15 白い森との対決

 目を覚ましたという感触がなかった。時計を見れば時間が経過したことはわかる。しかし身を横たえてから目を開けるまでの時間の間隔が妙に薄く感じられた。それはまるで二枚の濡らした紙を左右から貼り付けるように隙間なく、そんな今日と明日の境界線を一足飛びで超えていけるような夜だった。

 妙に頭がすっきりしていた。休んだ実感はないのに体は準備が整っていることを主張している。心だけが置いて行かれていた。

 あの短く思える眠りのあいだで考えが整理されたのか、最善の運びがどういったものかを定めることができた。一方で最悪にあたる結果は想定もできなかった。なにせヘルツリヒに何ができるのかがわかっていないのだ。

 生業としている猟ほどに準備は徹底できなかった。狩猟道具はおそらく意味を持たないだろうことをヒューは察していたからだ。自然を脅すことは不可能だろうし、そもそも血が流れるかどうかさえあやしいものだ。せいぜいが山に入るときの最低限の装備。ひとりで休憩を取るために必要なものしか準備しなかった。

 自宅の扉を閉めて西を向くと、目的地がすぐそこにある。この命のない森が彼女の領域なのだろう。そうして移動する白い森こそが彼女そのものなのだ。いくつかのことが頭を過ぎったが、ヒューはそれを押し込めて西の森へと入っていった。


 森はいつか覗いたときのように深刻に静かだった。音が何かの幕で遮断されているかのような気さえしてくる。音が立たない、視界に動くものがない。そうすると何が起きるか。孤独が際立つのだ。生命の痕跡さえ見当たらない広い広い森が、暴力的なほど突き付けてくる。お前はひとりだ、と。

 方角の確認だけは怠らずにヒューは奥へと入っていった。彼の足が地面を踏むときに起きる音だけが耳の機能を保証した。自分で立てている音なのに、聞いていると気が遠くなりそうだった。

 本当はどこで立ち止まってもいいのだとヒューは理解していた。ここは彼女の森なのだから。そこらの木に寄りかかって声をかければすぐにやってくるだろう。むしろそれを待っているのかもしれない。ヘルツリヒがヒューの存在に気付いていないとはとても思えない。


 ヘルツリヒ、と意を決して名前を呼ぶ。近くにいる誰かに呼びかける声の調子だった。大きくもなく、小さくもない。しかし音のない森ではそれはひどく目立った。反響さえしているような気もした。

 一秒。何もない。

 二秒。まだ何も起きない。

 三秒。再び訪れていた静寂をがさがさと粗雑な音が突き破る。

 何が起きたのかとそちらに目をやると、風もないのにそちらの木が枝を揺らし葉を鳴らしている。ヒューはいまあり得ないものを目にしていた。木の幹が少しとはいえ揺れているのだ。彼の頭に最初に浮かんだのは巨大な生き物がやってくるのではないかということだった。しかしすぐにその考えを押しとどめる。この森には命がないのだ。身構えるだけでその場を動かないヒューの目に飛び込んできたのは、木の幹がひとりでに揺れること以上にあり得ない光景だった。


 白が、しずしずと空間を侵食してゆく。


 地面が、葉先が、枝が幹が落ち葉が、向こうからゆっくりと迫ってくるように白に染まっていく。何物をも受け付けない毒々しい白。高貴な身分の人間がわざと歩調を落として歩くように、その現象はじれったくなる速度でこちらへやってくる。想像の産物でしかないが、まるで神の見る景色。命の気配が許されていない理由が言葉など飛び越えて伝わってくる。ヒューは思わず息を呑んだ。その音が世界中に響いたと思えるほど大きく聞こえた。

 目に痛いほど白く様変わりした木の一本から、ヘルツリヒが顔を覗かせた。ここが居場所なのだ。生気のない白を背景にすると、わずかに人間味の残る肌の白さをしたヘルツリヒは完全な自己の主張を手に入れる。周囲のすべてがたったひとつのそれのために成立していた。美しくさえあった。


「ここに来てくれたってことは、私が誰だかわかったってことだよね」


「証拠があるわけじゃない。願望混じりの推測だ」


「別にまあ、それでもいいんじゃない? かくれんぼみたいなものだったし」


「かくれんぼ?」


「見つけてもらうのが楽しいみたいなところ、あるでしょ? 結局さ、見つけてもらえたら過程はどうでもいい部分ってあると思うんだよ」


 手を後ろに回して、純心そうに振舞う。


「正解、ということでいいんだな?」


「どうも、白い森です。でも呼びづらいだろうからヘルツリヒでいいよ」


 気に入ってるしね、と悪びれずに笑顔を浮かべて付け加える。ヒューの立場からすると微妙な気持ちだが、彼女が白い森であることそのものは別に悪いことではない。かけてきたちょっかいが邪悪なのであって、不思議な森が存在していたってヒューは構わなかった。何ならヘルツリヒとの会話は楽しくさえあったのだ。彼はのどの奥のよく知らない部分に力が入るのがわかった。


「なあヘルツリヒ、繰り返しっていったい何なんだ」


「だいたいはヒューのイメージと一致してると思うけど?」


「時間を戻してやり直させることが可能なのか? それもあの二人だけを」


「ああ、そんなに派手なやり方じゃないよ。それ世界の作り替えと大差ないし」


 少し投げやりな目をして否定をする。簡単な言葉のやり取りのなかに無茶苦茶な内容を詰め込んでいる。言葉の汲み取り方次第では、彼女はそれが手に届く範囲にある界隈に身を置いているということになる。またそれらの手段の比較ができる程度には知見を持ち合わせていることの証言とも取れる。あらためて自分たちとは違うモノなのだということをヒューは思い知った。

 いつの間にかヒューの周囲の木も足元の地面も真っ白になっていた。もう彼の視界にあるのは白色だけだった。陰影と、独立した物体という境目があるだけのただただ白い世界。気がおかしくなりそうだった。


「それはどうやっているんだ?」


「別に、ただ記憶を過去に飛ばしてるってだけのことだよ」


「……は? いや、じゃあ記憶を抜かれた時点のあいつらはどうなる?」


「どうなるも何もないけど。ジャムを瓶から出して別の瓶に入れるのと一緒でしょ」


 決定的な認識の差が横たわっていることだけがわかった。それは最低でも時間への理解を含み、それ以上のものはとても推し量れそうもない。おそらく質問を重ねたところで実感の伴わない回答が返ってくるだけだろう。きっとヘルツリヒは繰り返しを軽いものと捉えていた。


「……話を変えよう。ポーシャはお前の絵を描かないよ」


「どうして?」


「あの子は風景画を描けないんだ。選択肢として挙がっていないんだよ」


「違う違う。どうしてっていうのは、どうしてわかるの、ってこと。永遠に風景画を描かないなんて誰にもわからないでしょ」


 永遠、という言葉がやけに重く響く。


「ポーシャが風景画を描かないなんてことは私も知ってるよ。だから記憶を過去に飛ばしたんじゃない。記憶を重ねるってことは人生を重ねるってこと。それならいつか考え方が変わってもおかしくないよね」


「その、ために、何度も……?」


「私は待てばいい」


 ヘルツリヒはまるで決意表明のようにしておぞましい言葉を口にした。何度だって繰り返して望みが叶うときを期待し続けると言ったのだ。ポーシャとジェレマイアの未来は、もしかしたらヒューもだが、決まったようなものだった。ポーシャの画家としての考えを根本からぶち壊すような出来事が起きなければ、彼らの世界は変わることはない。

 ヒューが生唾を呑む音がやけに大きく鳴った。覚悟を決めなければならないのかもしれない。しかしそれよりも先にできそうなことはやっておかなければならない。


「ヘルツリヒ、頼む。絵のことを諦めてあの二人を解放してくれないか」


「イヤかな。私は私を描いてほしいだけだし」


 シンプルな望みなだけに崩すことが難しかった。目を逸らさせることもできない。価値観の違う相手に交渉することは文字通り手探りだ。その途中で何に触れるかもわからない。その意味では交渉と呼ぶのも適していないのかもしれない。


「二人は苦しんでいる」


「じゃあやることはひとつだよ。考えるまでもない」


 意識してか無意識か、お互いに立ち位置を理解したような言葉のやり取りだった。代案は求められていない。懇願は届かない。ヘルツリヒはそれ以外のことをそれほど重視していない。ヒューはその条件下でなんとかして状況をひっくり返さないとならなかった。

 彼女はヒューの目的を知っているのか、頭を働かせている彼を前に姿を消すことはしなかった。対話には応じるつもりらしい。このおおらかさは自然由来のものなのかもしれない。その性質と絵への執着という二点の並立は、どこかいびつなものを感じさせる。


「ポーシャの絵を手に入れて何を得るんだ?」


「誰でも変わらないんじゃない? 満足感とかそういうのだよ」


「何か別のもので代用は」


「利かないよ。私は絵がいい」


 話は何も変わらない。ヘルツリヒの要求は完全に閉じていた。交渉の余地は少しも見当たらない。どちらかといえば弱みを握られているのは、正確には握らされているのはヒューたちのほうだった。犯罪者が裁判官に交渉を持ちかけることができるだろうか。極端に言えばそういう話だった。

 ヒューが黙り込んだのを確認してヘルツリヒが口を開く。


「ねえヒュー、協力してよ。ポーシャに絵を描かせて」


「本人が無理だと言っているのに?」


「私がね、ヒューに声をかけたのはそれもあったんだ。状況を変えてくれるかもしれないと思ったから」


「状況?」


「ポーシャを説得してくれるかも、って考えたんだよ。私のやっていることに気付いて、脱出するための手段がそれだって突き止めてくれるかなって」


「味方のつもりで引き込んだってことか」


「最初はジェレマイアに任せようと思ってたんだけど、壊れちゃったからね。彼」


 わずかにうつむいて、残念そうにヘルツリヒはつぶやいた。ひどく無責任な物言いだった。実際に無責任だった。いったいどの口が、とヒューは言いかけたが、それが無意味であることも同時にわかっていた。それは一時的な憂さ晴らしにしかならず、状況が好転することはあり得なかった。いくつもの感情を無理にかみ殺して、やっと作れた顔は無表情というありさまだった。拳はきつく握りしめられていた。


「説得してどうにかなると思うのか、本人が無理だと言っているのに」


「それはわからないよ。ある日ふと描けるようになってるかもしれない。人間なんて思ってるより不確かなものだよ。それに時間はいくらでもあるんだし」


 状況が違えば希望に満ちた言葉に聞こえたのかもしれないが、いまはそうではなかった。悪夢が永遠に続くことの示唆でしかない。

 ヘルツリヒは頑固というよりも、そろっている事実をただ述べているだけだった。根本的な倫理の部分で人間と大きく食い違っているという部分を除けば、論理的には彼女の主張が正当だった。そしてその根っこの違いをヒューは埋められない。だから立ち位置を覆せない。


「期限を決めたほうがいいんじゃないか? ポーシャの考え方は変化を期待するには望み薄な部分だろう」


「それはヒューが決めることじゃないよ。期待をするのは私。それにね、期限を決めるっていうのはヒューに言うつもりの言葉だったんだよ」


「意味がわからないな」


「一週目で答えまでたどりついて優秀だって話。ポーシャの説得は別にヒューじゃなくてもよかったからね」


 ヘルツリヒは退屈そうに地面を蹴った。彼女にとっては当然のことを話しているのだからおかしなことはないのかもしれない。蹴られた白い地面はふつうの土の地面と同じようにちいさい粒を散らせたが、やはりそれも白いせいで現実感を失っていた。雪とも違っている。確実に土だと言える。しかし色のせいで何かが麻痺しそうになるのだった。

 いよいよヒューは追い込まれていた。勝算ははじめから低いとわかっていたが、ここまで手も足も出ないとは思ってもみなかった。もう彼は覚悟を決めなければならなかった。そのためにも最後に聞いておくべきことがあった。


「なあヘルツリヒ、仮にポーシャの絵を手に入れたとして、そのあとお前はどうするんだ?」


「うれしいけど、だからってどうもしないよ。繰り返しはやめるけど、それだけ」


 この一言でヒューは腹を決めた。

 だから彼はヘルツリヒにひと言だけ言わなければならなかった。口を開こうとしたとき、胸にこみあげるものがあった。それが悲しみであることを否定できなかった。ここで話したのを除けば彼女との会話は楽しいものだったのだ。


「じゃあ、わかった。さよなら」


「うん。じゃあね。ポーシャによろしくね」


 ヘルツリヒは手を振った。ヒューはただ後ろに振り返った。

 すっかり周りを取り囲んだ白色が後ろを振り向くとやっと途切れていた。ヒューの自宅方面の木々は、派手ではないがきちんと記憶にある色彩をしていた。これまでにいた空間がいかに異常であるかがより強く認識された。踏みしめた地面が現実のものとはとても思えなかった。その清潔で毒々しい色の地面が、彼の歩くのとは反対方向に移動していく。その範囲上にある木も葉も白が抜けて元の色を取り戻していく。白い森はただ去って、ここは生き物のいないだけの森に戻る。

 方位を確かめながら自宅のほうへまっすぐ歩く。もうきっとヘルツリヒも自分から目を離しただろう、と思ってからももう少しだけヒューは歩いた。


 そこは森の端まで五分ほどの位置。ヒューはそこにしゃがみ込んでいた。生き物の匂いのしない奇妙な森で、疲れたということもないのに簡素な野営の準備を調えようとしている。せいぜいが湯を沸かせる程度のたき火を、周囲の木々を材料に作成していた。火をつけて、長続きするように丁寧に具合を確かめる。ヒューは息を吐いて、森に入るための最低限の用意の中から布を取り出した。松明に使うための油をしみ込ませた布。それを準備しておいた木材に巻き付けて、火に近づけた。

 勢いよく燃え盛る火をヒューはじっと眺めた。なにかに怒っているようだった。上へ上へと行きたいのに、燃えるための土台である布に足をつかまれてどうしても離れられないといった感じに見えた。

 ヒューは松明をそばの木に近づけた。

 しばらく待つと火がついた。ぱちぱちと木の幹が爆ぜる音がして、煙があがった。火ははじめ小さかったが、広がるのは早かった。ヒューはもう一本の木にも同じように火をつけた。

 北の町は気温が低いから空気は乾燥し、その地域にある木々はそのせいで水分を多く含むことができない。密生の具合から言えば二本か三本についてしまえば火の回りは早い。葉の鋭い針葉樹がまたたく間に熱病に浮かされていく。静かな森が騒がしくなった。この森に生き物はいないのに。そう思うとすこしだけ笑うことができた。

 最後にヒューは松明を力いっぱい森の奥へと放り投げた。地面に転がってもしばらくのあいだは火を絶やさないだろう。周囲では無差別の方向に火の手が進んでいる。もうヒューにはその進行具合を知ることはできない。空気の温度が上がり、どんどん煙の量が増えていく。酸素がなくなっていく。走らなければならなかった。

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