08 隣町へ
ポーシャとの会話から数日後、ヒューは馬車に揺られていた。町に来たときに歩いたようなそうでないような景色のなかを、ごとごとと揺れている。地面を踏みしめるよりはマシだが決して早くはない。下を向いていたら酔ってしまいそうだった。
発端は肉屋のおかみだった。氷室の凍った獣肉を届けてほしい、という頼みごとがあったのだ。隣町は牧畜をしているが鹿やウサギなどの狩猟でしか手に入らない肉になじみがない。だから定期的にそれらの取引をしていて、今回だけためしにおかみの代わりに行ってみてくれないかと直々に頼まれたのだった。商品の紹介も別観点からされれば印象も変わるだろうという希望込みの依頼だ。いまヒューはその依頼を受けて隣町を目指していた。ヒューの横では肉を冷やすために氷を敷き詰められる特殊な造りをした木箱が揺れていた。
いくらか石やレンガの割合が増えたが、それでものどかな眺めに分類される町並みだった。ここもまだまだほとんど太陽の沈まない季節のある地域の町なのだ。草地や土の地面が見えるところも珍しくはない。すこし南にずれて森から遠ざかったぶんだけ、わずかに都市に近づいたのだ。
人々の顔立ちもどことなく似ていた。すくなくともヒューの故郷とは明確に目鼻の傾向が異なっている。寒さに適した顔というと妙に感じるが、そういったものがあるのだ。誰か変わった趣味の人間がいればそれを表にまとめているかもしれない。
肉屋のおかみから教わった目印を探して歩く。馬車から降りる場所は幸いなことに教えてもらった通りだったから、よほどのことがない限り迷いはしないだろう。右を見る。左を見る。どうやらこちらの町のほうがずいぶん広いようだった。
大きな通りをしばらく行くと、ひときわ大きな建物があった。教会堂だった。手を合わせて祈る人が向かう場所らしいが、ヒューは正しい意味を理解していなかった。彼にはそこに求めるものがなかったから。
「ああ、あんたが手紙の」
「手紙の?」
「肉屋のおかみ。親戚みたいなものだが、あれから手紙をもらっててな」
教会堂の扉に近づくと髭面の大男に声をかけられた。自然に、ぱっと、声をかけることが滑らかだった。知り合いに話を振るのと変わらなかった。それに引きずられてヒューも知り合いに対するような返答を無意識にしている。余計な気を遣わなくともよさそうな外見が影響したのかもしれない。繊細そうな相手よりも無骨そうな相手のほうが気がラクなのはヒューからすれば間違いのないところだ。
大男は鼻を鳴らしたが、それは目の前に対する悪感情ではなかった。その場にいないおかみに対する呆れの感情のようだった。
「そうか。俺はヒューだ。よろしく頼む」
「アントンだ。あんたにはうちの空き部屋で寝泊まりしてもらう。聞いてるな?」
「向こうに行けばわかる、とだけ聞いてきた」
「はあ。あの人の悪いクセだ。他人任せでどうにかなると思ってる」
アントンの体がすこししぼんだように見えた。似たようなやり取りがこれまでにも何度も繰り返されてきたのだろう。こういうことは貧乏くじを引く人間が決まっているもので、おかみとアントンの場合はアントンがその役目になっているのだ。
慰めの言葉は浮かばず、だからといってそれを言うべき場なのかも判別がつかず、窮したヒューからは無難な一言だけがあった。そう深刻でもないのだからとくに問題はない。
「わかるよ」
「……そうだな、俺とあんたは似てるのかもな。あんたも言われて来てるんだし」
「とにかく寝場所を提供してもらえるのは助かる」
二人は握手をして、とりあえずヒューの荷物を教会堂に預けることにした。
アントンの仕事は肉に関係するものではなく、本当にただ単純におかみとこの町とヒューのあいだに立っている中継地点のような男だった。そして望んだかどうかわからない役割をこなすのにじゅうぶんな資質を備えていた。気が利いたし、目立った。頼れる相手が目立つというのは頼る側からするとありがたいものだ。
この町の肉屋のひとつへ向かって歩いているあいだ、彼らはぽつぽつとしか会話をしなかった。アントンが指さした方向に何があるとか、そういう話ばかりだった。それよりは町の住民がアントンに話しかけるほうが多かった。ヒューが無骨そうと評価した大男は親しみやすい存在であるらしかった。
こちらの肉屋の店主はまだ年齢に弱冠とつけてよさそうに思えるほど年若かった。人とよく接する職業柄か、彼女もまた明るかった。太陽のように力強く照らすよりもそこにただやわらかく光る月のような明るさだった。
アントンはヒューをその店に連れてくると、仕事があると言って出て行ってしまった。落ち合わせる場所を教会堂だとだけ告げた。考えてみれば彼が肉の話をする場にいる意味はない。ヒューは何も言わずにその背中を三秒だけ見送った。
「ここで取り扱っている肉は?」
「羊が中心ですよ。牛も豚もありますけど、それほど多くはないです」
「わかった。ありがとう。俺は商売の話をしに来たんだ」
「商売? あなたがお肉を買うのではなく?」
「鹿肉とかウサギ肉、イノシシなんかもあるんだが」
なるほど、と彼女はうなずくと店の奥に声をかけた。そのあとで代金のやり取りをするカウンターを外して、落ち着いて話のできそうなテーブルへと案内した。頭から否定をされずに済んで、ヒューは内心ほっと安堵のため息をついた。
足元に置いてあった木箱を持ち上げると、店主はひえっ、と驚いた。中には凍った肉がぎっしりと詰まっている。たしかに一般的な女性から見ると声を上げてしまうほどの量かもしれない。
蓋を開けると冷たい空気が箱やテーブルに沿って流れ落ちていった。自然のルールにしたがって冷たいものは低いところに移動し、木箱のそばにあった手や足元をぞっとさせる。肉それ自体が凍っているのと氷が詰められているので即座の心配はいらないが、しかし可能ならなるべく早いほうがいい。とりあえず使いそうなぶんだけを箱から出して、すぐに蓋を閉めた。
ヒューが肉屋に対して説明できることはそれほど多くない。たとえば肉そのもののクセであるとか肉質の違いだ。あとは簡単な調理をして、どういう方法だと美味しく食べられるかの実践くらいだ。そのためにお試しくらいの凍った肉と干し肉を使ってシンプルなものを作った。料理なんて呼べるほどのものでもない。肉を焼いて調味料で味を調えただけのもの。そして干し肉をゆでて戻したもの。スープを作ってもよかったが、まずはそのものを味わってもらうことをヒューは優先した。
評判はこれ以上ないくらいのもので、他の店を回る前提で持ってきていた量をすべて買い取るとまで言ってもらえた。店主はとくに干し肉のほうに手を加える余地を見出したようで、小さくちぎっては何度も味を確かめていた。ヒューとしてもまったく否やはないどころか、売りたかったものがすぐに売れたのだから両手を上げたっていいくらいだった。
「焼くっていうのは、ほら、最高の解決だからね。私らが創意工夫を凝らすのはね、別の利用法なんだよ、スープとかのさ」
「素直に焼くのが一番っていうのはあるのかもな」
若い店主は深く二度うなずいた。
「いつもと違って干し肉持ってきてもらえたのは大きかったね。なんで私らの町にはないんだろう、これ」
「携行食の面が強いからだろう。肉の保存法は他にもある」
「なるほどねえ。あんたはどこに持っていくの?」
「俺は猟師だから山や森に入るときに忍ばせる。火で炙ったほうがもちろんいいが、最悪そのままでもいけるしな」
店主は腕を組んで天井を見上げていたが、やがて視線を下ろした。そういった使い方からうまくヒントがもらえないかと考えた末に諦めたようだった。携行して食べるような状況下と道具の揃ったキッチンでは後者のほうが条件が良いに決まっている。そして料理は条件が良ければ良いほど洗練されて仕上がっていくものだ。一定程度のレベルを超えた料理であればそこから先は好みの問題になっていくかもしれないが、山や森で手をかけずに食べる携行食よりも一般的な料理のほうが満足感が大きいことは論を俟たない。
そのあいだヒューは何も言わずにじっと待っていた。料理に関する話はできない。彼にとってのそれは火を使って熱すること、そして塩をすこしまぶすこと。それだけだった。あとのことは複雑で、真似事をすることはあっても二度とその手順を再現ができなかった。だからそれを料理と呼ぶことはしなかった。
「干し肉にしたものと冷凍したものだとちょっと肉の味が変わる気がする」
「そうか?」
「まあ別に気にしなくてもいいけどね、ただ人によっては大きいかもだし」
「わがままだ」
「はは。好き嫌いくらいいいじゃない。多過ぎたらまたあれだけど」
予定が大幅に前倒しになって、ヒューは気が抜けていた。本来なら持ってきた肉を売り込んだあとに氷室を貸してくれるよう交渉して、明日からまた別の店に売り込みをかけるつもりだったのだ。それが持ってきたものをすべて捌いてしまって、すでにやることがなくなってしまった。だから何かを気にかけることもない。あとは適当に時間を過ごせばいい。
そこからは店主から味付けの提案をされてはヒューが自分なりの考えを返す時間が始まった。いくつかは的確に返事をして、いくつかは困ってしまった。ヒューの頭の味付けのなかに肉と果物のソースを合わせるものは存在しなかったのだ。
売った肉を木箱ごと氷室に運んで、ヒューはひとりになった。教会堂に行ってアントンを待ってもいいが、それだとただじっとしてずっと待っていることになりそうだった。アントンはとくに時間の指定をしていなかったが、せめて夕食の時間あたりになるまでは来ないと考えたほうがいいだろう。じゃあ、とヒューは歩き出した。知らない町だ、初めて見る景色ならそう退屈もしないだろう、と。
こちらの町は飲食できる店が多いようだった。教会堂からちょっと歩くと、すぐにカフェを見つけることもできた。このぶんだとカフェもレストランもいくつあるのか想像もつかなかった。あるいはたまたま店のある道ばかりを選んだのかもしれない。広さが違えば人口も違って、そうなると発展の仕方も一気に変わるものだ。ヒューは本当はそれを知っているはずなのに、すっかりそれを忘れていた。北の端の町に慣れ過ぎてしまったのかもしれない。
服飾や雑貨の店の数も比べものにならない。一日や二日ならそれらを見回っているだけで終わってしまいそうだ。別にその必要はないのに、ちょっとでも土地勘を学ぶためにヒューはそんな店を横目にまずは町の中を歩き回ることにした。
地域にそんな気風があるのかどうか知らないが、ここの住民も朗らかだった。見たことのない男のはずなのに、歩いているだけであいさつが飛んできた。
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