16 叫び声のあとで

 木が弾ける音と火の立てる音が辺りを支配する中を駆け抜ける。赤い病気は伝染が早く、走り始めた段階ではヒューよりも先にいた。やっと追い越したあたりで今度はやかんを落として痛めた足が主張を始めた。歩くのと走るのとでは負荷が違っていたのだ。不細工な走り方でどうにかこうにか前へ進む。森の終わりが見えた。いつもの生活へと帰れる。そう思った瞬間のことだった。

 遠くで小さく悲鳴が聞こえたような気がした。

 振り返ってももちろん誰の姿もない。森は燃えている。すべてが終わろうとしている。白い森は燃えるのだろうか、とヒューはふと思った。すぐに何もかもが済んだあとに確認すればいいと思い直した。もういちど痛めた足を引きずってヒューは駆け出した。

 森を抜けてぜえはあと荒い呼吸を立てる。運動と火の熱で汗をだいぶかいていた。あごから汗の滴がしたたっている。森から立ち上る煙は幅が広すぎて、空から降ろされたカーテンのように見えた。馬鹿みたいな光景だった。

 息を整えて、ヒューは町の中心のほうへと足を向けた。彼は自身を善人とは思っていなかったし、そう主張するつもりもなかった。だから恥じることなく叫んだ。


「火事だ! 西の森が燃えている! 危ないから避難しろ!」


 人々はそれを聞いて西の方角を見て、ヒューの言うことが本当だと信じた。一人も彼が火を放ったとは思わなかった。

 ざわざわと町の中心に人が集まって、話し合いが始まる。火を消さないと町に被害が及ぶから、と消化を主張する人もいた。煙の範囲を見るにとても人の手に負える規模ではないから逃げる以外の選択肢はないと主張する人もいた。意見としてはどちらも筋が通っている。けれどもヒューは逃げるべきだという意見に賛成だった。確信があったのだ。この火災はどれだけ燃え広がっても西の森だけに留まると。しかしその説明をすることはできないから、ただ避難だけを声高に叫んだ。

 いずれ収束する結論にたどりつくのにそれほど時間はかからなかった。現実問題として、消火活動を行うには人の手が足りないことは誰もがわかっていたのだ。一斉に町の人たちは駆け出した。それぞれの大事なものだけを取るために家へと走ったり、何もいらないからとにかく早く火から離れようとする人もいた。ヒューにはそういうものがなかったから早く町から離れる一団に混じって走った。

 彼のうちに実感はそれほど育っていなかった。すべての感触を覚えていたが、ただ現象を眺めているといった感が強かった。他人事とまではいかないが、自分が燃やしたのだと手を握りしめてその責任に震えるといったこともなかった。まだ時間が経っていないからかもしれない。白い森という現実感のない場所にいたことが遠因となっているのかもしれない。


 町を離れた人々は、町長を先頭に隣町へと向かうことになる。あの規模の火災など収まるまでどれだけ時間がかかるかわかったものではなく、そうなると住居をはじめ様々な問題を無視するわけにはいかない。事情を話して隣町に助けを求めるほかはなく、行軍は小さいとはいえ町まるごとのなかなか見られない規模のものとなった。

 火の手からある程度は距離を取った彼らはのろのろと歩いていた。肉体的にも精神的にも走れるほどの余裕を全員が持っているわけではなくなっていた。誰か一人でも置いていくわけにはいかない。もしかしたら故郷をまるごと失くすのかもしれないと不安に思いながら一団は進んでいた。

 ヒューはその最後尾をついていっていた。ときおり振り返ると冗談みたいな量の煙が空へと立ち上っていた。まるで空が森からなにかを吸い取っているように見えた。


「ヒュー、あなたがやったの?」


 声のしたほうを向くとポーシャが不安げな顔をしていた。質問の形式をしてはいるが、彼女のなかではほとんど答えが出ていることがヒューにはわかった。だから嘘をついても意味はない。そんなことをしても余計な不信感と不興を買うだけだ。


「ああ、俺だ」


「ほかに採れる手段はなかった?」


「あったのかもしれない。でも俺には思いつかなかった」


 これが結論だった。時間をかけてもヘルツリヒを説得できる気はしなかったし、それ以外のやりようも浮かばなかっただろう。ヒューは自身に対してそういった評価を下していた。しかしそれももうどうでもいいことだ。火は放たれてしまった。そして森は燃えている。反省の選択肢は残っていない。それは次に活かせるときにだけ意味を持つものなのだ。そして同じ場面など二度と訪れない。だからもう終わったことであり、そのことを見つめてはいけない。それは大きな負担になって彼を壊してしまうだろうから。

 二人のやり取りは集団のざわめきにまぎれて、ほかの誰にも届かなった。


「火事、どこまで燃え広がるかな」


「西の森より外には広がらない」


「そうなの?」


「あそこだけ独立しているんだ。生き物もいない。音もしない。白い森の領域だからだ。特別な成り立ちは周囲から隔絶している必要がある。たとえそれがそうは見えなかったとしても」


「詳しいね」


「気にしないでいい。たまたまだ」


 ヒューのその軽い受け流しにポーシャは首を傾げたが、彼はそれに応じなかった。話すのが面倒なのか、もしくは聞かれたくない話なのかの判断がつかない。行きつく先は彼の過去の話になりそうで、とにかくそこに何かがありそうだった。だからこそヒューはそこに蓋をするような対応をしたのだろう。

 彼らのすこし先を行く集団にようやく余裕が出てきたのか、目の前の中年の女性陣が少人数で固まっていやな噂話を始めていた。彼女たちは楽しいのかもしれないが、聞かされる側はうんざりするような内容だった。それを聞きたくなかったからなのかはわからないが、ヒューがぽつりと話題を振った。


「ジェレマイアは?」


「前のほう。悪く言えば監視されてる。突然走り出したりしたら困るからって」


「そうか」


「本当は大丈夫なのにね」


 同い年に特有の、病気にかかっているのに本人が問題ないと言っているからそれを信じるといったものと同じ調子だった。周りはわかってはいないのだ、と言外に不満をにじませている。ジェレマイアの場合は風邪とは事情が違うからそう簡単ではないのだが、ポーシャにとってはそう見えるのだろう。いつもの絵の具で汚れたエプロンをはたいた。エプロンは厚手の生地だけでは再現できない動きをした。色彩豊かな重みが奇妙な波立たせ方を実現させていた。


「時間がかかると思う。あいつは町の人が怖くなってしまったから」


 そう、とポーシャはつぶやいた。彼女はジェレマイアがいまの扱いを受けている経緯は知っているが、その理由は知らない。いずれ知るのかもしれないが、それは本人が自分から打ち明けるときに限られるだろう。間違ってもヒューが話すことではなかった。

 ポーシャはすこし会話を挟むことで意を決したようだった。本当に聞きたかったことがあったのに、さっきはどうしてか諦めてしまったもの。


「ねえヒュー、どうして森を焼くことにしたの?」


「あいつはきっと本当のことを言ってたと思う。お前が白い森の絵を描けば偽りなく繰り返しを取りやめてくれたんだろうと信じることはできたよ」


「うん」


「でもヘルツリヒはきっと何度でも別のことで同じことをやるだろう。あいつが何かを求めるたびに誰かが何かに巻き込まれることになる。それはダメだ」


 ヒューが森を焼いたのはこのことが何よりも大きかった。ヘルツリヒは邪悪な存在ではなかったかもしれないが、自身の欲望に正直だった。その意味では純粋な、子どもに近しい感性を持っていたと言えるかもしれない。しかし力を振るうこととそれがもたらす効果を理解していた。それらを総合して判断するなら残してはおけない、というのが彼の結論となったのだ。


「そっか。そうだね」


 ポーシャにとって割り切るのは難しいことだった。彼女はヘルツリヒと一度も話していない。事件の渦中どころか中心にいながら、ほとんど蚊帳の外に置かれて解決されてしまった。だからポーシャには感想を述べることすら難しかった。ある意味では感受性が彼女を傷つけた。自分のせいで火事が起こされたと言うこともできたから。

 その傷をフォローすることは誰にもできなかった。誰にも共感できないし、誰にも痛みの理由を実感できなかった。もしそれができたとしてもかける言葉を持ってなんていなかった。ポーシャはそれを乗り越えるか慣らしていくかのどちらかを選ぶ必要に迫られている。ただ運が悪かったというだけのことで。


「ねえヒュー、あなたはどうして町に入って来れたの?」


「かなり推測を挟むことになるが、それでも構わないか?」


「うん」


 返ってきた声は小さかった。


「そもそもお前たちの繰り返しは記憶を過去に飛ばすことで成り立っていたらしい」


「どういうこと?」


「よくはわからない。とにかく最後の日の記憶を抜き取って、最初の日のお前たちに入れることで一年間を繰り返させていたと言っていた」


「まあわからないけど、それで?」


「大事なのはおそらくお前たちの記憶だけを動かしていたことで、別に周囲の世界に影響はなかったってことだ」


 ヒューは手振りをつけていたが、それはあまり効果がなさそうだった。


「つまり、何回目かは知らないが、ある周回数でたまたま俺がこの町に来る気になっただけの話なんだ」


「正直、よくわからないんだけど」


「……この町のお前たちだけ時間が止まっていたと考えるといい。そこにいつも通り動いていた世界から俺が転がり込んできたんだ」


「じゃあヒューは偶然巻き込まれたってこと?」


「そうだ。俺以外の人間が来る可能性も常にあったんだ」


「そっか、まあ北の果てだもんね。ずっと人が来なかったんだね」


 どこかさみしげにポーシャはつぶやいた。


「ねえ、最後に聞かせて。どうしてヒューにはヘルツリヒが見えたの?」


「それは俺にもわからない」


「不思議だね」


 そのあとにポーシャが咳き込むと、二人は前を向いてもう目を合わせなかった。ゆっくり歩く人々の一団は道に沿っているから縦に長く、先頭はよくわからないほどに距離が離れていた。

 まだまだ日の長い季節は続く。ヒューはしばらく眺めていない暗い夜空を眺めたくなった。そんなことを言っていると、いずれ極夜がやってくる。太陽を見ない時期があるのだと思うとすこし心が落ち込んだ。

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