13 真っ黒な眠り、静かな朝
ポーシャの家から自分の家へと帰るあいだ、自分は何をしているのだろう、とヒューは考えた。すべてが終わったと考えてこの北の端の町まで来て、そうしてまた邪悪なものと向かい合っている。気付かぬうちに穴へ飛び込む習性でも持って生まれてきてしまったのか、あるいは邪悪なものが自分の首根っこをかわるがわる掴んで離そうとしないのか。そんな方向に考えが進んでしまうほどにヒューは疲れていた。
無視という選択ができる精神性ならきっと苦しまなかっただろう。ちっとも事情を知らず、ジェレマイアという男がただ発狂したとだけ思っていればよかったのかもしれない。しかしヒューはどちらでもないのだ。事情は知ってしまったし、無視はできなかったのだ。もしもそうしていれば彼は人生の折々にそのことを思い出して悔やむだろう。目に見える後悔を選ぶほど愚かな行いもない。
家のドアを開けて、ヒューはまっすぐにベッドへ向かった。隣町から帰って来て、ちっとも休まずに一日を過ごしてきた。時間も沈まない太陽も、どうでもよかった。ただ眠りたかった。目を閉じると脳みそだけがその場でゆっくりと回転しているような気がした。
真っ黒な眠りだった。まぶたを下ろしてから目が覚めるまでの隙間がヒューにはわからなかった。寝たのか不安になるほどだった。しかし時計はきちんと回っていた。いつも起きるのと同じ時間を指している。普段以上にたっぷり眠ったことになるが、これは疲労の具合がぴったりこの時間に合っていたのか、あるいは習慣の力が強すぎて自動的に起きてしまったのか。判断は下せなかったがどちらでもいいことだった。
朝食を摂りながら、今日はどうするべきかをヒューは考えた。繰り返しからの解放が最終目的だが、その手順がまったく見えない。具体的に何をすれば繰り返しが終わるのかがわからないのだ。いちばん簡単な話であれば、原因にやめるよう説得をして成功すればいい。しかしそれがうまくいくとはとても思えなかった。
猟に出る時間が来てもヒューは家をあとにできなかった。落ち着きなく家の中をうろうろ歩き回ってはかたちをなさない考えを頭を振って消し続けた。何かをしなければならないのに、その何かが影さえつかませないことがヒューを苛立たせた。
普段なら北の森に入っている時間だったから、町はいっそう静かだった。おそらく起きているのは町全体でヒューだけか、もしくは猟仲間ぐらいのものだろう。空気に流れがないことを肌で感じることは本当に珍しいことだった。ヒューも初めてそれを体験して驚いているほどだった。日常は動き過ぎているほど動いている空気のなかで暮らしているせいで気付けないのだ。それが当たり前だから。
足を一歩踏み出すと、水底の澱のように細かい空気の粒が浮かび上がった。ひとつ動き出すともう止まらない。長い時間をかけて落ち着くまで、それは漂う。そしてその波紋を生んだ存在も動くことをやめない。空気が静まる道理はない。気配とは案外こんなものなのかもしれない。
「私に会いに来たってこと?」
「もう姿は見せないものだと思っていた」
「別にヒューのことが嫌いなわけじゃないからね。びっくりしたのと頭に来ただけ。まさか人間とは違う界の存在をもう知っているとは思わなかったから」
余裕と取るべきか、そもそもそういったこだわりを持たない存在なのか。明け透けな物言いは言葉に疑いを持たせなかった。ヒューの知らない言葉も当たり前のように使っているあたり、隠そうとしているものがあるようには思えなかった。
目の前にあるのは望外のチャンスだった。ヒューがほとんど確信している原因がそこにある。もうやめるよ、とそれが言えばすべてが収まる。元に戻らないものはあるかもしれないが、いったんの区切りをつけられる。歩き直すことができる。
しかし懸念もある。ここで決裂してしまえば糸がぷつりと切れてしまう。両側から引っ張るものだから、そのあとで結び直そうにも結び目になれる糸の先がぐいぐいと離れてしまう。きっと決定的になるだろう。相手は人に見えても別の存在だ。常識が通じる相手ではない。それが思うままに振舞うのだ。
「運悪く人生のあいだにそういうものに出会うやつもいる」
「前にそういう人の話を聞いた。ばからしくなっちゃうんでしょ?」
「そうかもしれない。俺がここに逃げてきた理由はそれだしな」
「その話、聞いてあげてもいいけど」
ヒューは首を横に振った。
「聞いてわかる話じゃない」
「……いいけどね。それで、どうしたの。どうして私を探そうとしたの?」
「ポーシャとジェレマイア、このふたりを解放してやってくれないか」
ヘルツリヒはしっかり目と目を合わせたまま、あごをさすり始めた。何かを考えている。それも難しいことに対して頭を使っているのではなく、楽しいことをどうにかもっと楽しくできないかと知恵を絞っているといった様子だ。誰も、この場にいるのはヒューひとりだが、何もできなかった。考えることをやめさせるのは不可能だ。できたとしても邪魔をするくらいで、先延ばしにしかならない。そしてそのことに意味はない。
頼む側の立場は弱く、ましてや代わりに差し出せるもののないお願いと変わらない現状だとたった一言で吹き飛ばされてしまうほど脆弱だった。右向け右、三回回ってワンと言え、それらに従ったあとで気が変わったと言われればそれまでだ。全権を、突き立てる刃を持っているのはヘルツリヒなのだから。
ヒューには何も言えない。現時点でヘルツリヒと話していること自体が先走りなのかもしれない。しかしまた会えるなどという保証はなかった。
「そもそもさ、解放させてあげたくなるほどの何かを私がしているとして、それなら私の目的は何だと思う?」
間違っても繰り返しやそれに準ずる言葉は出て来そうになかった。しかし一点だけ救いがあった。すくなくとも現時点では会話をしてくれる気があるということだ。
「お前の言う界が違うのなら価値観も違うんだろう。俺たちにそれがわかるとは思えない。まずその界ってのが初めて聞く言葉だからな」
「あんまり私たちを理解できないものと捉えないでほしいかな。これでもかなり歩み寄っているんだよ、私たち」
「スタート地点が違う。理解できないものじゃなく、認識の埒外にあるんだ」
それこそ人とアリの比較だった。人はアリを上から見下ろして観察したり弄んだりと自由に振舞う。一方でアリの視点では人間などただの巨大な動く何かでしかない。それは時には登る壁であり、訳も分からず迫る脅威でもある。その違いはヒューとヘルツリヒのふたりと並べてみると相似形を成していた。それを上から理解し合えると投げかけるのは傲慢な暴力であった。
だからこそヘルツリヒには余裕があるのだとヒューは理解していた。魔法のステッキどころか指をちょっと振るだけで台無しにできるのだ。ポーシャもジェレマイアも解放しないと宣言すればそれで済む。ヒューをからかうのに飽きればいつでも言ってしまえばいい。不利も不利だった。それを自覚したうえで達成しなければならないことを考えると、力を抜いて膝をつきたくなる。ヒューはそんな後ろ向きな誘惑に抗い続けなければならなかった。
「ヒュー、それは自分から道を閉ざしてることになるよ。理由がつけられても、だからって理解できないものと決めつけたらおしまい。私と話してる意味がなくなる」
「……あくまで立ち位置と基準の違いについての話だ。俺もお前が何かをやりとりできる存在と考えて話をしていると思っている」
「なるほど? 私が求めているものがあると見てるんだ」
「そうでないと説明がつかない。気まぐれなんて無目的なことを言われたらたったのそれだけですべてが崩壊する。何もかもがそれで片づけられてしまう」
ちいさな子どものように、口を横に広げてヘルツリヒは笑った。肯定的で屈託のない笑顔だった。与える印象は無邪気なものだが、実際にどうなのかは知れたものではない。隠し事が前提にあっては好意的に見るのはどうしても難しくなるものだ。
ヒューはその隠し事を言い当てることどころか見当をつけることもできないから、どうにかして粘る必要があった。そのなかでヒントの端切れでもつかめれば万々歳の戦いなのだ。
「ヒュー、あなたの弱点はね、私が誰なのかを当てられていないことなんだよ」
「ヘルツリヒ? どういうことだ」
「ヒューの言うこともわかるよ、私たちはたしかにステージが違う。それじゃあ会話をしてる意味は薄まるよね。だから私についてもっと考えて。これは善意だよ」
変に迂遠な言い回しは、限界の譲歩ということなのだろう。これ以上を口にすると面白くなくなるのだ。ヘルツリヒの感じる面白さがどこにあるかということは大事なことではない。優先されるべきは同じ舞台に立てる道筋が用意されているということだ。そこにたどり着けばできることが増えるはずだ。
ヘルツリヒはこれまで会って話をしてきたのと変わらなかった。まるで笑っていることをやめないことを自身に課しているようだった。それが崩れたのは一度だけ。隣町で妖精について話をしたときだけだ。ヒューはそこに何かを見つけられないかと考えたが、それについては本人が腹を立てた理由を白状していたことに思い当たった。
くるっと体の向きを変えてヘルツリヒは朝もやの中へと消えていった。話すべきことは現時点ではもうないのだろう。主導権はこちらにはない。ヒューは感触のあるものを手にしたかった。木の枝でも石でもよかった。あるいは拳を突き立てられるものでもよかった。その願いをすぐに受け入れてくれるのは地面くらいしかなかった。
成功とは言えないが、得るものがないこともない評価の難しい対話だった。
その場に立ちすくんでいても誰もヒューのもとを訪れなかった。時間帯で考えれば当然のことだ。猟が終わって北の森から帰って来てようやく朝の早い町の住民が動き出すくらいなのだから。哀れな戦いだった。得られたものが本当に手に入っているか不確かだった。しかしそれを信じないと打つ手がなくなる。気乗りはまるでしないが、めくらめっぽうに両手を振り回してもそばにいる人に迷惑がかかるだけだ。
協力できる、情報を共有できるのはポーシャとジェレマイアのふたりだけであり、彼ら以外に話をすればヒューもめでたく狂人の仲間入りであった。もちろんそうした行為に意味はない。仮にそうすることで繰り返しからの解放に近づくのだとしても、三人にもこの先の人生があるのだから避けるべきなのだ。
足をひきずるようにしてゆらゆらと家へ引き返す。まずはヘルツリヒの言っていたことを整理しなければならない。できることがあるのならすぐにでも行動を起こしたいのに、じっと考える作業に向かい合わなければならないのはつらいことだった。
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