03 絵描きのポーシャ
軽い装備だけを調えて、西端の彼の家からそのままぐるりと北の森に向かう。変な感じがしたのは森からは何も聞こえないのに町からは鳥の声がすることだった。いつの間にか常識が逆転してしまったような気分になった。世界中で家を屋根から作るようなことになっていれば違和感がなくなるかもしれない。誰も聞いていないのだから誰も笑ってくれなかった。
境目は線が引かれたようにはっきりとわかった。森に沿って歩いていると、とある地点で立ち止まらざるを得なくなる。森に正対して向かって右には命の匂いがあり、左にはそれがない。その境が何によるものなのかはまったくわからないが、とにかく事実としてその区別がある。間違えようがないのだ。空から幕でもおろしたかのように、獣の糞尿などの臭いの有無が分かれている。とても説明などつけられそうもなかった。彼がこれまで体験してきたすべての場所でこんな現象になど出会ったことはない。扉を閉めていたってどこかから料理の匂いが漂ってくるもので、あり得るかということよりも、あっていいのかという方向に思考は傾いた。
まっすぐ見つめても森は何も答えない。ヒューは一歩後ろに下がった。そしてもう少し北を目指して歩を進めた。
町の北へと向かう街道をそのまま抜けるとぶつかる森は山脈を背にしていた。山脈があればどこかに川があって、たどればそれが生命の根源だ。水がないところには何も栄えることができない。その規則にしたがうと、川は多くの場合は条件であり理由でもあった。
不確かでいびつな稜線をした山脈は、地図上の位置も手伝って行き止まりという印象を与える。無理に乗り越えたって何もない。見ただけでそう思えた。
一歩踏み入れると土がやわらかかった。動物だけではなく、虫も植物も生命活動をまっとうしていることがそれだけでわかる。歩くのに体力を使う土だ。冬が近づけば霜もおりるだろう。強い森だ、ヒューはすぐにそう思った。
木々の印象は西のものとそれほど変わりない。違いはくだものの生る低木があるかどうかくらいのものだ。それがむしろ不思議だった。西の森に生物がいない理由にはなりそうだが、果たしてそれが正当な理由になるかどうかというとヒューにはいまひとつ自信が持てなかった。
実際には葉の色は緑であり幹は濃いブラウンであったが、その森のイメージは灰をふくんだ青だった。空気感や霧、そういったものが勝手に森に色をつけていた。自然特有の、ある程度は人の進入を拒む雰囲気もその一助になっている。
ふくろうが鳴いた。姿は見えない。野生のふくろうがいる森はそれほど多くない。そのことがなにか特別な事象の証拠になるわけではないが、ヒューの経験則で言えば豊かで穴場があるということになる。猟師からすると最高の条件だ。あとはそれを探すことができれば両手をあげて喜ぶことができる。期待を持てるというのは精神的に重要なことだ。なによりヒューはこれからこの町に住むのだから、今後に良いと思えることはすべて歓迎だった。
一時間近く位置を確かめながらヒューは北の森を歩いた。地図上でも果ての位置にあり、そこよりも先に人が住もうとしなかった森の全貌はさすがにつかめなかった。あるいはヒューの先輩にあたるコーリンとロブでさえ把握していないかもしれない。広さもさることながら、たった一時間の探索で入り組み隆起した地形の影響で進むのが困難なポイントがいくつか確認された。となれば全体で考えればその数は何倍にも膨れ上がると予想され、実質的に踏み込めない場所もあると考えられた。その場所に無理をして行く意味と生命の危機を天秤にかければ行かないことを選ぶのが当然だ。未知の場所は未知の場所でいいとヒューは考えていた。野生動物たちだけの安全地帯があったって困ることはないのだから、と。
森を出て縁に沿って歩くと町につながる道にぶつかった。つまり町から見てここがおそらく真北にあたるのだろう。この道順も必要なものだ。自宅と町と北の森との三点をつないで生まれたどの三辺も使うことになる。目的によってそれが変わる。
踏みしめられ続けたことで固くなった黄土色の地面と、その脇に草地が続いた。絵でのどかな山裾の自然を描くなら、という風景に思える。人々の呼吸も目をこらせば看取できるというのが重要な点だ。誰にも描かれていない空想の絵についての解説をしながら歩いていると、そのうち町の北端の家が見えてきた。
北には山と森しかないせいで、そちらから町へと向かう人間は極端に少ない。その意味でヒューがいま見ている、南へと向かうという景色は珍しいものだった。町でいちばん目立つ風車が遠かった。
多くが農業に従事しているこの町では、目を覚まし活動する時間が早いように見受けられた。それは食料品を別にすれば、その時間には店で買い物をする人間が少ないということで、嗜好品の部類に入る商品を扱う店は営業時間を遅めにずらしていた。ヒューが町に帰ってきた時点ではたとえば服飾店は開いていなかった。
ヒューはこれまでの人生でいくつも町を巡って来たが、それが大きな都市であればあるほど他人に対して無関心になる度合いが大きくなるというのが彼の学んだところだった。ひっくり返して彼が住むことに決めた大陸の端のこの町は、やはり他者に対しての関心が強かった。北の森の探索を終えて町を行く道すがらでも、知らない人からあいさつされ声をかけられ、肩まで叩かれた。流れるように一方的に自己紹介をしてよろしく、と片手をあげて通り過ぎていった者もいた。もちろん顔も名前も憶えられていない。ヒューは新しく訪れた場所で知らない顔を何十も連続で見せられると脳が負担に思うらしかった。その夜になってみると見たはずの顔をひとつも思い出せないという経験を何度もしていた。今日もそれだった。
何の気なく右に左に視線を飛ばして町の風景を眺める。木造にレンガ造りの部分があって、それが高く伸びている。北にあることを考えれば暖炉で間違いない。理由を同じくしているのだろうが、どの家屋も壊れた箇所はない。修理はできる限り早くに手を打つのだろう。家の中で凍死してしまったのではその存在理由がかなり揺らいでしまう。雪は降ると思われるがどの程度降るのかはわからない。北の果て。もしかするとかなり降るのかもしれない。森の雰囲気も雪が似合う。雪を落とすために屋根はかなり鋭角に作られ、どのように大きく作られた家屋でも三角屋根にして平らな部分ができないように設計されていた。しかしヒューはそこには気付かなかった。
個人的に設定していた食事の時間まではまだすこしあるから、という理由でヒューは町の散策をすることにした。町の仕組みは知っておくべきことに分類されることがらだ。もちろんこの一回で覚えようというものではない。そういう記憶が得意な者もいるが、ヒューはその種類の人間ではない。地道に積み重ねて理解を定着させて、そうしてから町に馴染む実感を得る。居を構えただけで自分の町だと思うのは難しい。
顔合わせと呼べるのかもあやしいすれ違いざまのあいさつをいくつも挟んで時間は進んでいった。ヒューからは見えないところで誰かが鼻歌を歌っているらしかった。聞いたことのないもので、地域に伝わる民謡のようなものだろうと彼は推測した。すこし眠気を誘うような穏やかな歌だった。きっと春の歌だった。
この町ではレストランは夜よりも昼がもっとも盛況になる時間のようで、あまり数の多くないそれらの店はどこも席が埋まってしまっていた。店側と客側でどういった了解がなされたのかはわからないが、皿を持って外の地べたで食べている者も見られた。しかしそれを奇異の目で見る町民もいない。ヒューの持っていた常識とはすこし違っているようだった。とても真似する気にはならない。
入店の列に並んだのも二十分やそこらで済んだ。ここからさらに一時間外で待っていろと言われたら多少はげんなりしたかもしれないが、そうはならなかった。店内へ連れられていくあいだに相席でも構わないかと聞かれ、ヒューはそれを承諾した。断られることを考えていない提案の仕方だった。おそらくこの町で相席を断るのはよほど限定的な組み合わせだけなのだ。それ以外は気にすることもない。雑といえば雑ではあるが、効率的という見方もできた。
ヒューの案内された席にはウェーブヘアの陰気そうな女性が先客として食事をしていた。スープを運んでいたスプーンを皿に戻して、のろのろと視線を上げて目礼をした。ヒューもそれに同じように返して、店員に適当におすすめを注文してから椅子に腰を下ろした。
座るとすぐに目についたのが彼女のエプロンだった。レストランにエプロンを着てくるのも妙な話だが、それ以上にとんでもない汚れ方をしていた。誰であっても一目で彼女が何をしていたのかがすぐにわかる。
「油絵を描くのか」
「えっ? あ、え、私ですか? ええはい、まあ」
声をかけられると思ってなかったのか、糸で引っ張られたように頭をあげて、驚いたように返事をするとすぐにまた視線を下に戻した。人と話すことの経験が不足していそうな恥ずかしがり方だった。そうかと思うともう一度ヒューの顔を見た。意味の違う驚きがそこにはあるように見えた。目を見開いて、目撃した、なんて言葉が似合うくらいの強張ったものだった。手遅れだったがそのことに気付かれたくないかのように彼女はまたすぐに顔を伏せた。ひとつ乾いた咳が入った。
「何を描くんだ?」
「風景画でなければいろいろ」
絵画という大きな括りがあって、その中で風景画はぱっと思いつく位置にあるものと言えるだろう。ヒューはそう考えていたから疑問に思った。この町から見える山や森は絵の題材としてじゅうぶんに耐えうる素材だと考えたからだ。むしろここで絵を描くのならそれらを取り扱うべきではないかとさえ思ってしまう。
表情に何らの変化も見せないところを踏まえると、冗談の類ではないことがよくわかる。彼女にとって口にした言葉は嘘でもなんでもないのだ。
「俺はここらの景色はきれいだと思ったんだが、そうでもないのか?」
「景色はきれいなんじゃないですか?」
「それでも描くことはしない」
「はい。私は風景画では何も表現できないので」
そういうものか、とヒューは納得することにした。
それほど待たずに昼食が来て、ヒューは食事を始めた。前に座る画家の女性は食べるのが遅く、まだ済んでいなかった。
対象として間違っているのかもしれないが、朝に食べた燻製肉と比べるとたしかに味わい深さに差があった。人の手による調理は特別なものだ。絶対に自然には生まれない。そう考えてみれば人間の生活はことごとく自然には形成されないものにばかり囲まれている。ヒューは鼻に入ったほこりを押し出す程度にちいさく鼻で笑った。
店内はざわついている。考えてみれば当然だ、いまは昼食の休憩時間なのだから。日々のくだらないことや何度も何度もしている話でもないよりは楽しい。それが友人であり、仲間だった。ひとりが好きな人物ももちろんいるだろうが、彼らは騒がしさの前では背景になることしかできない。いるだけで音量を下げる能力は人にはない。さてその前提に立ってみると、ヒューは意外だなと思った。目の前の彼女の声が大きかった印象はないから、かき消されずによく会話ができたものだと。
画家はヒューよりもすこしだけ先に食事を終えて席を立った。カラフルに意図なく絵の具のついたエプロンをした彼女は異質な存在感を放っていた。周囲の客も一度は目を奪われた。しかしすぐに納得すると雑談に戻っていった。どうやら画家は日を問わずに似たような行動を取っているらしい。ヒューは彼女がどんな絵を描いているのかが気になった。
遅れて食事の済んだヒューは席についたまま一息をついていた。いまは時間に追われていない。窓から見える景色はのどかなもので、太陽の光に触れることができて、そのうえそれがやわらくても許される世界だった。町角で意味もなくひとりで笑っていても見逃してもらえそうだった。
料金の精算に向かうと、また自己紹介があった。この町の住民はお互いに全員の顔と名前を一致させているのかもしれない。規模で考えれば不可能ではないし、何よりヒューに対して新しくやってきた人として接する人物しかいなかった。
「はい、たしかに。今後ともごひいきに。サービスは期待しないでよ」
「ところで」
「なんだい?」
「さっきいた画家はどんな絵を描くんだ?」
「ポーシャちゃんのことかい。さあね、あたしゃ絵にはとんと疎いから」
中年女性の馴れ馴れしさにも慣れたもので、ヒューは相手に話を合わせずに強引にこちらのしたい話題に持っていっても問題がないことをよく知っていた。たいていは話に応じてくれる。会話そのものが楽しいという考え自体は彼も否定はしない。
先ほどテーブルを共にした彼女はポーシャというらしい。このぶんでいけばすぐにどんな絵を描いているかも知れるだろう。彼女の風景画に対する拒絶といってもいいほどの態度がヒューの興味をそそっていた。
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