聖人

 強大なるガノンガノン・ザ・ギガンテス。南方蛮人の生まれでありながら戦神せんじんの寵愛を受け、戦士として、指揮官として、そして王として名を馳せた男。

 彼の築いた王国はほぼ一代のみの国でありながら壮健を誇り、黒河から白江に至るまでのあらゆる民を尽く、その威光によってひれ伏させた。

 これはそのガノンが、戦いの果てに王位に就いたばかりの頃の話である。


 ***


 王は気怠げに、玉座へと身を預けていた。まだ王位に就いて日も浅いこの新王は、凄惨を極めた反乱の末に前王を討ち取った者である。民衆からの支持こそ高いが、未だ王宮は荒れ果てたままだった。高位の臣下――数日前までは反乱軍の幹部だった者たち――はしきりに整備を訴えるが、この王はそれすらも聞き流していた。あたかも、この地位を疎うかの如くである。否。まさかこの男は、己が討たれても構わないとすら思っているのではなかろうか? 元は王宮の掃除夫だった若い臣下は、そうとすら考えていた。しかし彼は、必死に首を振る。己の生存を保障している王、国を荒れ果てさせた前王に取って代わった者をそのような目で見るなど、不敬極まりない行為であった。


「どうした」


 彼の視線に気付いたのだろう。王が、気怠げなままに口を開いた。火噴き山の如き赤髪に王冠を載せた男は、今なお戦中にあるかの如く、甲冑に身を包んでいる。前王が着用していた王たるに相応しい服は、いと身体が大きく、隆々たる新王には合わなかったのだ。気怠さと戦備え。二つが相まって、抜き身の剣を思わせる空気が醸し出されていた。


「い、いえ。なんでもございません」


 その剣に当てられた若い臣下は、瞬時に気を付けの姿勢を取った。背筋を伸ばし、直立不動。されど彼は、ここで己に課せられた役割を思い出した。己に強いて、口を開く。その用件は一見、不要不急の事案であった。


「あ、いや。報告がございます。現在城門に、【聖人】の呼び声高きマリゴサーナ師が見えておられます。『血の果てに新たな王が生まれたと聞く。ご尊顔を仰ぎたい』とのこと」

「【聖人】か」

「はっ」


 若い臣下は、恭しく拝礼の姿勢を取った。この新たな王――名をガノンという――は、まだ正式に即位の礼も終えていない。否。もしかすると、行う気すら無いのやもしれない。国内には未だ、守旧派勢力や他の反乱軍も陣を構えている。一体この新たな王は、どのように動くのか。それとも、座してただ討たれるのか。

 有り体に言えば、若い臣下は不安だった。今回の件ですら、正直報告に来たくなかったほどである。はたして王は、いかなる反応を見せるのか。


「会おう」

「へ?」

「会うと言っている」


 まったく想定外だった王の声に、臣下は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。しかしながら王は、その不敬を許した。再度言い直し、その上で。


「ただしこの場では会わん。どこでも構わんから一室を片付けろ。王への拝礼ではなく、人と人として面を通したい。それでも良ければ、城内に入れてくれ」


 望外を積み重ねるかのように、さらなる注文まで付けていく。若い臣下は、思わず震え声で。


「そ、それは……」

「くどい。おれは二度は言わん。とくと行け」

「ははっ!」


 問いに返されたのは低い声。身体をしたたかに打たれ、臣下は跳ねるように駆け出した。

 なにもかもが、意外だった。【聖人】に、王が興味を示したこと。王から無気力が消えたこと。そしてなにより、王が『人として』【聖人】に会うと言ってのけたこと。この出来事で、なにかが変わるのかもしれない。若い臣下は、微かな希望を胸に秘めることにした。


 ***


 【聖人】マリゴサーナ。ヴァレチモア大陸広しといえども、ここまで名声の高き【聖人】は居ないであろうと謳われる者。その偉大さは荒野と大陸に広く口伝され、枚挙に暇がない。

 ある者は『荒野で三十人の匪賊に囲まれたものの、その匪賊を全員改心させて伴とした』と語り。

 またある者は『殺伐たる王を相手に慈悲の心を三日三晩に渡って語り、遂には王を涙せしめた』と言う。

 また別の者は『死に瀕した赤子に手をかざし、その力でもって生還せしめた』と謳い。

 さらに別の者は『来る者を拒まず、寄付された精舎しょうじゃにてすべて養育、教育している』と喧伝する。

 多神教とは距離を置いているために、それらからは憎まれているという噂もある。だが声望があまりにも高いがために、いかなる手も打つことができないともされていた。まさに、【独立独歩の聖人】である。

 そんな聖人と、まだ王位に就いて二十日と経たぬ新たなる王が。玉座でなく、急ごしらえした一室にて顔を合わせている。若い臣下にとっては、信じ難い光景であった。


「……おまえはなにをしている」

「は、はい! お沙汰を待っていた次第です!」


 王が、口を開いた。臣下はまたも、直立不動になる。この黄金色の瞳を不機嫌にけぶらせている王を、臣下は内心では恐れていた。いつ不興を買い、馘首クビにされるか。かつては掃除夫でしかなく、王宮落城の折、不法を働いていなかったからこそ生き延びたに過ぎない自分。あけすけに言ってしまえば、どうとでもなる人材である。いつ、どこで稼ぎが消えてしまうか。気が気でなかった。


「ならば、外に立っていろ。誰一人として近付けるな。この部屋にただの一人でも入れたのならば、おまえの仕事は消えると思え」

「は、ははっ!」


 若い臣下は、そそくさと飛び出さざるを得なかった。彼にとっては前と今、いずれの王も等しく絶対的な存在である。そんなものから命令を発されては、なんとしてでも従わなくてはならない。かくして、部屋の中には。赤髪魁偉の新国王と、黒髪壮健なる聖人の二人のみが残された。


「……済まない。察しの悪い男だったようだ」

「なに。それはすべてそちらのご都合でしょう。構いませぬよ」


 魁偉たる男――ガノンが口を開くと、聖人は莞爾と笑って受け流した。どうやら、大陸の評判に偽りなし、といった体である。それどころか聖人は、開口一番に言ってのけた。


「ヴァギラのお国の新国王。ラーカンツの、ガノン。噂に聞くには、随分と戦と血に塗れた半生だったようで」

「……っ」

「いえ。他意はございませぬ。ラーカンツは、戦神と戦いを尊ぶ地だと聞き及んでおります。むしろ、戦わぬ方が無法でしょう」


 あまりの踏み込みに、ガノンは一瞬たじろぐ。だがマリゴサーナは、またもカラカラと笑った。口を開けて、いと快活に。もみあげと繋がり、顔の下半分を覆う髭。あまりにも特徴的だった。【聖人】という触れ込みと噂がなければ、叩き出されても文句の言えない姿である。なにせ右肩を出して毛皮をまとい、手には杖一本。足もほぼほぼ裸足である。乞食の類とされても、否定はできない様相であった。


「まあ、率直に申しましょう。それがし、新国王様の顔相を見に参ったのでございましてな。ええ、ええ。一目でわかり申す」

「わかるのか」

「わかりますとも。多くを、見てまいりましたのでな」

 

 聖人が、ニヤリと笑みを浮かべる。ガノンは訝しむ。たしかに、見識はあるようだが。彼は不機嫌をけぶらせたまま、言った。


「ならば、おれを当ててみろ。外れたらば、その先はないと思え」

「いいでしょう。ではまず、一言。王は、倦んでおられますな」

「っ!?」


 聖人から放たれたその一言に、ガノンの顔は大きく歪んだ。彼は【聖人】を鋭く睨み付ける。えも言われぬ沈黙が、室内に生まれた。


「……」


 動かぬ。否、動けぬガノン。


「斬りますかな?」


 ただただ、悠然たる聖人。

 一見、両者は向き合っているだけである。しかしそこには、剣闘の立ち合いにも似た緊迫感があった。なんの心得も持たぬ常人がその場に立てば、たちまちの内に粗相を働くことだろう。そんな恐るべき空間が、この場には醸成されていた。それも武人ではなく、荒野を旅行く徳深き者、【聖人】によって。


「……。聞こう」


 永遠にも近く感じられた沈黙ののち、ガノンは己の椅子に背中を預けた。そこにいかなる逡巡があったのかは、彼の表情からは見て取れない。はたして彼は、いかにして先の不敬を飲み込んだのか。『倦んでいる』などという物言いを、受け入れたのか。すべては未だ、謎であった。


「ええ、ええ。話しますとも。ダガンタ帝国の【大傭兵】だった折に、友たる蒼き槍兵を討ち倒したこと。その後に向かったタラコザでの仕打ち。打ちひしがれて帰還したラーカンツでの災難。その後の苦闘。出会い。別れ。特に影を落としたるは、やはり蒼き槍兵――」

「……随分と詳しいな」


 突如始まった【聖人】の長口上に、ガノンは思わず割って入った。この男は、何故に己がここに至るまでを詳細に知っているのか。

 知らずして恨みを買うこと、生命を狙われることには、相応に慣れたつもりである。しかしながら。己の情報を、ここまで詳細に握られているのは意外であった。


「この城に向かうと決めた時点で、調べ申した。我が……と言うにはおこがましいのですが、精舎しょうじゃの方には、様々な前歴を持つ者が寄せ集っております。それらの知恵をもってすれば、相応に調べは立ち申す」

「……」


 ガノンは、軽く息を吐いた。どうやら己は、どうやっても説法を受けねばならぬらしい。死ぬことはないにせよ、手の内が見えぬ相手は難しい。その事実を、今のガノンは良く知っていた。なにせ己も、似たような手段で先王を討ったのだから。

 最悪目の前に座す聖人が刺客だったとしても。ガノンにとっては、それもまた必然の一つであった。


「なぁに。王が思うほど、それがしは意地悪くもござらぬ。いや、すでに少々意地を悪くしてしまいましたか。とはいえ、これはほんの初手にしか過ぎず。それがしもまた俗物であると、知って頂いたまで」


 【聖人】は、なおも悠然としていた。ガノンの勘気を被るなど、一切考えていないといった体である。

 否。ガノンがここでマリゴサーナを叩き出せば、それはガノンの声望を貶めることに繋がる。自分で引き入れた聖人を自分で叩き出すことほど、ガノンの器量のなさを示す行動はないのだから。それだけで生まれたばかりの王権は地に落ち、民の声望はたちまちの内に離れていくことだろう。【聖人】をこの場に引き入れた時点で、ある意味ガノンは詰んでいた。


「……おれは王と聖人としてではなく、人と人として対面を望んだ。だから、この場で立場を持ち出すのは不当が過ぎる。命拾いをしたな」

「よく言われます。『腐りかけの木橋を渡るな』と」


 ようやく絞り出した脅しの半分の言葉も、この聖人は悠々と投げ返して来る。これではガノンも、怒りの行く先が覚束ない。結局彼は、呆れ半分に。


「いいだろう。おまえが言ったこと、すべて当たりだ。おれは倦んでいる。地位など要らぬと、心から叫びたい。別に今、この場で討たれようとも。命乞いの一つでさえもする気はない。そしておれの心には――」

「あいや、そこまで」


 すべてを投げ出さんとしたガノンにしかし、聖人は途中で右手を出し、『待った』と言わんばかりの仕草をした。これにはガノンも、訝しむ。


「なんだ、おまえが先に踏み込んだ所であろうが」

「いえ。いえいえ。すでに十分でございます。別にそれがしは、王の倦みを治しに来た訳ではござらぬ。考え方の一つを差し上げに参ったまで」

「……」


 ガノンは、言葉を失った。しばしの間、彼は動きを止める。その間も聖人は、泰然とその場に佇んでいた。やがて彼は、ため息のように口を開いた。


「おまえはどこまで、計画していた」

「計画など、ございませぬよ。情報を知り、推測を組み立て、展開によってなにを使うかを選ぶ。それだけでございます」


 【聖人】はその通り名に相応しい笑みを浮かべ、事もなげに言ってのけた。


 ***


 対話は、仕切り直しに入った。否、それは少々表現が異なるか。ともあれ、先刻まであった剣呑な空気はかき消えていた。互いに身を乗り出し、話を進める構えを見せている。先にならって剣闘に例えるとすれば。遠間の探り合いから、踏み込んでの丁々発止に入ったところと見るべきであろうか。


「さて、マリゴサーナよ」

「はい、ガノン王」

「おまえはおれを、見事に言い当てた。褒美に話を聞いてやる。おれに、なにを言いに来た」

「先も申した通り、考え方をば」


 両者が正対し、言葉を交わす。まずは、前提の共有であった。これがなくして、話は進まない。ガノンは、大きくうなずいた。


「良かろう。申してみよ」

「はい。まず、王――敢えてこう言わせて頂きます――は、けして地位を疎う必要などない、ということです」

「……」


 マリゴサーナが放った、最初の一言。ガノンはそれを、無言のままに受け取った。それを許容と見たのだろう。聖人は、続けて口を開いていく。


「いきなりの放言故、少しずつ申し上げていきます。まず、それがし世間においては【聖人】などと呼ばれております。他者を言い当てたことなど、この場以外にも複数ございます。されど。先に申した通り、そこには仕掛けがございます。精舎しょうじゃの者の、知恵を借りたまで。死期の赤子を、手かざしで治した折もそうです。それがしに、精舎の者から得た知見があった。それだけです。他者の情報、知恵にすがるだけの、俗物なのですよ」

「…………」


 マリゴサーナの、あけすけ極まりない告白。ガノンはそれさえも、無言で聞いた。


「もっとも、これがお話できるのはこの場だからでございます。王と聖人としての対面であれば、それがしはあくまでも聖人としての振る舞いで王に相対したでしょう。そしておそらく。王の不興を買っていた」

「言い切るか」

「言い切りますとも。他国でも、幾度かそうなりましたので。いかに聖人からものといえども、直言を受け入れられるほど懐の深い王など、そうそう居りませぬ」


 マリゴサーナが、ガノンの目を見る。その目はあまりにも清らかで、澄んでいた。ガノンは、目を逸らしたくなる己を叱りつけつつ、口を開く。


「おまえの目は、あまりにも眩しい」

「左様でございますか」

「おまえはおまえを、俗物だと言う。だが、おれにしてみれば。おまえの二つ名に、疑いが持てぬ。おまえは、【聖人】だ」

「……そこですな」


 マリゴサーナが、目を見開く。ガノンは思わず、身を仰け反らせた。その眼力に、気圧されたのだ。


「王が歩んだ道は、先に申した通り血塗られたものでありました。その血が、その道のりが。王を常に苛んでいる。それ故に王は、己の立場を許容できない」

「……続けろ」


 マリゴサーナが、淡々と告げる。ガノンはそれを、直視しつつ聞いていた。そして、続きを促した。


「されど、王は。ラーカンツの民が崇める戦神、その使徒でございましたな」

「……そうだ」

「ならば。むしろそれがしよりも【聖人】であると言えるでしょうな」

「なんだと?」


 あまりにも受け入れ難い発言に、ガノンの瞳は剣呑さを増した。一体全体、この【聖人】はなにを言いたいのか。彼にはまったくわからなかった。しかしマリゴサーナは、しまったとばかりに伸び放題の黒髪を掻いた。フケが飛び、シラミが舞う。しかしガノンは、一瞥さえもしなかった。


 ここで一旦、【聖人】という言葉について整理をしたい。そもそも【聖人】という立場には、特に決まった基準が設けられていない。平たく言えば、民に対していと徳深き者。彼らに対する敬称というのが正しいだろう。

 一方。多神教にかかわる者は、その存念から【聖人】に対して幾つかの基準を内包している。

 いずれの観点から見ても。先におけるマリゴサーナの発言は、あまりにも突飛過ぎるものであった。


「……失敬。またも話が飛びましたな。悪い癖です」


 それ故であろうか。【聖人】は己を嘲り、カラカラと笑った。これにはガノンも、毒気を抜かれる。呆れ半分に、仕草のみで続きを促す。それを受けて、再度マリゴサーナは口を開いた。


「王は、多神教における【聖人】の意味をご存知ですかな?」

「おおよそはな。信ずる神に忠実であり、その奇跡を体現する者。民にあまねく幸福をもたらし、別け隔てなく突き進む者、だ」

「ご名答、でございます」


 マリゴサーナは、泰然とうなずいた。その上で、さらに自論を進めていく。


「王は、戦神に忠実であられますな」

「そう在るように、常に研鑽は尽くしてきた。力及ばず、降臨の恩恵にあずかれたことは少ないがな」

「されど【使徒】として、幾度となくその神威しんいを顕現あそばされた」

「……そうして来た」


 ガノンの口ぶりには、逡巡が交じる。はたして。己は戦神に対して、すべてを捧げ切れたのであろうか? まだまだでき得ることがあったのではなかろうか? 努力は欠かさなかったが、戦神の思し召しに足るものであったのだろうか? そういう迷いが、常に内在していた。安直に言い切れるほど、彼は己を過信していなかった。


「でしょうな。そして、少なくとも己を信ずる者には幸福をもたらした」

「そのつもりではある。最後まで正しい方向に導けたかはわからんが」

「少なくとも、そう在らんとはされた」

「ああ。……おまえ、おれに言い訳をさせまいとしているな?」


 ここに至り、遂にガノンは痺れを切らした。【聖人】の口ぶりが、あまりにも回りくどい。ガノンが好むやり方からすれば、あまりに陰険が過ぎるものだった。


「ご明察」


 されど、マリゴサーナは動じない。反発を短く切って捨て、慇懃にも似た口ぶりでさらに続ける。


「故に、最後でございます。王は、敵味方別け隔てなく。神に忠実な者として、突き進まれましたな?」

「くどい。……が、答えは変わらん。そう在るよう、力は尽くしてきた。時には戦神を疑ったこともある。だが、否定だけはしなかった」


 ガノンは、思い出す。幾年か前、彼は真に戦神を疑ったことがあった。その神威を、十全に振るえなかったこともある。だがその疑いは、誠に皮肉な形で晴らされてしまった。それもまた、彼が今――己が状況に、んでしまった――に至った理由の一つではあるのだが。


「やはり、王は【聖人】にてございます。それがしなどより、余程」


 しかしマリゴサーナは、大きくうなずいた。


「まだ言うか」

「言いますな。しかし先も申した通り、これはあくまで考え方の一つです。ですが、倦み続けるよりは、どこかで気が晴れた方が心地良い。そう思いませぬか?」


 マリゴサーナが、ガノンの目を見る。ガノンもまた、【聖人】の目を見た。不機嫌にけぶる瞳を、澄んだ瞳が貫いていく。やがてガノンは、大きく息を吐いた。


「……負けたわ。だが。それでもおれは、おれを【聖人】だとはとても思えん」

「それもまた、考え方の一つでございます」


 吐き捨てるように言葉を綴ったガノンを、されど【聖人】は笑顔で受け入れる。その笑みは満面のものでった。マリゴサーナが、本心からそう思っている。ガノンでさえも、はっきりとわかるものだった。


「皮肉か」

「そう思われても結構。ですが、王が、ご自身の生きてきた道を否定しない。すべてを受け入れる。それもまた、一つの清らかな行いでございます」

「……清らかとは思えんが」

「では、真っ直ぐであるとでも言い換えましょうか」


 ガノンの言葉を、【聖人】はどこまでも受け入れ、弾き返す。ガノンにしてみれば、その振る舞いこそが【聖人】だとでも言いたくなる。だがおそらく、目の前の男は笑ってそれを否定するだろう。こうなってはもはや、ガノンに言い返せる材料はない。真にガノンの、敗北だった。否、敗北という言葉は相応しくない。喝破を受けた、とでも言うべきだろうか。


「わかった。大いにわかった。おれはどうやら、真摯に過ぎたらしい」


 ガノンは椅子に背を預け、再び大きく息を吐いた。わかってしまえば、どうということもない話だった。己が己に対して、真剣過ぎた。その事実さえ理解できれば、どうということはなかった。あとは。


「で? おまえはおれに、どう生きろと説く? 許す。言ってみろ」


 そう。ここまでの説法を受け入れた上で、結論を問うことだった。ここまでの問題提起をされたのだ。さぞかし、恐るべき結論を秘めているのだろう。そんな勘繰りも胸に秘めつつ、ガノンは最後の問いを発した。


「さて。どう言いましょうかな……」


 されど、【聖人】は最後まで泰然自若としていた。自慢するでもなく、誇るでもなく。ただただ正眼に構え、言葉を選んでいた。

 だが、わかっている。すでにガノンはわかっている。己がいかに、邪な構えでこの【聖人】に相対したのかを。その報いを、彼は自ら受けようとしていた。


「ええ。単刀直入に参りましょう。王は、そのままで結構。外においては君主たるに忠実な王であり、内においてはなお悩み続ければ良し。ただし、けして内外を逆にしてはなりませぬ。この按配を崩せば、即座に反逆を買うでしょう」

「……ここまでの説法をしておいて、結論はそれか」

「はい。そもそも本日の論は、説法にございませぬ。あくまで迷える王に、考え方の一つを差し上げたまで」

「……」


 ガノンは、三度大きく息を吐いた。その上で、聖人に手振りだけで示す。『出て行け』と。


「もういい。おれはおれの道を歩む。おまえは不要だ」

「ええ、ええ。結構ですとも。王の未来に、幸あらんことを」

「世辞は不要だ。行け」

「そうですか。では、さらば」


 【聖人】は、最後まで悠然と立ち去った。外から、臣下が護衛についた音が聞こえる。血気盛んな者に、殺される可能性は低いだろう。ガノンは、わずかに疲れた表情を見せた。だが直後、再び椅子に背を預けた。

 残されたのは、悔しさではない。敗北感でもない。己を喝破されたという思いは、今やふつふつと沸き起こる決意に変換されつつあった。彼は部屋の虚空に、じっと呟く。


「見てろよ【聖人】。おれは、戦神に忠実であり続ける。王の責務にも、立ち向かおう。その先がなにであっても、おまえにもはや直言の権利はない」


 それは決別であり、誓いでもあった。


 聖人・完

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