ガノン・ジ・オリジン(ピース・ワン)

 戦闘は、いよいよ佳境を迎えつつあった。

 未だ目を灼くほどの光に身体を隠した槍の使い手が、雷さえも超える疾さでガノンへと襲い掛かる。ジグザグ機動による韜晦など一切ない。まったく決断的な踏み込みであった。


「ぐぬうっ!」


 ガノンは攻撃範囲の広い槍から繰り出される一撃を、必死の形相でさばく。しかし槍手そうしゅはそれでも怯まない。恐るべき槍さばきで、次々と技を繰り出す。そのすべてが、音さえも置き去りにしかねないものだった。受け流せば穂先を斬り上げ、弾けば今度は斬り下ろす。さりとてかわせば即座に引き、次を繰り出す。一切合切の判断が理に適っており、流れるようであった。なんたる槍手か。


「この槍さばきは……」


 ガノンは、声に出すことなく思考を巡らせる。このレベルで槍をさばける男など、彼の記憶には一人しかいない。しかしながら――


「『奴』が追手に回るだと? その方が、もっと有り得ん」


 ガノンはその可能性を切り捨てる。幾日にも渡って追われ続けた疲弊が、そうさせたのか? あるいは、彼にとっての希望的観測か? ともあれ、ガノンは脳内にてその想像を葬り去った。『彼』が敵方に回ることなど、脳の片隅にさえも浮かべたくはなかった。それだけの縁を、築いてきた。そのはずだった。


「……!」


 光芒の向こうから、再び槍が伸びる。光の塊が、それに相応しい疾さでガノンへと襲い掛かる。この戦に入ってからというもの、ガノンは一度として先手を取れていなかった。疲弊もある。相手の仔細が不明というのも大きい。そしてなにより――


「戦神に……おれは……」


 槍をさばきながら、ガノンは思考を巡らせる。その身体を包む仄かな光は、いつもよりもか細いものだった。そう。彼を護り、支えてきたはずの戦神の加護が。この戦においては十全に発揮されていないのだ。さにあらん。先に行われた一大決戦における裏切りと敗北は、彼の心さえも痛め付けていたのだ。彼が崇敬してやまぬはずの戦神への信仰。己の失策も含めて、そこに翳りが生じていたのだ。


「……」


 光芒から伸び来る槍が、さらなる加速を遂げる。いよいよ人の領域を超えかねぬ。それほどの勢いだった。武神の加護か。なんらかの紋様手管によるものか。ガノンは必死に脳を巡らせる。しかし、思考はすでに疲弊している。並列思考には、とても向かぬ状態にまで陥っている。

 先に最悪の可能性を意図せずして切り捨てたことも含め、ガノンはすでに現実を直視できる状態でなかった。故に、思考は迷走し、過去へと伸びる。それはとうに捨てたはずの、故郷にまで……


「ああ……。おれはなぜ、荒野を……」


 彼は思い出す。荒野に至った経緯を。そこに至るまで、なにをしてきていたのかを。それはすでに遠く成り果てた過去の一片。彼の来歴。その一端である――


 ***


 立ち並ぶ天幕。広々とした草原。そして草を食む牛の群れ。それが、ガノンが生まれし時より、日々見続けた原風景だった。


「おれは、いつかここを出る」

「そんなこと言わないの」


 ガノンは幾度となくその地を去りたいと言い出し、その度に窘められた。昔馴染み――姉貴分にあたる者の声は、今なお耳に残っている。それが故郷、ラーカンツへと抱く最後の記憶だった。彼女の姿形は、とうにおぼろげになりつつある。ただ、切り揃えられた赤髪だけは印象に残っていた。


「あなたはきっと、ガラナダ氏族に栄光をもたらすわ。だから、ここにいなくちゃいけないの」

「それは大人の言い分だ。おれにはおれの意志がある」


 ラーカンツ十四氏族。そのうちの一つ、ガラナダを支える家に産まれたガノンは、幼き頃より類稀な体力、気力、胆力を持ち合わせていた。九つの折り、その姿を見し氏族の長老が『戦神の申し子やもしれん』とのたまったほどである。

 しかし、それ故であろうか? ガノン自身には外への強い想いと、身を焦がすほどの野心が備わっていた。己を試したい。外の、広い世界を見てみたい。そういう野心が、備わっていた。同時に、戦神への弛まなき崇敬。そして、それに見合った鍛錬も。


「かもしれないわね。だけどあなたは、鍛錬を欠かさない。今だって、棒を振っている。千を越えたのに、まだ振り上げている。それは」

「違う。戦神への捧げ物だ。戦神は常に己を磨く者、戦地に身を置く者のみを愛するという。背を向ける者、怠惰に振る舞う者には罰を与えるという。ならば」

「……」

「たとえ今すぐではなくとも、おれは必ず外に出る許可を得る。そうして外を見て。おれはおれを、鍛え上げるんだ」


 口ごもってしまった女に対し、ガノンは決然とした言葉を投げ掛ける。時にして、齢十と三つ。しかしながら、その体躯と口ぶりは、あまりにも歳に見合わぬものであった。まず彼は、氏族の中でも極めて大柄であった。体躯のすべてに、鎧めいて筋肉が備わっていた。知らぬ者が見れば、成人と見まごうほどである。続けて、その膂力があまりにもずば抜けていた。氏族の大人を相手に組み合って、容易く打ち勝つほどだった。そして、胆力もまた豪胆であった。大人に交じって狩りへと赴き、単独にて獣を仕留めること複数回。すでに氏族の中でも、一廉の者として名が知れつつあった。


「差し当たっては、来年の祭りだな……」


 ガノンは棒振りを止めると、黄金色にけぶる瞳を地平線へと差し向けた。その彼方に、彼は野望をくゆらせる。ガノンたち南方蛮族……もとい、ラーカンツの氏族間では、戦神崇敬の大祭が行われる。二年に一度行われるその行事では、戦神へ戦を奉納する催しがあった。ガノンが目指すのは、その催しへの出場。そして奉納戦勝利者への栄誉をもって、外界へ出る権利を勝ち取ることであった。


「……」


 ガノンは、沈みゆく陽を見ていた。あの向こうに、外の世界がある。広大な世界と、己では想像もつかぬ強者がいる。そう信じ、再び棒を握る。そんな彼の視界に、昔馴染みの姿はまったく入っていなかった。


 ***


 ある夜のことである。すでに夜更けだというのに、その天幕だけは物々しい空気に包まれていた。戦士が幾人も見張りに立ち、不慮の事態に備えている。その間を縫って中を覗けば、そこには幾人ものガラナダ氏族戦士たちが車座に集まっていた。彼らはここで、すでに数刻にも渡って激論を交わしていた。


「私は、幾度となく言っています。そのような氏族の掟や意地だけで、憎きペルーザの輩に勝ちを譲るなど認められぬと!」

「然り! ペルーザと我々は不倶戴天、代々の仇敵。奴らに負ければ、先祖と戦神に申し開きが立ちませぬ!」

「うぬらの言い分はわかる! されどガノンは未だ十と四。成人にすらなっておらぬ。掟はともかく、ここであやつを失うわけにはいかぬ。氏族の宝を失うも同義だ」

「その通り! ペルーザには【天を衝くアマリンガ】がいるのだ。いかにガノンとて、ややもすれば二度と戦場いくさばに立てなくなるやもしれん! ここはたとえ及ばずとも、氏族の戦士が範を示す時!」


 侃々諤々、喧々囂々。ガラナダの男どもが、口角泡を飛ばして語り合う。一方は氏族の意地を論じ、一方は掟とガノンの重要性を論じていた。これでは平行線もむべなるかなである。そしてなにより――


「待てい。まず話を戻そうぞ。此度の発端は、大祭の奉納勝負。相手氏族がペルーザに決まったことにある」

「うむ」

「ああ」


 車座より数歩外れて座る人物――白き髭を蓄えた長老――が話を切り、整理を始める。齢八十を越えてなお矍鑠たるその姿に、部族戦士も皆うなずいた。さしもの彼らとて、長老の言葉は無視できぬのだ。


「うぬらも知っての通り、ペルーザの輩は幾度にも渡って我々の領域を侵犯、それでいて詫びの一言すらもない。戦神の信徒として、恥ずべき者どもである」

「然り!」

「強く罰するべし!」


 長老の言に、数人が声を荒げた。いわゆる強硬派の者である。彼らは往々にして、此度の勝負にガノンを出場させるべしと主張していた。


「されど。昨今の情勢は不穏である。氏族間の争いは強く戒められておる。なぜなら戦神に依らざる軟弱者――北の民が、こちらを窺っているからだ。ワシらラーカンツが割れれば、かの者どもは陰険なる策略をもってこちらの懐柔を試みる。故に、見せかけだけでも強固でなくてはならん」

「然り」

「我らラーカンツ、一枚であるべし」


 長老が言葉を続けると、これまた数人がうなずいた。いわゆる穏健派の者である。長老は彼らにうなずいたあと、さらに言葉を続けた。


「それ故、うぬらが此度の奉納勝負に逸るのは理解する。かの輩に、鉄槌を下す好機である。ワシとて、その気持ちは往々にある」

「おおっ!」


 これには、車座の全員が声を揃えた。そう。彼らは内心では一致していた。ペルーザが憎い。機会さえあれば、奴らの鼻を明かしたい。強硬派も穏健派も、その一点では意志を同じくしていた。そして。


「すなわち此度の議論、すべてはガノンに氏族の代表を託すか否か。そこにのみ、焦点がある。良いな」

「然り」

「異議なし」


 両派の議論は、すべてが一点に集約されていた。掟を破り、氏族の意地をガノンに託すか。掟を守り、敗北覚悟で成人戦士を送り出すか。いずれの主張にも理があり、故に議論は平行線であった。

 相手が繰り出してくるであろう代表戦士、【天を衝くアマリンガ】。かの者はあまりに強く、此度に至るまでの過去六年、三度の奉納勝負でいずれも圧倒的な勝利を飾っていた。だからこそ、ガノンに命運を託す声が出たのである。ガノンならば。長老の認めし、戦神の申し子であれば。そんな希望的観測が噴き出すのも、やむなしと言えた。


「よろしい。ならばワシより提案しよう。ミムアよ。うぬが審議官となれ。うぬが選びし者とガノンが争い、勝利した側を代表戦士とする。それならば」

「!」


 次の言葉が放たれた瞬間、全戦士の視線が一箇所に集まる。そこには隻腕の、されど筋骨逞しき戦士が座していた。目には光があり、今なお戦士としての気概を残している。この場の誰にも、それがわかった。


「前回の代表戦士……」

「たしかに、ミムアならば……」


 両派から口々に声が上がる。場の空気が、一気に収束していく。その空気の先にある隻腕の男は、わずかに時をおいてから口を開いた。


「長老。このミムア、直々の指名をいただき恐悦至極」


 まず男は、深々と頭を下げた。隻腕のために少々不格好ではあるが、それでも清冽さは隠せなかった。


「されど。それがしは先年の奉納勝負で片腕を喪い、今は若輩どもの教官役。その目から見ても、ガノンが図抜けているのは明らかなれば」

「ふむ」


 長老が髭をしごく。戦士一同は、固唾を呑んだ。ここでミムアがガノンを選ぶのであれば、すべてはそれで決するからだ。しかしここで、隻腕の男は意外な言葉を口にした。


「前回戦士となったこの身が、奉納勝負のなんたるかをわからせるべきでありましょう」

「ほう……」


 長老も、皆も、驚きの顔を示す。先年の奉納勝負で腕を砕かれ、一線を退いたはずの男。そんな彼が、ガノンと戦いを交えるとのたまった。彼らにとって、全くの想定外である。


「長老、ミムアは増長しております。何卒、制止を」


 慌てた穏健派から、声が響く。無理はない。ここで提案が通ってしまえば、ガノンはミムアを倒すだけで代表となってしまう。有望株を再び喪うのは、彼ら、そしてガラナダ氏族にとって大きな損失だった。


「止める必要はない! 手続きが取れるのならば、最上ではないか!」


 強硬派からも声が飛ぶ。彼らもまた、ガノンを送り出すことが特例に当たる事実は承知していた。しかしミムアの提案により、その特例を突破できる道が開けたのだ。彼らにとって、針の穴を通すほどの好機であった。


「長老、ご決断を」

「なりません、長老!」


 両派に挟まれ、長老は瞑目する。その行為は、しばしに渡って続いた。やがて遠くで、山犬の遠吠えが響く。それが一息ついた時、長老はゆっくりと目を開いた。


「……ガノンを出さざるとしても。【天を衝くアマリンガ】、そして憎きペルーザの下風に立たされることは必定」

「……」

「……」


 両派が、沈黙する。そう。この場の全員が、【天を衝くアマリンガ】の強さを承知していた。前回の奉納勝負、彼はそのあまりの強さでたちまちの内に相手戦士の顔を潰してのけた。並大抵の者では、到底敵わない。前に立つことさえ、侮辱となってしまう。


「故に、ガノンを試す。ミムア、最悪の場合は死しても構わぬ。かの者に、試練を」

「はっ!」


 ミムアが再び、頭を下げる。今度ばかりは、両派もうなずかざるを得なかった。長老の決裁は、いかなる合議よりも勝る。こうして、ガノンの運命は一つの試練へと委ねられた。


 ***


 翌朝。ガノンは教官たるミムアに森へと呼び出されていた。いかに大人の狩りに交じることを許された彼といえども、若人たちの教官たるミムアは絶対の存在である。その男から呼び出しを受けた以上、ガノンに応じぬ理由はなかった。


「教官どの。何用であるか」


 ガノンは、背を向けたままの教官に尋ねた。しかし教官は、背を向けたままに言葉を紡ぐ。


「【天を衝くアマリンガ】を、知っているか」

「無論。おれ以上の巨体を持つ、ペルーザの英雄戦士。此度の大祭で、我が氏族に立ちはだかる者」

「よろしい」


 教官の言葉は、淡々としたものだった。ガノンはいよいよ、不審を抱く。それでも教官は、言葉を続けた。隻腕の男は、何処を見ているのか。ガノンには、わからなかった。


「汝を、大祭の代表戦士にせんとする者たちがいる」

「!」


 ガノンは、思わず足を止めてしまった。鍛錬が、戦神への崇敬が実る時が来た。己の温めてきた想いに、光明が差した。心の底から、そう思った。されど。


「ならぬ」


 教官の言葉は、厳しいものだった。


「なにが悲しくて、未だ我が手を離れざる者を死線に送り出さねばならぬ。卓越したるとはいえ、成人、真の氏族戦士ではあらざる者ぞ。氏族はその誇りと意地故に、もっと大きなものを捨て去ろうとしている」

「……」


 ガノンの背筋に、走るものがあった。そうだ。己は未だ、氏族において未成年の扱いなのだ。あまりに特別視をされていたものだから、その事実すら失念しかけていた。思い上がりに、冷や水を浴びせられた。教官の言葉には、正しさがあった。


「故にそれがしは、汝を試すことにした。それがしの下す試練を越え、成人に相応しいことを証明せよ。さすれば、それがしも汝を認めよう」


 教官が振り向き、己を見る。その目には、一筋の涙が流れていた。同時に、無数の音が森に響く。木を駆け上る音が、ガノンの耳を打つ。ガノンは、背にはめていた木の棒を抜いた。若人どもに与えられる、唯一の武具であった。


「かの【天を衝くアマリンガ】は、汝を上回る巨体。さらにそれを活かし、雷霆の如き打ち込みを振り下ろす。高所からの三十人、見事さばいてみせよ」


 それだけ述べると、教官もまた近くの木へと駆けて行った。その行いを、ガノンは許す。相手の提示した試練は、そこから始まるものだからだ。試練が始まる前に倒してしまえば、それはただの無法である。戦神にもとる行いは、ガノンの望むものではなかった。


「始めいっ!」


 すべては、短く始まった。


「うおあああっ! ガノン、今日こそ!」

「でりゃあああっっっ!!!」


 教官の声に、堰を切ったかの如く蛮声が轟く。気合を込めた一閃を振り下ろしたるは、ガノンとともに鍛えられた若人たち。投石めいて飛び降り来たるさまは、まさに壮観と言えた。だが。


「ぬんっ!」

「はっ!」

「せいっ!」


 初手の三人に対し、ガノンはいともたやすく対処した。一人目をかわし、二人目を下から突き上げ、三人目の棒を受け止める。多少の痺れなど、意にも介さぬ。返す刀で、残りの二人にも土を付けた。なんたる判断。なんたる格差。

 しかしそれでも、上から来たる戦士どもは折れない。己を奮い立たせ、ガノン目掛けて飛び降り来たる。


「あああああっっっ!」

「畜生っ!」

「行くぞっ!」


 五人。八人。十人。声を連ねてやって来る男の群れを、ガノンは額に汗することもなく薙ぎ払う。かわす。返り討つ。

 ここで少々弁護をすることになるが、若人どもとて、決して弱者ではない。かつてガラナダ氏族の代表戦士をも務めたミムアが、手塩にかけて鍛え上げた未来の氏族戦士なのだ。相手が只人であれば、囲んで打ち倒せる陣容である。しかしガノンは違った。類稀なる肉体と身体能力から『戦神の申し子』とも謳われ、その上、日々のほとんどを修練に注ぎ込んでいた人間である。悲しきことではあるが、そこには決然たる差が存在していた。

 重ねて言う。決して若人たちは弱くない。ただただ相手が、『例外』に属する類の者だった。それこそが、彼らにとっての悲劇だった。


「ウオオオオオッッッッ!」

「ずあっ!」


 一人がガノンの肩をめがけて降り来る。その一撃、落雷の如し。されどガノンは、棒を掲げて全力で止めた。重みと痺れが襲い掛かり、わずかに動きが止まる。そして、背後に隙が生まれた。


「見えたぁ!」


 その瞬間、また一人が意を決し、ガノンを襲う。その判断力や良し。いかなガノンといえども、背後から叩かれれば――


「叫ぶようでは、まだ遅いな」


 しかし。ああ、しかし。ガノンはすでに対処を終えていた。痺れに対して己の意志力を総動員し、声の方角へと、全力で身体を向けていた。結果、飛び降り若輩戦士は全力の迎撃を受ける形となり――


「ぐあああっ!」


 下から打ち上げられ、跳ね飛ばされ、地に墜ちることと成り果てた。そして、先の一人も。


「遅い」

「くっ!」


 打ち上げの流れから閃光めいた一撃を喰らい、これも倒れる。気付けば周囲は打ちのめされた者どもにまみれていた。残されし戦士は、いかばかりか。そして、その心根は。


「強い……」


 教官たるミムアは、滴る冷や汗を止められなかった。同時に、残りの手勢――試練のともがらを確認する。三名。動けずにいたのか、隙を窺っていたのか。そこまでは掴めない。視線を送り、戦意を確認する。首を横に振る者は、いなかった。


「やる他にない」


 先年の奉納勝負で無惨に叩き折られ、失ったはずの右腕。その根元が、奇妙に疼く。できることならば、五体満足でガノンに挑みたかった。そうであれば、このような小手先の試練なぞ。堂々たる勝負で、ガノンに道を示せたのに。とはいえ。


「過去を想うな。現在いまを想え……行くぞ」


 視線のみで同志たちに告げ、ミムアは意志を決した。太い木の枝に足を掛け、能動的に飛び降りる。ほとんど同時に、残りの若輩戦士も動き出した。これなら。ミムアの脳裏に、確信がよぎる。しかし。


「……ハッ!」


 ガノンの決断は、あまりにも早いものだった。己が敵の行く先に在ると悟るや否や、すべてをなげうち、彼は転げた。結果、ミムアたちの雷霆は空振りに終わる。直後。若輩三人が、瞬く間に倒れ伏した。ガノンの反撃は、あまりにも速いものだった。数歩下がり、ミムアは身構える。危うい。すんでの所で、ガノンの一撃を回避した。攻めの構えを取ったガノンが、声を掛けて来る。


「教官。三十人三十撃。すべてさばいた。全員倒した。これで」

「認めぬ」


 言を跳ね除け、ミムアは構えを取った。ガノンの言葉は、事実である。ミムアの下した試練を、彼は見事に踏破せしめた。だが、ミムアにも意地があった。誇りがあった。敗れたとはいえ、前回の奉納戦士。戦わずして棒を納めるようなマネは、承服し難きものであった。


「ガノンよ。ここで奉納勝負に臨めば、汝は氏族の使い走りとなる。氏族は難局の度に汝にすがり、結果として氏族は戦いを忘れ、弱くなる。そのようなガラナダ氏族を、それがしは見たくない。故郷であると、認めたくない」


 構えを取りつつ、ミムアは真の心根を打ち明けた。すべては氏族を想うが故。氏族の先行きを案ずればこそ、ミムアはこのような試練を吹っ掛けたのだ。しかし――


「ならば、問題はない」


 ガノンは、首を横に振った。ミムアに、疑問がよぎる。なぜ、ここで彼は否定したのか? 彼は一体、なにを考えているのか? そこでミムアは思い出す。大祭における奉納勝負、その勝者への恩恵は。


「汝、まさか」

「おれは外に出る。外の強者と、刃を交える。氏族は弱くならない。新たな戦士が、きっといる」


 ガノンの身体が、ゆらりと動く。否。あまりの速さに、錯覚を起こしているのだ。ミムアは即座に、防御態勢を取る。ガノンがどう踏み込もうと、受け返すことさえできれば――


「がっ……!?」


 しかしガノンは、それよりも疾かった。閃光という言葉でさえ、足りぬような一撃。げに恐るべき一撃が、ミムアの左脇腹を駆け抜けていった。


「なん……たる……!」


 ミムアが膝を付く。臓腑を直接叩かれたような痛みが、彼をしてそうさせていた。それでもミムアは、口の端を噛んで耐える。倒れてしまえば、完全敗北である。それだけは、彼の矜持が許さなかった。せめて、裁定だけは。その一心が、彼に意地を張らせた。


「み、ごと……」

「恐れ入ります」


 痛みを堪えて声を張れば、ガノンからも言葉が返る。続けて彼は残心を解き、ミムアの元へと現れた。その姿を認めて、ミムアはさらに己に強いた。ここで倒れるような、無様だけは。


「いくがよい、ガノン」

「はい」

「なんじ、は、なんじのみちをゆけ。それがしがゆるす」

「はい」


 歳の割には成熟しているガノンの、低い声が耳を叩く。その事実にミムアは安堵した。そして意識が、遠のいていく。


「ふりむくな、ゆけ」

「わかりました」


 最後の言葉を振り絞り、ミムアは意識を手放した。その身体を支える者は、誰一人として居なかった。


 ***


 かくして、時は来た。彼らの栽培する数少ない作物の収穫が終わると、十四の氏族は数日を掛けて聖地に集う。その地にて三日三晩、昼は奉納勝負、夜は楽器を打ち鳴らし踊りに浸る大祭が開かれるのだ。


「……ガノン」

「大丈夫だ。おれは打ち勝つ」


 聖地へと馳せ参ずる移動の当日、ガノンは姉貴分の訪問を受けていた。陽に良く灼けた身体は湯浴みによって輝ける程に磨かれ、普段は伸ばし放題の赤髪も後ろで一つに括られている。鼻下と顎には常には伸ばさぬ髭が蓄えられ、わずかでも他の代表戦士に見劣りせぬよう、苦心した痕が見受けられた。


「心配すんねい、ベラのお嬢。ガノンは申し子様じゃ。どうにでもなる」

「ちょっと! ベラちゃん、いつもありがとうね。ガノン。アンタ、おなごを心配させるんじゃないよ」


 ガノンが常と変わらぬ表情を見せれば、すかさず両親が出て来て言葉を連ねる。ガラナダ氏族を支える家柄にしては、少々ざっくばらんだ。しかしながら、これがガノンが生まれし家の家風であった。


「おれは勝つからこそ勝つと言った。そこになんの問題がある」

「問題はないけどね。言い方ってものがあるのよ。もう少し、こう……」

「ええい。女は心配性だから困る。いいか。男が勝つって決めたらなあ……」


 ガノンの口答え――率直な疑問を皮切りに、家族は終わらない押し問答を始めてしまう。そのさまを見た姉貴分――ベラは、立ち尽くす。同時に、思考を回す。もしかしたら今生の別れ、その発端となり得る今日この日を。このまま無為に終わらせて良いのかと。ガノンになに一つ言えぬまま、終りを迎えても良いのかと。そして。


「すみません、失礼します!」


 ベラは意を決し、天幕の中へと踏み入った。従来であれば、主人の許可を得ぬ踏み込みは礼を失するものである。いわんや成人前の淑女をや。だが、いまのベラには関係なかった。一息、ガノンの腕を掴む。そして、引っ張る。


「ベラ、なにを」

「ガノン、来て」


 ガノンを天幕から引っ張り出し、そのまま一息に駆ける。たちまちにその姿は遠ざかり。残されたのは夫婦と、まだ年端もいかぬガノンの弟妹のみとなった。


「なんでえ、ベラのお嬢。急にどうしたってんだ」

「アンタ、無粋だよ。男に戦う時があるように、女にだってここ一番があるのさ。ここは見逃してあげな」

「むう……。まあ訴え出るほどのことではないか」


 父は頬を掻き、母は笑みを浮かべて。日々の暮らしへと戻っていった。二人にはまだ、幾許いくばくかの猶予が残されていた。しかしガノンよりも一つ年上の乙女には――


「ハッ……ハッ……!」

「どうした。人に見られたら、なにかと思われるぞ」


 ガノンと言葉を交わす猶予なぞ、もはやほとんど残されていない。その一心で彼を森へと連れ出したベラは、息を切らせて木に寄り掛かっていた。


「わかってる……。でも、言いたかったことが、あるの」

「なんだ」


 それでも娘は、絶え絶えに言葉を繰り出す。他人に見つかってしまえば、なんと呼び囃されるかわからない。ここで告げた言葉によって、なにを申し渡されるかもわからない。ただ、それでも。ガノンに告げたい言葉があった。


「わたし、は、まつ。たとえもどってこないとしても、がのんをまつ」

「っ!」


 息切れ混じりの、か細い声。しかしながらガノンにも、その意味は通じた。通じてしまった。それが氏族、ひいてはラーカンツの民にとってどのような意味を持つか。ガノン自身も、これまでの教育で良く知っていた。


「ベラ、おまえ、は」

「いわないで。これは、わたしの勝手。わたしがやりたくて、やること。あなた、には、かんけいない」


 思わず近寄ろうとするガノンを、ベラは片手を上げて制した。この決断は、あくまでも自分の勝手。ガノンに支えられれば。ガノンから答えを得てしまえば。それは約束となってしまう。ベラはガノンを、縛りたくはなかった。ガノンが外を望むことは、もはや変えようがない。それは繰り返してきた問答でわかっていた。ならば、己にできることは? ずっと、ずっと考えてきた答えが、今この場にあった。


「……わかった」


 ガノンが、ベラに対して背を向ける。思わずして、ベラにこみ上げるものがあった。彼の広い背中に、すがりたい。そうしてでも、彼をこの場に押し留めたい。そんな欲望が、己を急き立てる。しかしベラは、最後までその想いには屈しなかった。歯を食い縛り、顔を上げぬことで耐え切った。わずかに視線をやれば、ガノンがゆっくりと遠ざかっていく。少しずつ、森から去っていく。彼の大きな背中が見えなくなった後、ベラは小さく嗚咽し、その場に泣き崩れた。


 ***


 時の流れは、すべてを飲み込んでいく。小さき出来事など、その前には塵芥でしかない。すなわち、残酷なまでに移動の時は訪れ、そして到着の時もやって来る。ガラナダの男どもは四日に渡る旅路を終え、牛を連ねてラーカンツの聖地へと至ったのだった。


「ラーカンツ十四氏族が一つガラナダ、ここに着陣!」

「ご苦労! 大祭は明日より執り行う。今宵は疲れを癒やすが良い!」

「はっ!」


 氏族使節の代表が、聖地と大祭の運営保守を任されている氏族の者と言葉を交わす。彼らは十四氏族の埒外であり、此度の大祭に代表戦士を出すことはない。

 また、ラーカンツの対外的代表である【テ・カガン】も、この氏族からのみ選出される。とはいえテ・カガンはあくまでお飾りであり、実権は十四氏族の上位に属するいくつかの氏族に委ねられているのだが。

 なおガラナダ氏族は、その数氏族には属していない。一方でペルーザは上位氏族に属している。その事実もまた、ガラナダの本大祭に対する士気を高めていた。


「ガノンよ、今夜はゆっくり休んでくれ」

「頼むぞ、ガノン」

「お前しかペルーザの鼻をあかせる者はいない。やってくれ」


 代表戦士のためだけに用意された天幕の前で、氏族の者たちが口々に期待を寄せていく。その言葉の羅列をガノンは、こともなげに受け流した。彼にとって、大祭での勝利は最低条件である。彼の想いはその先、いかにしてラーカンツの外へと出るかという一点にのみ注がれていた。その起点となる勝負は、明日の一番勝負になる。そう決したと、先に伝令が届いていた。


「……」


 ひとしきり氏族の者を見送った後、ガノンは天幕に佇んだ。すべての調度が整えられ、十分な広さが確保されている。なんなら、鍛錬を行っても許されるほどの広さだ。代表戦士が時を過ごすために、万端の準備をもって整えられている。未だ年若いガノンでも、はっきりと理解できた。テ・カガンの氏族は、見せかけだけではないのだと。


「とはいえ」


 ガノンは日々をともにし続けた棒を持ち、天幕の外へと躍り出た。いかにしつらえられた宿舎とて、肉体からだに宿る熱を冷やすには至らない。己に燃え盛る熱を冷やすには、やはり外の風こそが肝要だった。


「ふー……」


 息を吸い、そして吐く。ラーカンツの中でも比較的高地にある聖地の風は、少々冷たい。しかしながら、内なる熱をくゆらせるには、丁度良いものであった。ガノンは棒を握り、そして振る。いつも通りの鍛錬を始めんとした時。


「なんだなんだ。奇遇だな。そうよな。戦神に戦を捧ぐ代表戦士が、鍛錬を欠かすはずがないものな」


 不意に掛かる声が、ガノンを止める。ガノンは声の方角を見る。そして驚く。視線の先には、己より頭一つ分大きい男がいた。右頬と鼻下に大きな傷痕を持ち、十文字に交差させている。赤茶けたざんばら髪をしており、隆々とは言わないまでも、確かな筋肉の鎧がそこにはあった。右手には棒。口ぶりからすると、この男も。


「おう。貴様はどうやら初顔だな。俺はペルーザ氏族の代表戦士だ。人からは、【天を衝くアマリンガ】と呼ばれておる」

「……っ!」


 ガノンは思わず表情を崩す。明日、己の命運を決する大敵が。自身の目前に立っていた。そして戸惑う。どういった返事が、この場の正解であるのかと。名を明かした相手に対して、あまりにも失礼な行為。それは重々に承知している。されど、目の前の人物は明日の相手。己の名を明かしてしまえば、見くびられる恐れがあった。調べられる恐れがあった。


「ガラナダ氏族のガノン。明日の代表戦士でもある」


 しかし最後には彼は己を説き伏せ、名乗りを上げた。そうしなければ、さらに負ける恐れがあった。ついでに言えば、ガノン自身が自分に負ける恐れがあった。それは彼にとって、戦で敗れることよりも愚かしいことだった。戦う前から、敗北を喫しているのだから。戦神に、もとる行いでしかないのだから。だからこそガノンは、精一杯に声を張り、鷹揚な態度を見せた。


「ほう! ほうほうほうほう!」


 対して敵手の反応は、まったくもって想定外のものだった。アマリンガは戦士めいた鋭き茶色の目を大きくひん剥き、いともあっさりと驚きの感情をあらわにしたのだ。これにはガノンも、口をあんぐりとさせてしまう。


「いやいや。まさか明日相見える敵手と、このようなところで巡り会うとは! これも戦神の思し召しか? 明日はよろしく頼むぞ!」


 アマリンガはノシノシとガノンに近寄ると、その手を引っ掴んで縦に振る。大きな手だと、ガノンは感じた。ここまでの感触を抱かせた相手は、ここしばらくでは部族の成人戦士にさえもいなかった。つまるところそれは、アマリンガの強さ、大きさの証明でしかない。ともかくガノンは、なすすべもなかった。なに一つ言葉を返せぬまま、アマリンガの言動に振り回されていた。


「まあ良い。ともかく座れ。別に命の遣り取りをするわけでもない。奉納勝負を、互いに演ずるだけだからの」

「……っ」


 アマリンガはガノンの返事を待たずに座り込んでしまう。あぐらをかいたその姿もまた、天を衝くようであった。ガノンよりも色濃き赤銅色の肌は、夜闇の中でもくっきりと見えた。その瞳は輝きに満ち、好奇心をあからさまにしている。ガノンは理解した。この男は、己に興味を持っているのだ。ガノンはやむをえず、男の前に座した。氏族の者が見たら、なんと言うだろうか。否、この場に氏族は関係ない。二人は偶然に出会い、そして興味を持たれた。それだけなのだ。すべては偶然、戦神の思し召し、もしくは運命神のいたずらであろう。ガノンはそう考え、やましい思いを振り払う。結果、一つの言葉が口をついて出た。


「演ずる、とは」

「んむ? おお、奉納勝負のことか。考えてみよ。棒きれ構えて殴り合うなぞ、真の勝負と言えるか? 真の勝負とは戦場の中、剣をもって互いの命をり合うことにあろう。故に真似事、演舞だと言うたまでだ」


 アマリンガが、顎に蓄えた髭をしごく。その姿さえも様になるのだから、やはり卓越した戦士は格が違う。ガノンは、目の前に座る男への認識を正す。ペルーザ氏族に思うところはあれど、この男については。


「ガラナダの。確かに我らは狩り場、領域の件で認識を異にしておる。此度の奉納勝負に、それを持ち込んで来た者も少なくなかろうよ」

「……」


 アマリンガからの声。ガノンは認否を口にせず、首を軽く縦に振った。言質を与えずに、相手に察せさせる。この男にならそれが通ずると、ガノンはここまでのやり取りから直感していた。


「そうかそうか。まあそうだろうよ。我らラーカンツ十四氏族は、テ・カガン氏族の命で互いを滅ぼし合うような争いを戒められておる。ま、実際のところは我らペルーザも含めた、上位氏族の思惑だがな」

「……」


 ガノンは言葉を返さない。興味がないこともその一因だが、不用意な返事をすれば、氏族に災いをもたらす可能性があった。いかにラーカンツの外を目指すガノンとて、それを行うのは心外だった。


「そんな我々……んー、この場合は不利を被っとるガラナダか。ともかく貴様らにとって、これ以上の良い機会はないものな。我を倒す。ガラナダの強さを見せる。必然として格は上がり、我らペルーザとのやり取りにも変化が生ずる。他氏族が牽制を掛けてくるようになる。ここまで持ち込めれば最高だな。そして貴様は、間違いなくそのための戦士だ。まだ年若いようだが、我にはわかるぞ。そんなガラナダの連中が、並の勇士で済ませるはずがない。熟慮をもって選んだ、最上の戦士をぶつけてくるはずだ。なあ、ガラナダのガノンよ。貴様は、そういうことだろう?」


 瞬間、ガノンは見た。アマリンガの口角が吊り上がり、戦士めいた鋭いまなこに、力強い光が宿る。見定められていると、直感が走る。故にガノンは、己に強いて言葉を張った。


「いかにも。おれはすでにガラナダの氏族戦士を何人も打ち倒してきた。一人でもって、獣も幾度か狩って来た。長老からは戦神の申し子と言われたこともある。なにより、前任の奉納戦士、ミムアからの試練も乗り越えた。おれが、ガラナダの代表戦士だ。【天を衝くアマリンガ】を打ち倒す、ガラナダの最強戦士だ」


 この地に至るまでの記憶が蘇り、ガノンの口ぶりに力を与える。ガノン自身も驚くほどに、言葉は腹から流暢に飛び出した。常ならば口よりも実践で見せる傾向のあるガノン。だが、此度ばかりは不思議と舌が回った。確信をもって、言葉を放つことができた。これもまた、戦神の思し召しなのか。ガノン自身でも、驚くほどの言い回しだった。


「……ッ。アッハッハッハッハ!」


 はたして返って来たのは、豪快にして大仰な笑い声だった。ここまで見せてきた態度に違わぬ、天を衝くほどの笑い声だった。アマリンガは涙さえ浮かべて、ガノンの言葉をひとしきり笑った。


「それよ。やはり貴様は我の思った通りの男のようだ。構わん。存分にやり合おう。仮に死んでも文句なしだ。聖地において殺人はご法度らしいが、戦いとは従来そういうものだ。故に我らはやり合う。なに一つ、おもねることなくだ。演じるのはやめだ。り合おう」

「……」


 ガノンはうなずいた。二人の間は、もはやそれで良かった。ほんのわずかな邂逅にもかかわらず、ガノンは彼に通じるものを感じていた。このような場での出会いでなくば、明日棒を交える相手でなくば、肝胆相照らす同志となり得ていたかもしれない。そう思うほどにだ。


「そしてガノンよ。仮に我を倒しても、氏族の思惑に飲まれちゃならんぞ」

「む?」


 それほどにまでガノンをほだした男が、さらなる口を開く。ガノンは思わず、疑問をあらわにした。この流れから、一体いかなる言葉が飛び出すのか。ガノンは息を呑み、アマリンガに目を合わせた。戦士二人の視線が、聖地の夜に交錯する。


「我はその匙加減を間違えた。勝ち過ぎたが故に、氏族の手先に成り下がってしまった。氏族は確かに繁栄したが、我は自由を失った。敬意は勝ち得ても、なに一つ面白くない。気ままに狩りに赴くことさえも罷りならんと来た。いまの我は、ただの氏族繁栄の道具に過ぎぬ。これは戦士の本懐ではない」


 アマリンガの口ぶりがにわかに変わる。どこか諦めの混じった、愚痴めいた言葉の羅列だった。彼らしくないと、ガノンは思った。だが、彼の目が嘘をついてはいなかった。彼の目にあった光が、陰っている。ガノンは痛感した。戦士アマリンガは。己をして心酔しかねないほどに敬意を払うべき戦士は。心底現状にんでいる。だが、これについては。すでにガノンは対策を考えていた。練りに練っていた。戦神への崇敬の次に、そのことだけを考えていた。


「心配り、感謝する。されど」


 ガノンはそれを、口にする。姉貴分であるベラや、一部の成人戦士にしか漏らしていない彼の真意。すなわち、『ラーカンツの外へ出る』という意志を。『明日の奉納勝負で勝利し、その褒賞でもって外へ出る権利を勝ち得る』という展望を。ガノンはとつとつとアマリンガに打ち明けた。そして。


「くっくっく……アッハッハッハッハ!」


 アマリンガは、またしても呵々大笑した。寝ている者を起こしかねないほどの、凄まじい大笑いだった。それでもガノンは耳を塞がず、アマリンガに目を合わせ続けた。この計画こそがガノンのすべてであり、外への意志こそがガノンの原動力である。笑われることも、否定されることも、ガノンにとっては通過点でしかない。それほどまでの、大望だからだ。されど。されど、アマリンガは。


「いい夢だ」


 ひとしきり笑った後、彼はガノンに正対した。戦士めいた鋭いまなこに、光が戻っている。ガノンは、息が詰まりそうな錯覚を覚えた。相手が百戦錬磨の最強格であることを意識し直し、腹に力を入れる。立ち向かう気概が、戻って来た。


「ああ、いい夢だ」


 アマリンガが、再度口を開く。その口角が、わかり易いほどに上がっていた。


「だが、道は譲れん。先に決めた通り、我は貴様と殺し合うつもりでやる。演ずるなどという、浅い意識はもはやない。それでもなお、ラーカンツの外に出たいのであれば――」


 アマリンガが、立ち上がる。夜に慣れた、今の目ならば。もはやはっきりと分かるだろう。その浅黒にも近い赤銅の肌には、無数の傷痕が刻み付けられている。三度の奉納勝負と、それまでに行われたであろう幾度もの戦歴。その深さを、物語っていた。


「我の。我の全力を超えてみよ。その先にのみ、貴様の未来は存在する」


 アマリンガが、天を衝くほどの身体を揺らして去っていく。その足取りに、揺らぎはない。先人としての、確固たる足跡がそこにある。ガノンはその背中が、夜闇に同化するまで目を離さなかった。


 ***


 翌朝! 聖地は天を圧するほどの大音声に包まれていた! 天幕と群衆に囲まれた草原の只中に、結界めいて誰一人入らぬすり鉢状の穴が存在する。しかしその穴は、よくよく見れば人工物だった。さして深くない――成人戦士三人分の背丈くらいか――底には、成人戦士三十人が、両手を広げてなお余りあるほどの広さの平地があった。無論、そこに至るまでの道も設置されている。これこそが、幾星霜にも渡ってテ・カガンの氏族が整備を続ける、戦神奉納勝負の場であった。


「ペルーザ、ガラナダの両氏族使節団、出ませい!」


 刻限が訪れたのか、すり鉢の北端に立つ男が法螺型の拡声器に向かって声を張り上げた。同時に大音声――ドラや鐘などによる囃子が静まる。ややあって、戦場の東西両極、やや離れた場所に、氏族の旗を掲げた者どもが立った。互いに五十人ほど。さもありなん。使節の人数は、ラーカンツの掟により厳重に定められている。上位氏族といえども、これは破れない。


「ペルーザ氏族より選ばれし戦士アマリンガ、前へ!」

「応!」


 戦場の東端に、天を衝くほどの男が躍り出る。途端、ペルーザ氏族の者どもが鐘を打ち鳴らした。これは戦士を称える歓声であり、ガラナダ勢に対する威圧でもある。こうして囃子を打ち鳴らすことで、相手の戦意を削ごうというのだ。しかしながら。


「ガラナダ氏族より選ばれし戦士ガノン、前へ!」

「応ッ!」


 ガノンはその程度では揺らがない。戦場の西端に、ずん、と身体を送り出す。その出で立ちは、今日も変わらない。赤銅色の肌を聖地の風に預け、黄金色の瞳を不機嫌にけぶらせていた。蛇のようにうねる赤髪こそまとめられているものの、その体躯に、その覇気に、翳りは一切ない。今日も今日とて、ガノンはガノンだった。氏族が打ち鳴らす鐘を背に、彼は戦場への一歩を踏んだ。


「オオオオオッッッ!!!」


 途端、それまで静まっていた観衆からの、大音声が響き渡った。ドラや鐘、蛮声がかき鳴らされ、戦士たちの意気を高めていく。それを聞いて、ガノンは軽く震えた。怯えではない。高揚を伴った震えだった。これが、『戦士の身震い』という奴か。教官からの教えを思い出し、ガノンは人知れず口角を上げた。


「下りませい!」


 北端から、また声。拡声器から放たれるそれは、戦場を彩る音色に負けじとよく響く。ガノンは指示に従い、下り道へと足を掛けた。これより先には、誰の助けもない。どちらかが戦意を喪失するまで、ただただ殴り合うのみだ。


「たとえ敬意があろうとも、棒を向け合うのであれば敵。最大限を尽くさぬは礼を失する。戦神にもとる。許されざる行いだ」


 ガノンは己に気概を込める。決して長くはないはずの下り道が、無限にも似て遠く感じた。しかしガノンは戦士である。氏族の代表として、大祭に送り出された存在である。己に怯懦が浮かんでいると感じた彼は、それを振り払うかのように。


「おおおっ!」


 走り出す。駆け下りる。他の代表戦士たちに、どう思われようと関係ない。これが、己の決断だった。戦意を示す方法だった。


「若いな。我にはとても真似できん」


 はたして、アマリンガの答えは『否』だった。悠々と、悠然と降り来たった最強格の戦士は、ただただガノンを『不足』とみなした。だがガノンは、これにも表情を動かさなかった。己に強いて、言葉を返す。


「おれは若い。まだ未熟だ。だが、戦士の気概だけは持っている。そのつもりだ」

「うむ。良い気構えだ。来い」


 アマリンガが、棒を構えた。この時の二人の距離、おおよそ二十歩ほど。言葉を交わせる距離であり、棒をもってすれば、数歩詰めるだけで殴り合える距離だった。


「言われずとも!」


 勢いのままに、ガノンが動く。それでもいきなり大技には走らない。アマリンガの棒を軽く弾き、右肩を目掛けて切り込んでいく。棒先から遠くを狙った、当てるための一撃。しかし。


「見えておる!」


 アマリンガの動きは、滑らかだった。踏み固められた土の上を、滑るように下がっていく。直後、中段に構えられていた棒が振り上げられ――


「落雷一閃。受けてみよ」


 瞬時の内に振り下ろされる。瞬間、ガノンは教官の言葉を思い出す。確かに雷霆の如き一撃。されど!


「ッ!」


 ガノンは余裕を持って跳び下がる。彼は確信した。避けるのであれば、この一撃は苦にならない! だが。だがしかし!


「避けるか。まあ避けるだけならば、過去三度の奉納戦士でも成し遂げておる」


 カラリと笑うアマリンガ。その笑みが、ガノンの背筋に汗を走らせる。そう。彼には意味がわかってしまった。アマリンガの余裕。その意図は――


「ゆくぞ!」


 今度はアマリンガからの踏み込み。棒を振り上げ、振り下ろす。ガノンは右に跳ぶ。かわせた。しかし直後。さしたる遅れもなく、横薙ぎがガノンへと襲い来たった。なんたる速さ。なんたる柔軟性。


「っぎ……!」


 しかしガノンは、すんでの所でこれをもかわす。身体を後ろに反らした、真にギリギリでの回避だった。息を吐きつつ身体を戻し、再度前への踏み込みを図る。だが!


「いつ終わったと言った?」


 その言葉に、ガノンは上を見る。見てしまう。その先には、アマリンガの左腕。そして棒。すでに上段の構えが取られている。これは!


「ぬぅん!」


 片腕にもかかわらず、振り下ろしの速度はほぼ変わらない。ガノンは無理矢理、左へと転がった。棒を受けた土が弾け、ガノンの身体を叩く。それでも膝をついて立ち上がり、前を見んとする。この連続攻撃を、破らぬ限りは――


「遅いっ!」


 しかしアマリンガは、わずかな思考さえも許さない。次に襲い来たったのは、右手も添えた諸手突きだった。その矛先は鳩尾みぞおち。ここを穿たれれば、いかなガノンといえども。


「っく!」


 ガノンは屈む。そのまま踏み込みを図る。懐に飛び込まなければ、この連続攻撃は止められない。危険は伴うが、背に腹は代えられなかった。


「おおおっ!」


 そしてガノンは、アマリンガに組み付かんとした。棒を片手に、その腹を捕らえる。押し込む。わずかでも敵手に、防戦を意識させる。そのための一撃を試みて――


「いい突撃だ」


 通じなかった。否。正確には数歩は押し込めた。だが、それ以上ではなかった。倒すことも、動揺させることも叶わなかった。結果として残るは、アマリンガ必殺の間合いに、無策で踏み込んでしまった事実であり――


「そおらっ!」

「ぐがあっ!?」


 それはそのまま、必殺の一撃を受ける現実に繋がる。棒の柄による一撃が、ガノンの、がら空きにしていた背中へと突き刺さった!


 ***


「おおおっ!?」

「ガノン!?」

「耐えろ!」


 開戦からまだしばしも経たぬ内に痛打が入った事実。それはガラナダ氏族の者どもを大いに動揺させ。


「決まったか!」

「勝ったぞ!」

「鐘を鳴らせ!」

「いや、まだだ!」


 ペルーザ氏族の者どもに勝利を確信させた。しかし。だが、しかし!


「ぐうううっ!」


 すり鉢の底から、野太い声が響く。獣が唸るが如き、蛮声が聞こえる。ペルーザの者どもは気付く。これは氏族の誇る最強戦士、アマリンガのものではない。ガラナダの者どもは気付く。これは戦神の申し子との呼び声も高い若き戦士、ガノンのものである。すなわち、ガノンはまだ!


「~~~ッッッ!!!」


 直後、両氏族の者どもは見た。アマリンガの一撃を受けた男が、全力で間合いを取る姿を。アマリンガが、それを悠然と許す姿を。ペルーザはそれを最強戦士の鷹揚と受け取り、ガラナダはそれを、仕切り直しの一手と踏んだ。


「ッッッ!!!」


 はたして戦場からは、ガラナダの予測を認める声が響いた。ガノンが声を上げ、アマリンガに突貫していったのだ。されど。ああ、されど。


「オオオッッッ!!!」

「……」


 見よ。ガノンの嵐が如き連撃は、アマリンガという大木を薙ぎ倒すまでには至らない。いとも荒々しき連撃が四方八方から襲い掛かっている。にもかかわらず、アマリンガはそのすべてを受け切っていた。かわすのではない。受け流すのでもない。ガノンの連続攻撃、そのすべてを見切り、棒で合わせていたのだ。なんたる技量差。なんたる余裕ぶり。これでは、大人と幼子の。


「若き戦士よ。棒を置け。我は貴様の命までは取りたくはない」


 連撃のさなか、アマリンガはガノンに声を与える。前夜に抱いていた期待は、すでに消え失せていた。目の前で暴れる若き男も、少しやるだけの戦士にしか過ぎなかった。ややもすれば、次か、その次の大祭の頃には、己を超え得る男だったのかもしれない。だがガラナダは、そんな人間を無駄に消費してしまった。むしろそんな事実が、悲しかった。怒りさえも覚えた。この場ですべてを晴らそうとするあまりに、若き人材を浪費する。感情には同意できても、理屈としては許し難いものであった。


「断る」

「なぜだ」


 激しい連撃をして、なお息を切らさぬガノンが、真っ直ぐに己へと反駁してきた。故に、彼は問う。その心根は、いかにと。すると。


「怯懦を、戦神は許さぬ。戦神は、戦いの神。心意気をもって戦い、千軍万馬を前にしてなお恐れぬ者にこそ神威をもたらす。戦神は厳しき神。己の五体を風に晒し、その肉体と武器をもって敵に挑む者こそを尊ぶ。故に、おれは退かない」

「戦神は、無謀を称賛する神ではないぞ」


 晒された心根に、アマリンガはなおも問う。ガノンの言葉は、通り一遍の崇敬である。ラーカンツの戦士たる者が欠かさぬ、基礎基本たる戦神への祈りである。さりとて戦神は、優しき神でもあった。無謀無策をもって強敵に挑むを良しとはせず、時には意を決し、正しく退くこともまた認めていた。無論、怯懦の果てに統率を失い、愚かしく退くことは許さぬのだが。アマリンガはその点を引き、ガノンに問うていた。


「その通りだ」


 はたしてガノンは、その事実を認めた。アマリンガは、口角を上げた。ガノンが狂戦士に堕していなかった事実に、胸を撫で下ろした。しかしガノンは、その上で。


「されど手を尽くさずして諦めるは、怯懦にあたる。そうなればおれは戦神に詫び、己を裁かねばならない。だからこそ」


 幾度となく繰り出されて来たガノンの棒が、アマリンガの正中、その直下を襲う。だがその狙いは、アマリンガにはあまりにも明らかだった。


「急所も狙う。手を尽くす。見事。どうやら我は、貴様を見くびっていたようだ」


 その一撃を止めて、アマリンガは間合いを取る。棒を高々と構える。戦神への聖句を、小さく唱える。


「どうやら我は、やはり貴様を殺すつもりで挑まねばならぬらしい」


 直後、光芒の如き一閃がガノンへと向いた。瞬く間に間合いが詰まり、【天を衝く】という二つ名に相応しき高所から棒が下り来たった。落雷? 否、天より神々の思し召しによって降り来るとされる隕石が如し。それはガノンの棒を叩き折り、頭部へと明確にめり込んでいく。ガノンが繋いでいた意識を、勝利への希望を。一撃にして粉砕していく。


「……」

「……」


 もはや、両氏族に声はなかった。ガラナダの者どもは、ガノンを救う準備を始めんとしていた。仮にこのまま彼が戦ったとしても、もはや勝ち目はない。氏族としては恥となるが、未来の最強戦士を喪うよりは。


 だが。ああ、だが。されど。


 それは、ゆらりと始まった。


「…………」


 倒れるだけだったはずのガノンの身体が、ゆらりと揺れた。


「なんだ? まだやるか? 見事ではあるが……」


 アマリンガは、称賛しつつも目を疑った。この状況にまで追い込んだ戦士が意識を保った事例など、彼の戦歴には存在していなかった。確実に、意識を叩き折った。そのはずだった。生死を彷徨うことにはなるが、それ自体はガノンがあまりにも粘り腰だったことによるものである。仮に死すれば『殺人』として裁きを受けることになるが、彼にとってはどうでもよかった。すでに、最強たるという崇敬には飽いている。どうなったとしても、それはそれで構わなかった。


「……」


 ガノンは、だらりとしていた。折れた棒を両の手に持ち、ふら、ふらとアマリンガへと間合いを詰めていた。その姿に、アマリンガは棒を上段に構えた。真に叩き折らねばならぬと、覚悟を決める。戦神崇敬に篤き、若き戦士を葬る。そう思うと、こみ上げるものがあった。


「……。……」


 だらりとしたガノンが、なにかを呟いていた。アマリンガは、思わず耳をそばだてた。この世を去るにあたっての、遺言か? そう思い、耳を傾けた。しかし。


「いと厳しき神よ……。我は征く……」

「――!」


 アマリンガは、絶句した。直ちに左足を引き、攻撃態勢に入った。ガノンが呟いていたのは、戦神への聖句の一説。目の前の男は、戦神への崇敬のみで戦意を繋いでいる。そこに、彼は畏怖を感じた。折らねばならぬと、構えてしまった。ああ、されど。


「我、五体をもって、戦場いくさばに……」


 戦闘態勢は、遅きに失した。すでに力を失っていたはずのガノンの身体が、にわかに光る。生気を失いかけていたはずの瞳にも、光が満ちる。だらりと下がっていたはずの両腕が、二本になってしまった棒を構えている。


「これは!」


 アマリンガは、ラーカンツ最強の一角、【天を衝くアマリンガ】は気付いてしまう。ガノンに、戦神の加護が降り来たったと。彼は、ガノンよりも深く知っている。戦神は、厳しき神であると。戦神は、己を磨き続ける者にしか応えぬ神であると。ここで、神が応えたということは――


「【使徒】、か!」


 彼は悟った。ガノンは、ラーカンツの歴史でも数少ない【戦神の使徒】に至ってしまったと。だがそれでも、彼は己に強いて棒を振り下ろした!


 ***


 天を衝く男からの落雷が、ほのかに輝く男を襲う。それは常であれば、生命を奪う一撃となり得るはずだった。先に行われた三十人の戦士によるガノンへの襲撃。その内のどれよりも威力のある振り下ろしだった。しかし。


「やはり」


 アマリンガは、いとも冷静に受け止めた。彼の一撃は、ほのかな輝きによっていとも容易くかわされてしまった。その速度たるや、これまでのガノンとは比にならなかった。ただでさえ相応に疾かった動きが、さらに鋭さを増していた。これは。ああ、これは。


「それでも!」


 アマリンガは間合いを詰め、さらに棒を振るった。二撃、三撃、四撃。だが当たらぬ。ほのかに輝くガノンに、するりするりとかわされていく。これでは先刻の意趣返しだ。ガノンの攻撃を見切って受け止めていた己が、今度はガノンによって弄ばれている。そう考えざるを、得なかった。


「戦神は……踏み込む者に愛を与える」


 戦神への聖句が、耳を叩く。同時に、二つ棒からの連続攻撃が始まった。右左右。もう一度右。先ほどとは比べ物にならぬ嵐が、たちまちにアマリンガを打ち据えていく。棒の短さ故に、軽さ故に。一撃一撃の重みは軽い。だが間隙がない。絶え間がない。攻めに転じられぬまま、アマリンガは叩き伏せられていく。すり鉢の隅へと、追いやられていく。


「なんたること」


 すり鉢の上、ペルーザの者どもは嘆く。さもありなん。ほんの少し前まで勝利を確実にしていたはずが、今や一方的に打ち据えられているのだ。彼らとて、一端の戦士たちである。すり鉢の底でなにが起きたか、理解していた。されど、信じ難きことではあった。


「まさかこの場で、戦神の使徒が顕現されるなど」

「あり得ぬ」

「見目からすれば、成人してまだわずかであろうに」

「いかなる修練を、戦神に捧げたのだ」


 彼らは口々に現状を嘆く。すり鉢の対岸では、ガラナダの者どもが歓声を上げていた。戦神を称える唱和さえも響いている。あまりにも信じ難い光景。すべてが一変し、あり得なかったはずの事実が差し迫っていた。彼らはすでに、アマリンガを切り捨てる必要に迫られていた。【天を衝くアマリンガ】なくしては、上位氏族の地位を維持できるかも怪しい。だがそれでも。彼らには氏族の地位を護る使命があった。


「っぐ、がああっ! ぐうっ!」


 アマリンガは、なおも打ち据えられていた。身体の各所に傷が走り、戦意喪失の声を上げたい衝動に駆られていた。しかし彼は知っていた。ガノンは、意識を失っている。戦神への崇敬が戦意を繋ぎ、その恩恵が肉体を動かしている。つまり、戦意喪失の声さえも。


「くっ……」


 アマリンガは、必死で思考を繋ぐ。いかにして、ガノンを止めるか。もはや負けを認めることもやぶさかではない。否。戦神の加護がガノンにもたらされた時点で、ほとんど勝負は決していた。神の加護を受けた戦士に抗うには、同じく神の加護を受けるか、紋章紋様、文言による手助けを受けねばならない。

 そしてラーカンツの戦士は、戦神以外からの恩恵を受けること、己が身を重装備に固めることを禁じられている。戦神にもとる行為として、厳しく戒められている。つまるところ、アマリンガは。そして。


「もはや勝負を止める他ないだろう。裁定役はなにをしている」

「戦神の加護を受けた戦士が、その神威をあらたかにして戦っているのだ。安易に止めに行けば、己が死する恐れがある。責められぬよ」

「……」


 すり鉢戦場の南端、テ・カガンが座す一際豪奢な天幕でも、状況に対する疑義が行われていた。取り巻きたちが勝負の行方を案ずる中、若き男が、一人座したまま戦場を見つめている。その装いは華美であり、豪壮であった。しかしながら、その目には輝くものがなかった。活力というものが、見受けられなかった。されどその目は、しっかりと戦場を見ていた。否。ガノンを見ていた。戦神の神威をその身に宿した、この場にて新たに生まれた戦神の使徒。ラーカンツが皆尊ぶべきである戦士を、ただただじいっと見つめていた。


「……っ!」


 その視線を知らずして、アマリンガは決断した。すり鉢の壁を蹴り、強引にガノンへと突っ込んだ。あまりにも唐突な突進に、ガノンの身体が僅かにだがたたらを踏む。その隙に、彼は距離を取った。そして叫ぶ。今こそ、昨夜の約定を果たす時。仮に死んでも文句なし。そう定めた。ならば。


「良かろう! 戦神の使徒よ、若き戦士よ! 【天を衝くアマリンガ】、喜んでこの命を差し出そうではないか! この我を見事に、棒の贄へと変えて見せい!」


 両の腕を広げ、無防備の構え。本当は棒も捨てたいところではあるが、それを行えば戦闘放棄となり、ガノンを止めることは叶わなくなる。もはや生命をもってでしか、今のガノンは止められない。アマリンガは、そうみなしていた。


「……」


 ガノンは、二刀の構えを取ったままアマリンガを見ていた。その目には相変わらず生気がない。ほのかな輝きのみが、そこにある。ややあってからガノンは、地を蹴った。真っ直ぐに、一息に。ほのかな輝きがアマリンガへと迫る。彼はその姿を見据えたまま、覚悟を決めて――


「しょ、しょ、勝負あり! 戦士アマリンガの発言を戦闘放棄とみなし、戦士ガノンの勝利を宣告する! 総員、戦士ガノンを戦場の外へ!」


 直前。上から飛び込んで来た裁定役が、意を決して決着を告げる。続けて幾人ものテ・カガン氏族の戦士が、戦場へと駆け下りて来た。彼らは総じてガノンを囲みにかかり、ほのかに輝く使徒を相手に、その勇気を振り絞っていた。


 ***


 数刻後。


「……おれは」


 ガノンの肉体は、天幕の中にあった。それも、広々としたものであった。ただし調度品は少なく、他に寝かされた者もいた。そのうちの一人を、ガノンは見る。無論、面識は皆無。されど直感する。この男もまた、己と同じ代表戦士であると。


「目を覚ましたか」


 不意に、顔の反対側から掛かる声があった。ガノンは、そちらに背を向ける。包帯だらけの、天を衝くほどの身体がそこにいた。


「死に損なったわ」


 身体の持ち主が、カラカラと笑った。そこに後悔という名の陰りは見えない。口ぶりは文句のように聞こえるが、そこに湿り気は皆無だった。


「おれは、負けたのでは」


 ガノンは問う。彼が遡った記憶は、アマリンガからの一撃を受けた時点で途切れていた。棒をへし折られ、脳天へと喰らわされたあの一撃。氏族のどの若輩戦士のそれよりも、重かった一撃。その時点で敗れたのだと、彼は思っていた。しかし。


「いんや。貴様は勝った。幾重もの修練が、貴様の身体を動かしたのだろう。気付けば追い込まれ、敗れていた。危うく死ぬところであったわ」

「……」


 アマリンガのカラリとした返事を、ガノンは訝しんだ。いかに己が修練を重ねて来たとて。幾度も棒を振るって来たとて。修練だけで肉体を動かせるほどの境地には遠い。なにかが起きたのだと、意識を巡らせる。すると。


「……そういえば、おれの聖句に」


 応えるものがあった。漲るものがあった。ガノンはそれを、思い出した。ならば、それは。


「忘れておけい」


 戦神の加護と発しかけた所で、低い声が響いた。アマリンガのものだった。見上げれば男は、厳しい顔をガノンに差し向けていた。


「我らの歴史において、戦神の加護を受けられた者はあまりに少ない。しかも加護に頼り切るのであれば、戦神は容易く我らを見捨てるであろう。故に忘れろ。戦神を敬い、日々鍛錬を欠かすな。加護は蜜。甘い蜜よ」

「……」


 ガノンは、アマリンガを見上げ続けた。天を衝く男の発言は、正鵠を射ている。戦神とは、そういう神である。ラーカンツの民として、彼らはそういう教育を受けていた。戦闘と修練、それに通ずる礼、そして正々堂々たるを尊ぶ民であるからこそ、戦神に縋り続けることを良しとはしなかった。あくまで自身の修練こそが基礎であり、戦神による加護は付随物オマケである。その意識こそが、ラーカンツの民をラーカンツの民とせしめてきたのだ。


「肝に銘じる、ことにする」


 わずかな沈黙の後、ガノンは静かにうなずいた。たしかに己が祈れば、神は微笑むのかもしれぬ。されどそれは、確信的なものではない。そのことを深く刻んで、ガノンは生きることにした。


「さあ、祭りが済めばテ・カガン様へのお目通りだ。特に貴様は、この地を出るつもりなのだろう? はらから行かねば、握り潰されるぞ。心しろ」

「うっぐ!?」


 表情を戻したアマリンガが、ガノンの背中を一叩きする。するとガノンは、苦悶に表情を歪めた。さもありなん。アマリンガの容赦なき一撃は脳天だけでなく、背中をも穿っていたのだから。その姿にアマリンガは、すかさず謝意を示す。戦いを終えた両戦士の、気安い姿がそこにはあった。


 ***


 草原に冬枯れが訪れ、冷たい風が吹き付けるその日。ガノンは氏族の者どもの見送りを受けていた。

 大祭の折には伸ばしていた髭を剃り落とし、火吹き山の如くうねる赤髪は首の下辺りで切り揃えられていた。これから始まる長い旅を思えば、身支度としては妥当なものである。ラーカンツ戦士の掟に則って上半身は寒風さえも構わずに晒し、下半身には下穿きと靴のみ。いずれも豪壮なものではなく、少々履き潰しても丈夫な程度のものだった。

 盾じみた五角形の顔も、大ぶりなその構成物にも、変わりはない。少し変わったとすれば、大祭の折よりも、さらに肉体がおおきくなったことであろうか。その事実こそが、ガノンがいまだ年若く、成長期にあることを示すに足るものだった。


「うぬの旅立ちはすべて、テ・カガン陛下による格別のご配慮である。そのことを心し、常に励め」

「わかっている」


 居並ぶ氏族の者ども。その先頭に立つ長老から、彼は戒めの言葉を受け取っていた。それは、非常に重たい言葉である。しかし彼は言葉短く応え、うなずくに止める。さもありなん。彼自身こそが、そのことを重々に理解していたのだから。


「……」


 ガノンの目をまっすぐに見た長老は、されどすぐに首を振った。呆れか、諦めか。あるいは別の感情か。読み取れるものは少ない。そして次の瞬間には、近くの者を呼び寄せる。その手には、剣が握られていた。装飾はなく、造りも荒い。長さもそこそこ。手頃という言葉が、相応しい剣だった。背に括り付けるための、装備も準備されていた。


「うぬの成人を認め、棒に代わって剣を授ける。……これで、良いのかの?」

「構わん。豪壮な剣など、旅路には向かぬ。棒と変わらぬ程度が良い」


 長老が剣を受け取り、ガノンへと授ける。ガノンはそいつを、無造作に背中へと括った。氏族の者の一部が、眉をひそめたような表情をする。しかしガノンには、一切合切が関係なかった。


「行くが良い、ガノン。うぬの旅路に、戦神のご加護があらんことを」

「ああ、おれは行く。戦神にもとるような旅路は、絶対にしない」


 長老の祈りを背に、ガノンは牛へとまたがった。氏族一等の牛には、最低限の荷物と食料が括り付けられている。無限の旅路を征くであろうガノンへの、最低限の餞別だった。


「さらば、ガラナダ。そしてラーカンツよ。いつかは帰るだろうが、それは今ではない。また会おう」


 牛の上から、ガノンは右の手を掲げた。氏族の者へと贈る、最後の礼だった。もしかしたら、最期になるやもしれぬ。今生の別れになるやもしれぬ。わかってはいたが、ガノンは決して口にしなかった。彼は己を知っている。己を過信はしないが、それでも不慮の死を遂げるような振る舞いだけは。そう心に、決めていた。故に、不吉は口にしなかった。

 牛は、ゆっくりと草原を進む。それでも一刻もすれば、ガラナダの人々は見えなくなっていた。牛の背に揺られて、ガノンは人々を想う。両親を。姉貴分を。長老を。ミムアを。アマリンガを。相見えたテ・カガンを。だが次には首を横に振り、それらの想起をかき消した。彼が目指すのは草原の向こう。荒野に立つ強者と、広い世界のみだった。


 こうして強大なるガノンガノン・ザ・ギガンテスは長い旅路へと踏み出した。彼が再び故郷へと足を踏み入れるのは、十二年もの後のことになる。その時男は、すべてを失い、失意に打ちひしがれていた。無論、この時の彼には想像もし得ぬことであった。


 ガノン・ジ・オリジン(ピース・ワン)・完

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