無法、死すべし

 ヴァレチモア大陸の中央部には、国境をも知れぬ荒野が広がっている。街道はなく、わずかな草と山々、そして荒涼たる風と獰猛たる野獣どもが荒野に彩りを添えていた。加えて。


「ホッホー!」

「追い回せーッ!」

「おい、そこだ。囲ってしまえ!」


 荒野のそこかしこに、輸送の物品や行商を狙う賊が潜んでいる。彼らは防御の硬い豪商や国の荷駄ではなく、個人や少数の旅人、小さな隊商キャラバンを狙う。身軽な兵装で追い回し、囲み、武器で威圧して物品を奪い、時には女をさらっていく。荒野における、最悪の害の一つだった。


「クソッ、囲まれた!」

「もうダメだ! ホクソーの脚に、ダブじゃ勝てっこない!」


 銅鑼をかき鳴らして行われる賊徒の卑劣極まりない追い回しに、隊商キャラバンの面々が音を上げ始める。おそらくは略奪で得たのであろうホクソー馬の十数騎に対して、隊商キャラバンの擁するダブ馬は三騎。しかも荷物を抱えていては急な機動にも打って出られない。

 護衛を抱えているのならともかく、少数たる彼らには防備に回せる金子も少ない。つまるところ、目をつけられたことこそが失策であった。


「ハッハー!」

「荷物と有り金を全部置いてけ!」

「そうすれば、生命だけは考えてやる!」

「女はいないのか! シケてやがる!」


 勝利を確信した無法者どもが、隊商キャラバンに対して矢継ぎ早に、思うがままに要求を突き付ける。

 なんたること。荷と有り金を奪われてしまっては、今後の商売も成り立たない。仮に生命を許されたところで、荒野の真ん中では街にたどり着けるかさえもわからない。結局のところ、死ねと言うのと同じ意味になってしまう。あまりにも酷薄な要求だった。


「うぐうう……」

「父さん、逆らったところで殺されるだけだよ」

「わかっとる。だがな……」


 隊商キャラバンを構成する首班の親子が、顔を見合わせて話し合う。しかし父は、未だ年若い息子とは目を合わせることもなく、苦悶するばかりだ。

 その視線の先には、三人目の構成員がいた。女性が見ればたちまち見惚れるような、目鼻立ちの透き通った眼差し。そして鼻下には少量の髭。悪目立ちすることもなく、彼の美しさを引き立てている。まさに眉目秀麗といったところである。が。


「そうか、『姉さん』が……」


 忘れていたわけではない、しかし見なかったことにしておきたかった現実に、息子もこの場で賊の要求を飲むことのリスクを理解した。

 そう。この眉目秀麗の『三人目』、実のところは髭を付け、男装をしただけの女性おなごである。この度縁あって行く先の街に嫁ぐこととなり、身を護るために男装させて隊商キャラバンの一員としたのだ。

 無論、連中の口ぶりからしてもおいそれとは発覚すまい。しかし、仮に賊の中に正しい審美眼を持つ者がいた場合。彼女がどうなるかは明白だった。その結末も、ほとんど目に見えていた。


「じゃあどうするんですか父さん。このまま死ぬわけには」

「交易神の加護を願う他あるまい」

「つまり交渉ですか……」


 父が、己の金子袋に触れる。そこには交渉事に力を発揮するとされる、交易神を称える紋様が織り込まれていた。他の刺繍に紛れ込んでいるそれは、密かな輝きをもって、父を護ることだろう。息子にできることは、それを願うことのみだった。


「ご無事で」

「ああ」


 息子と娘の不安げな顔に見送られながら、父が敵手に向かって降伏を告げようとした。まさにその時だった。横合いから、突風が巻き起こった。


「伏せろ!」


 荒野で時折起こる砂嵐かと、父は子たちに防御を告げる。しかし突風は、来た時と同じく唐突に去っていった。


「……」


 親子が恐る恐る顔を上げると、敵勢――賊どもとのほとんど中間地点に、槍が刺さっていた。彼らも伏せていたのか、静まり返っている。それらが徐々に、顔を上げて。


「なんだよ……」


 誰かが、声を上げた。槍は見る限り、変哲もないただの手槍だった。しかし地面に見事に突き刺さり、ヒビさえも生み出していた。おそらくは突風の主であることも考えれば、凄まじい威力である。

 そしてその投槍の主は、ノシノシと来たりて、己の得物に手をかけた。


「少数を多数で押し包み、荷を奪うような怯懦の者。ラーカンツでは死に値する」


 男は槍を提げ、両者の中央に立つ。肉体は壮健で、類稀にして隆々たる筋肉を備えていた。背には剣を括り付け、下穿きと簡素な靴以外は、すべてを風にさらしていた。

 身体は小高い山を思わせるほどに大きく、五角形をした盾のような、いかつい顔がその上に乗っていた。大きな瞳はくすぶるような黄金色をし、火噴き山を思わせる赤の長髪が、風に揺れて蛇の如く蠢いていた。


「なっ……」


 闖入者の堂々たる姿に、隊商キャラバン側は呆気にとられる。しかし次の瞬間には、悪党側からの罵声が荒野を覆い尽くした。


「な、なんだテメエは! 邪魔すんな!」

「死にたくなけりゃあそこをどきな!」

「ヒッヒー! 離れるなら有り金は置いて行けよ!」


 口々に騒ぎ立て、大きな音をかき鳴らして侵入者を威圧する悪党の面々。しかし男は、動ずるでもなく悪党どもへと殺気を向けた。天をも恐れぬと豪語するが如き、鋭い視線だ。


「っ」


 隊商キャラバンの面々ですら息を呑むような、凄まじい殺気。直に向けられたものではないというのに、なんたることか。

 ならば、直接に向けられた者どもの結果は? 明らかなことは、全員が一瞬心を穿たれたこと。そして、一部の馬上から微かに水の音が響いたことだ。動揺をかき消すためだろう。悪党どもの一人が叫んだ。


「え、ええい! たった一人になに震えてやがる! やっちまえ!」

「お、おおう!」


 自分が震えてしまったことを隠すためだろう。連中の反応は素早いものだった。たちまちのうちに十騎のうち八騎が我に返り、荷駄や商人を無視して八方から長髪の男へと襲い掛かる。しかし。


「フン」


 男は鼻を鳴らし、口をモゴモゴと動かした。次の瞬間、男の身体がかすかに光る。そのまま一息に、提げていた槍を一回旋した。


「うおあっ!?」

「きゃあっ!」


 男装の乙女が地声を漏らすほどの突風が生まれ、隊商キャラバンの面々はたちまちその場にうずくまる。一方、突っ込んでいた悪党の面々は急には止まれなかった。突風を喰らった馬が暴れ出し、操り切れずに六騎が落馬の憂き目に遭った。残りの二騎も、常人ならざる技の前に足が止まってしまう。


「首領はどっちだ」


 槍を手にした男から、声が上がった。残党たる二騎は、慌てて互いを指差し、罵り合う醜態を晒した。


「こ、コイツが! コイツがやろうって!」

「俺は付き合わされただけだ! ソイツが指示を出した!」


 聞くに堪えない罵倒合戦に、男は槍を剣へと持ち替える。そして、いとも軽々と地を蹴った。次の瞬間。


「ぐおっ」

「あがっ」


 回転するような横薙ぎで、罵倒を続ける両者の首を払ってしまう。しかし男は、それらを一瞥とてもせず。


「まだやるか?」


 刺すような視線とともに、悪党どもへと殺気をぶつける。すると生き残りの賊どもはたちまち総毛立ち。


「に、逃げろ!」

「俺たちじゃ勝てっこねえ!」

「覚えてろ!」


 這々の体で馬に乗り、あるいは捨て置き、荒野を逆に駆け出してしまった。

 後に残されたのは、呆気にとられたままの隊商キャラバンの面々と、ダブ馬、そして一部が散乱した荷駄だけである。


「あ、あの……助かりました……」


 隊商キャラバンの主である父が、恐る恐る男に声をかけた。彼は交易商であるが故に、男が南方蛮人の出であろうことを察していた。そして、南方蛮人の戦における強さ、恐ろしさも知っていた。知ってはいたが、それを恩人に声をかけぬ道理とするのはより不義理である。故に、彼は声をかけた。


「……たまたまおれの視界に入っただけだ。気にするな。報酬も要らぬ」


 しかし男の返事は、商人からすれば想定外のものであった。荒野には、賊に襲われた者を強引に助太刀し、その代わりに多額の金品をせしめる性質タチの悪い輩も少なからずいる。商人は、この男もその類かと踏んでいたのだが。


「では、なぜ我々を」

「ラーカンツの者は戦を尊ぶ。だが非道はいない。非道を見て救わぬは、戦神の教えにもとる」

「はあ」


 商人は口をあんぐりと開ける。文明人である彼には、およそ理解し難い言い分だった。少なくとも、多数に向けて戦を仕掛ける理由としては弱かった。しかしながら、彼は考える。これは、好機の一つではないか。


「ば……ラーカンツの方。お名前は?」

「ガノン。ラーカンツのガノンだ」


 名前を引き出した彼は、交易神の紋様を密かに輝かせる。別に【契約】を仕掛けたり金子を値切ったりするわけではない。しかし心の防備は固めたかったし、余計な交渉事は減らしたかった。


「ではガノン様。先ほどの腕前を見込んで、お願いがございます」

「む?」


 男が険しい目を向ける。しかし商人は、臆せず言い切った。


「この先おおよそ三日、ダンガリオの街まで。貴方に護衛を願いたいのです」


 彼は深々と頭を下げる。その姿に、ガノンは顎に生えた無精髭をしごいて考えた。

 己はどうせ暇である。荒野を歩む根無し草である。いつぞやに得たボメダ金貨百枚も、すでに底をつきつつある。ならば、ここらで稼ぎを得てもいいだろう。


「良かろう。いくらだ?」

「一日にボメダ金貨三十枚。仮に賊を倒した場合は、倍から切りよく二百枚でいかがでしょう」


 商人は指を折りながら提案する。はっきり言えば、交易が失敗すれば自身が傾くくらいには痛い出費だ。だが彼は商人である。出費を惜しんではならぬ時ぐらいは、心得ていた。


「……いいだろう。請け負った」


 はたして、ガノンと名乗った蛮人は快諾した。今少しは釣り上げを図るかと考えていた商人が、拍子抜けするほどの早さであった。かくて、即席の護衛が、隊列に付き従った。

 しかしその日は、襲撃もなく無事に過ぎた。商人は報復を恐れていたが、それは足を早める要素にはなれども、鈍らせるものにはなりはしない。あくまで行程から逸れぬ範囲で、一行は進んでいた。

 そんなわけで二日目の朝。ガノンは陽光を受けて寝汗を拭っていた。場を憚って下穿きこそ身に着けているが、他はすべて生身である。背中、腕、そして脚。すべての筋肉は隆々がしており、汗も相まって彼が一匹の『オス』であることが全面に押し出されていた。

 仮に免疫のない女性おなごが彼を一目見れば、それだけで『ひと騒ぎ』が起きてもおかしくないだろう。


「おはようございます、ガノンどの」


 そしてその免疫のない女性おなごが、この隊商キャラバンにはいた。隊商キャラバンの主が手塩にかけて育てた娘。蝶よ花よと育てた娘。今は婚姻における自衛のため、薄い髭をつけて男装をしている娘が、この隊商キャラバンにはいた。


「む。ああ、次男どのか」


 ガノンは無防備に、己の肉体を彼女に向けて晒してしまう。さもありなん。商人からは次男として彼女を紹介されていたし、そもそも南方蛮族において、男子が己の肉体を隠すことは恥とされている。肉体的な欠損、あるいは精神的な障害を疑われる行為である。

 彼ら南方蛮族の性質を記した書物には、『生来の病から肉付きが悪く、肉体を晒すのを固辞していた男が手酷く揶揄され、悲しみのあまりに谷底へ身を投げた』などという記事もある。ともかく、身体を隠す方が異端とされていた。


「は、はい」


 娘は一瞬付け髭の下で顔を赤らめ、直後平静を装った。彼女にとって男の半裸など、親兄弟のそれしか見たことがない。ましてやこのような筋骨隆々、男らしさが押し出しされたようなものは、初めてだった。

 己に男装の自覚がなければ、そのまま逃げ出していたかもしれない。彼女は心の中で、自身の付け髭に感謝を捧げた。


「しょ、食事の時間とのことで」

「後にさせてくれ」

「え」


 男の持つくすぶるような黄金色の目が、未だに揺れる乙女を射抜く。彼女には、彼の放った言葉の意味がわからない。それを見て取った男は、おもむろに説明を加えた。


「全員で飯を食らえば、張り番がいなくなる。まずは隊商キャラバンが飯を食い、おれはその後に食らう。それならば」

「ああ、なるほど」


 娘は得心がいったかのように手を打った。彼女はいそいそと隊列に戻っていき、しばらくしてから、彼の食料を持って再度現れた。


「なんだ」

「父上が『張り番のことは考えていなかった。見張りながらでも構わぬ』と」

「ふむ」


 ガノンは、娘が持って来た朝食を手に取る。日持ちのする干し肉を、塩茹でにしたものだった。彼はそれを、ほとんど一掴みで、貪るように食べ終えてしまった。娘は必然、面食らうのだが。


「あ、あの……?」

「張り番を行う以上、一時たりとて油断はできん。そういうことだ」


 それだけ言って、蛮人は皿を突き返した。彼女はそれを、ただ受け取ることしかできない。蛮人は目を合わせぬまま、低い声で言い切った。


「食事の恵み、感謝する。戦神に誓って、この依頼はやり切らせてもらおう」


 彼はそのまま、再び視線を遠くに向けた。


 ***


 さてはて。それでは逃げ帰った輩の者どもはどうなったのであろうか。彼らにとって幸いだったのは、首を刈られた二人が首領ではなかったことと、ガノンが彼らを追い掛けて来なかったことである。

 少々情けないことではあるが、真の首領はガノンの一旋風の折、馬を操り切れずに落馬していた。しかしながら彼とて、賊の頭領である。負傷だけは免れ、泡を食ったふりをして再起を目論んだのだ。


「……」

「…………」


 しかしながら、己らの根拠地へ逃げ込んだ彼らの口は重い。首領自身も醜態を晒してしまった以上、配下に強く出られなかった。とはいえ。


「お前たち。俺らがナメられたままで終われるか? たかが少数の隊商キャラバンに、腰が引けたまま終われるか?」


 首領が報復の志を示すと、残りの面々もうなずいた。しかし彼らの生き残りは六人。馬は二騎。当時まったくの他所へ出ていた連中を含めても、揃えられて十と数名ほどでしかない。馬にいたっては、十にも満たない有様だ。手元の奴隷を動員したとて、鉄火場で使い物になるかどうか。つまり。


「ですがお頭。数だけ揃えても馬が足りやせん。下手すりゃ、あの男が護衛に……」

「あり得るな。ああ、あり得る。考えにゃなるめえ」

「後、隊商キャラバン連中はとっくに移動していますぜ。場所のアテは……」

「あの道ならおそらく行き先はダンガリオだ。ホクソーの脚なら、多少の差は追っ付ける」


 配下からの疑問をさばきながら、首領は考えていた。略奪失敗の折に乱入して来た、あの大男。己を落馬せしめた宿敵。部下の言う通り、隊商キャラバン側が護衛に雇い入れている可能性があった。

 憎いことには憎い敵だが、首領には現状、あの男を倒せる想定が浮かばない。仮に全軍で囲ってさえも、薙ぎ倒される未来が見える。今はこうして手下を叱咤しているが、仮に一人であれば、とうに行方をくらましていたことだろう。

 そんな首領の思考に、割り込む声が一つ。最近加入した、新入りのものだった。


「お頭。外に商人を名乗る男が」

「あぁ?」


 思考を遮られた首領の凄みに、新入りは一瞬たじろいでしまう。しかし新入りは、もう一度だけ気合を入れた。少々つっかえつつも、改めて首領に尋ねる。


「そ、外に、商人のような男が来ています。う、馬も連れています。と、通しますか?」

「ふむ……?」


 首領はわずかに考え込んだ。彼らの拠点は、打ち捨てられた小さな砦にある。このような場所にやって来る時点で、真っ当な商人ではないことは明白だ。同類に近いと見てもいいだろう。足元を見られる恐れはあるが、今は馬と武器が必要だ。ともかく、話をしなければ始まらない。彼は短く、決断を伝えた。


「通せ」

「へい」


 いそいそと新入りが商人を迎えに行き、後には賊徒の面々のみが残る。

 少しして新入りは、細目に細身、少々貧相と言っても差し支えない男を連れて来た。いかにもな揉み手をした男は、早速と言わんばかりに口上を並べ始めた。


「この度はお目通りいただけで誠に幸い。わたくし、少々表では」

「通り一遍の言葉はいらん。品はなんだ」


 だが、首領はそれを遮る。さもありなん。彼は焦っていた。報復もさることながら、弱っていることを知られれた他の賊から攻め込まれる可能性さえもあった。なんなら奴隷――人的資源――ですら、今の彼は欲していた。


「そうですな。馬数頭と手頃な武器。それと……こちらを」


 凄まれてもなお、商人は表情を崩さない。細目を笑顔にしたまま、素焼きの壺を首領へと差し出した。首領は手に取り、手頃な大きさをした壺を一通り見た後、問うた。


「外面は地味、中は真っ黒に見えるが……コイツは一体?」

「まあ……。端的に申せば、『祝福の水』といったところでしょうか」

「なんだと!?」


 商人の答えに、首領は声を荒らげた。『祝福の水』といえば、要は『なんらかの神々から祝福を受けた水』である。飲めば一時的にとはいえ、【使徒】にも準ずる力を得られるとまで言われている代物だ。必然。


「おい。俺たちが弱ってるからと言って、足元見てんじゃねえぞ。どれだけむしり取る気だ」

「そんな悪どいことはいたしませんよ。此度はこちら、私からのご奉仕ということで」

「むむっ」


 細目の商人の物言いに、首領もまた目を細めた。実際のところ、本来であれば喉から手が出るほどに欲しい物品である。それが無料タダとくれば。


「ええい、よこせ!」


 もはや首領に止まる選択肢はなかった。壺をひったくるように抱え込み、一息に飲んでいく。二回、三回と喉を鳴らすと、次は部下たちにも壺を突き付けた。


「飲め」

「え」

「飲めと言っているっ!」


 三白眼を据わらせた男に要求されては、さしもの賊徒たちとて断れない。皆が皆、数口ずつ回し飲んだ。壺が回る度に一人、また一人と、酔いが回ったかの如く目が据わっていく。

 やがて最後に壺が回ってきたのは、先ほど商人を迎え入れた、新入りだった。


「あっしも、ですか?」

「飲め」

「いえ、その……」

「いいから飲め!」

「ひっ!」


 先達の者に据わった目で要求されて、新入りが断れるわけがない。彼は半ば涙目で、壺に口をつけた。すると押し寄せたのは。


「ごぼっ!? っぐ! あべえええっ!?」


 泥のような汚濁。吐瀉をももたらすような、嫌悪感のある味。この世の不快な味をかき集めて煮詰めたとしたら、このような味になるのではないかとさえ、彼は思った。

 事実吐き出した液体はどす黒く、目を背けたくなるような異臭を発している。なぜこのようなものを、首領たちは。


「おやおや。一人だけ光に恵まれていた者がいたようですねえ。この砦、闇の感情にまみれていると感じたのですが」


 彼にかかる、声があった。彼が連れて来た、商人の声だ。しかしその姿は、先の腰の低さとは全く異なっていた。よくよく見れば細目の奥、かすかに見える瞳は濁っていた。冷たく己を見つめていた。


「ゲボッ……ア、アンタ、何者、だ」


 吐瀉をこぼしつつ、新入りは商人を見上げる。すると商人は己に顔を近付け、「にいいいっ」という擬音が聞こえそうなほどのわらいを見せた。


「アタシ、ですかい? アタシはですねえ。パラウスと申します。人呼んで、闇の伝道師」

「……」


 新入りは絶句し、そして周りを見た。首領を含めた仲間の全員が、気をどす黒く立ち上らせ、こちらを見ていた。彼は己の末路を想像し、腰を抜かした。


「まあどうせアナタは死にますからね。せいぜい、冥界神相手に大騒ぎしてください」

「あ、ああああ……」


 新入りを囲むように、闇の祝福を受けた賊徒が集う。即座に行われた血の宴に、闇の伝道師は満足げに目を細めた。


「言い忘れておりました。お代は、皆様方の正気でございます」


 ***


 荒野は夜を迎えていた。天にまたたく星々――それ一つ一つが、神々のおわすところとも言われている――が地上を照らし、隊商キャラバンは火を焚いて夜営の構えを取っている。光少なき夜の移動は、危険極まりない行為だからだ。

 すでに旅程は、残りおよそ一日となっていた。明日の昼過ぎから遅くとも夕刻には、隊商キャラバンはダンガリオの街に着くだろう。そうなれば、ガノンの仕事は終わりである。約定通りの金をせしめて、荒野に帰るのみ。いや、装備の新調を試みる必要があったか。簡素な靴が、またしても擦り切れつつある。


「……」


 ガノンは思考をくゆらせつつ、闇の中を見通していた。くすぶるような黄金色の目を、遠くへと向けていた。夜営の群れには加わらず、見張り役を請け負っている。火噴き山めいた赤髪は、夜闇の中でさえなおよく目立ち、蛇の如く蠢いていた。

 

「……」


 そんな赤を目印に、そっと近付いていく人影があった。例の娘である。此度は付け髭を外し、人目を憚りながら動いていた。さもありなん。男装を解いたことが知られれば、いかなる叱責が訪れることか。彼女には想像もつかなかった。


「誰だ」


 重く、低い声が彼女を穿つ。その場に押さえ付ける。ガノンのものだ。彼の鋭敏な感覚が、後方、未だ離れていたはずの彼女さえも察知せしめたのだ。


「こ、こんばんは……」


 女は小さく震え、絞り出すように声を発した。そのため、朝は低く作っていた声が素のものとなってしまう。もっとも、彼女は最初からそうすると決めていたのだが。


「……もしや、息子どの。次男どのか?」


 だがガノンの鋭い聴覚は、声の質のみで正体を察知した。彼が最初から気付いていたのかはわからない。それでも誰何すいかの声が和らいだことは、彼女を落ち着かせるには十分だった。


「はい……」

「そうか。やけに美しき男子おのこかと思えば、女子おなごだったか……」


 続く声から、娘は己の偽装が上手く行っていたことを知る。だからこそ、今より語らんとすることに後ろめたさが生じてしまう。だが、振り切らねばならない。女は駆け寄り、ガノンの隆々とした身体に組み付いた。


「な……?」


 戦意を含まぬその行動に、男の反応は一手遅れた。闘気を含まぬ以上、戦神の導きはもたらされない。いかに強いガノンといえども、対処のしようはなかった。やすやすと、背中を許してしまう。

 すると、背中を許されたことを許諾と受け取ったのだろう。女がさらなる願いを打ち明けてきた。


「ガノン様、お願いがございます。このまま私を攫ってください」

「なんだと?」


 彼は思わず、声を荒らげた。それでも叫ばぬ辺りは、判断力のたまものである。大きくなりかねない声を押し殺し、男は尋ねた。


「なにを言っているのだ、むす……めどの」

「お願いでございます。仮にこのままダンガリオに到着したとしても、私は顔も知らぬ男のもとへ嫁ぐだけでございます。それならば」

「おれにすがって、荒野を歩む方がマシ。そう言いたいのだな」

「……はい」


 女は腰に手を回し切れず、ガノンの背中を撫でていた。柔らかい手、そして肌との邂逅は、ガノン自身にも心地良さをもたらしている。

 しかしガノンは、そんな愛撫を振り切った。いかめしい、盾のような顔を女へと向けた。黄金色にくすぶる瞳に、怒りさえをも滲ませて。


「女。侮るなよ」

「っ……」


 あまりにも荒々しい覇気が立ち上り、女の顔がひきつった。だが男は、容赦なく右足を出す。地肌が見えそうなほどに擦り切れた靴が、そこにはあった。


「おれの旅路は甘くない。この擦り切れた靴のようにだ」


 女の顔が、さらに引きつる。しかしガノンは、そんな彼女から目線を切った。戦神の加護がもたらした鋭敏な感覚が、戦の臭いを感じ取ったのだ。


「あ、あの」

「戦場の臭いだ」


 大地の揺れ、馬のざわめき。どうやら、今少し距離はあるようだ。ガノンは遠くを見据えたまま、言葉を続けた。


「おれは戦士だ。故に戦をする」


 ガノンは手槍をしごいてこしらえを確認し、剣を二、三度抜いて滑り心地を確かめる。

 その行為は、女をしてもこの後に起こる事態を察するには十分だった。


「……」

「そこで見ていろ」


 そう言ってガノンは、大地を蹴った。


「オオオッッッ!!!」


 獣じみた声を上げて突進して来る賊徒に対し、彼は女が耳を塞ぐような蛮声をぶつけ、突進した。無論、馬と人間の衝突においてガノンに勝ち目は一切ない。女もその未来を思い、目を閉じた。しかし、現実は違った。


「カアアアッ!」


 再び、蛮人の雄叫び。ガノンの投槍が、闇に呑まれた騎兵の一人を、いとも容易く貫き通した。必然落馬し、混乱が生まれる。


「――!」

「――! ――!」


 人の耳にはうめき声にしか聞こえないような言葉で、状況を伝え合う一党。しかしその時には、蛮人の旋風が彼らの元へと訪れていた。


「ハアッ!」


 凄まじい速さで高々と飛び上がった半裸の蛮人が、背から抜いた剣で馬群を一薙ぎする。それだけで回避行動が生じ、群れが乱れた。しかも一騎は手綱を誤り、自ら落馬する始末。その隙に男は死体から手槍を回収した。だが、状況はあくまで賊徒が有利。しかも、蛮人は包囲された。手槍を奪い取る間に、囲まれたのだ。


「――!」


 やれ、と言わんばかりに、頭領らしきいかつい男が手にしている斧を振り下ろした。青白い肌の、光を失った目をした人形ヒトガタの群れが、ただ一人を打ち砕かんと蛮人に迫る。それに対し、蛮人は深く屈んで槍を回した。


「――!?」


 主同様に闇に呑まれた角馬といえども、その脚は細く脆い。引っ掛けるように薙ぎ回された槍の前に、見事に足並みが乱れ、暴れ出す。それを突く形で、蛮人はローリングをもって包囲から抜け出した。


「カアアアッ!!!」


 再び咆哮とともに槍を投げ、また一人を撃ち抜く。ガノンの暴虐は、とどまるところを知らなかった。相手が闇に呑まれていようと関係なく、次々に賊徒を葬っていく。

 気付けば賊徒は、残り三騎となっていた。他は落馬、もしくは傷によって死傷し、立ち上がれぬ身となっている。あまりにもの力の差が、そこには現れていた。


「――――!」


 だがそれでも、首領は諦められなかった。せめて憎き男の首を取らんと、残りの部下をけしかける。しから彼らは、気勢でとっくに負けていた。剣一本、半裸で防御も薄いはずの男に遅れを取り、一騎ずつ丹念に、馬から叩き落されてしまった。


「……」


 首領はここで、初めて相手を真っ直ぐに見た。暗闇にあってなおほの光る敵手は、夜闇さえものともせずに己を見ていた。黄金色が眩しい。気に食わない。手下を屠られた。憎い。殺したい。どす黒い感情が、抑え切れぬほどに湧き上がった。


「お゛、お゛、お゛……」


 彼から、かすかに意味のある言葉が発せられた。闇に呑まれた者の中で、ごくわずかにのみ起こる現象。【眷属への進化】が起きつつあった。

  見よ。彼が手にしている斧が、淀んだ空気を纏いつつある。斧を持つ腕の筋肉が、異様な発達を見せつつある。闇からの祝福を、その身に受けつつあるのだ。


「……」


 その姿を黄金色で見据えて、半裸の蛮人は腰を落とす。すでに彼の視界に女はいない。しかし寂しさはない。あの女に、かつてともに闇と渡り合った重装女戦士――ローレンと言ったか――ほどの決意は見えなかった。

 あけすけな言い方をすれば、その程度の決意だったのだ。己とともに歩むこと。その意味を、彼女は理解していなかったのだ。


「フォウッ!」


 意味のない雄叫びを添えて、彼は大地を蹴った。同時に、角馬に乗った敵手もまた、斧を振りかざして迫って来た。いかな戦神の導きといえども、まともに挑めば真っ二つにされる。故にガノンは、三歩の距離で大きく跳ねた。


「う゛ぼおお……」


 首領の斧が、ガノンを撃ち落とさんとする。しかしガノンは、空中で大きく身を捻った。斧の軌道を、大きくかわす。そのまま人の身ならざる滞空力で、あらわとなった首領の首を狙う。


「ハッ!」


 ほのかに光る剣が、敵手の首を一刀のもとに裁ち落とした。ガノンが宙返りして大地に戻る頃。首領の身体は、馬より崩れ落ちていた。

 こうしてまた一つ、荒野から無法が消えたのだった。


 ***


 結局隊商キャラバンは無事に朝を迎え、日が傾く頃にはダンガリオの街へと到着した。


「今回はまこと助かりました……」


 街の手前、ガノンは隊商キャラバンの主と息子より報酬を受け取る。結局娘とは、あれから一度も顔を合わせなかった。


「なに。そちらこそ無事でなによりだ。ところで……次男どのは」

「アレは少々、気分が優れぬようでしてな。代わりに礼を伝えてくれとのことでした」

「なるほど」


 ガノンは思う。やはり年頃の乙女には、戦場は刺激が強すぎたのだと。己に顔を合わせまいとする理由も、微かにだが理解はできた。安易な心で蛮人にすがった自身を、恥じている。彼はそう思うことで、なにもかもを夜闇に伏せた。


「それでは、さらば」


 ガノンは頭を下げ、荒野へときびすを返した。その腰には、ボメダ金貨二百金がぶら下がっている。賊を退治せしめたことで、彼は約定通りの報酬を得ていた。

 これで暫くの間は、食い扶持にも困らない。近くの街で、今後の算段を立てる腹積もりだった。


「お達者で……」


 そんなガノンの背を、遠く、荷駄の隙間から見つめる視線があった。娘だった。付け髭こそはしているものの、その視線は女のものだった。彼と同じ道を歩むことは難しくとも、その無事だけは祈りたい。思いのこもった、視線だった。


「私も、私の人生を全うしますので……」


 彼女はガノンの背が見えなくなるまで彼を見送り、その後、あるべき人生へと戻って行った。



 無法、死すべし・完

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