06 お前は誰だ
一年のうちで太陽がもっとも空に居座る季節になっていた。白夜という現象が存在することは町に訪れる前から聞いてはいたが、体験してみると想像以上だった。体のなかの、あるひとつの機構がイカれてしまったような違和感があった。空が暗くならないことがこんなにも異常なことなのだとは考えようともしなかった。
そしてこの季節はひとりでものを考えるのに適していなかった。その意味ではこの太陽が沈まないということは、人が住むべきではないことを同時に意味していたのかもしれない。
眠るために目を閉じる段になってもまだその言葉の意味についてヒューは考えていた。だというのにとりあえずの結論さえ導けず、あの狂人そのものとは独立したいらだちを覚えていた。あの状況で人がいることに対して、どういうことだ、という言葉が使われる場合は限定されている。招かれていない人物がその場にいるパターンがそれだ。そしてそれを口にできるのは招待客が誰なのかを知っているか、あるいは招いた本人でなければならない。その前提に立つとあの男が矛盾した存在になってしまう。知らなかっただけ、偶然の可能性なんてことを口走ったのだから。
そもそも自分は誰にも招かれていない、自身の意思でこの町に来たのだ、と自分で考えたことに反論していると頭のなかがぐるぐるしだした。やがてそれは下り坂のようなスローな眠りをつれてきた。
翌朝、北の森に向かう途中でブーツの紐が切れた。そんなものの替えは持ってはおらず、靴を履き替えなければならなくなった。そうして引き返している途中で、さっき切れたのとは反対の靴の紐が切れた。正確に左右均等に使えていればそんなこともあるかもしれないが、まさかそんな美しいまでの靴の使い方ができるとも思えない。なんだかよろしくないものをヒューは嗅ぎ取った。
事柄は思っているよりも重なることがあって、それはたとえば一日のあいだの運が絡む状況ですべて悪い引きをしてしまったり、しばらく顔を見ていなかった旧友に突然に何人も出会ったりといったことがある。それらはただ不思議で数奇な巡りあわせであって、どのかたちの説明もつかないものなのだ。
靴のために家に戻ったヒューは心を落ち着けるために湯を沸かすことにした。こういうときは何かを口に入れたほうがいいと知っていた。水を汲んで火にかけようとやかんを運ぼうとすると、ずるっと彼の手から取っ手が滑り落ち、足の甲に水を入れたやかんがぶつかった。誰にも見られない、誰にも聞かれない激痛に苛まれているあいだ、ヒューは確信した。今日は何かをしてはいけない日だと。
痛みが落ち着くまでヒューはじっと椅子に座ってこらえていた。不幸中の幸いか、やかんの中身はあまりこぼれなかったから、それはさっと拭いて済ませてある。椅子の背もたれを脇に挟んでただ我慢する。じんじんと訴える痛みが脈に合わせたもののような気がした。何もしないことを自身で選択しているとき、人は思いもよらないどうでもいいことを考える。奇妙な連想が続いて次第に妄想へと変わり、時間が経つにつれて現実感が失われていく。ほとんどの場合、そうした空想のなかにヒューは自身を含まなかった。
普段通りに歩こうとすると、足の甲の一部分から突きあがるような痛みが走った。壁に手をつけるところでは手をつき、それが難しいところでは片足を引きずるように不細工な歩き方をした。さして広くない屋内でこれだ。いますぐ外に出るのは相当に厳しいだろう。どんなに早くとも数日は森にも入らないほうがいい。ヒューはそう判断を下した。
ただ時間が過ぎるのを待つのは退屈だった。猟の準備は基本的には十全で、細かいところは前日の夜に調整するのがヒューのやり方だった。時間潰しといえば本だが、それも古い友人に押し付けられたもので強い興味を持ってはいない。彼にしてみると一度目を通してしまえばそれでおしまいのもので、その意味では用済みのものが二冊あるだけだった。
ヒューに思いつくなかで最初に出てきたのは眠ることだったが、それこそ避けたいものだった。睡眠のリズムが狂ってしまったら、この町では致命的になりかねない。だから本来の眠る時間までは痛みに耐えて起きていなければならなかった。
「……すさまじい苦痛だな」
ひとりで外に出ることも叶わず、気を紛らわせるものもない。ただ流れる時間を過ごすことは一種の拷問に通ずるところがある。ついつい独り言をこぼしてしまうのも無理はなかった。
近くにある興味とは何かと考えたときに不意にヒューの頭に浮かぶものがあった。白い森。家からすぐのところにある西の森のどこかをさまよっているらしい。それがどういう状況を指すのかは理解していなかったが、とにかく異様なものらしい。見たことのある町民もいるというのだから頭から否定するのも難しい。もしも町ぐるみで嘘をついていても構わないが、だとしたら町という単位で異常とみなすだけの話だ。ヒューはその程度には真偽のつかない話を信じていた。
つっかえながら椅子を運んで窓際に置く。カーテンを開けると冷めたような木々が悠然と佇んでいる。遠目に見ているだけなのにやはり生命の匂いはしていないことがわかる。初めて踏み込んだ二か月前のあの日のように、音さえしないのだろう。そのことを思い出してみると、あの森に他ではありえないような何かがあったところで別に不思議はないように思えた。むしろそのほうが自然な気さえした。森は絵画のようにじっとしていた。
丸一日が経過して、二日目の昼下がりになった。いつしか足の痛みは薄れて、歩くだけならほとんど違和感なくこなせるようになった。ただすこしでも力を入れて踏み込もうとするとまだ突き抜けるような痛みが走った。つまりまだ猟には出られないということだ。安静だとか怪我人だなんて言葉が自分に降りかかるのは久しぶりだ、とヒューは自嘲した。しかも原因はやかん。人に話せば笑ってくれるかもしれない。
歩けるのならばということでヒューは町に出ることにした。家にいてずっと座っているよりは面白いはずだった。ひとりで窓越しに森と向かい合うよりも知らない人の話し声を聞いていたほうが落ち着けるというのが彼の考え方だった。
町中ではそれぞれがそれぞれの用事に心を砕いていた。前向きな用事も後ろ向きな用事も、どちらにも分類されない用事も、とりあえず人にはそれがあるようだった。もちろん人によってはそこに余裕があったし、その逆の人もいた。何もないのは足が痛いヒューだけだった。
だからヒューは歩いた。せっかくという言葉も当てはまるのかはわからないが、とにかく行ったことのないほうへと足を向けた。大通りを外れ、路地へ入り、見たことのない風景を探した。牧場があった。畑もあった。大きな屋敷があり、風車のついたサイロがあった。北の森から帰ってくるときに見えた風車だ。実際に近づくまでは帰りがけに見るイメージのような扱いしかしていなかったことに気が付いてすこし感動した。それはいわば月に触れたのと同じだったのだ。見えるけれど触れない。しかし本当はその存在を確かめようとしなかっただけでしかない。
あの男を見かけたのはそんな折だった。
「おい、ジェレマイア」
後ろから声をかけるとびくんと体が跳ねて、甲高い情けない悲鳴が短く上がった。怯えすぎのようにヒューには思えた。まるで悪いことをして逃げている最中に呼び止められたか、もしくは命を狙われていると自覚している人間の反応だった。
歯の根をがちがち鳴らして震えながらゆっくり振り向く彼の姿は哀れだった。怖いものが眼前にあるからこその反応なのだろうが、ヒューにはそれも奇妙なように思えた。そんなにも怖いものがこの町にあるだろうか。
「お、お前、このあいだのっ、なん、俺の名前を」
息を吸うたびにひいひいと音を立てて、それなのに目だけは攻撃的だった。きっと追い込まれたときにこのジェレマイアという男はこうなるのだろう。冷静さを失ってしまえば物事がいいほうに転ぶことはまずないが、彼はそのことを知っているようには見えなかった。
ヒューはどうして彼に声をかけたのかが後になっても説明できなかった。出来心と表現しても違う気がしたし、なんとなくと言うには趣味が悪かった。ジェレマイアがこう反応することはわかっていたのだから。そしてその先に何もない。すくなくとも声をかけた時点では目的らしい目的を持ってはいなかった。
「人づてに聞いた。別に変な話じゃない」
「おおお前が俺を知っていても、お、俺はお前を知らない。そ、そうだな?」
「ああ。俺はヒューだ」
奇妙な名前の聞き方だと思ったが、ヒューは気にしないことにした。おそらく狂ってしまったと言われる人物なのだ。むしろ会話ができているほうだと捉えるべきだろう。破綻まではしていない。空を食べたとか、脚が十二本あるオオカミが自分の親だと言い出したわけではない。共通の言葉で共通了解のなかでやり取りができている。じゅうぶんだった。
「ヒュー。ヒューだな。お前は誰だ、お、お前は何を知っている?」
突然にジェレマイアに向かい合う姿勢が生まれた。豹変。こういった急激な態度の変わりようは奥に抱えた事情を思わせる。事情、とヒューは頭の中で繰り返してみて驚いた。狂ったのではなくて、本当に何かがあるのだろうか。だとすれば、と考えたが、それは推測の重ね過ぎだと思考の暴走を押しとどめる。
気付けばジェレマイアは肩で息をしていた。興奮状態にあって、しかしそれを落ち着けようともがいていることがわかった。さっき思ったことをヒューは上書きした。ジェレマイアは狂ってなどいないのかもしれない。理性が働いているように見える。
「お前の名前と、すこし様子が変わったらしいことを聞いた」
「は? そ、それじゃ何も知らないのと、いや、嘘か! 嘘をつくな! お前が何も知らないわけ、な、ないだろ! この、この町にいなかったんだぞ!」
「落ち着けよジェレマイア。みんなこっちを見始めてる」
「くそ、くそ! ご、ごまかすなよ、話せよ! お、俺は、俺はもう嫌なんだ!」
この調子だとたしかに町の人々の評価が当てはまるかもしれない。ただ彼の主張には一貫性があるようにも思える。ヒューという存在がいなかったこと、そして彼には知り得ないことをヒューが知っているという二点だ。思い返してみればカウンターの隣の席に座ったときも似たようなことを言っている。様子が変になったというよりは妄執に近い。そしてヒューの経験上、妄執には独自の理論が伴うものだ。その理論を聞いてみたいとヒューは思い始めていた。ただ歩くよりもよほど時間つぶしに適していそうだという褒められない理由で。
「ジェレマイア、人のいないところにしよう。往来であまり騒ぐものじゃない」
見知った顔も見知らぬ顔も、気の毒そうな視線を彼らに向けていた。目の前の男は憤慨に近い興奮状態にある。暴れ出すことはないとヒューは踏んでいたが、それでも完全にゼロだとは言い切れなかった。それに心が落ち着いていないときに衆目に晒されることは決して良い影響を与えない。そのことが本当の発狂を引き起こす可能性もある。ヒューは町の家屋の間隔が比較的広いほうへと足を伸ばした。
苛立ってはいたようだったが、それでもジェレマイアは黙って後をついてきた。なんとなくだが、ヒューは彼の心持がわかるような気がした。彼がどんな状況にあり、どんなことに怯えているのかをまったく理解していない。しかしどこかで近い何かを共有できている気がしたのだ。窓越しに限られた空を眺めた経験と、井戸の底から空を見上げた経験のように。
やがて目指していたところにつくと、ヒューは適当な柵に腰をおろした。ぐるっと見渡せばあまり視界を邪魔するものはなかった。いちばん近い家でもあそこと表現する程度には距離がある。誰かの会話や作業の邪魔にはならない位置だった。
「話そう。俺もお前の言っていることがわからない」
「う、う、うるさい! お前も、どうせみんなと同じだ! 俺を狂ったと言うのに決まってるんだ!」
道々で考えすぎたのに違いなかった。似たような考えを似たような軌道でぐるぐる回せば洗練された悪い考えが生まれる。そして自分の力ではそれを打ち破ることができない。方向性の違いこそあれ、手塩にかけて育てた木のようなものなのだ。簡単な気持ちでそれを折ることはできない。もしかしたら気持ちのどこかに満足感さえ潜んでいるかもしれないのだ。
頭を抱え、そうかと思えばその手を地面と平行に振って、そうしてまた頭に戻る。出かけては巣に帰る鳥のようだった。ジェレマイアはうめいていた。何かに怯え、敵対し、そして自身に語り掛けていた。町全体から爪弾きにされているのならこうした反応も頷けるが、町はおおむね彼を心配していた。すくなくともヒューにはすっきり通る説明が浮かばなかった。被害妄想狂という線も残るには残るが、それにしては彼から具体的な話が出てこない。
うめきが落ち着いてきたころを見計らってヒューは尋ねてみた。
「ジェレマイア、お前は狂っているのか?」
「ほ、ほらな、そう言うと思ったよ。へ、へ、もう慣れた。お前もみんなと同じだ」
「違う。質問しているんだ。そうなのか違うのかを聞いている」
「俺は狂ってなんかいない。な、何度もそう言ったけどな、みんな、そう、みんながすぐ優しい顔で、い、言うんだ。休めって、気にしなくていいって」
ひどく憔悴して視線を落とした横顔は、見間違いかと思うほど老けて見えた。
「そう言われる理由はなんだ」
「俺が、わ、喚くからだ」
「どうして喚く」
「繰り返すからだ、現実が」
「日常に飽きたのか」
「ち、違う。わ、わかるか、俺が言っているのは、こ、この現実だ」
ジェレマイアは諦めたように空を見上げて両手を広げた。空から降るやわらかいものを受け止めるように。彼の瞳は潤んでいた。粒子の細かいすべすべの沼のように、触れようものなら途端に汚く崩れていく予兆のようなものがあった。
「今日という日が、き、昨日という日が、何度も何度もだ、あ、明日だってそうだ、繰り返されるんだ」
水を掬うように手を合わせて、そこをじっと見つめている。その姿は絵画的で、声をかけるのをすこしためらわれたが、それでは話は進まないとヒューは問うた。
「もっと具体的に教えてくれないか。俺の頭じゃ理解できないみたいだ」
「……な、なんだよ。ほ、本気にするなよな。へ、へ、冗談、冗談だよ」
ジェレマイアは卑屈に笑った。視線を合わせようとはしていない。ヒューがそこに感じ取ったものは、もうこれ以上この場ではろくに話をしてもらえないだろうということだった。間違いなく扉は閉ざされた。直前に失敗があったことが推測されるが、その内容がつかめない。アプローチが悪かったのか、使ってはいけない言葉を使ってしまったのか、あるいはもっと別の事由によるのか。反省しようのない失敗は始末に負えない。しかし悪かったところを聞こうと詰めようものならもっとジェレマイアは遠ざかるだろう。たしかに難しい相手だった。
ヒューにはすべての言葉が相手を刺激するものに思えて、何も言い出すことができずにいた。ときおりジェレマイアは表情を浮き沈みさせた。理由はわからなかった。無言の時間を場の終わりと理解したのか、やがてジェレマイアはゆっくりと来た道を戻っていった。その後ろ姿を追うことができるのは、彼に働きかけることのできる者だけだった。ヒューはそれに該当していなかった。
ヒューには先ほどのジェレマイアとの会話に矛盾を見ていた。内容が、ではない。理解されたいと願うのに選ぶ言葉が理不尽というような種類の矛盾だ。しかしこれはヒューの主観であり、断言していいかどうかは難しい。なぜならジェレマイアが話した内容が理解できていないからだ。もしかしたらさっきのように話すしかないのかもしれない。昨日が、今日が、明日が、現実が繰り返す。とてもなるほどと言えそうになかった。
一種の暇つぶしのつもりが、待っていたのは想像以上に奇妙な謎だった。正確にはまだ謎にもなれていない。ヒューがそれをどういったものなのかを消化できていないからだ。それは何か巨大なものに羽化しそうな可能性をはらんだ蛹であり、歪な紋様の刻まれた扉だった。見るからにあやしいそれを、しかしヒューは嘘や偽物とは見ていなかった。
ジェレマイアが去ったあとも、柵に腰かけたままでヒューはじっと考えていたが、結局これだという筋道の立った説明はつけられなかった。デジャヴのようなものかもしれないとも考えた。しかしあれほど怯えるだろうか。そんなものは誰でも経験するだろうし、せいぜいがちょっと気持ち悪い感覚に襲われるだけだ。そう思うとヒューはその考えを取り下げざるを得なくなる。柵から腰を上げた。
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