07 汚れたエプロンと肌の白い子
答えが出せないと理解しても考えてしまうのは人間の抱える悪癖のようなもので、例にもれずヒューもジェレマイアの言ったことに囚われていた。普段より歩くことや周囲に注意を払うことにおいて集中できなくなっていた。あてなく歩いている途中で誰の顔を見たかなどまったく覚えていられなかった。不意に座ろうという考えが頭に浮かんで、そうしたはいいもののまるで見たことのない景色が眼前に広がっていた。
とりあえず右を見て左を見て、時間と太陽の位置からおおよその方角を割り出す。いまどこにいるのかはわからないが、とにかく西か北に行けば知っているところにぶつかるのだから話は簡単だった。答えの出ない問題を考え続けるのも没我という感覚に似て、なかなかそれが気に入ったヒューはその知らない場所でまた考えに耽ろうとした。すぐ目の前を汚れたエプロンが通り過ぎた。
ポーシャ、と意識せずに口から音がこぼれた。呼びかけでもなんでもない。あ、とつぶやくのと同程度のものだった。
「あれ、どこかで見かけたような」
「ちょっと前にレストランで相席した」
「ああ、そんなことがあったような気も。名乗りましたっけ、私」
「いいや、店の人に聞いた」
そっか、とだけポーシャは返した。そのことについては何も感想を持っていないようだった。彼女はヒューのほうに向きなおって足を揃えていた。先を急いで行くべきところがあるわけではないらしい。
エプロンの汚れは色とりどりで、前と比べてひどくなったかどうかもわからない。もしかしたらレストランで会った日とは別のエプロンをつけているのかもしれない。しかしヒューにはその判断がつけられなかった。無作為に折り重なった色が、彼女の生み出しているものの背景になっているのだろう。
相席したときとはすこし雰囲気が違っていて、ヒューはむしろ落ち着いた。丁寧な話し言葉を彼はあまり得意としていない。
「そのエプロンは普段着みたいなものなのか」
「……ああなるほど。別にこんな町でいまさら恥ずかしいとかないかな」
「悪かった、そういう意味じゃない。気に入ってるのかと聞いたんだ」
「さあ、そうなのかもね。ずっとこれだから。ずっと」
ポーシャはわずかに目を伏せた。
ヒューには話題を変える必要が発生していて、そうでもしないと彼はいきなり声をかけて服装に文句をつけたとんでもないやつになってしまうのだった。機嫌取りでもないが、失礼を働いたのは事実だった。しかし話を変えようにもぱっと思いつくものがない。ヒューは会話のやり取りに問題はなくとも、話が上手というタイプではなかった。若い女性を喜ばせる会話のやり方を彼は知らない。無意味な時間が過ぎて、ポーシャが肺に痛みの走っていそうな咳をした。そうして彼女が言葉を続けた。
「ところで、あなたは?」
「ああ、俺についてはまだ話してなかったか。俺はヒュー。猟師をしている」
「猟師。森に入る?」
「ああ、今日は不注意のケガのせいで休みだけどな」
ヒューは自嘲気味に笑った。ポーシャは笑ってくれなかった。それよりも座っている彼の全身を眺めて、どこをケガしたのかを探しているようだった。ちょっと反応が普通とは違う。心配するでもなく、そのときの話を聞くでもない。興味が先行するとそちらが優先されるらしい。もしくは他人を気に掛ける回路がないのかもしれない。ヒューは後者は考えないことにした。適当に案出した冗談だ。
結局どこをケガしたのかをポーシャは見つけられなかったようだった。そうしてから表情を変えずに口を開いた。
「どうしてこんなところに?」
「散歩だ。家でじっとしているのは苦手でな」
「本でも読めばいいのに」
「字が読めない」
言葉の代わりに微妙な表情をポーシャは返した。冗談にしても際どいもので、すぐ笑って流すのも難しいブラックなものだった。ヒューのそれは無意味を意図した嘘だったが、結果はポーシャとの距離をすこし空けることにつながった。年齢、性別、これまで過ごしてきた環境、それらがすべて違ったせいで言葉の響きもまた違ったものになってしまった。石を投げる行為が貴族に向けられたものと川へ向けてのものだと意味はまるで変わるものだ。
居心地の悪い空気が流れて十秒、ヒューも流れのよどみを感じ取った。ずいぶんとうまくいかない。年下と上手に話せる人間がうらやましかった。
「いまは絵は描いていないのか?」
「日がな一日カンバスと向かい合ってるわけにも。家の手伝いは頼まれるし」
「その帰りか」
「どうしてそう思ったの?」
「荷物を持っていない。何かを届けたあとだと思った」
「ふうん。はずれだけど」
やっとすこし表情がやわらいだ。ポーシャの手元を指さしたヒューは格好がつかなかったが、これくらいの道化ならお安い御用だった。彼はもう他人からそんな評価を欲しがるような時期は過ぎてしまったのだ。進んで格好悪い真似をする気はないが、交換で本人が良しとするものが得られるなら文句を言うつもりもなくなっていた。
きまり悪げな表情をヒューが浮かべるとポーシャがまたすこし笑った。いつか昔に憧れたような壮年の男性にはなれなかったが、それも悪いことではない。ヒューはそう思うようになっていた。
「散歩。なにか動いているものを、息をしているものをどうしても見たくなる」
すこしポーシャの顔に陰が差した。ヒューにはそれがよくわからなかった。あまり人の心情の機微に詳しくはないが、若い年代の女性だとそれがより顕著になるのだろうかと考えた。あるいは彼女が図抜けた繊細な感性を持っていて、自分で自分のその琴線に触れてしまったのかもしれない。ほんの数秒あとに、歳を取ったうえでの考えをしていることに思い至って彼は傷ついた。
「絵と向き合い続けると疲れる、ということか」
「そうかも。神経を使うんだね」
「それだけ情熱を注ぐことができるものがあるというのはいいことだな」
「……はじめて言われた気がする。そういうの」
「好きじゃないのか?」
「好き嫌いじゃないかな。ええと、どう言おう。切り離せないものというか」
はじめて言われたというのが嘘ではなかったようで、ポーシャの口からは常々から表面上から感じられていることしか出てこなかった。当事者にとって、それは意識を向けない当然のことなのだ。寒い地域の動物の毛が保温の能力に優れているように。利き腕のほうが器用に動き、力を込めやすくなるように。
ヒューはポーシャの言葉を待った。目の前で彼女が腕組みをして考えている。その結論がどんなものであれ、あるいはそれが言葉にできなかったというものであっても構わなかった。
「そう、機能。機能としての手とか足に好き嫌いはない。かたちとか色にはそれぞれ思うところがあるかもしれないけども。私と絵の関係はそういうもので」
「さっきよりすこしわかった気がする」
「そんなに伝わってない気がする」
「何を描くんだ? 描かないものしか聞いてない」
「いろいろ。静物画に人物画、抽象画を描くことも」
「最後のは知らないな」
「いわゆる変な絵、かな。具体的なものを描くわけじゃなくて」
そこまで言うとポーシャはまた咳き込んだ。今度のものは彼女の喉の太さに似合わない重たい咳だった。あまりに急のことだったからか、ヒューは目を大きくしていた。それまでが落ち着いた静かな会話だったから、落差に驚いたのかもしれない。
ひとしきり彼女が咳き込み終わるのをヒューは待った。ポーシャの目には薄く涙が浮かんでいた。上手に呼吸ができなかったのだろう。
「医者には?」
「咳ひとつで行かないよ。熱が出たらね」
「そうか」
「ヒューはどこから来たの?」
急に話題が変わったが、ヒューにはそれほど気にならなかった。それに会話とはもともとこんなもののようにも思えた。常にテーマを目指して行うものではない。もっと平和であてのないものだ。
「住む場所を探して一年ほど旅をしていた。だから答え方が難しい」
「じゃあ旅を始める前は?」
「グロスタルにいた」
その名前を口にするとき、ヒューはわずかに言葉に詰まった。
しかしそのことにポーシャは気付かずに首を傾げていた。グロスタルの名前にぴんと来ていないのだろう。誰でも知っているような有名な街ではない。地理やそういったものに特別に関心を向けていない限りは知る機会の少ない名前だった。
見えないところで木がざわついた。風が吹いたのだろう。
「どんなところ?」
「ここより暖かくて、もうすこし土の地面が見えていなかった」
「石造りの高い建物がありそう」
「石造りもレンガ造りもある。夕日を背にした鐘楼を離れたところから見るとぐっと来るものがあった」
「知ってるけど見たことない、鐘楼。ここにある鐘って牛のやつだけだし」
自分で言ってから彼女は薄く笑った。右への流し目が印象的な、他人からの目を気にしない自分へ向けた笑いだった。目の前にいるヒューは、どうしてかその笑う顔が窓ガラスを隔てた向こうにあるような気分だった。その笑顔と同じ空気を吸うことは許されていない。あちら側の世界。ポーシャは明らかにそのことを自覚していない。その意味ではとても個人的で貴重なものをヒューは見たのかもしれなかった。
「牛の絵は?」
「はは、ないよ。でも今度ながめてみるね。何か受け取れるかもしれない」
「いまは何を描いてるんだ?」
「ちょうど終わったところ。花瓶の絵。次は何にしようか考えてる」
「描きたいと思っているモチーフはないのか?」
「ひとりいるんだけど、遠巻きにしか見たことなくて。どこの子だろう」
ポーシャは不思議そうに答えを返した。それはかなり珍しいことだろう。この町の規模はそんなことが自然に起きるほど大きくはない。物理的には三時間から四時間もあれば西端から東端まで歩くことができる。どこかの家で子どもが生まれれば、翌日か二日後には話が出回っているくらいだ。その町で直に話をしたことがないというのはなかなか考えにくいことだった。ヒューもまだ二か月程度しかこの町で過ごしていないが、彼女が不思議そうにしていることに納得できた。
ほとんど何も考えていない話の接ぎ穂としてヒューは口を開いた。
「どんな子なんだ」
「肌がすごく白い子。遠くにいるのに大きく見えるほどはっとする色なんだ」
ポーシャは頭の中にある風景に感じ入っているようだった。さっきまでとは違って話に合わせて手振りがついている。口調には違いが見つけられないが、熱の入り方がはっきりと違っている。ヒューにもすぐにわかった。さっき絵と自分の関係の言語化に苦しんでいたが、結局は好きという要素も含まれているのだろう。そこには認識の差があるのかもしれないが。
「雲とか雪の白じゃなくて。肌の美しい白でね、どうやって色を作ればいいのかってずっと考えてるんだ」
「いっそ想像の中のその子を描いてもいいんじゃないか?」
「それもアリかなとは思うけどね。案としては二番目だよ」
こだわりか礼儀か、そういったものが匂う返答だった。ヒューにはもうよくわからなくなった感覚だった。猟師としては気に入ったやり方はあっても、もっと合理的な手段があればそちらを採用する。奪う命への礼儀はもちろんあるが、ひいてはそれはすべての命への礼儀に帰着する。きっとそれらは同じ線で捉えてはいけないものだ。ハープの弦が隣同士で違う響き方をするように。言葉の不器用さというものをヒューは思わざるを得なくなる。
話していたら絵のことを考えたくなった、とポーシャは帰っていった。また話そうとも言っていた。ヒューはしばらくその場に座ったままだった。足の甲が傷んだわけでも疲れていたわけでもない。ただ動く気になれなかった。
そうして、あ、と間抜けな声をあげた。ポーシャの言っていた肌の白い子のことを知っているかもしれない。しかし急いで知らせるようなことはしなかった。どのみち同じ町に住んでいるのだ。いずれ彼女たちで出会うだろうし、そうでなくても彼女とまた会ったときにヘルツリヒのことを話せばいい。どうせ。悪い言葉だった。
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