闇、いと近きもの

 闇。

 闇は光が強くなれば濃くなり、光が薄くなればまた濃くなる。

 闇とはいずこにでもあり、不滅であり、消えざりしものである。

 人よ、心せよ。闇はいと暗く。いと黒く。そしていと優しい。

 神々を知るものは心せよ。闇とは、かつて人に最も親しく、近しい神であった。

 すべての者どもよ、心せよ。闇は遠ざければ近付き、近付けばまた近付くと。

 すべての者どもよ。心に棲まう闇を飼い慣らすべし。

 (かつて闇を知り、闇を語ったとして処断された思想家の書物より)


***


 ヴァレチモア大陸の中央部。国境をも知れぬ荒野の一点に、その赤々とした火はあった。火を睨むのは四つの目。二つは黄金色にくすぶってその向こうを見据え、二つは黒く淀み、底知れぬ哀しみを湛えていた。


「では、貴様はあくまでもかたきを」

「討ちます。討たねば、ならない」


 哀しみを湛えたまなこの主は、十二、三頃の少年であった。よくよく見れば薄明かりに照らされている肌は汚れ、少なからぬ生傷を刻まれていた。この少年がいかなる目に遭ったのか、いかなる道程どうていで現在に至ったのか、荒野の環境を思えば、想像するに難くはないだろう。


「……難行になるぞ。この荒野に潜む賊、そのすべてを潰すと言うようなものだからな」

「それでも、です」


 そうか、と黄金色の目の持ち主は短く答えた。彼はその間に己の許容範囲について考え、直後放棄した。人情で言えば、少年に協力したいのはやまやまだ。だが全面協力など、少年の望むものではないだろう。彼にできることがあるとすれば、少年の鍛錬に協力することと――


「伝えておくぞ、少年。仮に生のすべてをかたきの殲滅に注ぐのであれば」

「あれば」

「闇に呑まれぬよう、心せよ。細心の注意を払え」


 彼の行くであろう道の先。屍山血河の果てに待ち受ける暗闇から逃れられるよう、忠告することだった。


「……心します。行き倒れのおれを助けて下すった、あなたのためにも」

「それでいい」


 黄金色の目の持ち主――すなわちラーカンツのガノンは、少年に向かって重くうなずいた。彼は心中にて、荒野を行く己の旅路を思い返した。闇との邂逅があり、戦があり、時には自身さえもが闇に誘惑されることもあった。しかし彼の心には、常に戦神があった。戦神を思い、祈りを捧げ、心から尊ぶ。その信念こそが、彼が闇の魔手に呑まれなかった、理由の一つでもあった。


「闇は、血を好む。争いを好む。復讐心など、格好の餌だ」

「はい」


 暗い目をした少年に、ガノンはとつとつと語り続ける。それは、彼が知る限りの闇の提示だった。闇の導師と戦った過去や、闇そのものを直視しかけた記憶が、彼をそうさせていた。少年の行く道の果てが、いと暗く、強大な闇であってはならない。明るいものではないにしても、未来あるものにしなくてはならない。たとえ余計な口出しであろうが、出会ったからには言い添えておきたかった。


「血に呑まれるな。己を保て。心のうちに、一本の芯を持て」

「芯なら、ここに」


 ガノンの言葉に対して、少年は身体に刻まれた傷、そのうちの一つを指で示した。ガノンは思わず、息を呑んだ。それは頬に、尋常ならざる深さで刻まれたものだった。無論、未だに瘉えてもいないし、塞がってもいない。見るも生々しく、痛々しい傷だった。


「そいつは」

「これだけは、おれが、おれ自身で刻みました。忘れないために」

「そうか」


 ガノンは、言葉も短く焚き火に木をくべた。夜はとうに更け、本来であれば眠りについても良い時間であった。しかし。


「傷が疼くか」

「ええ、痛みます。今はあなたのおかげで気を張れていますが、ひとたび気を抜けば、息もつかぬ間に倒れるでしょう」

「俺は構わんぞ」

「いえ。うなされるのも、嫌ですから」

「そうか」


 二人は結局、朝まで言葉を交わしあった。ガノンは少年の傷が落ち着く頃合いを待って、いくつかの武技を授けた。そのほとんどは基礎基本、体力の鍛錬であったが、ガノンはそれらこそが救いになると確信していた。土台なくして、技は成立しない。戦神の教えにも、そう刻まれていた。結果的に二人は、百日あまりの旅路をともに過ごした。


「それでは、無事に本懐を遂げるのだぞ、ルアーキー」

「ガノン様こそ、旅路に戦神のご加護があらんことを」


 訪れた別れの日、二人は互いの名を呼び、無事を誓い合った。ガノンの旅路において、これほどまでに道をともにした相手は初めてだった。それ故に彼の言葉は真摯しんしで、心の底からの願いであった。


 ああ、しかし。だからこそ。運命の神は願いをあざ笑うのであろうか。二人の宿運が巡り合うのは、この出会いより幾年かのち。ガノンが【大傭兵】、【赤髪の牙犬】と呼ばれ出した頃合いであった。


***


 炎に赤々と照らされた闇の中、美しき女性にょしょうが手を離そうとする。まだうら若き少年は、それを掴み直そうと手繰り寄せる。そっと振り向く。しかし女性は、首を横に振った。すでに幾人かの賊が、残り十数歩にまで迫っていた。


『ねえさん、なぜ』

『逃げて、逃げるのよ、ルア。あなただけなら、生き延びられる』


 少年の訴えに、『ねえさん』は首を横に振る。少年には、彼女の考えが理解できなかった。それでも少年は足を止めない。止められない。必然、二人の距離は少しずつ。そして、見る。見てしまう。賊の群れに呑まれる、姉の姿を。彼は叫んだ。


『ねえさん!』

『あたしのことは忘れなさい! あなたは、無事に――』

『ねえさん! ねえさん! ね……』


 彼女に向けて伸ばしたはずの腕は、空しく『ねえさん』の手をすり抜けていく。それもそのはず、彼が伸ばしていたその腕の先は。


「……夢、か」


 天井以外にはなにもない、ただの虚空だったのだから。ただただあの日より太くなり、傷が増え、逞しくなった右腕だけがそこにあった。


「何年ぶりだろうな……」


 思いを巡らしながら、ルアーキーは身を起こした。己で刻み込んだ、あの日の傷がにわかに疼く。隠れ家じみた狭い一室にある寝台は非常に固く、寝心地が悪い。そんなだからあの日の夢を見た。と、結論を付けてしまいたかったのだが。


「寝心地は理由にならないな」


 彼は、己の慣れを信じることを選んだ。半ば貧民窟と化している街の一角、もはや汚濁極まりなかったこの部屋を整備してから、早一年は経っている。今更過去にうなされるのは、理屈が通らなかった。


「……」


 そんな朝を迎えたからか。ルアーキーの身支度は酷く捗らなかった。街に住む貧民たちを手助けし、ともに金を稼ぐ。そのための準備程度に、半刻を費やしてしまった。


「起きろー、ルア兄」

「すまない。今行く」


 部屋の外から、彼を呼ぶ声。この貧民窟に住む、少年たちのものだ。彼はこれから少年たちとともに塵芥の集積場――有り体に言えば廃材置き場――へと向かう。そこで少しでも金目になりそうなものを拾い、商人に売り払って飯の足しにするのだ。はっきり言ってしまえば、せいぜいポメダ銅貨数枚程度の稼ぎにしかならない。だが少年たちにとっては、明日へ生き延びるための貴重な食い扶持だった。


「ルア兄、遅いぞ」

「寝坊をしてしまってね。起こしてくれてありがとう」


 少年たちと語りながら、彼は貧民窟を行く。この街には、淀んだ瞳が多かった。明日を見失い、ここでただただ生きるために生きている。そんな人間が、多く住んでいた。たまに活気があるとすれば。


「オラァ! 俺はお前に今日のメシ代賭けてんだ! 気張れ!」

「行けーっ! 俺の明日はお前に掛かってるんだ!」


 路地裏で行われる違法賭博――食肉用のダハ鶏に切れ味の悪いナイフを括り付け、殺し合わせる遊びだ――によって生まれる、悲喜の入り混じった叫び声だった。


「……」

「相変わらず、慣れないのか。ルア兄」

「ん? あ、ああ。済まない」

「仕方ないよ。兄ちゃん、『流れ』だもんな」


 そんな様子を憎々しげに見ているルアーキーに、少年たちが声をかける。話に流されるままに彼は追及をかわすが、その根に宿るのは『慣れない』程度では収まらない想いだった。思わず溢れ、小さく吐き出す。


「もったいない、な」

「ん?」

「いや、なんでもない。行こう」

「変なの」


 鋭く聞きとがめた少年の、見上げて来る視線をそらして。彼は廃材置き場へと足を向けた。廃材置き場へとたどり着けば、後は額に汗して金目を回収するばかり。そして日が、中天半ばに差し掛かる頃には。


「いやあ、今日もよく取れた」

「ルア兄が来てからは、大荷物も取れるからな! 助かるよ!」

「そう言ってくれるのなら、光栄だよ」


 彼らは、いくつかの袋を手に帰途についていた。中でもルアーキーは圧巻だ。背に大袋を一つ、両のかいなに大袋を四つ。いともたやすく己の荷としていた。廃材の中にある金目を売りさばき、明日の糧を得る。それが、少年たちの稼業であった。


「こんにちは」

「おお、兄さんか。今日も精が出るねえ」

「精を出さなきゃ、食い扶持がないからな。今日も見繕いを頼む」

「ああ、わかった」


 市を成す街の大通りから一歩外れたところで、ルアーキーは顔馴染の商人と交渉に入る。彼ら貧民窟の人間は、大通りに入ればたちまち巡警に叩き出される運命にある。彼らと街は、繋がっているようで分け隔てられていた。


「ふむふむ……」

「頼むぞ」

「あ、ああ。わかってるよ」


 金目に目を光らせる商人に、ルアーキーはいかめしく声をかける。彼がこうして少年たちの手伝いを始めた頃、商人は少年たちを嘲り、不当に安く買い叩いていた。これを言い咎め、真っ当な取引に改めたのもまた、ルアーキーの功績だった。それ以来、彼らと商人は比較的良好な関係にあった。しばらくして、商人がゆっくりと口を開いた。


「よし。今日はポメダ銅貨二十枚だ」

「わかった」

「おっちゃん、ありがとう!」

「これでもまだ三十路みそじだぞ?」

「十分おっちゃんだ!」


 商人と少年たちが小気味よいやり取りを交わす中、ルアーキーは黙って金を引き取る。この中の数枚を運搬料として貰い受け、残りを少年たちが平等に割る。結局のところ、稼ぎはそうそう大きくならない。だが少年たちにとって、彼が来たのは大きな光だった。かつては銅貨一枚すら受け取れなかった者がいたのが、今や皆に一枚は配れるようになったのだから。

 ともあれ、ルアーキーは分け前を回収して商人の元を立ち去ろうとする。ところがこの日に限って、商人が彼を呼び止めた。


「兄さん、ちょい待ち」

「どうした。用件は終わっただろう?」

「いいからいいから。ああ、ちょっと兄さんを借りるぜ」

「わかった! ルア兄、また明日!」


 商人が巧みにルアーキーと少年たちを切り離し、少年たちは足早に貧民窟へと戻っていく。その背中がが見えなくなったところで、ようやく商人は口を開いた。


「兄さん、用心棒気取りなら気をつけな。最近領主様が、貧民窟の一掃を目論んでいるらしい」


 その言葉を聞いた瞬間。ルアーキーの瞳には本人でさえ気付かぬくらいものが宿っていた。


***


 商人の忠告から、数日が過ぎた。しかしながら厳しい忠告に反して、日々は至って平和に過ぎていた。


「おーい、ルア兄! こっちにデカいのがあるんだ! 助けてくれぇ!」

「わかった、今行く」


 彼らの日常には、まったくもって変わりはない。いつも通りに廃材置き場へと向かい、金目の物を回収する。日銭が必要な少年たちのためにも、それを止めるわけにはいかなかった。日銭がなければ彼らは、たちまち食い扶持を失うからである。ともすれば彼らは、未だ年若い弟妹ていまいさえも抱えているのだ。


「んーーー……! あ、抜けた!」

「良くやった。君の功績だ」

「へへん、やったぜ」


 ガラリと音を立て、鐘楼の鐘ぐらいには大きな金属物が姿を現す。かつての使途は不明だが、金目の物には変わりない。丁重に引き取ることとした。ルアーキーは腕に力を込め、塊を持ち上げる。今日はこれを運ぶので精一杯になりそうだ。


「みんなのおかげで、とても大きいモノが拾えた。今日のところはここまでにしよう」

「はーい!」

「わかった!」


 ルアーキーが声をかけると、少年たちは口々に返事をする。彼ら彼女らは概して素直であり、明るかった。一年ほど前、傷と報仇の情を背負ってこの街に流れ着いた彼にとって、少年たちの姿はどこかで救いにもなっていた。


「今日は、もしかしたら結構な額になるかもしれないぞ」

「ほんと!?」

「ああ。そうしたらどうする?」

「弟に腹いっぱい食わすんだ!」

「あたしは父ちゃん!」

「おいらは妹!」

「そのくらいになると良いな」


 他愛無いやり取りを重ねながら、ルアーキーたちは一団となっていつもの商人の元へと向かう。しかしその途上、ルアーキーは嫌な予感を抱いた。傍目に見る市場の空気が、あまりにも常と異なっている。こちらを憐れむような視線に、どこか物々しい空気。なにかあったのかと、彼らに尋ねるか。だが、直後に考えを切り捨てる。彼らと市場の民の間にある断絶は、その程度の違和感で超えられるものではなかった。ところが――


「おお、兄さん」

「やあ今日も……」

「なにも言わん。金目もこの子たちも預かるから、早く帰りな」

「む?」


 いつもの商人までもが、態度の違いをあらわにする。顔に汗まで浮かべて、彼に貧民窟への帰還を促したのだ。意味を飲み込めなかったルアーキーが立ち尽くすと、商人は急ぎ足で彼に耳打ちをした。


「先日の忠告が、現実になったっぜ。少年たちに、見せる訳にはいかんだろう?」

「――!」


 ルアーキーの表情が、にわかに変わる。すると、少年たちの頭目が目ざとく彼に問うて来た。


「どうしたルア兄。調子でも」

「君たちはここにいてくれ。おれは戻る」

「じゃあぼくたちも!」

「駄目だ」


 ルアーキーに群がる少年少女を、彼は極めて低い声で制した。少年たちを連れて行けば、間違いなく強い衝撃に襲われる。それほどの光景が待ち受けていることを、彼は苦く、痛ましい経験から知っていた。


「申し訳ないが、君たちは足手まといになる。ここにいてくれ」

「……」


 そのことを、彼は極力短い言葉で告げる。少年たちの頭目が、彼を見上げる。その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。


「わかった。だけど、戻って来てくれよ」

「ああ。極力そうする」


 ルアーキーは、少年の目を見て言った。彼はそれきり背を向け、疾風の如く貧民窟へと向かって行った。早く、早く。少しでも早く。そう念じて、目的地へと向かう。彼には、加護を招く紋様がない。あくまで、鍛え上げた彼の足のみが現場へと向かう手段だった。それ故に。ああ、それ故に。


「……」


 彼がたどり着いたのは、すでに惨禍が為されている現場であった。貧民窟の各所から火が立ち上り、住民たちが無慈悲な刃に殺戮されていた。路地裏でダハ鶏を戦わせていた男が。ルアーキーがこの街の土を踏んだ頃、心優しく貧民街に迎え入れてくれた者が。子どもたちを引き連れる彼に、柔らかく声を掛けてくれた娘が。領主の無慈悲な手によって、惨たらしい目に遭わされていた。


「ああ……」


 ルアーキーは呻くように声を上げた。頭がズキリと、痛んだ気がした。自身で刻んだ頬の傷が、酷く疼いた気がした。心の奥底に封じていた、『あの日』の光景が蘇る。眼前で行われている惨禍に、重なっていく。


「ねえさん」


 気付けば、言葉が一つ漏れていた。同時に、彼は己を恨んだ。報仇を成すために己を鍛え上げたのに、目の前の惨禍一つさえ止められないのか。握り締めている手が、皮膚を突き破る。血が土に落ちた時。彼の耳へと声が響いた。


『汝、力を望むか』

「望む」


 ルアーキーは、自分でも驚くほどにはっきりと答えていた。相手が何者かとも知らず、ただただ答えていた。


『ならば、我の手を取れ。汝ほどの闇をたたえておれば、供物など要らぬ』


 囁き声が、力を増す。ルアーキーの前には、漆黒の大鏡が見えていた。おお、闇を知悉ちしつする者であれば震えたに違いない。それは闇の象徴。それは闇がその身を預けたもの。写し身でも偶像化されたものでもない、まさに闇そのもの。今こそ思い出せ。闇はいと近く、いと優しい。いと暗く、いと黒い。


「わかった」


 しかしルアーキーは手を伸ばす。彼の心中には、もはや怒りしかなかった。目の前にある光景を、打ち払う力を求めていた。なれば、差し伸べられた手を取るのは、彼にとっては全くの道理だった。


 ぴたり。


 ルアーキーの右掌が、黒き鏡へと触れた。同時に、鏡から漆黒の淀みが溢れ出した。淀みは彼を粘液のように包み込み、いと優しく彼を包んだ。


『思いに身を委ねよ。怒りに身を委ねよ。汝の奥底にある、その泥濘。抑えている情念を解放せよ』


 囁く声に、ルアーキーは身を委ねた。自らの底を形作る、報仇の念を解き放った。そうだ。おれは。姉のかたきを討たねばならない。村の復讐を、果たさねばならない。貧民窟に広がるこの光景を、薙ぎ払わねばならない。


「お、お、お、お……」


 ルアーキーの目が見開く。その目からは、光が消えていた。一見、変わりない出で立ちに見えるが、呼気からは闇色の気配が立ち上っていた。

 今再び、かつて闇を語った男の言葉を説こう。闇とは、人を許容する。すべてを許す。いかに汚れた行いであれ、闇はそれを許してしまう。いと優しく、いと恐ろしきもの。

 ああ。ルアーキーは今。心底からの情念想いによって、自ら闇へと踏み込んだのだ。


『我が使徒、成れり。さらばだ』


 ルアーキーの前から鏡が消える。同時に、彼の視界は平常を取り戻した。目前に立つのは、暴挙の痕跡を色濃く残した、兵士数人だった。


「なんだぁ? 混ざりてぇのか?」

「いんや、このナリはむしろ」

っちまおうぜ。見られてるのは厄介だ」


 ジリジリと兵士が寄って来る。ルアーキーは、目を閉じた。心の底から、情念が立ち上ってくる。こいつらを、殺さねばならない。


「あ゛!!!」


 ほとんど蛮声にも似た声を上げて、彼は突進した。それは、彼には思いもよらぬ疾さだった。徒手空拳にもかかわらず、彼は瞬く間に兵士たちを屠っていた。


「……」


 彼は血に染まった両の手を見る。今までも遥かにあっさりと、彼は事を成し遂げていた。しかし他の兵士たちが近寄って来る。口々に叫ぶ。


「反抗する奴がいるぞ!」

「殺せ!」

「貧民なんざ、この街にはもう要らねえんだ!」


 五人。十人。興奮のままに近寄って来る。ルアーキーは、たおれた兵士から槍を奪った。こともなげに振り回す。無造作に突き出す。それだけで、面白いように兵士が倒れていく。


「へ」


 無意識に出た声は、わらいか。それとも、闇に堕した己を、嘲る声か。ともかく彼は、ここより闇色の風となった。槍を振るう。刀を振るう。それだけで、面白いように兵士が死んだ。十から先は、数えてもいない。貧民窟にに入り込んだのは百程度だろう。だが、もしかしたらそれより多くを殺したかもしれない。ともかく、彼は殺した。殺して、更に殺した。冥府にすらたどり着けぬよう、念入りに壊した。


「……」


 だからそれは、初期衝動からの目覚めと言ってもいいだろう。ルアーキーが力なく理性を取り戻した時、すでに火は消えていた。彼のいた貧民窟は、焼き尽くされていた。


「あ……」


 憑き物が落ちたように、手にかけていた相手を見る。貧民だった。見窄らしい格好をして、血にまみれていた。顔も肉体も、原型を留めていない。ぐちゃぐちゃだった。それを見ただけで、ルアーキーは確信した。


「おれだ」


 呟く。


「この惨禍をやったのは、おれだ」


 頬から、涙がこぼれた。血涙だった。血涙はやがて、闇色となる。それこそが彼に、闇の手を取ってしまったことを自覚させた。瞬間、自害が浮かぶ。しかし首を振る。闇の使徒となってしまった以上、闇からの加護が彼を護ってしまう。闇とは、それほどまでに恐ろしく、優しい。かつて彼は、荒野でそのことを教えられたのだ。にもかかわらず。


「ああ、ああ……」


 彼は思い出す。恩人からの言葉を。戒めのように噛み締めていたはずの、その言葉を。


『闇に呑まれぬよう、心せよ。細心の注意を払え』


 おれは、と。小さく言葉を吐き出す。心していたはずなのに、一時の感情で呑まれてしまった。彼は、力なく呟いた。少年の声が脳裏によぎるが、彼は即座に打ち消していた。


「戻れない」


 それは決意だった。二つの意味での決意だった。少年たちの元へと戻らないこと。そして。


「荒野を歩き、匪賊どもを討ち、そしてあの人に斬られる。それまでは、戻らない」


 その日。哀しき決意を抱いたルアーキーは、街から消えた。


***


 貧民窟の悲惨な事件から、およそ一年が過ぎた。その間に街は、すっかり荒れ果ててしまった。すべては、ルアーキーの暴挙が根源だった。彼が弑した者どもの中に、自ら指揮を執った領主が混じっていたのだ。領主は、貧民を嫌うあまりに反対を振り切り、自ら前線に躍り出た。その結果、闇に堕ちた青年の殺戮と向き合ってしまったのだ。

 その後、街の治安は混乱した。領主には子がなく、周囲の者は失職を恐れて領主不在を隠そうとした。だが、噂は飛び交うものである。必然、街の空気にも淀みが生まれる。そこを、荒野を彷徨う流民どもに襲われたのだ。流民は市場を破壊し、多くの物を持ち去った。ルアーキーが商人に預けた貧民の子らも、多くがここで消息を絶ってしまった。結果、あとに残されたのは、荒れ果てた街だけであった。しかしここで疑問が残るであろう。かの街を勢力下においていたはずの国家は、なぜ街の救済に動かなかったのか? その理由は、街にやって来た彼らにあった。


「……奴らは街に火を放ったか」

「流民に襲われ、半ば滅びた街でしたからな。食料の調達などをさせぬためには、最良の手と言ってもいいでしょう」


 未だ煙の残る街の痕にて、語る男が二人。一人は黄金色にくすぶる瞳を街の周囲へと向け、一人は家宰じみた服を身にまとい、街跡に冷たく目を光らせていた。黄金色の目をした男の体躯は大きく、いかつく、そっけない鎧兜に身を包んでいる。


「まったく。お陰で俺た……我々【赤き牙の傭兵団】は飯の供給さえままならん。後方から来る奴らを待たなきゃ、にっちもさっちも進めんと来た」

「それが、敵軍の狙いなのでしょう。ダガンタ帝国の本軍も、最近は侵攻速度が鈍っているとの報告が」

「厄介だ。ああ、厄介だ。昔のように暴れられたら」

「……」

「やらねえよ。ああ、やらねえ。貴様が認めん限りはな」


 一時。ほんの一時だけ目を鋭くした家宰を見て、ガノンは鷹揚にうなずいた。彼がこの家宰――ダーシアを引き込むには、ラガダン金貨千枚どころではない心身の負荷が掛かっている。ガノンが私欲で手放すには、あまりにも惜しい人材だった。


「とはいえ、だ。飯のアテはあるのか? このままじゃ、決戦の頃には俺たちは動けなくなってるぞ」

輜重しちょうの者どもを急かしてはおりますが、限界が近いですな」

「……ちっ」


 ガノンは、【大傭兵】と謳われる男は兜を外し、火吹き山の如くうねる赤髪を掻きむしった。そんな姿から家宰は、主人の苛立ちを感じ取る。下手をすると、侵攻限界点よりも先に、ガノンの精神が暴発しかねない。そうなれば、傭兵団は瓦解の危機に陥ることは必定だった。ダーシアは本格的に、己が頭脳を稼働させ始めた。しかし、程なくして。彼の頭脳は、急停止を強いられることとなった。


「なあ……」


 二人の前に、襤褸ボロをまとった少年が現れた。それは物陰からぬるりと、あまりにも唐突に通りへと躍り出たのだ。


「何奴!」


 一歩遅れて、家宰が主人を護りに前へ出る。しかし家宰は、心中でいたく後悔していた。もしも害意がある者が相手だったならば、この一歩がすべてを終わらせていた恐れがあるからだ。彼は己を、脳内で激しく罵った。


「ただのみなしごだよ。武器もなんもない。それとも、コイツを剥がすかい?」


 襤褸の下から、目が光る。それが人間への不信によるものであることを、ガノンは真っ先に見抜いた。彼もまた、遠い昔にそういった空虚を湛えていたからだ。ガノンは家宰を押しのけ、少年と直に目を合わせる。互いの射抜くような視線が、ピタリと交わった。


「用を言え」


 ガノンは、短く口を開いた。慌てて家宰が止めに入ろうとする。しかし彼は、鋭く睨む。


「首領。なりませんぞ」

「俺の勘を、愚弄するか」

「っ……」


 ガノンの言葉に、家宰は一歩引き下がる。それを見て、襤褸の少年は口を開いた。あいも変わらず顔は見せないが、幾分か口ぶりが柔らかくなったように感じられた。


「人を、探して欲しいんだ」

「なんと」


 家宰が、相槌を入れた。しかし直後には口を覆い、首領に向けて頭を下げた。今は少年とガノンの会話の場。割って入るのは無粋だった。


「……名と、特徴は」

「ルアーキー」

「!」


 短く示された名に、ガノンの表情はかすかに揺らいだ。忘れもしない。己がまだ、荒野に漂う旅人であった頃。わずかに道程を交わした少年の名だ。それをまさか、滅びた街で耳にすることになろうとは。ガノンは、問い質したい衝動をこらえて口を開いた。


「そいつは、おまえとどういった関係なのだ」

「ルア兄は……」


 少年はとつとつと口を開いた。二年ほど前にこの街に現れ、貧民窟の仲間となったこと。少年たちの労力を貪っていた商人から、正しい取引の約定を引き出したこと。ルアーキーを兄貴分として慕い、また少年の仲間たちからも慕われていたこと。そして一年前に別れ、未だ戻って来ないことを。


「流民の襲撃や軍隊連中の放火で、おいらたちもバラバラになっちまった。誰が生きてて誰が死んだのか、もうさっぱりだ。だけど、そいつをルア兄に伝えることすら叶いやしない。だから、探して欲しいんだ」

「ふむ……」


 ガノンは、そのすべてをほとんど無言で聞いた。少年の話はとりとめがなく、長いものだった。しかしながら彼は、一言一句を胸に刻み込んでいた。かつて行き逢った少年の足跡そくせきを、己のうちへと飲み込んでいた。


「報酬は」


 そうしてガノンは、ゆっくりと口を開いた。だがまろび出た言葉は、傭兵にとっての最大原則だった。傭兵は情では動かない。それらを動かすには、報酬が必須だった。


「出せない。だけど」


 少年は、再び襤褸の下の目を光らせた。ガノンはそこに確信を抱く。己の話を、盗み聞きされたか。


「アンタは苛立ちを募らせている。なにか、刺激を欲してるんだろう?」

「……」


 ガノンは、少年の目を見据えた。同時に、前へ出んとした家宰を手で押し止める。彼の頭脳は今や、知識神もかくやの勢いで回っていた。


「俺が苛立っていたのは事実だ。だが、俺も一軍を率いる身。欲を満たすだけでは動けぬ」

「くっ……」


 ガノンの物言いに、少年は歯噛みする。しかしそこに、割って入る声があった。


「いいでしょう」

「ダーシア!?」


 家宰じみた服をまとった男が、少年の前にするりと出る。そして優雅に一礼をした。ガノンは驚きを隠せず、少年は口をあんぐりと空けた。


「首領。団の差配は、一時それがしが預かります。首領は、思うがままに」


 家宰は首領に向けても一礼した。ガノンは戸惑った。なぜにこの男は突然に、己の暴挙を許したのか。彼には理解し難かった。


「苛立ちに震える首領を見ているのは、こちらとしても心苦しいのです」


 家宰は、ガノンに向けて間合いを近付けた。そして、瞬時のうちに耳元を制し。


「ルアーキーなる者と、なにやら因縁があるご様子。理屈などこねずに、果たされれば良かろう」


 核心を突く物言いを、小声で言い放った。


「……」


 ガノンは、家宰を睨もうとした。しかしその時には、再び家宰は距離を取っていた。彼にかしずく、配下の姿を取っていた。


「わかった」


 ガノンは、小さく言葉を吐き出した。襤褸の少年が、じりりと距離を取る。だが彼は、それさえも手で制した。


「恐れるな。おののくな。俺は一人の男として、貴様の願いを請け負おう。ただし」


 少年の目が、一瞬輝く。だが、続きの気配に再び曇った。それに気付いてか気付かずか、ガノンは言葉を続けた。


「少年、貴様も命を賭けろ。俺に付いて来るがいい」


***


 荒涼とした風が、原野に吹いていた。草木一つとてない、無辺なる荒野。遠くを見れば、獣が獣の屍体に群がっている。おお、此処こそがラーカンツのガノンが原点の地、ヴァレチモア大陸、中心部に広がる平原であった。


「……」


 そっけない鎧兜を外套に包み、大いなる男は道なき道をホクソー馬にてゆっくりと進む。その背中には、襤褸をまとった小さな影。過日、大胆にもガノンにルアーキー捜索を訴え出た少年だった。


「……」


 ガノンは無言のまま、黄金色にけぶる瞳で荒野を見据えた。これでも、あてもなくこの地にすべてを託したわけではない。八方への斥候、荒野に流れる噂話。それらを吟味した上で、一つの予想を見出していた。


『【荒野の黒狼】、とな』

『ああ、いずれ大将の耳にも入れないといけねえとは思っていた。闇に侵されたかの如く黒く、狼の如く賊を殺戮する戦士がいるらしい。その出現地点が、こうだ』


 天幕内における作戦会議。刈り込まれた青髪を持つ槍武者が、地図に印を落としていく。一見、それらに規則性はない。だが、確実に軌跡は生まれていた。


『我らから……いや、この街から離れていく方向か。一年を経たからさもありなんが、だいぶ距離があるな』

『戻る気はねえ、ってこったろうな。とんだ厄介を背負っちまったようだぞ、大将』

『……ダーシア、幾日許せる』

『行きつ戻りつで、七日ですな。隊の、最高の駿馬をもってすれば、彷徨い歩く狼よりかは』

『追い付ける、と見るか』


 ガノンは小さく息を吐いた。つい、と視線を外せば、そこには少年の姿が見える。未だその目は、鋭く光っていた。彼は、議論を打ち切るように立ち上がった。


『一度引き受けたものを差し戻すは、俺の沽券にかかわる。この一件は俺の裁量でやらせてもらう。……無論、期日は守るがな』


 家宰が首を横に振り、槍武者は小さくうなずく。ガノンがこの裁決を下した時点で、【赤き牙の傭兵団】が取る方針は決定していた。


『団は七日、この街に留まる。補給が来れば良し、来なくとも八日目には進発する。いいな』

『はっ』

『はっ』


 そんな議論を思い返しつつ、ガノンは荒野を見つめる。廃墟の街を出てから早二日。そろそろ追い付こうとせねば、ルアーキーを説き伏せる時間が限られてしまう。ここらで、ホクソー馬にムチを入れようか。彼は考え、やはり止める。ガノンは未だ、襤褸の少年と本格的な会話を交わしていなかった。少年は、聞かれたことには答えてくれる。だが、自発的に語ろうとはしてなかった。


「……アンタ、道を急がなくて良いのか?」

「む!?」


 だからこそ、その言葉はあまりにも唐突に響いた。背後からの言葉など幾度となく受けてきたというのに、ガノンは新兵、あるいは荒野に出た駆け出しの者に等しい動揺を見せてしまった。


「……急にどうした」

「この二日、おいらはアンタを観察していた。アンタがおいらの期待に沿うのかどうか、常に見ていた。だけど、どうしてもはっきりしない。だから」

「……」


 ガノンは、距離を測りかねた。この、人への疑心を残した少年を。いかにして溶かすか。未だに手段を、見出だせずにいた。故に。


「信ずる、信じぬの話ではない。俺は奴と、話さねばならぬ」


 遂に、己が胸の内を開陳するに至った。そうせねば、少年の信を得られぬ。彼は確信したのだ。


「なぜだい?」


 果たして、それは良い目を出した。少年の声色が、幾分か和らいだのだ。ガノンはこれを好機と見、言葉を続けた。


「他にルアーキーなる者がこの世に居らぬのであれば、俺はかの者と旅路をともにしたことがある」

「えっ……」


 少年が驚き、続けて無言になる。ガノンは、さらに話を続けた。己の知るルアーキーの姿を、少年へと伝えるために。


「貴様くらいの年かさだったというのに、かの者は復讐に心を焦がしていた。姉と慕っていた女の、かたきを討ち果たさんとしていた。そのためならば、荒野すべての匪賊を滅ぼすとも決意していた」

「それで……」


 少年が、小さくこぼした。ガノンは、一旦言葉を止める。すると少年は、ポロポロと言葉を紡ぎ始めた。


「あの人……ルア兄は、街に来た頃、返り血にまみれていたんだ。目も鋭くて、話しかけても反応が鈍かった」


 少年の言葉を、ガノンは黙って受け止める。話が途切れても、なに一つ口を挟まなかった。


「それが、少しずつ変わってきてさ。あの事件が起きる前には、すっかり仲良くなれたんだ。なのに……」


 あの日。少年は戻って来てと言った。にもかかわらず、ルアーキーは戻って来なかった。貧民と軍隊の死体を残して、街から消えてしまった。


「おいらも、なんとなくはわかっているんだ。ルア兄に、なにかがあったんだって。でも」

「なに一つ、事実を確認していない、ということか」

「そうだ。おいらはなにも見ちゃいない」


 復唱めいて、少年はガノンに応じた。男は、【大傭兵】ならぬただのガノンは、その言葉をしかと受け止めた。


「ならば。この旅路は、戦神の導きやもしれぬな」


 荒涼とした風に、言葉を流す。二人の目的は一致している。ならば、もはややることは一つだ。ガノンは、ホクソー馬に向けてムチを振り上げる。


「少年よ。掴まっていろ」

「わかった」


 ガノンの逞しい背に、襤褸の少年が引っ付く。ガノンがいよいよムチを振り下ろさんとしたその時、視界の片隅に一つの影が入った。


「た、たすけて、くれ」


 荒野に打たれ、弱り切ったかに見えるその影には、匪賊の色が濃く残されていた。


***


「あ、ありがてえ……」


 夕闇が荒野を覆い始める中、匪賊の色を残した男はガノンに頭を下げていた。しかしガノンは、厳しい表情を崩していない。襤褸をまとった少年もまた、暗い瞳を男に向けていた。やむを得ずに焚き始めた火が、三人を照らす。最初に口を開いたのは、ガノンだった。黄金色にけぶる瞳を鋭くし、男に向かって重圧を掛ける。


「嘘偽りなしにすべてを話せ。その姿形ナリからして貴様は、匪賊の者だな」

「……あ、ああ。まさか」


 一拍の逡巡を経て、男は己が悪行の者であることを認める。しかしその頬には汗が流れていた。殺されることを、処断されることを、危惧しているのか。だが、ガノンはゆったりと告げた。


「ここまで至ったすべてを話すならば、この場からは無事に去らせてやろう。だが、後の保証はくれてやらん」

「す、すまねえ。それだけでもありがてえ」


 その言葉に、匪賊の男は頭を下げた。かつては威圧的にまとめ上げられていたはずの頭髪はとうに崩れ、身体を護るはずの武具もあちこちがほつれている。この場を凌げたとて、男の未来は儚いだろう。しかしながら、男にとって生は救いだった。生きていれば、もしかしたら。僅かな希望だけが、今の男を支えていた。


「ほんの数刻前のことだった。俺たちは十人ぐらいの徒党を組んでいたんだ。軍隊崩れとか食い詰めとか、そういう連中が集まった。それだけだった」


 男はつらつらと語り出す。少年が襤褸の下で顔をしかめたが、ガノンは男を止めなかった。話すという行為には、整理が必要である。【大傭兵】はそのことを、身をもって知っていた。


「何回か隊商を襲って、それなりに成果を上げた。これからもっともっとやってやる。もっと暴れてやる。荒野で名を成してやる。そう思っていた、矢先だった」


 男が、己の身に起きた悲劇を語り始めた。それは、ほとんど一瞬の出来事だったという。黒の布で頭髪と顔を覆い隠し、黒の軽装に身を包んだ男が彼らの前に現れたのだ。


「最初は、死にてえ奴かと思ったんだ」


 黒の男は、彼らに匪賊か否かを問いかけたという。徒党どもはそれを、意気揚々と、嘲笑うように認めた。実際いくつかの襲撃はやりおおせたし、これからも襲撃でもって生きていくつもりだった。たった一人、それも自死の志願者相手に臆して、なんの意味があるのか。当然の反応だった。

 だが次の瞬間。一人の首が飛んだ。黒の男は、その場から動いていないというのにだ。必然、動揺が生まれる。しかしその次の瞬間にはまた一人の腕が飛んだ。なにが起きているのか、彼ら匪賊にはわかり得なかった。


『な、なんだ! なにが起きてやがる!』


 一人が叫ぶ。だが次の瞬間にはその男の首が胴と別れた。


『逃げろ! 逃げるんだ!』


 また一人が叫ぶ。しかし次の瞬間には胸を貫かれていた。そこで初めて、匪賊どもは黒の男が放った得物を確認した。男から伸びた黒が、意志を持つかのように仲間を打ち抜いていた。


『うあああ!?』


 ここで遂に、恐慌が生まれた。全員が散り散りに、めいめい思い思いの方向へ逃げ出さんとする。しかしその目論見はすべて、黒によって成敗された。ある者は頭部を貫かれ、またある者は足を斬られた。またある者は首をはねられ、またある者は胸部から黒を生やす結末へと陥った。

 匪賊の男がこの惨禍から逃れ得たのは、まったくもってただの幸運で、ちょっとだけ他の者よりも逃げ足が早かっただけのことだった。彼は目をつむり、黒がかすめようと意に介さず、耳に聞こえるものすら見捨てて走り抜けた。そのことが、彼を黒の蹂躙から生き延びさせたのだ。


「とにかく、恐ろしかった」


 すべてを話し終えた匪賊の男は耳を押さえ、ガタガタと打ち震えていた。目には涙を浮かべ、顔は青ざめている。語っているうちに記憶を、仲間だったものの声を蘇らせてしまったのだろう。ガノンは、彼の肩を掴み、短く告げた。


「よくぞ、語ってくれた」

「お、おお……」


 彼の強き手が、男の震えを押し止める。荒野の夕闇は、決して温かいものではない。だというのに、ガノンの手には熱があった。生命ある者が持つ、熱に溢れていた。


「今宵はここで過ごせ。明日の朝には放逐する。せいぜい生き延びろ」


 ガノンの言葉に、男はコクコクと首を縦に振る。そうしてこの夜は眠りのままに更け、朝を迎える。匪賊の男はわずかに糧食を食い、己の来た方角を告げた後、ガノンたちの真の目的を知った。無論、男は一目散に逃げ去った。その後の行方は、誰もが預かり知らぬことだろう。


「行くぞ」


 ガノンが短く口を開く。彼は饒舌ではない。知性に長けた者でもない。ただただ戦神を崇め、祈りによってその使徒となった者である。ただし、だからこそ。その言葉は強い。『行う』と決めたことにしか、彼の舌は動かない。


「……」


 襤褸の少年が、首を縦に振った。少年も少年で、おそらくこの先に起こることを悟ったであろう。だが、その目は死んでいなかった。なにが起きようと見届ける。そういう気概に満ちていた。


「……」


 ガノンが無言で、ホクソー馬へとムチを入れる。馬は一鳴きした後、荒野を凄まじい速さで駆け始めた。すべては【荒野の黒狼】、おそらくは闇の眷属と化した者――と、向き合うためである。意志さえ決めれば、ホクソー馬は早い。たちまちのうちに、荒野を駆けて――その時は突如として訪れた。ガノンのけぶる黄金色の瞳が、荒野の片隅に荒れ狂う黒を写したのだ。駆け始めてから、ほんの数刻後のことであった。


「匪賊への襲撃か」


 状況を断じながら、ガノンは戦神に祈りを捧げた。かように早くの邂逅を得られるなど、まさに思し召しにほかならない。祈りが加護を呼び、戦いの意志によって彼の身体はほのかに光る。襤褸の少年は、わずかに身じろぎした。だが、光が害あるものでないことに気付くと、ひし、ガノンの身体を抱いた。少年にとってはむしろ、温かささえ感じるものであった。


「ハアッ! ハアッ!」


 ガノンはホクソー馬に、二発、三発とムチを入れた。ここで黒狼を追い切り、正体を見極める。仕損じるようなことがあれば、もはや二度の機会は得られない。そう判断した。馬はその評判に違わぬほどの速さを発揮し、瞬く間に暴れる黒を大きくしていく。暫しの間の早駆けを経て、ようやく捉える。そう思った時。


「むっ!」


 ガノンが唸り、馬にその身をへばり付けた。少年も、慌ててその動きにならう。直後、二人の上を黒いものが突き抜けていった。


「黒狼め、どうやら視野も広いらしい」


 直後、ガノンは馬から飛び降りる。身体を光らせ、一足飛びに駆け出していく。少年は、敢えてその姿を見送った。ガノンの判断が、彼を巻き込まないためのものであることが明白だったからだ。少年にできることはといえば、黒狼の正体を見極めることのみだ。叶うならば、ルアーキーでないことを祈りたい。少年は馬にしがみつきながら、ゆっくりと戦場へと近付いていく。

 一方、駆け出したガノンは早くも黒狼と一戦を交えていた。そっけない鎧兜から見れば異彩を放つ刀を抜き放ち、黒狼の放つ黒を掻い潜っていた。刀は段平めいて幅広く、それでいてガノンの膂力に呼応して軽やかに動く。時には放たれし黒の芯を斬り捨て霧散せしめ、時には黒を受け止めてなおその光を保っていた。


「こっちを向け、よ、やあっ!」


 叫んだガノンの身体が、黒を縫って荒野を蹴上がる。空へと舞い上った男は、そのまま殺戮の現場へと飛び込んでいく。その時、黒狼が遂に防御へと動いた。鈍く、重い音が荒野一面に広がる。段平と黒腕が、正面からぶつかったのだ。


「……」


 両者が初めて、顔を合わせる。しかしガノンの顔には、不満の色がありありと浮かんでいた。黒狼たる相手の顔が、闇色に押し潰されていたのだ。獣の如く口角を吊り上げ、目は鋭く、瞳孔は消え失せていた。例えるのであれば、己の上に闇の毛皮をかぶっている。そんな印象だった。


「一刀命奪をもってしても、流石にまっさらの闇は斬れねえか……」


 ガノンは一旦間合いを取り、段平を正眼に構えた。彼が持ちてしは、かつて小さな街を守るために立った薬師、元盗賊の男が手にしていた剣。何らかの情念により、無銘ながら一刀斬りつけるだけで命をも奪い取るという性質を付与された刀である。悍馬かんばと名高いバンコ馬めいて危うい一物である。しかしガノンは、その身に宿る戦神の加護により、それを自在に操っていた。


「グルウ……」


 一方黒狼は、完全にガノンと正対する構えを取った。生き残った匪賊どもがほうほうの体で逃げ出していくが、一瞥さえもくれようとしない。完全に興味を失ったと見てもいいだろう。


「ひとまず、その闇を剥がさねえとなあ……」


 ガノンが刀をだらりと下げ、その一方で口角を上げる。従来であれば問答無用に打ち倒すところであるが、今回は少々目的が違う。黒狼がルアーキーであるか否か。それを確認せねばならない。己の上に黒を纏い、狼めいて爪牙を振るう敵手をだ。


「ガアッ!」


 そんな逡巡を抱えていては、先手は容易く奪われる。黒狼が地を蹴り、ガノンへと飛び掛かっていく。黒を伸ばすでもなく、無造作に腕を振りかざす。それは純然なる殺意か、あるいは、無策の行為か。すべては闇に阻まれ、区別はつかない。


「フンッ!」


 ともかく、戦神の加護を受けし者を相手に、そのような攻撃は通用しない。ガノンは受け止めるでもなく、わずかな動きで黒腕をかわした。そのまま黒狼に正対するため、素早く振り返る。だが、狼の動きは疾かった。


「オオオッ!」


 獣じみた吠え声とともに、黒狼はその身をさらに速める。ガノンにかわされようとも遠間に着地し、足のバネを使って加速する。身体が千切れんばかりの、高速移動だった。変転自在に襲い来る黒は、やがて速さのあまりに、常人の目には捉え得ぬものとなっていた。


「ぬうっ!」


 ガノンは唸った。いかに戦神の加護があるとはいえ。いくら最小限の動きでかわせるとはいえ。相手の加速が上回れば意味がない。どこかで見切るか受け止めなければ、徐々に不利となるのは明白だった。事実、ガノンの動きは少しずつ大きくなっている。限界の時は、近かった。


「しゃあねえなぁ!」


 蛮人は一つ吠えた。続けて、大きく足を踏み鳴らす。そのまま踏み鳴らした足――右足だ――を荒野に沈め、大きく腰を落とした。誰が見ようとも、迎撃の構え。しかしその視線は定まらぬ。攻撃の機を窺う黒狼は、常に動きを絶やさない。一度見失えば、たちまち嬲り殺されるであろう。


「……」


 二人を見守る襤褸の少年は、密やかに固唾をのんだ。彼の目には、もはや起きている事象の判別が付かぬ。わかるのは、己が願いを託した男が、真実黒狼と向き合わんとしていることだけだった。


「黒狼ッ! 正面から来いやぁ!」


 再び、蛮声が荒野をつんざいた。少年は、思わず耳をふさいだ。荒野の空気がビリビリと打ち震える。まさに咆哮。おすの、心根からの叫びであった。


「ガルウウッッッ!」


 直後、獣の叫びが荒野を引き裂いた。黒狼が、漆黒の獣が、ガノンの正面に姿を現す。そして、雷霆の踏み込みでガノンの元へと駆け込んだ。


「グルアアアッッッ!!!」


 黒に染まった爪牙を振るい、狼はガノンを屠らんとする。しかし蛮人は、【大傭兵】は。足を踏み固めた場から、一歩たりとも動かない。戦神に祈りの言葉を捧げ、目を閉じる。襤褸の少年はこの後に起こる惨事を思い、目を背けた。そして、獣にも負けぬ蛮声が、またも荒野に響き渡る。


「カアアアッッッ!!!」


 ザウッ!!!


 見よ。ガノンの振るう一刀命奪の剣が、見事に黒狼のまとう黒のみを引き裂いた。むろん、ただの芸当ではない。薄皮一枚を剥ぎ取るが如き、げに難しき刀技に他ならない。驚きを得たのか、あれほどの俊敏を誇った黒狼の足が止まった。ガノンは当然、それを逃さない。踏み込み、引き裂いた黒へと刀を差し込んだ。


「化けの皮、見せよやあああッッッ!!!」


 いよいよ響く雄叫びに、少年は恐る恐る目を開いた。少年が願いを託した男は、生きていた。生きて刃を、黒狼の黒へと突き立てていた。顔を覆っていた黒を、黒き布ごと剥ぎ取っていた。その先に見えたものを、少年は忘れるはずもなかった。髭が生えていようと。頬がこけていようと。そして、頬の傷さえも。少年が、見間違えるはずもなかった。


「ルア兄っっっ!!!」


 またしても叫びが、草木も生えぬ荒野にこだました。


***


 荒野に、沈黙が満ちていた。餓狼だった男と蛮人が互いを見据え、静止していた。襤褸の少年も、最初の叫び以外は沈黙していた。それほどまでに、空気は重苦しかった。


「なぜに、闇へと身を預けた」


 空気を最初に蹴破ったのは、蛮人だった。鋭い問いを突きつけ、視線にて告げる。絶対に逃さぬと。


「……居場所を、奪われた」


 しばらくの間を経て、黒狼――否、ルアーキーは答えた。己が闇に堕したのは、居場所を奪われたからであると。その時に、憎しみに染まってしまったのだと、つまびらかに告げた。


「ルア兄……」


 襤褸の少年が、小さく声を上げる。そして馬から飛び降り、ルアーキーに近付こうとした。だが、彼は。


「来るな!」


 声を張り上げ、制止した。同時に、黒き爪牙を残す手を、少年に差し向ける。未だ闇に侵されているのだと、彼は言葉なくして少年に告げたのだ。


「……!」


 少年は目を背け、その場に立ち止まった。ルアーキーの意図を、理解したのだ。彼はその姿を満足げに見ると、改めてガノンと対峙した。


「憎しみに染め上げられた際に、おれは闇の眷属へと堕しました」

「それがわかっていて、なぜ闇に身を任せていた」

「おれの、最初の想いを、果たすためです。そして」


 ルアーキーは、そこで一拍置いた。彼はおもむろに息を吸う。そして吐き出すように、告げた。


「おれが、おれでなくなった。その報いとして。始まりを付けてくれた、あなたに斬られたかった」

「……そうか」


 ガノンは、冷たく一刀命奪の刀を振り上げた。少年が、声を上げようとする。しかしガノンは、眼光一つで抑え込んだ。この場に勘や頭脳の鋭き者がいたならば、見抜いたであろう。彼の目にも、わずかながらの哀切があった。


「その首、せめて一振りで」


 ガノンの刃が、ルアーキーの首へと伸びる。まさしく命を奪い去る一振り。しかしその刃は、首元のわずか一寸、ほとんど目の前で押し止められた。いや、正確には『黒』に弾かれた。ルアーキーを守る闇からの加護が、生き物めいて刀を弾き返し、相殺したのだ。


「そうそう上手くはいかねえか」


 ガノンが、刀を構え直す。その隙に闇は、再びルアーキーを侵食しつつあった。彼は抵抗の意志を示していたが、此度の闇は容赦がなかった。青年の身体を、無慈悲に黒へと染め上げていく。


「ガノンさ……たのみ……ます……お、れ、を」

「ルア兄!」


 少年の声が、荒野をえぐる。少年もまた、理解したであろうか。この場を乗り越えるには、哀れな青年を殺す他にないと。少年はルアーキーへ駆け寄らんとし、ガノンの太き腕に阻まれた。弾き飛ばすでも、押し止めるでもなく、ただ、腕を差し出した。それだけだというのに、少年の意志はあっさりと挫かれてしまった。なぜなら。


「少年。俺はやらねばならぬ」


 ラーカンツのガノンの、短き言葉。しかし言葉以上に、少年に通ずるものがあった。それは頬に伝う、一筋の流れ。かつて一時ひとときをともにした男への哀しみ、殺さねばならぬ悔しさが生み出せしもの。そんなものを見てしまった以上、少年は歩みを進められなかった。


「来いよ、黒狼。お前のすべてを剥いでやる」

「グルウ……」


 そっけない鎧兜に身を包んだ蛮人と、今度こそ狼に相応しい獣姿へと成り果てた『荒野の黒狼』。両者が、五歩の間合いで睨み合う。少年はそれを、の当たりにしていた。だが直後、少年の目には異様な光景が飛び込むこととなる。二人が微動だにせず、固まってしまったのだ。あたかも、時間神が両者の動きを止めたのかの如くに。石像めいて、硬直してしまった。


「なに、が」


 少年がつぶやく。彼には、なにが起きているかがわからぬ。神々からの加護を、持たぬが故にだ。しかしながら、加護を持つ者には明確にわかる。南方蛮族。ラーカンツ出身の傭兵ガノンの前に、漆黒の大鏡が姿を現していた。そう、ルアーキーを闇の眷属へと誘った、【闇そのもの】である。


『なるほど。我が加護を剥ぎ取るとは何者かと思えば、戦神の使徒であったか』

「……【闇】。それも【闇そのもの】。叩き割れば」

『無理ぞ。我は闇。鏡は預けしもの。人の心がある限り、乗り移ることなどいくらでも』


 【闇】によって生み出された空間の中、意気を上げるガノン。しかし【闇】は、鷹揚に死を否定する。根絶を否定する。それを聞いて、ガノンは刀を下げた。根絶が成らぬのであれば、ここで叩き壊す意味は皆無であった。


「堕ちようが、『神』たるを失おうが、元が神なだけはあるか」

『ほう。我を知るか。我を知悉せしは禁忌とされておるはずだが』

「戦神に愛されし者なれば」

『そうか。いくさは闇に近きもの。故に』

「闇は戦神に惹かれ、戦神いと気高く闇を嫌う。戦いの気高さを、知る故に」

『くく。隙あらば汝もかと思うたが、そうは行かぬか』

「行かぬ。俺の信仰は揺らがない」

『そうか。ならば、我が眷属を』

「斬る。たとえ知る者であろうと、闇は生かしておけぬ」

『そうか。なれば、進むが良い。その先に、闇は待ち受けておる。我は優しき者。いかような汝でも、受け入れようぞ……』


 おお。問答の果てに、空間から大鏡が消えていく。ガノンが、闇の誘惑を断ち切ったのか? 否。闇を知る者はこうのたまうであろう。『闇は最初から、ガノンを誘うつもりはなかったのだ』と。此度はあくまで小手調べ、己の加護を払いし者を見に来ただけであると。故にガノンは、一寸たりとも気を緩めていない。さもありなん。これが小手調べであることは、彼自身が一番承知していた。


「危ないっっっ!」


 そんな彼の沈黙を打ち破ったのは、少年の声だった。ガノンは思わず、顔を上げる。その視線の先には、黒狼の飛び掛かって来る姿! すでに【闇】の空間はない。時が、動き始めていた。


「カアアッッッ!!!」


 ガノンは段平を掲げ、黒狼の牙を受け止める! 無論響くは鈍い音。だが、流石は一刀命奪と戦神の加護。その動きだけで闇牙が折れ、霧散した。


「闇よ。来るが良い。すべて剥ぎ取り、ルアーキーを殺してやる」


 黄金色の瞳に光をたたえ、ガノンは段平めいた刀を構えた。闇の武具ではなくとも、くらき情念によりてか、闇に近い性質を持つ一刀命奪。彼がこれを操れるのは、ひとえに戦神の加護によるものである。


「ガルッ!」


 ガノンの挑発じみた声に、狼が唸る。しかし今度は飛び掛からぬ。己が身体から、幾重もの『黒』を伸ばして来たのだ。それらは見る者を惑わす軌道を描き、ガノンに四方八方から襲い掛かる。常人――この場においては少年――の目には、あたかもガノンが闇に包まれたかの如く見える程にだ。


「……」


 だが、ガノンは冷静であった。意識を冷たく、保っていた。戦神への聖句を捧げ、その身体をにわかに光らせた。彼には、『黒』の軌道が見えていた。わずかなズレによって仕留めに掛かる、精緻な攻勢。しかしながら戦神の加護は、彼にそれをも打ち破る能力を与えていた。


「ハッ!」


 闇を貫く暖かき光が、少年の目を開かせる。『黒』がガノンを貫くかに見えた一瞬の間に、どれだけの攻防が行われたのか。少年にはわからぬ。だが、ガノンは立っていた。一筋、二筋の傷は負えども、そこにいた。五体満足のまま、立っていたのだ。


「……!」


 少年の感涙を待たずして、ガノンは雄々しく地を蹴った。またしても『黒』が伸びるが、今度は意に介さない。かつて。そして先刻振るったように、彼は『黒』の芯を斬り裂いていく。剥がしていく。ルアーキーへの道を、切り開いていく。


「ガアアアッ!!!」


 黒狼が吠える。爪牙を振るう。ほの光るガノンは、それすらも掻い潜る。斬り飛ばす。ルアーキーの、あの日敵討ちに燃えていた少年の。最期の願いを果たすため。再び、その身体を覆う『黒』を引き剥がしていく。薄皮一枚を引き裂き、その身体を露わにしていく。


「グルウウッ!」


 ルアーキーを覆う、『闇』が薄まる。ガノンに突破され、斬り裂かれ、その加護が勢いを減じているのだ。今やルアーキーを護るのは、斬り飛ばされた両腕の代わりをこなすものばかりである。しかしながらその攻勢も。


「ぬんっ!」


 ガノンに四度斬り飛ばされれば、いよいよそれさえも成せなくなる。ルアーキーを覆う『黒』は、『闇』は。もはや霧めいてその周囲に漂うばかりであった。


「払え! それくらいはできるであろう!」

「!」


 そしてルアーキーが覚醒する。ガノンの一喝が、彼を闇の支配下から目覚めさせる。彼は弱った肉体に、最後の意気を込めた!


「んんんっっっ!」


 咆哮が、男の一心が。霧めいた闇を遠ざける。打ち払う。消し飛ばす。果たしてそこには痩せ衰え、髭を生やした青年が立っていた。頬の傷も、未だ痛々しく残されている。


「ルア兄……」


 今度こそ、少年は駆け寄った。ガノンも、止めなかった。少年は襤褸を脱ぎ、目を光らせて青年へと飛びついた。


「ルア兄!」

「済まない」


 青年は短く、少年に応えた。今や彼には、少年を抱擁する腕さえもない。そして彼の悔恨の念は、その程度で癒やされるものでさえもない。だが彼は、一時ばかりの熱い涙を流した。少年に、謝罪を告げた。しかしその時間も、一年の空白を埋められるほどには長くはない。暫しの邂逅の後。終わりは、ガノンが短く告げた。


「そこまでだ」

「……」


 少年は、ガノンの大いなる肉体を見上げた。その黄金色の瞳には、変わらず哀切の情が籠もっている。それだけで、少年は理解した。してしまった。


「やらなくちゃ、いけないんだね」


 一縷の望みを託した問いも、無情にうなずかれる。しかし少年は道を開けた。涙をこぼしつつ、兄と慕った男に別れを告げた。


「ルア兄、おいらは」

「ああ、生きてくれ」


 それが。闇に堕し、闇を打ち払った青年による、最期の言葉だった。


***


 ルアーキーの首と身体は、即座に焼き払われた。一度は【闇】の使徒と成り果てた身である以上、肉体を残せばどう使われるかさえもわからない。そのためには、この世より確実に消す必要があったのだ。


「さよなら……」


 少年の言葉が、荒野に切なく響く。既に荒野には夜闇の帳が降り、星々――神々のおわすところ――が煌めいている。しかしながら、彼らは道を急ぐ必要があった。期日までに、戻らねばならなかった。故に、彼らは闇の中でさえも馬を歩ませている。良く調教されたホクソー馬は、あの戦の中でも無事だったのだ。


「……」


 ガノンの瞳は、ただただ荒野を見つめていた。ルアーキーを想い、変わった己を想い。戦いを想っていた。街へと戻れば、また指揮官の立場となる。一人の、荒野の戦士としてあの青年に向き合えたことは、あまりにも幸運だった。彼はそう、自身に言い聞かせていた。


「戻るぞ」


 彼は短く、言い放った。少年は彼の背に、身を預けた。戦神のほのかな光が、少年を寒さから守る。

 神々が照らす無辺の大地に、馬の足音だけが小さく響いていた。


 闇、いと近きもの・完

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