17 エピローグ①
ヒュー・ジェニングスは三十九歳になった。
走っても足は痛まなくなり、森での仕事も十全にこなせるようになってからずいぶん経った。極夜の季節を越えて、それこそやかんを足に落とした頃のことを思い出と呼んでも差し支えない時期に来ていた。
猟師としての生活もより安定したものに進化していた。森に入るたびにその特徴がはっきりと掴めてきて、猟の成果は立派なものになっていった。珍しいと聞いていたアブザなる動物を捕まえる経験もできた。いつだって森は生命に満ちて、匂いがあって、そして脅威であり続けた。猟師仲間であるコーリンとロブも一瞬たりとも気を抜かないように注意していた。
猟を終えればだいたいはいつものようにカフェでコーヒーを脇に寛いだ。ヒューが思っていた以上に重要な習慣になったようで、朝にコーヒーを楽しめない雨の日はよく不満そうにしていた。
町はずっと穏やかだった。ごくまれにやってくる商人を除けば誰も顔ぶれは変わらなかった。たいていの日は晴れて、雲が出る日はその残りだった。そして雲が出ればほとんどは雨か雪が降った。すさまじい種類の雪が降った。水分の含む量から軽さ、やわらかさ、一粒の大きさまで千差万別だった。それに風の要素を含めるとたったの一度も同じ雪は降らなかったかもしれない。北の地の厳しい特徴だった。そして雪の降る季節は太陽が空にある時間が極端に短かった。
この体験をしたことがなかったヒューには衝撃だった。一日がずっと明るい白夜を体験してもなお、一日がずっと暗い極夜は彼の想像を超えてきた。なにか想像さえも及ばない強大な力が世界のルールを捻じ曲げてしまったかのような気さえした。
夜の間に出かけること自体はおかしなことでもないが、いつでも真っ暗だとそれがみんなの活動時間になる。祭りやそういった特別な状況でなくて、町の人が暗い中を行動していることにヒューは混乱しかけたくらいだった。常識が覆ったと思いそうになった。
極端に寒い冬は北の森の様子も一変した。暗くて遠くは見通せなかったが、近くで木々に触れてみると小さな氷の粒がいくつもついていた。木が凍りつくということをヒューははじめて知った。分厚い手袋のせいでお互いに温度のやり取りはしなかったが、もしも肌で直に樹皮に触れれば体温を永久に奪われ続けるような感覚に襲われただろう。
雪のない時期に比べて、森の動物たちは明確に人間よりも生き方を知っていた。彼らは雪の中の移動方法を知っていたし、逃げ方を知っていた。夜の闇がそれをさらに手助けしていた。人間が夜と冬に弱い生物であることが世界中のどこよりも際立ったかたちで示されるのがこの森だった。人は夜目がそれほどきかない。そして寒さに対しては服を着込むという方法でしか凌ぐ方法がない。それらは動きが制限されることにつながっていた。もともと野生動物と比べて運動能力の劣る種族だ。その差は冬という気候のなかで歴然となっていった。もちろん猟の成果は目に見えて落ちた。
コーリンとロブはそれを聞いて笑っていた。そんなことは誰もが知っていて、その代わりに冬は食べ物が腐りにくくなっているのだと教えてくれた。意外と目に見えないところでバランスは管理されていて、その一端に自分たちはいると酒を飲みながら気分よさそうに話した。そうかもしれない、とヒューは同意した。乱暴なやり方でもよいのなら、肉を外に放置しておけば凍っているような地域なのだ。
極夜の時期が終わって太陽が姿を見せ始めると、町は祭りの準備に取り掛かった。長い夜を終えたことを祝う祭りで、通常であれば誰もが眠りについているような、まだ真っ暗な時間から町民全員が黒いケープを纏い、趣向を凝らした仮面をつけて町を歩く。そして夜明けを待ち、太陽が昇るのと同時に仮面を空へと投げる。そのあとは多くの祭りと同じように好き勝手に騒ぐ時間だ。
その祭りではたいていの大人は自分で仮面を彫ると聞いて、ヒューも自身で彫ってみることにした。参考資料として過去に作成された仮面をいくつか借りて、伝統的な様式にのっとっての挑戦だった。
ヒューは職業柄もあって器用だったから、仮面の作成に手間取ることはなかった。しかし問題があったのはセンスの面で、ひどくまがまがしいデザインの仮面が出来上がった。ためしに見せて見ると猟師仲間も笑ったし、プロコープも笑った。友人たちが笑った理由が彼にはわからなかったが、評判とはそういうものだと納得することにした。わかっちゃいない、と一言だけぼそっとつぶやいた。
やがて祭りの日がやってきて、驚いたことにその日はヒューよりも早くに目覚めた人のほうが多かった。ヒューが支度を調えて町の中心に向かうと、老若男女を問わずに衣装に身を包んで楽しそうに騒いでいた。夜明け前から祭りは始まっているから、そこらじゅうに足場のしっかりした松明が立っていた。まるで炎が空の暗さを薄めているかのように、空の端が明るくなり始めていた。星の居場所が奪われつつあった。路上には目にしたこともないような大きなテーブルが出ていて、そこには料理や酒が所狭しと並んでいる。人々は仮面だけは外さないようにそれを飲み食いしたり踊ったりしていた。
すっかり町の一員として馴染んだヒューは祝祭を大いに楽しんだ。鳴る音楽に合わせてステップを踏み、思いついた方向に手を動かしてターンまで決めてみせた。息が切れると近くの飲み物を取って適当な家の壁に寄りかかった。すこし休むとまた集団のなかに紛れ込んで誰かわからない人の手をとって踊った。
そして北の山を越えて太陽が昇ると町民の全員が空に向かって仮面を放り投げた。いくつかの仮面は空中でぶつかって、ひょろひょろと地面に帰ってきた。ぶつからなかった仮面は回転したまま地面を跳ねた。黒いケープも脱ぎ去ると、そこはただの立食パーティーだった。今度はそれぞれの顔が見えるぶん、もっと明るいものだった。だらしない大人は早くも酒のせいで顔を赤くしていた。
ヒューはひとしきりそれを楽しむと、やがて町の南へと歩き出した。太陽が昇ってしまえばもうすっかり落ち着いた時間で、時計の針はどちらかといえば昼に近い数字を示していた。
用のある人物が予想通りの場所に立っていた。落ち着かなく視線をあちこちに飛ばしては、ときおりひときわ声の大きい町の中心部を眺めている。家の壁は寄りかかられ過ぎて、いつかそんなかたちに歪んでしまいそうな気がした。
「ジェレマイア、朝の祭りには出たのか?」
「あ、朝のはやったよ。端のほうだけど。か、仮面があれば、まだマシなんだ」
「仮面を投げたらこっちってわけか。頑張ったな、お疲れ様」
「料理もいくつか押し付けられてる。あ、あんたが思うより参加してるよ」
事件以降は仲良くなったというよりも、異様な秘密を共有してしまった不思議な関係性からか、お互いずいぶんと軽口を叩くようになった。周囲は単純に仲良くなったのだと解釈しているが、彼ら自身はそうは思っていない。しかしそこに厳密性は要求されていないこともあって否定はしていない。実際には仲良くなっているのかもしれない。
ジェレマイアの足元に目をやると、たしかにいくつか皿が積まれている。もらった料理を律儀に食べたのだろう。彼の細身を考えると量が多いような気がする。頑張ったのかもしれないし、あるいは意外と食べるタイプなのかもしれない。
「いいことだ。一日中あそこで騒いでられたら文句なしだな」
「じょ、冗談だろ。あんただって無理だ。そ、それはもう人間じゃないね」
会話の接ぎ穂として二人は笑った。
町の中心では祭りに特有のバカバカしい事件がずっと起きているようだった。酒の飲み比べで倒れたり、子どもが高いところに登って本気の説教を受けたり。危ないには危ないが、それでも後日に笑い話にできるような水準のものだった。普段が牧歌的な町であったから、そのぶん羽目を外してもこの程度で済んでいるのかもしれない。
そんな様子をすこし離れたところから眺めていられるのは幸せのかたちのひとつと言えたかもしれない。その気になればいつだって輪の中に入ることができるのだ。
この祝祭は彼らが繰り返した一年にももちろん含まれてはいたが、ジェレマイアは一度も参加しなかったと言った。だからずいぶん久しぶりだとも。彼がどんな思いを抱いていたのかをヒューに推し量る術はなかったが、それでも背中を叩いてやりたくなった。
ヒューとジェレマイアは長く話し込むような付き合い方をしていなかったから、今日もいつものようにすこし話して別れた。話したくなればふらっと足を向ければいいだけだ。彼らの人生はまだまだ続くうえに、この町は大きくない。焦るようなことは何もなかった。
ジェレマイアの家から西、町の中心から見れば南西の方角には墓地がある。町でももっとも用事のない場所だ。ましてや今日は祝祭で、多くの町民がその区画のこと自体を忘れている。ヒューはそちらへ足を向けていた。いちおう草が生えない程度には道は整備されている。初めからわかっていたことだが、誰の姿も見当たらなかった。
太陽も祭りのことを知っているのか、とっておきの青空と光を連れてきている。まっすぐ一直線に前が見渡せるところまで来ると、そのせいで立ち眩みが起きたほどだった。
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