04 日々の暮らし

 北あるいは南の極点に近づいていけばいくほど、昼夜の長さは極端になっていく。大陸ではかなり北にあるこの町も例外ではなく、この時期は他では考えられないほど太陽が空にある時間が長い。空の明るさで眠るかどうかを決めている人はこの町では苦労するだろう。季節によっては一日に三時間程度しか寝られない日が続き、最終的には太陽が落ちなくなる季節がやってくる。時計にしたがって生きなければ感覚をおかしくしてしまう。見方によってはなぜこんなところに町があって、そして住民がいるのかを不思議に思うかもしれない。しかしそれを解決する明確な回答はない。

 ヒューは今日の残りの時間を明日から始める猟の準備にあてることにした。道具は常に磨いておくことが彼にとって重要だった。その価値は本人にしかわからない。祈りと似たようなものだ。しかしそのおかげで助かったと思った経験もある。自然という大きく不確かなものを相手にする以上、ゲンを担ぐような気休めでも使えるものは使っていくのが猟師だった。縄のような消耗品を自力で縒るわけにはいかないが、それでも持っているぶんは手入れをした。

 二重の窓の奥でヒューはじっと腰を据えて作業に取り組んだ。太陽はしばらく沈むつもりはなさそうだった。彼は自身のことをはじめ器用だとは思っていなかったが、長年の手作業のせいでどんどん手先に神経が通っていくようになった。いまではその細工に感心する人が出てくるほどだ。

 長い時間を集中した作業に費やして、はっと顔を上げると夜と呼べる時間だった。太陽はまだ沈んでいなかったが、早く寝ないと翌日に響く。軽食だけにしてヒューはさっさと寝ることにした。すぐに眠りはやって来た。目の下側から黒いものが意識を覆っていくような眠りだった。


 目を覚ますと外はやはり明るかった。暗い時間は本当に短いようで、一般的な地域なら空にはまだ星が輝いているはずだ。時計を見てもそれが間違いでないことがよくわかる。二重の窓の外に面したほうは結露が見られた。地域的にも季節的にも劇的に暖かくなることなどないとはわかっているが、確かめたくなるのが人情だ。ヒューは昨日に準備していた装備一式を着込んだ服の上から備え付けた。

 頭ではわかっていても、これまで逗留してきた場所と朝の感覚が違い過ぎてヒューは混乱した。明るさの段階が違うのだ。よそでは暗いはずの時間に、ここでは太陽がそこそこ高い位置にある。遅刻というか、タイミングを逃したような焦りがどうしても出てきてしまう。これに慣れるのは厄介そうだと彼は独り言ちた。

 昨日に通った左手に気味の悪い森を見る道を通って北の森に向かう。移動にかかる時間と個人的に感じている不気味さを天秤にかけた結果、猟師としてのヒューは時間を選択した。彼がこれから相手をするのは生物という不確定要素であり、その意味で時間は何よりも優先されるべきものだった。それに子どもの考える対策ではないが、そちらを見なければいい。西の森を行き止まりの断崖絶壁と決めてかかれば考えずに済む。冷えた空気が頬に当たる。しかし首筋から背中にかけて、彼の身体はわずかに汗ばんでいた。


 人がひとりで運べる物量には限界があり、育ち切った鹿なら一頭ともなると相当に苦労する。力を失ってぐったりした死体は、血を抜いたとはいえ重たいものだった。痛みを感じないように極力丁寧に仕事はした。これがヒューにできる最大の敬意の表現であり、あとは深く考えないことが何よりも重要だった。

 持ち運びやすさと見た目のショッキングさを考慮して、厚手の布に包んで運ぶのが馴染んだやり方だった。猟に出ればほとんどは捕殺のかたちをとる。朝早くに仕事に出るのは効率を考えた実利的な面がもっとも大きいが、自分の姿をあまり見られたくないというのも理由のひとつではあった。町の人が活動を始める前にすべてを済ませてしまいたいのだ。そう考えると、朝もやの残る人気のない町はヒューにとって救いですらあった。


「おかみ、獲物を持ってきた」


 店先ではなく裏口の扉を叩いて声をかける。ほどなくして中からばたばたと足音がして扉が開いた。商売をしようという表情のなかにうっすらと意外そうなものが見え隠れしていた。


「昨日の今日でとは思ってなかったよ。さ、何を、ってあらあら大きいねえ。それ、鹿かい?」


「ああ、運がよかった」


 扉の奥へ招かれるままに入って、肉を切り分ける台に獲ったばかりの鹿を乗せる。布を取り払うと、真っ黒な視点を定めていない目が状態を教えていた。おかみが台の前に立つとヒューは下がって壁に背を預けた。鮮度が大きく価値に影響する肉という商品を扱う関係上、金額の交渉よりも先にある程度は切り分ける必要があった。それから氷室に入れて販売の準備が整う。

 肉を取り扱い続けた人間の手際はすさまじいものだった。刃先が吸い込まれるように進入して、止まることなく部位を分けた。骨が邪魔になるところでは叩き切って、関節を外せば済むところは手で処理をした。手のひらで触れればぴったりとくっつくような生きた肉を当たり前のように捌く技術は経験以外からは生まれない。技術的に優れたところがなければ肉屋が繁盛しないのはこのせいだ。切り分けの作業に手間取ってしまうと鮮度が落ちてしまう。

 ある意味で死が充満するこの部屋の臭いは、決して気分のいいものではなかった。しかしヒューもおかみも気にしていないようだった。彼らの生活はそういったものにあまりに近接していたからだ。加えてヒューは目の前の技術に見入っていたし、おかみは集中して取り組んでいたせいで、臭いなんかに気を払ってはいられなかった。


 おかみが話していた氷室はこの店の地下にあるらしく、この建物ひとつで商売に関するすべては完結しているらしかった。おかみが切り分けた肉を氷室に運び始めるとヒューは外に出て店頭のほうに回った。こういうとき、自分から手伝うと言ってはいけない。頼まれたら応じるくらいでちょうどいい。

 もう明るいとはいえ時刻はまだまだ早起きの人が寝ていて当然の時間だ。朝もやが薄くかかった町にはまだ人影らしい人影は見当たらず、すこし風が吹くと細かい水滴がねっとりと頬に貼り付いた。しばらくここで待つ必要があった。今度は庇の下の壁に絵を預ける。疲労が深いこともなかったが、ほんの十秒ほど目を閉じた。目を開くとヘルツリヒがそこに立っていた。


「ヒュー。おはよう」


「おはよう。本当にずいぶん早いな」


「何がある町でもないからね。早く寝たら早く目が覚めるもの」


 そっけなかった。楽しいことを探しても見つからないと言いたげに見えた。しかしそのことを悲しんでいるようには見えなかった。言葉のわりには朗らかだった。


「散歩か?」


「うん。私この町の景色が好きだから」


 そう言ってヘルツリヒは両手を広げて世界の中心のようにくるっと回ってみせた。この仕草はヒューにはなんとなく少女らしさのイメージと結びついていたが、実際に目の当たりにしたのは初めてだった。小さなころに初めてヘビを見たのと似たような気分だった。話には聞いていて見たことのなかったものを目撃したときの、あの妙な認識への馴染み方。


「年のわりに落ち着いた趣味をしてるんだな」


「それは偏見だよ。どの年代だって好みはぜんぜん違うんだから」


「そうなのか。てっきり年齢でそういうのは似てくるものだと思っていた」


「経験談?」


「ある程度はな」


「選ぶ能力の欠如は自信の欠如の症状のひとつだ、ってね。誰から聞いたんだっけ」


 ヒューは視界には入っていたヘルツリヒをあらためて見た。もう一歩も白ければ、それは特異な身体的特徴に届く肌の色をしていた。特殊ではない人間のたどりつける限界に立っている。しかしそれは天然のものであり、言い方を変えれば才能だった。あるいは逆に特異の領域に住む才能が、努力の末に一般の範囲に滑り込んだ結果なのかもしれなかった。そう思うとヒューは才能のグラデーションのなかで引けるはずの一本の線がどこにあるのかわからなくなった。知らずそんな思考をして、すぐに気を取り直す。

 ずっとヒューの視界の中にいたヘルツリヒは、何も知らぬげに機嫌がよさそうだった。根拠なく上機嫌でいられることは最大の幸福だと考えている彼にとって、彼女は理想の体現なのかもしれなかった。本当はヘルツリヒにも理由があってそうなのかもしれないが、ヒューには知りようのないことだった。


「この町の子は何をして遊ぶんだ?」


「小さければ子供だましみたいなおもちゃ。それに飽きたらもうばらばらだよ」


「早朝の散歩みたいに」


 ヘルツリヒは笑った。


「家業の手伝いが多いかな。本気で遊ぶってなったら何日もかけて大きな町だね」


「あまり大人と変わらない」


「そうかも。ここは子どもと大人が崖の上と下みたいにはっきり分かれてるからさ。一歩でも落ちたらもう戻れないよ」


 遠い目はヘルツリヒが回顧していることを告げていた。少女少女とばかり思っていたが、言われてみれば彼女から子どもを感じたことはない。ただの一個の人間としてヒューは接していた。年齢ではないのだ、と理解した。

 石畳で舗装された通りと、固い土の地面の境目にたんぽぽが茎をのばしていた。なぜか土の地面よりも境目のところに数多く根付いていた。綿毛を飛ばして遊んだりはしないのだろうかとヒューは疑問に思った。


 店の奥から声がして、おかみが済ませておきたい仕事が終わったようだった。振り向いてそちらへ行くと答えてからもう一度振り向くと、ヘルツリヒの姿はなくなっていた。気が利きすぎるのか、あるいはいったん話し相手という関係性を作り上げたあとで新しい登場人物が入ってくることが好きではないのかもしれない。何にせよ、彼女はすでに自分の世界を確立しているらしかった。

 おかみが言うには今年で最初のいい鹿だったらしい。冬を越えてエサが増え始め、肉付きがよくなってきたところの一頭とのことだった。一定以上の大きな獲物は冬に獲るべきではない。すくなくとも積極的に前向きな結果を求めないほうがいい。そのことをヒューは経験から知っている。やせた動物の肉はあまり美味いものではない。

 お互いにそれは知っていたから相場にすこし色がついた。売り出すときにもそのぶんが上乗せされるのだからどちらにも損はない。獣肉は重要な食料だ。売れなくなることはあり得ない。北の地域では好き嫌いの一歩手前の位置にある。


「それにしても、待たせて悪かったね。退屈だったろう」


「いや。ついさっきまで話をしていた」


 おかみは一歩軒先に踏み出して左右を見渡して、誰もいないのを確認すると首をかしげた。だんだん朝もやは薄まってきていた。そろそろ町の人が目を覚まして準備を始める時間だ。そこからすこし経つといっせいに玄関の扉が開くだろう。

 ヒューは今日の仕事をここで終えてもよかったし、もういちど山に向かってもよかった。次に行くとしたら猟よりも探索に重点を置くつもりだった。息を殺して獲物を待つポイントを探したり、罠を仕掛けるのに適した場所を見つけておいたり、または立ち入ってはいけない場所に目星をつけたかった。しかしそれらはすべて彼にとっての酒みたいなものだった。あればうれしいがなくたって困らない。別の機会にすればいいだけの話だった。


 どうしようか、という問いをヒューは一度だけ頭のなかへ投げた。考えようとした時点で初めから行く気がなかったのだと気付いてすぐにやめた。のんびりと過ごしても誰も何も言わないのだ。ここへたどり着くまでの長い旅の疲労はまだ取れ切っていない。体も心も休めておく必要があった。

 ヒューには行動範囲を限定しがちな傾向があった。買い物をする店、食事時に利用する店などは候補そのものを三つほどに絞ってしまう。そのなかから日ごとに気分で選ぶことがほとんどだった。もちろん気まぐれを起こしてまったく知らないところへ行くこともないではなかったが、それは確率としては低かった。せいぜいが二か月に一度あれば、というくらいのものだった。内向的といえば内向的で、そう呼ぶほどでもないといえば誰も反論しなかった。


 その二か月が経った。確率通りにヒューは彼なりの新しい店の冒険をして、あとは毎日いちどは山に入った。二日目のように大きな獲物を獲ってきたりもしたし、山に罠を仕掛けただけの日もあった。生活は何も滞りなく問題なく進行していった。

 ふた月もあれば人の周りにはいくつも関係が生まれる。さして積極的には見えないヒューにさえ両手では追いつかないほどの人付き合いができた。とはいえ彼も生きてそれなりに経つ。不思議にも不満にも思わない。人間にとっての自然はそういうものと決まっているのだ。

 人付き合いができればそこには言葉のやりとりが発生する。そしてそこには余計な会話が必ずついてくる。ヒューももちろんそれに応じたし、場合によっては自分から話したりもした。幸いなことに彼の周りには気持ちのいい人物が多く、話をしても聞いても楽しむことができた。そのなかでひとつ、妙なうわさを聞いた。

 狂ってしまった人が、いるのだという。

 町の南のほうに住んでいる人で、外に出るたびにひどく怯えるらしい。とくに人の顔を見るとまるで化物でも見たかのように逃げていくのだ、と酒を呷りながら話してくれた人がいた。その場では話半分で笑うためのものだと思っていたが、次の朝に目を覚ましてみると頭に引っかかった。うわさというか陰口というか、それも品のない話ではあるが、思い出してみると話していた彼らの顔色はそういったものではなかった。本当に残念なことがあって、それを先に知っておいてほしいという意図のもとで話題に出たもののように感じられてきた。実際に同じ町に暮らしていると思うとなにか手触りが違った。食道の内壁が毛羽立ったように落ち着かない感じがした。

 見に行こうかとも思った。時間はあった。その狂人のだいたいの家の位置も聞いていた。しかしそちらへ行こうとすると足が出なかった。南に行くこと自体はできるのだが、そこへ向かおうという意思を持った途端に見えない何かが絡みついた。

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