12 繰り返すもの②

 ジェレマイアのもとを離れて、まずヒューには向かうべき場所があった。本当ならまっすぐポーシャのところへ行けばいいのだが、ヒューは彼女の家を知らなかった。その辺りの町民に尋ねてもいいのだが、厄介な噂でも立てられると面倒だ。ヒューは無視してしまえるかもしれない。しかしポーシャにそれができるかはわからない。だから彼はそういった影響を軽減できるところに向かう必要があったのだ。

 いくつかのコーヒーの香りが混ざり合っていた。店内の客はそれぞれの時間を楽しんでいる。一人客もいたし、二人で向かい合っている客もいた。三人以上で座っているテーブルはなかった。町としてそういったものを持っていないから、優雅とは遠い空気が店内を満たしている。のどかだった。


「やあ、ヒュー。昼間に来るのは久しぶりだね」


「そうか? そんなつもりもないが」


「最初の一回くらいでしょ。だからどうってわけじゃないけど」


「まあいい。ちょっと聞きたいことがあって来たんだ」


 こういった物言いが珍しいのか、プロコープは首をかしげた。

 店内の他の客に聞こえないようにヒューは声をひそめた。


「ポーシャの家はどこだ? 絵を見に来いと言われたんだが場所がわからない」


「ああ、みんなお互いの家を知ってると思い込んでるやつか。ポーシャちゃんの家は町長の家の近くだよ。向かって右に三軒となり」


 プロコープもあわせて声をひそめた。ただのノリを合わせただけなのか、もしくはこの町に住みながら町の常識を知らないことを広めないために思いやってくれたのかもしれない。そのどちらでもよかったが、ヒューの期待していたことをプロコープは何も聞かずに達成してくれた。客と向かい合うことの多い店の主人とはこういった能力に長けているものなのだろう。伝えるつもりのない敬服の気持ちが生まれていた。

 ヒューはまたコーヒーに牛乳を溶かしていた。まろやかさが違う、と言えば耳触りがいいかもしれないが、本当のところは酸味が抑えられるからだった。何も足さなくとも飲めはするのだが、より好みに近づけるなら牛乳が必要なのだ。嗜好品であるコーヒーをわざわざ苦手なほうで飲む意味もない。


 いつもにくらべればプロコープとの雑談はずっと少なくヒューは店を出た。用事の前に立ち寄ったと言えば、これから訪ねる人の家も知らなかったの、と笑われた。うまい言い訳はヒューには思いつかなかった。

 彼の視界は無意識に狭まっていた。道を歩いているときにはその道しか視界の幅を持てなかった。脇に立つ家や、そばで作業をしている人たちの姿がまるで目に入らなかった。目の両端に黒いもやが下りているようだった。

 早足にもなっていたのか、想定よりも早くポーシャの家にたどり着いた。それ自体には特別な個性のない家だった。この町でよく見る、寒さに配慮した家屋だ。聞いておいてよかったとヒューは息をついた。闇雲に探しても絶対に見つからない。何かを躊躇することなくヒューはドアを叩いた。


「はあい、いますよ」


 すこし間延びした声で奥からポーシャがやってくるのがわかった。声そのものはそっけなく、あまり歓迎の意識を訪問者に向けてはいないようだった。絵を描いていたのだろうか、とヒューは想像した。

 ドアが開くと髪を後ろにまとめたポーシャが姿を見せた。視線を下げるといつものエプロンがあって、付着したばかりの瑞々しい絵の具が光っている。どうやら想像は合っているらしかった。

 彼女はヒューを認めると、よくわからないといったふうに眉根を寄せた。思っていることが言葉にするよりも早く伝わった。しかしそれは当然だ。せいぜい二度ほど話した男が教えてもいないのに家を訪ねてきたのだ。怖いと思われても仕方ない。彼女は何度か首をひねった。


「私に何か用があってここに?」


「そうだ」


 いいよ、とポーシャは後ろ手にドアを閉めて、そこに背を預けた。簡単な用事だと思ったのだろう。無理はなかった。事前に話も通さずに大事な話もない。誰かに聞かせたい話でもないが周囲には誰もいない。とくに場所を選ぶ必要はなかった。家と道を仕切るように建てられている柵にヒューは腰を掛けた。


「……一年を、繰り返しているな?」


 ドアへの体重のかかり方が変わった。先ほどとは違って、いまはもう力が入らないから足をつっかえ棒にしてどうにか姿勢を維持しているといった具合だ。呼吸がだんだんと荒くなる。吐く息の量に比べて吸う量が明確に足りていない。図星だなんて指摘するだけ無意味だった。確認を取ろうとすればそれだけ余計に彼女に精神的な負担がかかるだろう。

 呼吸の荒さが頂点に達して、ゆっくり時間をかけて落ち着いてきた。そのかかった時間の長さが象徴しているものにヒューは恐怖を覚えた。ジェレマイアはそれが表出していた。ポーシャはそうではなかった。しかし抱えていたものは酷似していた。


「ヒュー、……おかしいよね。ふと気付けることじゃないよ」


「偶然といえば偶然だ。でも俺以外に気付けるやつもいない」


「どういうこと?」


 ヒューは息を吸い込んだ。彼女からの話を聞く限り、ポーシャはヘルツリヒの名前をおそらく知らないだろう。名前を知ることが重要なことかどうかはわからないが、そうでないと円滑に話を進めることができない。順序を考えて話す必要があった。


「繰り返しを発生させている存在と知り合ったんだ。そいつは人じゃない。もちろん憶測になるが、俺は確信に近いものを抱いている」


「何を言っているの?」


「お前とジェレマイアと、もしかしたら俺をも巻き込んだ繰り返しには犯人がいる。悪い夢じゃないんだ。原因がある。原因があるなら取り除ける」


 ジェレマイアの名前を聞いた途端にポーシャの顔が強張った。彼のうわさを耳にしていないわけがない。この町は小さいのだ。こんなのどかな場所に似つかわしくない発狂したという男の話を聞けば疑うに決まっている。自分と同じ繰り返しに巻き込まれているのではないか、と。ヒューは彼女から言葉が返ってくるのを待っているわけではなかったがすこし間を置いた。

 やがて目の焦点が戻ってきた。そうして顔はほとんど動かさずに目だけがヒューのほうを向いた。


「ただまだ俺にはその取り除き方が思い浮かばない。ヒントがあればと思って話をしに来たんだ」


「私はその犯人を知らないからヒントなんてない」


「そいつの名前はヘルツリヒ。お前が絵に描いてみたいと言った肌の白い子だ」


 ポーシャはもういちど苦い顔をした。


「子どもだよね? おかしなこと言ってる自覚ある?」


「まともに聞こえないことは承知の上で言っている。見た目はそうかもしれないが、あれは人間じゃない。年齢なんかとは関係のない存在なんだ」


「そんなのいるわけないでしょ。要は神様とか幽霊とか、そういうのの実在を認めろって言ってるのと同じ。何ならヒューが犯人のほうが信じられるくらいだよ」


 目に力が戻ってきたが、その理由はヒューにとって悲しいものだった。しかし分は彼女にあった。未知の存在を信じ、未知の現象を受け入れろと言うのなら、それより要素を減らしたほうがいくぶんラクだ。目の前の存在が未知の現象を起こしていると言われたほうが比較的マシだ。本当は差などないとわかっていたとしても。

 そして難しいのはその証明ができない点にあった。未知がいるいないと言い合っても水掛け論にしかならない。だからどうにか信じてもらうしかないのだが、それこそ無理だと言われれば一言で終わってしまう。だからヒューにできることはひとつしかなかった。


「おそらく俺は例外なんだ。ジェレマイアが言っていた。あいつの繰り返しのなかに俺はいままで一度も現れなかった、と。ポーシャ、それはお前にとってもか?」


 間を置いて、ちいさくポーシャは頷いた。


「れ、例外って、どういうこと? ヒューは特別な何かを持っているの?」


「俺は特別なものはひとつも持っていない。だから例外の意味はわからないんだ」


 弱々しい声に対して、そこから救ってあげられるような言葉をヒューは持っていなかった。嘘でさえも。

 ヒューから渡せる情報をすべて開示して、そのうえで残った手札は貧相なものだった。ほとんど何もわかっていないのに等しい。ポーシャとジェレマイアが繰り返しに巻き込まれていること、おそらくヘルツリヒが関わっていること、例外的にヒューがそこに干渉していること。原因や理由に迫るものはまだひとつも出てきていない。


「こう聞かれても困ると思うが、繰り返しの理由に思い当たるものはないか?」


「……わからない。なんで私なの?」


 言葉の終わりに向かうにつれて声が震えた。目を背けたくなるほど悲痛な響きがあった。意味もわからず同じ一年を何度も過ごしているのだ。無理もないどころか当然だった。

 しばらく無言の時間があった。二人の理由はそれぞれ違ったが、なくてはならないことに違いはなかった。


「なあ、ジェレマイアとなにか共通するものはあるのか?」


「共通するもの?」


「わからない。血縁とか、そういう特殊ななにか」


 ヒューの歯切れは悪かった。どういった答えを求めているのかを本人さえ理解していない。目的地もわからないまま霧の中を進んでいるようなものだった。ある意味でそれは質問でさえないのかもしれない。ただの丸投げ。都合よく重要なことがわかればいいと星に願いをかけるようなものだった。

 当然ながらそんなものに期待するような答えは返ってこなかった。


「ジェレマイアは小さいころにいっしょに遊んでただけだよ」


「そうか」


「遊ばなくなっても、会えば話はしたよ。……しばらくはそんなこともないけど」


 おそらく彼女にとって当たり前になっているせいで意図しての言いぐさではないのだろうが、そこには通常あり得ない積み重ねが佇んでいた。

 ヒューは行き詰まりを感じた。これ以上ポーシャに聞いても彼女を傷つけるだけで意味はないように思えた。なにかを思い出すのにも時間が必要だった。ポーシャも混乱の渦のまんなかにいるのだ。いますぐ重要なことを思い出せと言っても難しいし、酷なことだった。

 用件は終わったからヒューはすぐにでもこの場を離れてよかった。しかしすぐには動きたくなかった。明確に疲労がある。体全体が重たい液体になったように力が入れづらく、ぐったりしたものが背中から全身を覆っているようだった。

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