしている中年女性と、軒先で退屈そうにしている少女の姿が目に入る。肉屋にしてはどちらもあまり体に肉がついていない。中年女性のほうに関して言えば年齢を加味すると違和感が残るほどだ。


「もし」


「はいいらっしゃい。……おや、初めましてだね」


「ああ。コーリンとロブの紹介で来た。ヒューだ」


 すぐに知人の名前を出したことで反応が穏やかになった。そして猟師仲間の名前が出ることで同時にヒューの目的が明らかになった。お互いに商売相手になるのだからいい関係を築きたい。その思惑はすぐに一致した。


「そうかい。まあ聞いてるとは思うけど、あんまりたくさん獲ってきても買い取ってやれないから量は調整しておくれ。どのみち相場が派手に動くことは少ないしね」


「わかった。加工の程度については?」


「気を悪くしないでほしいけど、立場として可能な限り私らに任せてほしい。あんたの技術も知らないからね、それなら私は自分を信じるよ。客もいることだから」


「生け捕りを念頭に置くようにしよう」


 食中毒のような被害を出すわけにはいかない店側が譲れないのは仕方のないことだった。誰が肉に手を入れても店頭に並べば区別はつかない。どちらも専門家で、出るべきところと引くべきところをわきまえていた。ましてや初めて顔を合わせたばかりなのだ、わざわざ一般的な論理から外れたものを押し通す意味もない。この場の場合ではヒューに食肉加工が可能かどうかは焦点にない。

 壁に紙が貼ってあって、そこに取り扱っている食品が書いてあった。重さ当たりの代金も併記されている。場所によってこれらの値段はころころ変わる。この町は他のところと比べて安価なほうだった。肉が手に入りやすいということだ。たとえば巨大な都市レベルの街では肉はここよりもずっと高価なものだった。人数比と食肉の確保のしづらさがあいまってそうなっているのだ。保存食にするための手間が必要だということもある。

 せっかくなのでヒューは燻製された肉を買ってみることにした。退屈そうな少女に聞いてみると対応してくれた。空腹が理由ではなく、自分の仕入れる先としての店がどんなものを出しているのかに興味が湧いたのだ。薄く手のひらくらいの大きさしかない。歯を立てて手で引っ張ってみると多少の抵抗があってから、切れ目がそのまま伸びて噛み切れた。すっかり水分の飛んだ肉は固く、噛んでいると唾液がどんどんと出てきた。香りは知らないものだ。そもそも燻製肉は単独でそのまま食べるものではないから、ヒューはすこしつらくなってきていた。顎が疲れてきていたし、口の中に変化が欲しかった。可能なら酒が飲みたいのだが、朝早い肉屋でそれも妙な話だ。

 ゆうに三分の二以上を残した燻製肉を片手にヒューは店を後にした。通りに出てみると町に活気が満ちていた。それほどヒューは肉屋にいたわけではなかったが、そのわずかな時間に劇的な転換点があったらしい。不思議なことに、そこではじめて朝の匂いがした。

 通りの幅は広いからどうなることもないのだろうが、ヒューは邪魔にならないように道の端に寄った。そうしてすこし右を眺めてから左に目をやった。人々は活動していたが、まだまだ多くが個人個人の世界に終始していた。本格的に人間らしさが見えてくるのはもうすこし先のようだった。こうやって風景を眺めるのも悪くはなかったが、彼はいちど家に帰ることに決めた。今日のうちに北の森も見ておきたかったからだ。そのために軽い準備をする必要があった。

 しかしあの町の外れの家に向けて三歩踏み出すと、後ろから声をかけられた。


「おじさん、お肉好きなの?」


 振り向くと少女の姿があった。年のころはついさっきの店の退屈そうにしていた子と似たようなものだ。成長の過渡期としか言いようのない限定的な年代。水に墨を垂らしたときにできる不均一な模様が手足を生やして歩いているようなものだった。

 初対面の儀式のようなものを飛ばしているのに、ヒューは変な馴れ馴れしさを感じなかった。


「好きだが、朝イチで燻製肉を買いに走るほどじゃあないな」


「手に持っているものは?」


「もののついで。コミュニケーションの構築とか、そういうのが中心だ」


 長い髪を揺らして少女は首をかしげた。地面に対して角度の浅い朝の光が、それに反射して一本一本の太さを変えているように見える。波を打って毛先が音を立てるように跳ねた。ヒューは目をこすった。

 透明な青がふたりのあいだを満たしている。空とも海とも違う。細い糸を張ったような音が耳の奥でしている気がする。


「朝は好き?」


「ああ。時間が早ければそれだけいいと思う」


「私も」


「あんたは?」


「ヘルツリヒ」


「珍しい名前だな。聞いたことがない」


「地域差もあるんじゃない? とはいえ私も私以外に聞いたことないけど」


 今度はヒューが首をかしげた。ヘルツリヒはそれを何も気にしていないように見ていた。彼女には不思議そうに思われていることよりも、もっと優先するべきことがいくつもあるようだった。あるいはその人生のなかで慣れてしまったのかもしれない。彼女は待つことでヒューの消化を待った。そこには余裕さえ見て取れる。年齢の差がひっくり返ってしまったような気さえした。

 ヒューは最後には納得が控えていることを理解してはいたが、それでもたっぷりとその疑問を眺めた。意味などないのに枯れた巨木を眺めているのと似ていた。欲しい答えははじめからないのだ。そのことを受け入れるのにかかる時間は人によって違っている。早い遅いの基準さえない。


「俺はヒュー。この町に来たばかりだ。よろしく頼む」


「その言い方だと住むってこと? 珍しいね、こんな果ての町なのに」


「人によって求めるものは違う。俺はここにそれを見つけたんだ」


「ふうん。それならいいけど。これからよろしくね、おじさん」


 それだけ言うとヘルツリヒは踵を返して行ってしまった。自分のテンポで会話を進めるタイプのようだった。そしてそのことに対して何も思っていない。当然だとさえ考えていない。いちいち息をするのに思考を必要としないように。

 ヒューもとくに思うところはなかった。それどころか声をかけてもらった点で言えば喜んでいたくらいだった。昨日の酒場でもそうだったが、排他的な対応をされるよりもずっといい。新しく来たよそ者に対する無意識的な壁を取り除くのには、時間に頼るしかない。すくなくとも優れた対人コミュニケーション能力を持たないヒューにとってはそれが結論だった。

 ヘルツリヒがどこかの角を曲がって姿を消してしまうと、朝が進んだ気がした。

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