14 結論
ヘルツリヒが口にしたことを思い出す。何らかの目的があること。ヘルツリヒには正体があること。とくに後者は自身が強調していただけあって重要なことなのだろうと推察された。正体がわかれば目的も判明するのだろうかとヒューは単純に考えてみたものの、そんなことがあるかと疑問が道をふさぐ。そもそも相手が人ではないのだから目的が人間的なものである可能性は低い。ヒューはいったんその考えを追い出すことにした。
もうひとつ大事なことがある。ヘルツリヒはヒューと話すことで何かを得られると思っているらしかったことだ。でなければ顔を合わせる意味がない。ヘルツリヒはたしかに人間ではないが、自然現象のように無目的でもない。そこには合理性が、すくなくともそれに似たものがあるのだ。
以上の三つは確実に結びついている。ひとつがわかれば芋づる式に他のヒントの意味もわかるくらいに緊密に。しかしそのひとつを解くためのもうひとつが足りない。ヒューがいま感じている自身の状態はそんなものだった。もう一押しで状況は一変するのだが、それがない限り永遠に停滞するだろう。
ヒューは大きくため息をついた。必要なのは彼以外の力だった。
彼の足は自然とジェレマイアのもとへと向いていた。もちろんポーシャにも協力を頼むつもりだが、世界に対して怯え切ってしまっているジェレマイアに先に説明したほうがよいと考えたのだ。いきなりポーシャを連れてきたところで、またそこで時間がかかるのは目に見えている。
ヒューが扉をノックすると、今回は一度でジェレマイアが姿を見せた。ゆっくりと外にいるだろう存在を警戒しながら、おずおずと顔を覗かせる。ヒューを確認すると一度びくっと体を震わせてから外へと出てきた。彼が取り乱さない姿を見たのは初めてだった。
「な、なん、どうしたんだ。なにか、あ、あったのか」
「頼みごとがあって来た。俺一人じゃたぶん事態を変えられない」
「じ、事態って、あんた、なにかしてくれるのか? か、か、関係ないんじゃ?」
「俺も繰り返しに巻き込まれてる可能性があると言っただろ」
その言葉にはっとして、ジェレマイアはきまり悪そうに地面に視線を落とした。
「へ、へ、し、知ってるよ、怒るなよ」
「ヘルツリヒに会ってきた」
ジェレマイアは今度は素早くヒューの顔に視線を向けた。目は見開かれている。音がしそうなほど目に力を入れて続きの言葉を待っている。息も潜めて、まるで珍しい動物が湖で安らいでいるのをこっそり見逃すまいとしているようだった。その挙動のすべてのためにじっと待っている。
ヒューはこの名前が引き起こす事態をある程度は想定していた。悪い意味で空気を一変させてしまうのだ。目を逸らしたい現実のほうへと両手で頭をつかんで無理やり向けさせる。慎重に扱う必要があった。
「先に謝っておくが、繰り返しをやめさせることはできなかった。それをやっているとの言質も取れなかった。……まあ、取る意味もないとは思うが」
「ま、待てよ。ヘルツリヒが、や、やってるんで、い、い、いいんだよな?」
「何かしらの目的があるとは言っていた。それでじゅうぶんなはずだ」
「目的? ま、まあ、いいよ、続けてくれよ」
続けてくれよ、と言われてヒューはすこし困った。とくに間違った話の組み立てをしたとは思っていないが、ここから先は順番を間違えると非常に理解が難しくなる。あの場でヘルツリヒと直に話していたからこそわかる流れがあって、それを切り貼りすると途端に色が薄れるのだ。まずジェレマイアはヘルツリヒが人間でないことすら知らないだろう。そういった存在がいることを念頭に置いているとは思えない。
ヒューはわずかにでも心を落ち着けようと咳ばらいをした。効果のほどは微妙だった。
「そもそもとして、ヘルツリヒは人間じゃないことを頭に入れてくれ」
「え、あ、な、なに言ってんだよあんた。お、女の子だろ、じ、十歳とちょっとの」
「見た目はそうだ。でも繰り返しなんてことをやってると考えたら人間だって思うほうが不自然じゃないか?」
ジェレマイアは下を向いてぶつぶつ言い始めた。こうなるとヒューにできることはひとつを除いて何もない。待つことだけだ。そのことにヒューは不満を持つつもりはない。むしろジェレマイアは思考に沈むポイントを外していない。ただ驚いて呆けて話を聞かれるよりもよほど建設的だった。
すこし経つとジェレマイアはまたきまり悪げに顔を上げた。考え込むときのクセでそうなってしまったことに引け目を感じているようだった。会話を突然に中断されて喜ぶ人はまずいないだろう。気にしない人もいるだろうが。
「そ、そうだな、お、お、俺もそう思う。人間じゃないんだ。で、でもだ、それじゃあいつは、な、何者なんだ?」
「それだ、俺もそれが知りたい。あいつは自分について考えろとまで言ったんだ」
「か、考えろ? お、おかしいぞヒュー。それ、それって、考えればわかるって言って、言ってるようなものだ」
「だから頼みに来たんだ。俺とお前とポーシャで解決したい」
「……そ、そうか、そうだな、あいつも、い、いたほうがいいよな」
ジェレマイアの顔に陰が差した。
その一方でヒューはうまく話を運べたことに安堵した。無意味な混乱は起こさずに済んだ。三人の協力ですべての問題に答えが導けるかはわからないが、とにかくこれで場だけは作れることになった。ただ、ヒューはジェレマイアが想像していたよりも静かだったことには引っかかるものを覚えていた。
三人には共通する財産があった。時間である。彼らは時間に追われて取り組むべき何物をも持っていなかった。ヒューには蓄えがあること、ジェレマイアは周囲の人々からの痛々しいやさしさ、ポーシャは絵を描かせてもらえているという環境。集まるのに最も難しい条件をクリアしているのは幸運だった。
状況は切迫してはいない。しかしジェレマイアとポーシャが置かれている環境は、彼らがいかに強いとはいえ過酷なものに変わりはない。可能なら早くに解決したいというのがヒューの考えだった。目で見ることのできない精神などいつ本当に壊れるかわかったものではないのだ。
ただ往復だけの時間があって、ヒューはポーシャを連れて帰ってきた。相談するという一点に絞って考えれば、ジェレマイアといっしょにポーシャのもとへ出向く選択肢もあったのだが、ヒューはそんなことはしたくなかった。
ほとんど沈まない太陽がだんだん高い位置に上り始めている。その光の下で彼らの表情はなにかを堪えているようだった。まるで太陽の光に当たることが苦痛であるかのように。ジェレマイアの家の周辺には他に誰の姿もない。そもそも隣の家が隣接して建っているわけでもないし、誰もが出払っている時間なのだ。ここにいるのは取り残された三人だった。
震えながらジェレマイアが口を開いた。
「ぽ、ポーシャ、すまない。お、お、俺はお前に、何も、何も言ってやれなかった」
「私があなたの立場でも変わらないと思う。元気そうな人に病気で死ぬから気を付けろ、なんて言える人いないよ。予防の方法がわかるわけでもないしね」
二人だけが共有できる悪夢の共通言語。彼らのあいだでは時間が時間としての役割をいくつか失っていた。とくにポーシャは死ぬという体験を過去に記憶として持っていっていることになる。想像を絶すると口にするのは容易いが、実際に味わったとて言葉にできない種類の苦しみはどうしようもなく存在する。そして周囲にいる人間に安く書き換えられてしまう。周りにも決して悪意はないのだ。筆舌に尽くしがたいとするしかないだけで。
ジェレマイアはまた落ち込んだようだった。彼に残されているのはこれだけなのだろう。
「じゃあポーシャ、ジェレマイア、協力よろしく頼む。先に話してはいるが、まずは俺たちはヘルツリヒが何なのかを突き止めないとならない」
「二人が言うからあの女の子がヘルツリヒで人間じゃないって信じるけど、でもさ、肌が白いってだけでほかにわかることある? 話したこともないんだよ、私」
「……は、話したこともないのか? ちょ、ちょっと、ち、違うな。おお俺は町で、ふつうに、話しかけられた。だから、い、イカれたって、思われたんだ」
置かれている状況がそれぞれ違っている。これは三人にとって歓迎すべき事態だった。違いがあればそこから考えることができる。まずは関わり方。単純な見方をすれば、ポーシャだけが話をしていないことが重要そうに思えた。
「ないよ。というかあの子の名前もさっき初めて教えてもらったくらい」
「ど、どうしてだ? あ、あいつにとって、き、危険なのか? そ、そ、それとも、だい、大事なのか?」
「それだと私がどっちみち意味のある立ち位置になりそうだけど」
「だ、だって、そうだろう。繰り返しだぞ。そ、そ、そんなことに、巻き込んでおいて離れるなんて、お、お、おかしいんだ。お、俺たちに即して、か、考えれば、ち、近寄れない相手なんて、どっちかなんだ」
ポーシャは呆けたように口を開けて、ゆっくり視線をヒューに移した。ジェレマイアは頭に手をやったり服の裾を握ったりしながら必死に考えている。
彼女の視線の意味はヒューにもわからないではない。しかしジェレマイアがこうも過敏に怯えるようになったのは彼に考える力が備わっているからだとヒューは確信していた。記憶と照らし合わせて現状を認識し、想像力が働いてしまったことで恐怖が襲ってくるようになってしまったのだと。むしろ彼には高い思考能力がある。ただ、それが追い込まれているせいで後ろ向きに出力されがちなだけなのだと。
「でもジェレマイア、大事なものってふつうに近寄ったりするよ。逆じゃない?」
「ふ、ふつうなら、そうかもしれない。ただ、お、俺が言っているのは、も、も、もっと上のやつなんだ。す、姿を見るのさえ、はば、憚られるような。こ、心に影響を及ぼすような、そ、そんな大事なもの」
「それが私?」
「わ、わからない。ただ、か、可能性は、あ、あると思う。も、もちろん逆かも、し、しれない」
ポーシャはヒューのほうに振り向いた。意見を求めている。彼女も理解を超えた事象の最中にありながら物事を考えている。混乱せずに投げ出さずにいることが彼女にとってどれだけ大変かは計り知れない。そんななかで自分には芽生えすらしなかった考えが提示されれば、どの意味でも判断などできるわけがない。第三者の意見を聞きたくなるのは自然なことだった。
「俺もその考えはアリだと思う。ヘルツリヒは俺たちに、どちらかというと気安すぎる。友達みたいに接してくる。遠くからでも見かけたら声を掛けに来るぐらいの」
「だとして、じゃあヒューとジェレマイアに見えてる理由はあるの?」
それが痛いところだった。三人のうち誰かが目的なのだと仮定すると、残りの二人の意味がわからなくなる。必要かどうかの区別さえつかない。おまけなのかもしれない。あるいは見落としている共通点があるのかもしれない。ポーシャのこの疑問は当然のものだったが、いまは置いておくべきだった。考えても答えが導けない。
ヒューは首を横に振った。ポーシャの質問に対しての回答である。突破口になりそうな気もしているのだが、とっかかりすらつかめないのでは労力を割くのに気が進まない。
「ポーシャ、ジェレマイア。俺はお前たちの話を聞きたい。とくにヘルツリヒの姿がいつから見えるようになったんだ?」
「私は正直覚えてない。あんな子いたっけ、って思ったのもいつだったか」
「お、俺は、繰り返しが、は、始まったあとだ。状況が、つ、つかめて怖くなって、初めて、さ、叫んだあとのことだ」
ジェレマイアの声はしぼんでいった。彼にとってのつらい過去だ。いわく、そのあとでみんながやさしくなったのだ。
二人の言葉を整理すると、とりあえず繰り返しの前にヘルツリヒは姿を見せてはいないらしい。もちろんヒューも順序で言えば間違ってはいない。ただ、この町の他の住人ではなく彼に見えているという状況にはやはり疑問が残った。ヒューが二人に話を聞きたがったのはこの問題があるからだった。
「繰り返しの前に何か共通した出来事はないか?」
「共通って言っても、私たち今日が本当に久しぶりだよ。子どものとき以来。ケンカしてたわけじゃないけど、そういうことあるでしょ」
「だとすると、本当にたまたま条件が重なったのか?」
ポーシャには思い当たるフシがないようだった。子どものときの遊んだ記憶以降、さっぱり会っていないことを主張する。ジェレマイアもそれに対しては反論はないようだった。広くない北端の町でそんなこともないだろうとは言えない。人間というものは限定された空間においても、会わないとなれば驚くほど会わない状況が続くものである。その原因は生活範囲や時間帯の違い、あるいはまったくの偶然で片づけることも可能なものだ。
静かに話を聞いていたジェレマイアは、体に電気が流れたようにびくりと跳ねて、ポーシャのほうへ大きく見開いた目を向けて、そうして口を開いた。
「そ、そうだ、子ども、子どものころ、ポーシャと、も、森に行ったな」
「森?」
ヒューが聞き返しているすぐそばで、ポーシャがはっとした表情を浮かべている。なぜこんなに大きなことを今まで忘れていたのかと言葉にしているかのようだった。
「白い森だ。私とジェレマイアは二人で白い森を探しに行ったんだ」
「この町じゃ通過儀礼みたいなものなんだろう? 子どものころの」
そういえばそんな話を聞いた記憶がヒューにはあった。この小さな町に伝わる奇妙な伝承。あり得ない色をした、移動する森。しかしこの町の住人は実物を見ていなくともその存在を確信しているのだという。
きっと彼らもそれを探しに行ったのだろう。それが二人に共通する思い出なのだ。ヒューはそれを自身の問いかけへの回答としての限界と取った。それ以上の共通点は出せない。そういうことだと理解しようとした。
「違うの。私たちもたしかに白い森を探しに行ったけれど……」
「み、み、見つけたんだ、お、俺たち」
何を、とヒューが問う前に二人が声を合わせた。白い森。彼らはたしかにそう口にした。聞き間違いの入り込む余地はなかった。
二秒、真空のような時間が空いた。そうしてその隙間を埋めるようにヒューの頭に情報が流れ込む。白い森の実在。ただポーシャとジェレマイアだけに共有されていた秘密。伝承と現実が裏返る。確証はなかった。しかしその強烈な可能性が自己主張をやめない。叫んでいるのに等しい。
「……あいつが、白い森そのもの?」
口にしてしまうとつながりの見えなかったヒントのかけらがかちかちと音を立てて結びついていく。同時にただの会話だとみなしていたものがその価値を変えていく。絵に描いてもらいたい、とたしかにヘルツリヒは言った。町にはポーシャがいて、直に話ができる場所にいたのに、しかし頼むことをしていない。
ヒューのなかで論理が組み上がっていく。推論も含むが、しかし心を持った存在が関わっているのだ。そうなることは避けられない。自分のなかの“なぜ”に説明を返しながら、ヒューの論理は強度を増していく。
「あの女の子が? 肌はたしかに白いけど、森の精とかそういうこと?」
「に、人間じゃないのを呑むなら、そ、それは、認めないと、だ、ダメだ」
「いいけど、それがわかると何がわかるの?」
「ヘルツリヒの目的だ」
求めていたものをぽんと放り投げられて、ポーシャとジェレマイアは唖然とした。これがわかれば対応が取れる。もしもそれが有害なものであれば止めるために行動を始めることができるし、願いに近いものなら叶えてやることも選択肢に入ってくる。どうにしろヘルツリヒにとっての目的の達成は、彼らの状況の解除に最大限の効果をもたらすと考えられた。
二人の目は期待に満ちてヒューに注がれた。しかしそれを言い出した彼は戸惑っていた。それは恐怖の感情に端を発するものではない。きれいに落とし穴にはまってしまったような、地面があることを疑ってさえいなかったのに、そこが抜けてしまったときのような強烈な肩透かし感から来ていた。
「……あいつは、絵に描いてもらおうとしている」
「絵?」
「な、ど、何を言っているか、わ、わからないな。な、な、なんでそうなる?」
「本人に聞いた。あいつは隣町で、たしかにそう言った」
白い森を見た二人はそろって不思議な顔をしている。聞いた瞬間にいくらか思考を進めることはできたが、そうして出せる結論と実際のヘルツリヒの行動に矛盾が生じていることに気付いたのだろう。だからこそその答えを出したヒューに疑わしい目が向かうのだ。
絵を描いてもらいたいのなら、そう言えばいい。それですべてが済むはずだ。
「ひ、ヒュー、そ、そんな簡単なことなら……」
「あいつは白い森だ。白い森そのものとして描かれることを望んでるんだと思う」
「あの肌の白い女の子じゃなくて、ってこと?」
ヒューは頷いた。
「そ、それなら、い、いや、でも一言で、ね、願いは叶うのに」
「どこまでいっても推測にしかならないが、あらゆる感覚が違うんだろう。どれだけ時間がかかってもあいつは困らない。森が死ぬなんてことは考えにくい」
言っているヒューですらその感覚がどう違っているのかわからなかった。なにしろ森と人だ、規模も生命体系も何もかもが違う。それこそヘルツリヒから説明をもらったところで理解が及ぶかもあやしいところで、結局わからなかったという結論になる可能性のほうが高く思える。
三人ともが黙り込んだ。ひとつひとつ言葉を確かめる必要がある。正しいかどうかを確かめるのではなく、受け入れられるか、納得できるかを心に問うのだ。
「じゃ、じゃあ単純に、ぽ、ポーシャが森の絵を、か、描けば、終わるのか?」
「そうかもしれない。だが俺にはそれが不確かなように思える」
「そ、そんなところで、う、う、嘘をつかれたら、もう、ダメじゃないか」
「結論を急ぐな。俺はそこに程度の問題を見ている」
ジェレマイアはそう言われて首をひねった。ポーシャも表情を見るに、まだ掴めていないといったところだろう。ヘルツリヒが絵を描いてもらうことを目的としているとして、その程度とは何か。言われてすぐにわかるわけがなかった。
ヒューは右の手を握ったり開いたりしているのをじっと見ていた。考え込んでいるときのクセなのか、あるいはわずかにでも気を紛らわせながらでないと思考の方向がひとつに固まってしまうからなのか。彼もまた進行形で考えながら話を進めている。
「簡単な話、手を抜いた絵でヘルツリヒが満足するかということだ」
「い、い、いや、そ、それは、普通に考えれば、い、イヤなんじゃないか」
「俺もそう思う。だから気にかかっているんだ」
そう言うとヒューはポーシャに視線を送った。
彼女は浅くため息をついて、悪い種類のことに納得したように頷いた。
「私には風景画が描けないからね」
「か、描けない、っていうのは、ど、どういう、い、意味合いなんだ」
「気分が乗らない。私の考え方でいくと、風景に関しては目で見た以上のものがないんだよ。どれだけ精緻に描いても劣化にしかならないと思ってる。だから意味合いで言うなら、本気で取り組むことができない、って感じ」
理由のつけられる気持ちの問題に口を挟むことはできなかった。そればかりは本人のなかで意識の変化が起きない限り、何も言えない領分なのだ。感情は自然と同じく御することができない。ある意味では感情とは原始的な結論でさえある。
ヒューもジェレマイアも説得は考えなかった。
「そ、それを見抜く力は、へ、ヘルツリヒに、あ、あるのか?」
「わからない。だが可能性はじゅうぶんある」
「そ、そ、そうか、だよな、お、俺も、同じ意見だ」
「私自身それができるとも思わないよ、けっこう露骨なんだ、私の場合は」
「じゃあ絵を描かずに済ませるのが最善だな」
言ってはみたものの、その言葉が指すことは無謀であった。すなわちヘルツリヒを説得するということだ。望みが叶わないのに繰り返しをやめさせるということだ。相手が人間ならまだいくらか手段は思いつく。しかし今回の相手は自然といっていい。論理による説得が通じると信じることは難しかった。
三人ともが口にしてはいないが、ポーシャがどうにかして絵を描くという選択肢を残してはいた。他に採れる手段がないときの解決策だが、そう呼べるほど立派なものではないのだろうことを前提としていた。努力でどうにかできるものと、そうでないものははっきりと区別されている。絵は間違いなく後者に分類される。
「……交渉は俺に任せてくれるか?」
「あ、あ、あんたしか、む、無理だろ」
半ば儀式のようなやり取りだった。
いったんその場は解散の運びとなった。現段階でそれ以上に話し合うことはない。あったにしても失敗した未来に備えるためのものであり、たった三人がそんなものを見据えて動けるわけがなかった。全員が正論には気付いている。保険のために、次の計画を準備しておくことが当然なのだと。しかし人間はそれほど強くはない。いたとしてもごく少数だ。失敗したらこうしよう、なんて考えることほどばからしいこともないのだから。まして彼らが巻き込まれている状況を踏まえれば、余計に。
自宅へ戻ったヒューは落ち着くために湯を沸かした。味付けも香りづけもするつもりはなく、ただ鍋を火にかけた。それにほんの少しとはいえ時間がかかるから、椅子に腰を掛けて鍋をじっと見つめる。鍋の下で火が押しつぶされながら揺れていた。
やがて沸いた湯をカップに注ぎ、ヒューは息を入れた。もうすこし冷めるまで口はつけない。テーブルに頬杖をついて閉まったカーテンに目をやったとき、本当はこの待つ時間が欲しかったのだと気が付いた。何も考えなくていい、ただの空白の時間。それに思い当たったとき、ヒューは笑った。乾いていた。
眠ろうと横になって目を閉じる。すぐにまぶたの裏にぼうっとヘルツリヒの姿が浮かび上がった。真っ暗な背景に、真っ白な肌が際立っている。夜の空に光る月、と思おうとしたがそれはできなかった。しばらく暗い空を見ていない。そういえばここは夜さえ白いのだ。そう意識した途端、黒いだけの背景に木板に精密に描かれた樹木が何枚も何枚も重なって出てきて森が形成された。あの生き物の匂いのしない森だ。次にどうなるのかがヒューにはわかった。
白い樹木が森の一画を占めて、ヘルツリヒがそこに歩いていく。ぴったりだった。白い森を背景に、白い肌の少女が佇んでいる。誰よりもその場所にふさわしい。人のまぶたの裏に勝手に出てきてずいぶんな態度だ。ヒューはそう思う。しかし彼女にはどうやっても届かない。口を開いても意味がない。彼女はいないのだから。
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