18 エピローグ②
牧歌的な町の色合いとは似合わない石造りの門があり、家屋と道の仕切りになっている柵よりよほどしっかりした造りの柵がその区画を規定していた。柵の根元には名前のわからないちいさな白い花が咲いていた。
門をくぐってヒューは驚いた。想像以上の数の墓があったからだ。こんな町の規模でもこれだけの人の、家族のそれがあるのだと思うと時間の重みを感じた。あたりを適当に見渡してみると、新しいものあり、苔むしているものもあった。ヒューはそのことを悪いことだとは思わない。生きている人間は生きていることを最優先に生きるべきだと考えていた。掃除や花を添えたりするのは余裕があるときでいい。間違っても死者に縛られてはいけないというのが彼の考え方だった。
さて呼ばれては来たものの、思ったより広いせいで待ち合わせ場所には向いていないようだった。さいわい彼には時間があったから、うろうろしながら目的地を探せばそれでよかった。
やがてヒューはポーシャを見つけることができた。
いい天気だな。祭りのほうは?
見た見た。ああこんなんだったな、って感じ。
好きな料理はあったか?
意外と私なんでも食べるよ。嫌いなのは牛乳だけだね。
そう言ってポーシャは笑った。広い広い墓地でたった二人でいるのも奇妙な感じだった。すくなくとも一般的にはここは雑談の場所としては認識されていない。しかし色眼鏡を外してみるといいロケーションではある。やわらかい草地が遮るものもなく広がっているのだ。ピクニックの条件としては最上のものだろう。もちろん墓石を無視して、という話だが。
空の青と太陽の光が素晴らしいせいで、わずかに出た雲も白さを際立たせていた。千切れ雲がふたつみっつと考えなさげに遠くのカンバスに置かれている。
呑むかと思って酒を持ってきたんだが。
いいね。祭りの日だもん。真昼間っからでもバチは当たらないでしょ。
ここではいくつから呑めるんだ?
家によって違う感じ。私のところは十二歳くらいだったけど。
早いな。
やっぱり別の町だと違う?
俺が見た限りだと十六歳や十八歳からってのが多かった。体ができてからだな。
ポーシャは何かを考えていたようだったが、それが何かはヒューにはわからなかった。体ができてから、という論理性について考えていたのかもしれないし、言われてみれば早すぎるような気がする、と思ったのかもしれない。それは口に出してもらわないとわからないことだった。
ヒューが酒を注ぐとポーシャはうれしそうにしていた。初めて出会った相席の日を除けばふたりは食事を共にしたことはなかったから、彼女が酒をこういうふうに喜ぶことにヒューは驚いた。彼は普段が自分と近い年齢の層とばかり付き合っているからそう思ってしまったのかもしれない。若くたって酒を楽しむことができる人は多い。
ねえ、久しぶりの話だけど、森ってどうなるの?
……結果がわかるのはずっと先のことだろうな。死んだかどうかさえわからない。
死ぬと、どうなるの、森って。
長いあいだ、何百年ものあいだそこは森じゃなくなる。そのあとで復活する。
見に行かないほうがよさそうだね。
単純に危ないのもある。かたちの残った木が脆かったりするしな。
詳しくない?
全部聞きかじりだ。たまたま知り合いだったんだよ、詳しいやつと。
ふたりは燃えた森のある西のほうへと目をやった。前まではそちらのほうには背の高い木々がその先を望むことを防いでいたが、いまそこにあるのは空だった。一気に視界が広がって、どこか据わりの悪い部分が残った。それまでは町に届くことのなかった潮の匂いが届くようになったこともそうだし、それまでは低い壁くらいに思っていたものがなくなったせいで、不安な風通しのよさを感じさせていた。
あれ以来、西の焼けた森を抜けて海岸まで行ったという話は出ていない。おそらく町の何人かは行ってみようとしただろう。しかし焼けた森はそれまでの生命の匂いのしない森のときよりも、はるかに立ち入るのを躊躇わせた。姿かたちがあったときはどこか不気味な感じがするくらいのもので済んでいたところが、明確に拒否の気配を感じさせるようになったのだ。ヒューも一歩だけ足を踏み入れて、即座に立ち去ることを決めた。人の歩ける空間ではなくなってしまった、とヒューは理解した。
そうなってしまった理由の正確なところは誰にもわからない。
草地に座ってしまうと辺りの墓石の多くが隠れるからすこし気分がラクになった。墓地でそうして酒を呑むのは不敬と言えば不敬だが、それは彼にとっては心の持ちようでどうにでもなるものだった。優先順位をはっきりさせておけばいい。
今日は風が吹いていなかった。空間の四隅を鋲で留めたようにぴたりと空気は動いていない。動けるのは自身の生命を燃やして歩ける者だけだった。
お祭りに戻らなくていいの?
あんたと一緒だよ。すこし疲れた。俺も日の出前から騒いでたんだ。
意外とそういうタイプなんだね。
こういうのは乗っかるものなんだよ。参加しないと失われるものがある。
なんとなくわかるかも。
明日からは静かなのが好きな人間に戻ればいい。
言ってからヒューは額に手をやった。自分の言っていることがどうにも説教臭くなっていると気付いたからだ。もしかしたら明確に年下と認識した相手とはもう普通に話すことはできないのかもしれない。その可能性にヒューは傷ついた。年々ちいさなことで傷つく機会が増えていく。歳を重ねるとはそういうことなのかもしれない。
ポーシャは勝手に一人で沈んでしまったヒューを不思議そうに見ていた。たしかに何を言われたわけでもない中年がそうなっていれば当然の反応だろう。これは本人でなければ誰にもわかってあげられない問題だった。その意味では感情を外に出してしまったヒューのほうに非がありさえした。
それからしばらく、ふたりはぽつぽつとだけ会話をした。その会話に実りはなかったし、求められなかった。一週間後の天気よりも重要度は低かった。それが成立したのは、彼らがもともと口数の少ない人種だったからだろう。そして相手にもそれを求めなかったのだ。男女だから、と気まずさを感じるような性格でもない。ただ友人と何もしない時間を楽しむ。ふたりにはそれができた。
どこでついたかわからない区切りがあって、ヒューは地面から腰を上げた。持ってきた酒はまだ半分近く残っていた。それはどうやら置いていくらしい。まだ動く気配を見せないところから判断すると、ポーシャはまだここに用事があるらしい。場合によってはヒューが用事の邪魔をしたのかもしれなかった。とはいえ時間はまだまだある。それくらいのことで誰も目くじらは立てなかった。
墓地から出て、西の森のあったところに沿って北へと向かうとヒューの家がある。彼は墓地を訪れたのは初めてだったから、北上して自宅に向かうのも初めての経験だった。まったく誰も通らない道なのだとすぐにわかった。居住地域の草地と比べて、その伸び方は雑でたくましかった。気付けば皮膚を傷つけるような長さと鋭さを有している。その昔に道として造ったらしいものが地面に残っているが、わずかに植物の進出を食い止めているだけだった。その道を歩くよりも左手に見える燃えた森を見ているほうが方角をよく確認できると思えた。
西の森は無残という言葉がよく似合った。その木々のすべてが中途半端なかたちを残して
ヒューは自分が歩いている道を草が覆っているのに対し、ヘルツリヒが住んでいた場所にはそれすらないことを発見していた。いくら森林火災とはいっても、そこまで根こそぎ消滅するものだろうか。こんな考えがヒューに浮かんで、視線がそちらへと固定された。
「白い森」
ヒューはその言葉を口にしてみた。やはり前と後ろに正しい言葉としてのつながりは見出せなかった。それは致命的な断絶に思える。この町では、森よりも夜のほうが白いことが自然なのだ。自分の頭で考えてヒューはすこし混乱した。
いまはもうないこの森が、なにか特別な意味を持っていたのかもしれないとヒューは感じ始めた。それは非現実的な、神や妖精といった類の話ではない。森が森としてあることでヒューの知らないものを成立させていたのかもしれないという意味でだ。もしもそうならヒューは森を焼いたと同時にその後ろのなにかを壊したことになる。しかしもう取り返しはつかず、彼に後悔は許されていなかった。
死んだ森はずっと語り掛けている。自分は町の西に在り続けると。西の端の外れの家で生きていく限り、ヒューはその声を聞き続けることになる。しかし彼はまだその事実に気付いていない。ただ姿を変えた森を見ながら歩いているだけだ。
太陽がその日のいちばん高いところを過ぎて、祭りも落ち着きを見せ始めている。多くの人が騒ぎつかれて家で休み、残りの人は外でぐったりしている。ある意味での今日は終わりを告げようとしていた。
ヒューは一度だけ前のほうに視線をやってまだ家が見えないことを確認した。そしてまた焼けた森に目をやった。いっそのこと足を止めて眺めようかという気にさえなった。そこに美しさはない。火が通った木々にそんなものを見出すのは拗ね者くらいしかいないだろう。それでもヒューはそちらに目を奪われた。
ヒューにはそれらがだんだん森や森だったものに見えなくなってきていた。隣町の悪いシスターの冷めたような横顔が見たくなった。
白い森 箱女 @hako_onna
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