09 悪いシスターと妖精の町
しばらく歩いていると噴水を中心とした憩いの場にたどり着いた。ここだけ景観にこだわりがあるようで、土の地面が露出しているところがなくなっていた。噴水に向かってベンチがいくつも置かれており、さまざまな人がそこで思い思いの時間を過ごしていた。歩き通しのヒューも自然と休んでいくつもりになっていた。
ベンチは尻のほうがすこし深くなっていて、身を預けてしまうと立ち上がるのに頑張りが必要になる造りになっていた。いかに健脚といえど歩けば疲労は溜まるし足の裏も痛くなる。ベンチに座ることでヒューはそれを実感していた。
仕組みを知らないヒューにとって、噴水とは不思議なものだった。水が噴き出す理由もそれが永遠に続いている理由もわからない。知りたいとは思わないが、どうしてだろうとは思う。中途半端な興味だった。そういう関心を向けていたからか、じっと見つめることに抵抗はなかった。
しばらくそんな不思議な機構を眺めていると、声をかけられた。
「もし、何かお悩みごとですか」
声のほうへ顔を向けるとシスターが立っていた。ヒューがそう判断したのは彼女が修道服をまとっていたからだ。顔こそ見えているがそのほかの個性は意図的に消されていた。頭の部分に限っても額も髪も隠されている。黒に近い深い藍色と白でその服は構成されていた。
「いや、そう見えたか」
「はい。じっと噴水をお眺めになっていたので」
言われてみればその通りだ、とヒューも思った。ひとりぼっちで噴水を眺めている男がいれば、なにか事情を抱えていると見られてもおかしくはない。そしてシスターというものはそういった人に声をかけるものなのだ。それを正しいと信じて。
何かを言う前に彼女はヒューの隣に座った。同じ位置からなら面白いものが見えるかもしれないと確かめるように彼女も噴水を眺めた。何も特別なものは見られないはずだった。そこにあるのはこの町の日常風景なのだから。
「あんたたちが請け負うような大きい悩みはない。あっても小さなやつだ、日常の」
「それは何よりです。悩みなんてないに越したことはありません」
「シスターもそういうことを言うのか。もっと無理に悩みを聞き出すようなイメージがあったんだが」
「力になってあげたい思いが強すぎるとそうなるかもしれませんね。誰だって悩みを抱えている、そう信じているシスターは少なくありませんから」
そうした同業に比べて彼女は気楽にシスターとして過ごしているようだった。先の言葉はそうでなければ出てこない。悩みがないと聞いて喜ぶシスターをヒューは見たことがなかった。
日向ぼっこでもしているかのように彼女は気を抜いて休憩していた。周囲の世界があまり気にならないようだった。強いと評していいのか鈍感というべきなのかの判断が難しい。そういう目で見てみると、次第に彼女の身を包む修道服が似合っていないように思えてきた。横顔の、それも額の中ほどから顎までしか見えていないのに。
「あんたはそう考えてはいない」
「はい。私は悪いシスターなんです」
そう言って彼女は笑った。悪い、なんて言うわりには無垢な笑顔だった。
「あんたは何しにこんなところへ?」
「教会堂は息が詰まるので退避してきました」
「そういうのは口に出しても構わないのか?」
「別にいいと思いますよ。神様がいたとして、そんな狭量なわけないですし」
教会堂の人間にとってかなり危険な言葉がびゅんびゅん飛んでいた。しかし彼女が強硬な反抗的な背信をしているようにはヒューには思えなかった。物腰がやわらかいせいかもしれない。神への信頼が見えるせいかもしれない。
ヒューは一般的なシスターよりも悪いシスターのほうに興味が湧いていた。どんな話が飛び出てくるかわからない。
「言うとおりかもしれない」
「……あなたも変わってるって言われませんか?」
「言われない。俺はまともだよ。ふつうに考えて、ふつうに結論を出すんだ」
「よほど周囲に恵まれてきたんですね、うらやましくなっちゃいます」
にこにこしながらシスターは他意なさそうに言った。彼女でなければどうしたってとげとげしい言葉にしか聞こえなかった。
このベンチに座るのも休憩が目的だったから、ヒューは雑談を振ってみることにした。
「俺は商用があってこの町に来たんだが、あんたから見てここはどんな町だ?」
「……難しいですね。比べるものがないんですよ」
空を仰いですこし考えて、本当にそれ以外に言葉が見つからないといった調子で返事をした。どこか意地悪な質問をされたことに対する拗ねたトーンも混じっている。もちろんヒューにはそんなつもりはない。
「ん?」
「他を知らない、と言えばいいでしょうか。私にとって町とはここ以外にないんですよね。聞いたことはあっても行ったことはなくて。だからこの町がいい町かどうかもわからないんです。だってそういうのって比べて初めてわかるものでしょう?」
「そうかもしれない。じゃあ、なにか他のことを聞こう」
「別に空を見てるだけでよくありませんか」
「この町は相談に来る人は多いのか?」
「あ、それ聞いちゃいますか。本当に悪いシスターになっちゃうんですけど」
シスターはいたずらっぽく笑っていた。言葉ほど否定の意思を感じない。聞かれるなら答えるくらいのつもりではいるらしい。どちらかというと彼女のそれは聞き手を誘い出すものに分類される。かちこちに態度の固い想像上のシスターよりはこちらのほうが人間的魅力に優っているとヒューは思う。それが良いか悪いかは別にして。
いつしかヒューは彼女の横顔に視線を送るのにラクな姿勢を取っていた。噴水よりよほどこちらのほうが興味を引いた。黙っていると悪いシスターは言葉を続けた。
「多いですよ。私たちには聞くことしかできないのに」
「それが役目というか、求められていることだろう」
「みんながそう思ってくれていたらいいんですけど、意外とそうでもないんです」
軽いため息が言葉を追う。
「助けてもらえると思って相談に来る人は後を絶ちませんし、それは自分たちの範疇を逸脱していると言えばひどいときには怒られます」
「……身勝手にも聞こえるな」
「シスターに相談しにくることなんて大概がつらいことですよ。でも私たちも人間であって言葉のゴミ箱じゃない。そんなのを聞かされ続けたら疲れるんです」
「なるほど。悪いシスターだ」
「私の言ってる意味はもうちょっとひどいですけどね」
振り向いて笑った。たしかに彼女と同じ職業の人物はまず言わないだろうことだとヒューも思った。相談されても助けることは難しいし、なんなら相談自体をあんまり聞きたくない。言われてみればシスターと人間という要素を並べてどっちが先に来るかを考えたことなどないかもしれない。当たり前だが、同じ人間なら彼女たちにだっていやなことはあるはずなのだ。
「それを聞くことはできるのか?」
「なかなかいい趣味をお持ちのようです」
「どうあれ俺はすぐにここから去る身だしな。ボトルメールと変わらない」
「……では結論からにしましょうか。神様は別に誰も助けたりはしません」
シスターの口から出てきた言葉は彼女たちの信仰対象を考えれば衝撃的なものだったが、目の前の人物が言っているのだと思うと大した違和感もなく受け入れられた。彼女はこの短い時間でヒューからの信頼を得ていた。口から出まかせではなく、すくなくとも彼女なりの論理がそこにはあるからだ。いま重要なのは正しいかどうかではない。
「それじゃあ教会堂が成り立たないだろう」
「よくある勘違いです。もともと神様にそんな機能はありませんからね。この宗派において神様とは祈りの対象でしかありません。今日もよい一日でありますように、とか、日々の感謝だとか、そのくらいのものです」
「なるほど?」
「……完全な平等の実現方法を知っていますか?」
「いや、見当もつかない」
「何もしないことです。本当ならそれでよかったんですよ、神様って」
シスターは不満そうに言葉を並べている。それが途切れないのは常日頃から考えているのだろうことを想像させるのにじゅうぶんだった。その意味では彼女こそ真剣に信仰というものに向き合っているのかもしれない。
彼女はまだ噴水に視線を固定していた。そこになにか見えているようだった。もちろんそんなことはない可能性のほうがはるかに高かった。
「だが、いやそうか。なにか変な感じもするが、おかしくはない」
「それを神様が助けてくれる、なんて勘違いが生まれるから妙なことになるんです。たとえば人の悩みを強く聞き出そうとするシスターとか」
やれやれとシスターはかぶりを振った。ヒューには宗教における考え方についてはよく理解しているとはとても言えないが、彼女の根本的な立ち位置がかなり特異なものであることは察することができた。多数派を現代的と呼ぶのなら、そちら側ではないらしい。
彼女の話してきたことを振り返ってみると一貫している。しかしこの態度を貫き続けるのも大変だろうとヒューには思えた。周囲を自分とは違う考え方が支配しているのだ。
「あんた、それでも教会堂にいるのか」
「これはまあ、思い上がりと言われてしまうでしょうけど、私みたいなのがいることに意味があると信じているんです」
「あんたは神を救いたいのか?」
「だって勝手に期待かけられて文句言われるんです。昔は個人的に祈るだけでそれは成立していたのに。神様は見返りなんて要求されなかったのに」
昔を懐かしむように言葉をこぼす。どちらの立場の言いたいこともヒューはわかるような気がした。そういった存在に祈ったのに何もなければ、一言投げつけたくなるかもしれない。あるいは勝手に像としてのかたちを変えられてしまった神に同情する気持ちが湧かなくもない。しかし結論は出てしまっているような気はしていた。
きっとそのことをシスターもわかっていた。だから自分のことを悪いシスターと呼んだのだし、自分がいることに意味があると信じているという表現を使ったのだ。
そんな彼女にかける言葉を探すのは難しかった。
「でももう戻れないだろう」
「そうですね。あとから利益を引っぺがすのは不可能でしょうから」
「じゃああんたはどうするんだ?」
「地道でも邪道でも構いません。考えますよ、私は悪いシスターなので」
「……教会堂が爆発すればいいと思ったことは?」
「今年だけで三百回くらいですかね」
二人は噴水を見ながらひかえめに、しかしこらえ切れないといったふうに笑った。水しぶきが太陽の光を反射してきらきら光った。
そのうち夕食の準備を始める家庭が出始める時間になった。肉も魚も野菜でも、焼かれ炙られ茹でられて、その結果いい匂いがする。火は強い文明だ。人間の生存率が上がったのは火を扱えるようになったおかげだとヒューは昔に聞いたことがあった。それ以前は食べ物はすべて生で食べるものであり、消毒が不十分であったり寄生虫の問題があったりで、食とは生存に必要なものでありながら危険なものでもあったのだという。とはいえ、とヒューは思う。火を使う前の存在は人間と呼べるものなのだろうか。あまり興味がないことを彼は歩きながら考えた。
教会堂についてみるとアントンが扉のそばの壁に背を預けていた。まだヒューには気付いていない。彼はただ待ちながらぼうっとしているようだった。
「悪いな、待たせたか」
「そうでもないし、どのみち急ぐ必要のない町だ。気にしなくていい」
そう言うとアントンは歩き出した。
「しかしあんたも大陸の端っこに生まれるなんてついてないよな」
「違う。俺はあの町には越してきたんだ」
天気による農作物の不作だとか、そういったどうしようもないことを笑って話すような表情だったアントンの目がぎょっと開いた。耳を疑うような発言だったらしい。踏み出した足がかかとだけ地面についてぴたりと止まっている。不自然な格好だが、そんなことなど気にならないほど驚きの事実らしかった。
「引っ越した? わざわざあそこに?」
「ああ」
「言っちゃなんだがこの町だってあるんだぜ。いやそれだってもっとマシなところがあるだろうって話なんだけどよ」
まるで詰問するかのような調子が、卑屈さの混じった言い難い味わいに変わる。言葉を拾えばよほどあの町は住むのに適していないらしい。それも外から来るなど考えられないといったほどのようだ。
ヒューから見てもたしかに何があるわけでもない。前向きな点は静けさがあることだが、それだって人によっては減点対象になりかねない。あとは自然の厳しさが強く息づいている。人々が閉鎖的でないことは救いだが、そこに救いを求めていては町に対する期待など持てていないようなものだ。
「まあ、俺は静かなところがよかったんだ。あとは猟で生計が立てられるところ」
「それなら条件にあてはまらないこともないけどよ、事前に話は聞いたりしなかったのか?」
「ん? よくわからないな、その場所に町があるとは聞いた」
「妖精のいる町」
アントンはヒューの返事が終わると一秒も間を置かずにその言葉を口にした。
単語が単語としてだけ置かれてヒューは困惑した。そこから何が続くわけでもないのだ。妖精の町が、でも、妖精の町の、でもない。それだけの奇妙なもの。聞く人によっては喜びそうな名前だが、アントンの調子は暗い。間違ってもそこに楽しめるような要素は含まれていなさそうだ。
「妖精のいる町。そう呼ばれてる」
「俺の住んでいる町が?」
そうだ、とアントンはうなずいた。
「どう言えばいいんだろうな。別に町としておかしいところはないんだ。住んでいる人たちがどうこうってのでもない。俺も行ったことはあるからそれは知ってる。でもダメなんだ。あそこに行くと何かの歯車がずれるやつがいる」
「おかしくなるのか?」
「そんな目立つ話じゃない。たとえば日付の感覚が変になることがあるんだ」
場を盛り上げるための怖い話にしてはその要素が微妙だ。しかも相手がヒューではそんな話自体が必要であるようにも思えない。しかし実際に噂にはなっている。そうなるだけのタネはあるということだ。ただもちろん実際にそれがどういうことなのかはわからない。
住んで二か月以上が経つがヒューはそんな経験をした覚えがない。ことによってはすでにヒューの感覚が変になってしまっている可能性はあるが、それは確かめようのないことだ。だからそのことを彼は考えないことにした。
「それを妖精がやっている?」
「そうとでもしないと説明がつかないってのがひとつ」
「ひとつ?」
「ここは隣町だから、あそこから来たやつも珍しくない。俺の家系もたどればあっちらしいしな」
アントンはどこか遠くを見ながら言った。方角が合っているかはわからないが、そちらには彼の言う妖精のいる町がありそうに思えた。ひとつだけ息を入れて、続きをアントンは話し始めた。
「口を揃えて言うよ、知らない子を見たことがあるって。どこの家の子なんだか思い当たらないんだそうだ」
「誰も知らないってなると変だな」
「そうだ。だからあの町を知っていて外に住んでる連中はあそこを妖精のいる町って呼ぶんだよ。おとぎ話よりもずっと手触りがあるものだって思ってる」
状況と話を総合して、ヒューはすくなくとも本当の部分がありそうだと推測した。わからないのは本当の部分の割合だけで、それはすべてなのかもしれない。もしくはたったひとつ、ほんの小さな部分が本当なのかもしれなかった。しかしまるっきりの嘘ということだけはないと確信できた。噂の域は出てしまっている。
しかしだからといって、というのも本音であった。そんなことを言われても困ってしまうだけだ。アントンの言葉の根底には心配があることもわかる。とはいえ解決しようにもヒューに思いつける手段はひとつしかない。あの町を出て行くことだけだ。ただ、ヒューはあの町での生活がそれなりに気に入っていた。迷いなく捨てるのにはためらいが生じるくらいには。
それを忠告として消化するのも変だった。妖精がいるぞ、わかった気を付けるよ、とはなり得ないのだから。
「あまり好かれてなさそうだな」
「そりゃ海に面してるわけでもない北端の町だからな。悪いが町としての利用価値は低いと言っちまっても問題はないだろう。わざわざ行きたい町とは思えんよ」
「白い森とは関係ないのか?」
「白い森? ああ、何度か聞いたことあるな」
アントンはあごに手をあてて思い出すしぐさを取った。髭に触れるとくしゃっと音がした。その姿を見る限りそれなりに記憶の深いところにしまってある言葉であるらしかった。もしかしたら埃さえかぶっていたかもしれない。しかしヒューにはそれが奇妙なことにも、あるいは仕方のないことにも思われた。土地にはそういうところがある。その土地ごとに常識を作り変えてしまうのだ。この町に来るまでは妖精なんて言葉すらも耳にしなかったように。
「そっちは、まあ冗談だろうな。白い葉の木があれば実在するのかもしれないが」
「真偽は俺も知らない。でも白い森は移動するんだそうだ」
「あんた、人がいいんだな」
大男の笑い方だった。心に沈むなにかを吹き飛ばす性質のもの。きっとアントンはヒューの背中を押すために笑ったはずだった。真に受けなくてもいいようなことを正面から捉えてしまっていると思ったのだろう。妖精の名前を口にしておいて白い森の存在を否定することが正当かどうかは別にして、気遣いがあることはたしかだった。
それ以降アントンはそれらの不思議な系統の話をすることはなくなった。ちいさな子どもの興味を失わせるためにおもちゃを隠してしまうのに似ていた。もう触れないほうがいいと思ったのだろう。くだらないことだと思わせたほうがいいと。
ヒューは白い森や妖精の話がしたいわけではなかったから、アントンの目論見はうまくいった。そもそも彼は黙っていることを苦にしないタイプだ。あまりに不自然なほど口を開かないわけではないが、話好きな印象を持たれることはまずない。
結局、彼らはそれなりに仲良くなった。アントンは見た目の印象に反して気を遣うことのできる男だったし、ヒューにはそれが理解できた。彼の家庭に混ぜてもらっての夕食は楽しいもので、良い食卓のゲストという身分が心地よいものだと久しぶりに思い出すことができた。
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