時を経てなお

 強大なるガノン。南方蛮人の生まれでありながら戦神せんじんの寵愛を受け、戦士として、指揮官として、そして王として名を馳せた男。

 彼の築いた王国はほぼ一代のみの国でありながら壮健を誇り、黒河から白江に至るまでのあらゆる民を尽く、その威光によってひれ伏させた。

 しかしながら彼の道は、決して平坦なものではなかった。幾多の挫折、敗北。出会いと別れ。そういったものが、彼の人生を彩り、更なる魅力を与えている。

 これは【赤髪の牙犬】、【大傭兵】と呼ばれていたガノンが一敗地に塗れ、再び漂泊の旅路へと戻った頃の物語である。


***


 ログダン王国大武闘会――おおよそ四年に一度開かれる、腕利きの猛者たちが集う、大いなる華舞台。首都たる王都の中央部に建つ、煉瓦造り壮健なる円形闘技場コロッセオにて、国内有力者――八大公爵家の推薦を受けた、八人の戦士が、勝ち抜き戦にて覇を競うのだ。

 無論、ただただ戦士たちが武を争うだけではない。国王や軍部の目に適えば推挙――立身出世の足掛かりだ――も得られる。それどころか、歴代覇者の中には稀なる武勇を称えて姫を与えられ、王族となった者さえもいる。おおよそ大陸各国を見てみても、ここまでの栄誉が与えられる国はそう多くはない。男女の区別なく軍属を許し、武闘派国家でありながら攻めよりも防御を重視する、ログダンならではの仕組みであった。


「それでは、一の戦を始める。東門! ニザキア公爵家お眼鏡、セヌキス! 出ませい!」

「おおうっ!」


 歓声が闘技場に満ちる中、ドラの音とともに一人の闘士が東方の門より躍り出る。流麗なる長髪を持った戦士は長剣を縦横に振り、己の腕前を披露した。必然観客は湧き上がり、足を踏み鳴らす。戦場いくさばの空気は、最高潮と化していた。

 だがそれも、次なるドラが打ち鳴らされるとピタリと静まる。そう。この場は闘技場。戦いとは、二人の闘士がいてこそ成り立つもの。今一人の入場を、客は待ち構えているのだ。


「西門! パクスター公爵家お眼鏡、ガナン! 出ませい!」

「……」


 しかしながら、出て来たる男に観客が沸き立つことはなかった。ガナンと呼ばれた男は無言のまま、技を誇ることもなく中央へと歩み出たのだ。雑に括られた、火噴き山を思わせる赤の長髪。良く陽に焼かれた、容貌魁偉にして半裸の肉体。そして黄金色にけぶる大きな瞳。そう。ガナンはどこからどう見ても、南方蛮人の特徴を備えていたのだ。


「蛮族だ!」

「蛮人を我が国の衛士にしようなぞ、パクスターのお家は狂ったか」

「蛮族、倒されるべし!」


 観客席のそこかしこから、蛮族を罵る声が響く。やがてそれはガナンへの絶大なる憎悪の声へと変わる。そして。


「殺せー!」

「死ね、蛮族!」

「パクスター家に誅伐を! 我らが王国に栄えあれ!」


 おお、なんたること。礼法が重んじられるはずの円形武闘場に、聞くにも耐えぬ罵声が轟く。しかしながら、その中心に立つガナンなる蛮族に動揺の色はない。背に括っていた手頃な剣を手に、敵なる男と睨み合うのみ。そして。


「ローレンどの。なにを思って蛮人を推したかは存じませぬが、仮に弱者ともなればお家にも傷が付きまするぞ」

「存じております」


 パクスター公爵家女当主、ローレン・パクスターも、貴賓席にてニザキア公による嫌味混じりの言葉を受け流していた。その顔に、一切の陰りや揺らぎはない。栗色の髪をまとめ上げ、絢爛たる装いに身を包みながら、ざわめく周囲を尻目に闘技場を睨んでいる。かつて王女の近衛部隊、その戦士長として鍛え上げた報国の心根は、八大公爵家の一角となった今も揺らいではいない。一体全体、いかなる理由をもって蛮人を推したのか。それを語るには、今暫くの時が必要となる。


「……まあ、良いとしましょう。貴君の暴挙のおかげで、我が推薦闘士の株が大いに上がっておりますからな。かくなる上は、盛大に葬り去って華を添えましょうぞ」


 厭味ったらしくローレンをねめ回すニザキア公。そして、彼の言葉を証明するかのように、闘技場はガナンへの怨嗟で満ち満ちていた。裏。すなわち非公式、不正に行われている勝敗賭博は、セヌキスへの賭けのみが殺到して不成立に終わった。会場すべての空気が、ローレンとガナンを敵視している。しかし公爵も蛮人も、その程度の罵声で揺らぐほどの人間ではなかった。それだけの覚悟を持って、この闘技場に列を連ねたのだ。


「くくっ。背を向けるのなら、今の内だぞ」


 おお。戦場では長髪の闘士が、蛮人を見上げる。そして嘲る。会場の空気を味方に付けた男は、今や居丈高そのものといった姿勢だ。だが、蛮人闘士は意に介さない。瞳にどこか空虚を浮かべ、表情を変えぬままに長髪の男を見下ろしていた。


「背を向ける意味がない。戦神の教えにもとる。そしてなにより。おれには、やらねばならぬことがある」

「やらねばならぬことがある? ならば、なおのこと命を拾った方が良いだろう」

「一理ある。だが、おれには引けぬ理由がある。約定があるのだ」


 虚無をたたえた蛮人は、セヌキスの言葉さえも跳ね除ける。今や客席の空気は高鳴り、皆が足を踏み鳴らしている。これを無視して開戦のドラを長引かせれば、思わぬ方向に飛び火しかねない。


「始めいっっっ!!!」


 だがドラを鳴らす者もまた、歴戦だった。打ち鳴らされる足音を読み、適切なる機会で開戦を告げる術を心得ていた。空気を引き裂く重い音が、足踏みを歓声へと切り替えていく。そしてまた、聞くに耐えない罵声も蘇った。


「ハアッ!」


 先手を打ったのは長剣の男セヌキス。流麗な髪を風に流しつつ、横薙ぎの剣でガナンへと襲い掛かる。しかしガナンは、表情を崩すこと無く後ろへと退いた。そして次の瞬間には、手頃な剣を上段へと振りかざし――


 ガイイインッッッ!!!


 長剣めがけて、凄まじい膂力で振り下ろした。すると、なんたることであろうか。仕込み紋様も刻まれていたはずの長剣が、見るも無惨、真っ二つに叩き折られたのである。その衝撃たるや、いかばかりか。だが蛮人に揺らぎはない。彼は平然と剣を戻すと、そのままセヌキスの喉元へ切っ先を突き付けた。


「背を向けるなら、今の内だぞ」

「……参った!」


 切っ先を突き付けられたセヌキスが諸手を上げ、敗北の宣言を万座に響かせる。必然ながら、観客席には絶大なる動揺が訪れた。


「一体何が起こった!?」

「たった一攻防で!?」

「あんな手頃な剣で、業物を叩き折れるのか?」

「さては仕組み勝負か!」


 多種多様な声が各所より上がり、やがてそれはガナンとセヌキス、両者への侮蔑の声へと変わっていった。セヌキスは顔を伏せて早々に立ち去り、ガナンは平然としたまま勝ち名乗りを受けていた。


「な……な……」


 無論この戦が仕組み勝負――両公爵家で台本を組んだもの――ではないことは、ニザキア公の引きつった顔が証明していた。自身の推した闘士。その無様ぶりに、声を荒げるどころではない。たった一攻防での惨敗に、彼の足は打ち震えていた。


「ニザキア公のお眼鏡、アレはダメだな」

「どうやら見目麗しきに、心を掴まれたご様子ですな」

「お眼鏡が曇ると、ああなるのですなあ」

「その一方で……」


 一方ローレンは、一切の表情を見せずに座り続けていた。ガナンの勝利にも、さも当然と言わんばかりの態度であった。周囲の貴族らが見せる態度の様変わりにも、動じることはなかった。醜態を晒すニザキア公に、追い討ちの言葉をかけるような真似もしない。まさしく、勝者のあるべき態度だった。


「蛮人を連れて来るとは何事かとは思いましたが、蓋を開ければ堂々たる戦ぶり」

「流石は武門の一族と言うべきか」

「しかしながら」

「次なる戦で、真価を問うべきかと」


 貴族たちの声が、ローレンの耳にも響く。しかしながら、彼女の表情には曇りというものが一切ない。なぜなら、彼女は誠の心をもって、この戦に蛮人を推したからだ。無論そこには、いくつかの理由が存在していた。


***


 時は幾日か前に遡る。蛮人の『ガナン』――否、一時は【大傭兵】とも呼ばれていた男、ラーカンツのガノンは、不機嫌を露わにしていた。たしかにとある成し遂げなければならない旅路のさなか、己が行き倒れたのは一生の不覚である。しかしあらましさえも明かされず、どこの、誰の住居かさえもわからぬ邸宅へといつの間にやら運ばれていたことについては、大変な不快を感じていた。


「も、もうすぐ主人が参りますので」

「わかっている」


 そんなガノンが放つ不機嫌の波長を、モロに味わっているのだろう。使用人の一人が、震えた声で頭を下げた。そしてガノンは、鷹揚にうなずく。いかに彼とて、不快さのあまりに暴力を振るうほど野蛮ではない。。しかも今の彼は、とある国家により賞金を懸けられている身の上でもある。妙な行動を示せば調べ上げられ、その国家へと送還される恐れさえあった。そうなれば旅路は不首尾となり、己の首をもって詫びなければならぬ。己が手で討ち果たした戦友とも。その最期の願いを果たすためにも、不用意な行動は慎まなければならなかった。彼は大きく息を吐き、話題を改めた。


「……まさか身ぐるみもそのままとはな。少々驚いたぞ」

「主人の指示でございます」


 ガノンは己の手首を見る。そこには腕輪があり、銀色の識別票ドッグタグが取り付けられていた。これをある場所へと持ち来たることが、今の彼の旅路、その目的だった。そしてガノンは、今やそれ以外の生きる目的を見失っていた。

 さもありなん。暫し前、彼は戦友、右腕、そして手勢。それらすべてを失ってしまった。かつての如き漂泊の身に戻っただけではあるが、そこには逃亡者としての一面もある。追われる身であるという恐怖。喪失の感情。後悔の想い。兵卒どもの怨嗟の声。それらが列を成して渦巻き、今なおガノンを苛んでいた。彼に虚無をもたらし、生にませていた。目的がなければ、彼は己で己を弑していたことだろう。


「主人が参りました」


 部屋に入って来たもう一人の使用人が、嫋やかな仕草で頭を下げる。こちらの使用人にはおおよそ、ガノンに心乱される気配がなかった。熟達者なのだろう。故にガノンは水――無論、腹を下さぬ水は貴重品である――を一口飲み、立ち上がって姿勢を正した。


「遅くなりまして申し訳ない。わたくしが……」


 使用人に続けて、主人が入って来る。女にしては大柄の、武人然とした人物だった。今は平時故に貴族の装いに身を包んでいるが、甲冑に身を固めても、それなりの働きを示しそうな体格をしていた。否。ガノンはその面影に覚えがあった。そう。轡を並べ、共に闇の導師を討ち果たした女。


「……おまえは、まさか。かつての文明人」

「ローレン・パクスター。この屋敷の主人です。パクスター公爵家、当主を務めております」


 名を思い出し切れぬガノンに向けて、女主人が名乗り、頭を下げる。そして顔を上げた時、まさに両者が驚きの顔を見せた。


「……まさか。まさか本当に汝と出会えるとは。敗北と漂流の噂を聞き、手配を重ね、網を巡らせていたとはいえ……。これは、運命神の……」

「思し召し……とでも言いたげだが、おれは先を急ぎたい。用向きはなんだ。なぜおれを囲おうとしている」


 しかし両者の態度は、まさに対照的だった。口調を崩し、奇跡めいた再会を喜ばんとするローレンに対し、ガノンは空虚を黄金色の瞳にたたえたまま、冷たく先を促す。その態度に、ローレンは慌てて我に返った。


「これは失敬。当然ながら、私は目的をもって貴君をこの屋敷へと運んだ次第。しかし……」


 口調を正し、配下――使用人に目配せをする。人払いの合図だ。ついで、部屋のそこかしこが光り始めた。それらは、あらかじめ仕込まれていたのだろうか。風神を称える、紋様の姿を取っていた。おそらくはその加護を応用した、『盗み聞き』を防ぐための仕組みなのだろう。


「……おれは、まだなにも承諾していないぞ」

「存じております。ですが事は秘中の秘。こうしておかねば、いつどこで漏れることか」

「……おまえたちでいう、蛮人とされる男に物を頼むのだ。余程、ということだな」


 こくり。ローレンは小さくうなずいた。そして流れるように、ガノンの向かいの席に腰掛ける。それを待ってから、ガノンも腰掛け直した。少しの沈黙の後、ローレンは決意の顔を見せた。


「……ログダン王国大武闘会を、ご存知か」

「文明人が武器持ちて、戦の真似事に興じる祭りだな。名前だけは聞いたことがある」

「汝に再会できた奇縁に免じて願いたい。汝に、この大武闘会へと出場してもらいたいのだ」

「……なんだと」


 ローレンが机に深々と頭を下げ、ガノンは息を飲んだ。たった今、戦の真似事と嘲った、その大武闘会に出場せよなどとのたまうのだ。真実のっぴきならぬ事情があるのだろう。それ自体は彼でなくとも、一端の者であれば勘付くことはできる。だが。しかし。


「理由と、報酬による」

「報酬はともかく、理由を聞けば後には引けなくなります」

「では報酬を言え。おれは今や漂泊の武人。昔と同じ、ただのガノンだ。事に乗るには、報酬が要る」


 ガノンはあくまで情では動かない。ましてや今は。そのような些事よりも、遥かに優先すべきことがあった。戦友ともの、末期の願いを果たすこと。今のガノンは、そのためのみにこそ生きているのだ。他はおしなべて、不要事である。些事である。


「……汝は、大陸西部某国より賞金を懸けられていると噂に聞いた」

「不覚ではあるが、その通りだ」

「やはり……。ならば話は早い。この私が身命を賭して、近辺数ヶ国の通行証を手に入れる。そして汝に渡す」

「なっ……!?」


 流石のガノンも、この報酬には驚きを隠せなかった。通行証は、ヴァレチモア大陸を行く者にとって命と水の次に貴重とまで言われる必需品。荒野や街道を大手を振って歩くには、欠かせぬ物だった。


「……おれを、囲い込むのではないのか」

「汝を配下に組み込む。それはそれで、胸が踊る話だ。だが汝は、一つ所に留まるような男ではない」

「違いないな」


 ガノンは、自嘲気味に笑った。縁あってのこととはいえ組織を作り、一つの国に属した結果が今のザマである。いまさら同じ轍を踏むほど、彼は愚かではない。むしろ今は、とにかく追手をかわす必要があった。


「故に、通行証を渡す。腕に付いた銀の識別票。私の目が確かならば、それはタラコザ傭兵のもの。故郷へと持ち来る旅路のさなかであろう。なれば、道中の安全を確保するが最善」

「……痛み入る」


 ガノンは、心の底から頭を下げた。己の旅路に敬意を払い、露払いをせんとする者がいる。その事実が、彼を一時とはいえ虚脱からすくい上げた。黄金色にけぶる瞳に、光が戻る。実に、久方ぶりのことであった。


「引き受けよう。それが如何な難事であれ、おれは引き受ける。そして、勤めを果たそう」

「かたじけない。では、お耳を拝借」


 もはやガノンに、引き受けないという選択肢はなかった。報酬に釣られたのは事実だが、ここまでの報酬が差し出されるからには、旧知の人物はさぞかし大きな岐路に立たされているのだろう。その程度の推測もできぬようでは、傭兵団の長は務まらなかった。だからこそ、彼は身を乗り出し、ローレンに耳を貸した。そうでなければ、彼女の誠意には報いられない。しかしながら、そこにもたらされた言葉はあまりにも衝撃だった。


「我らの愛するログダンを、己がほしいままにせんとする公爵家あり。汝には、そのはかりごとを打ち破って頂きたい」

「なっ……!」


 ガノンはこの時、大きく背を仰け反らせた。彼自身ですら、あるまじきと感じるほどの角度であった。己は蛮人である。文明人からしてみれば異邦人であり、賤民である。そんな己に、国家の重大事を託そうなどとは。ガノンでなくとも、正気を疑うような発言だった。


「……いかなる仕儀によるものか。場合によっては」

「さもありなん、ですね。如何なガノンどのでも、我が正気を問うでしょう」


 ガノンが疑問を露わにすると、ローレンは素直にうなずいた。姿勢はいつしか、互いに元の形へと戻っていた。おそらくは彼女自身も、己の決断を認め難いのだろう。蛮人に、国の一大事を預ける。それがいかなる屈辱か。蛮人であるガノンには、推し量ることしかできなかった。


「ですが、私は正気です。ローレン・パクスターは、そなた。ラーカンツのガノンに、我が公爵家お眼鏡としてログダン王国大武闘会に出場していただきたいのです。そして」


 女公爵は立ち上がり、ガノンを真っ直ぐに見た。そして直後。深々と、最敬礼を彼に向けて発した。発してしまった。


「ログダン王国八大公爵家筆頭、アンガラスタ公爵家による王家簒奪の陰謀を、なんとしても打ち砕いていただきたいのです!」


 女性にしては大柄の身体を折り曲げ、腹の底、心の底からの願いを発するローレン・パクスター。その視線はガノンとは交わらず、ひたすらに下を向いている。


「……」


 ガノンは、彼にしては珍しく沈思黙考に入った。先刻の言葉はかき消え、安請け合いを恥じていた。かつて一介の放浪者であった頃の彼ならば、先の言葉通りに動いたのだろう。それでなくとも、可否の決断をすぐさまに下したであろう。だが、今の彼にはそれができなかった。今の彼には枷があり、成すべき使命がある。故に、決断をためらっていた。


「おれは、バグダ王国から賞金を懸けられた身の上だぞ」

「名を変え、少々だけお姿を整えて頂きます。まさか八大公爵家が蛮人、それも賞金首をお眼鏡にするとは思いますまい。その程度の変装でも、おそらくは」


 疑問を発したガノンに、ローレンは朗々と応じる。その堂々たる振る舞いには、ガノンでさえ呆気に取られるほどだった。その姿に気圧されたのか、ガノンはつい、素っ頓狂な問いをしてしまった。


「……貴様、おれが流れて来なかったらどうするつもりだったのだ」

「それならそれで、他の策を考えたまで」

「……」


 ローレンの凄まじい受け答えに、ガノンはいよいよ言葉を失った。彼は再び黙考に入り、一度その黄金色にけぶる瞳を閉じた。ローレンはなにも言わない。ただただ時の止まったような空間が、その場には生まれていた。


「わかった。戦神を奉ずる者に、二言はない」


 そして遂に、ガノンの首がはっきりと縦に動いた。彼は、内心にて己を恥じていた。一度発した言葉を、心ならずも違えようとした己。戦神を尊ぶ者として、恥ずべき行為をしようとしていた己。それはもしも己に使命がなければ、自決をもって戦神に詫びていたであろう程の行為だった。


「ありがたい……!」


 ローレンは、再びしっかと頭を下げた。ログダン王国八大公爵家としては、有り得ない振る舞いである。だが。それほどの振る舞いをしなければ、彼女はガノンへの感謝を示せなかった。示しても、示し切れなかった。

 しかしガノンもまた、頭を下げた。一度は約束を違えようとしていたことを明かし、そして詫びた。そうして二人は、ひとしきり真意を交わし。


「陰謀とは言ったが、既に事は明白に進んでいる。現在我が国の王は……畏れ多くも、聡明なお方とは言えぬ」

「……つまりアンガラスタ公爵家とやらは」

「宰相、王佐として、ほぼほぼ我が国の実権を握っている。此度の謀は、それをより盤石とするためのもの。実質己の家臣に等しい王家武術指南役筆頭を、国内中枢に送り込む腹積もりだ。否、場合によっては」

「一等の褒美に姫の一人でも嫁に取り、王家の一員になるか」

「……その恐れさえもある」


 感服したとでも言いたげに、ローレンは首肯した。そしてその際、ほんのかすかに。端正な表情に陰りを見せた。常人には気付き難い変化だ。しかし、彼女が言葉を交わしている相手は、【大傭兵】と呼ばれた男だった。彼は記憶をたどり、その原因を暴き立てる。


「そういえば。かつておれたちが闇より救い出した姫。あれは名をなんと言ったか」

「おお、ミア様のことか。ミア様は……」

「闇の者に攫われたのだ。腫れ物にでもされておるか。そして、かの公爵家はそこを突いている」


 ローレンの顔がにわかに曇り、ガノンはそこからすべてを喝破した。闇に侵されておるやもしれず、他国にも送り出し難い姫。それを貰い受ける者がいるとすれば、どれだけ王国にとってありがたいことか。そして。


「……やはり汝にはわかるか。そうだ。これは私のわがままでもある。王国への忠誠もさることながら、姫様を政争の生贄にもしたくない。そういう邪な思いも加わっている。嘲るが良い」


 ローレンはその流れに、抗っている。国の意志に、自らの意地で逆らわんとしている。戦士としての放浪と、傭兵団長としての栄華。それらの時を経たガノンの見識は、意図せずしてそこまで暴き立ててしまっていた。


「嘲る、か」


 ガノンは、小さく口を開いた。続けて、口角を小さく上げた。それが笑みであるとローレンが気付くには、少しばかり時間が必要だった。


「公爵の振る舞いとしては嘲るべきだろうが、おれはそうは思わん。おまえの真意が聞けた以上、もはや二言の余地はない」

「かたじけない」


 ローレンが、またもガノンに頭を下げた。ガノンはうなずき、それを受け入れる。二人の間に心で繋がる、真なる協力関係が生まれた瞬間だった。


「よろしい。では汝はこれより、パクスター公爵家の眼鏡に適った蛮族の武人、『ガナン』だ。よろしく頼む」

「良かろう」


 こうしてガノンは『ガナン』となり、ログダン王国大武闘会の場に立つこととなった。己の果たすべき使命を、より近付けるため。わずかにして決死なる寄り道を、ここに決断したのである。


***


「……」


 時は再び、大武闘会へと戻る。戦を終えた『ガナン』――否、ガノンは、再び西門をくぐり、他者と距離を取った位置へと腰を据えていた。他の戦士や、次なる戦――二戦目において、己の相手となり得る者どもの戦い――に、一切の興味はない。ただただ報酬を手にするため、ローレンの願いを果たすためだけに、彼は在るからだ。しかし――


「また乱心か!」

「大武闘会への侮辱を許すな!」

「グシュ公爵家にも誅伐を!」


 再びの罵声が門を越えて響き渡り、ガノンは閉じていた目を開いた。蛮人である己の他にも、この戦場を愚弄する存在がいるのか。彼の裡ににわかに、闘技場への興味が首をもたげた。のそりと腰を上げ、西門近くに陣取る。他の闘士がなにやら喋っているが、彼には聞こえていなかった。己と同じ存在にしか、目が行ってなかった。だが。


「なっ……」


 流石のガノンであっても、此度ばかりは驚愕した。口が大きく開き、こめかみから汗を一筋垂らしてしまった。さもありなん。大武闘会を愚弄する存在の正体は――


 ひっつめ髪のそばかす顔。

 庶民丸出しの白布しらぬのの服。

 胸部には膨らみ、わずかに腰にはくびれ。

 手には武器もなにもない。


 つまるところ、『素人の女子おなご』だった。


「どういうことだ……」


 ガノンは思わず、言葉を漏らした。同じ乱心にしても程度が違うと、彼にもわかった。ローレンのそれは忠心と意地からであるが、グシュ公爵家とやらのそれは、明らかに異なる。このままでは――


「死ぬぞ」


 ガノンの口から、再び言葉が漏れる。しかし彼は動けぬ。正しく呼び出された時以外に、西門から闘技場に躍り出る。さすればその瞬間、『ガナン』は失格となる。そうなれば、すべてが水の泡だ。故に、門前、境界の前に立ち尽くす他無い。だが、その時。


『蛮族のお方よ、案ずるな』

「――!?」


 ガノンの脳に、響くものがあった。それは明瞭な『声』。世の人間の中には、話すことなく意志を伝える能力を持つ者がいるとは、彼も耳にしたことがあった。しかし、この『声』は。彼は、遠くに立つ女に目を合わせる。その瞳には、密かながらに力があった。戦神に愛されし己でなくば、見抜けなかったか。そう感じさせるほどに、かすかなものだった。


『見てなされ』


 またも『声』。罵声が足音へと変わり響く中、再び開戦のドラが鳴る。ガノンは訝しみながら、戦場を見る。中央に立つ、無手の娘。その風体に似合わぬ、『声』の正体。果たして。


「キエアアアッ!!!」


 先手を取ったのは、娘の敵手だった。全身を鎧で覆い、頭と顔さえも防御の下に隠したいかつい戦士。背負っていた鉄塊じみた剣を、いとも軽々と振り上げる。あまりにも、あまりにもいかにもな重戦士だ。剣を振るう雄叫びたるや、覆面と反響して獣の如くである。そんな猛威が、図体と比して余りある速度で娘を襲う。紋様の効力かはわからねど、あまりにも早い。末は木っ端微塵か。あるいは剣の錆か。観客どもはそれさえも望み、声を上げる。娘を想う者は、ガノンばかりか。しかし!


「ハイイイッ!」


 娘の風体からは想像もつかぬ、清冽な声が会場を射抜いた。直後。誰もが思いもよらぬ光景が、闘技場に生まれる。武器装具に身を包んだ重戦士の男が。娘へと迫っていたはずの重防御の戦士が。逆方向へと、操り傀儡の如くに吹き飛んだのだ! 必然、闘技場には轟音が響く。地面に衝突した重戦士が、大きな陥没跡クレーターを生み出す。もっとも、生み出した当人ですらなにが起きたかを理解できていないだろう。それほどまでに、瞬間のできごとであった。


「……」


 観客が息を呑み、常軌を逸した光景を噛み砕いていく。攻め掛かっていたはずの重戦士が首を左右に振り、自身に起きた出来事を飲み込んでいく。だが最後の最後、その光景を生み出した人間という一点でのみ。この場の常人どもは誰一人、今起きたことを受け入れられなかった。


「仕組み勝負だ」


 受け入れられぬ。そんな思いの吐露が、客席のいずこかから響いた。そしてその吐露は、闘技場に見える光景を解釈するに容易だった。あまりにも安直でありながら、常人がすがるにはあまりにも正論に近いものだった。


「グシュ公爵家! 愚弄に飽き足らず、たばかりごとか!」

「八大公爵家の恥! ログダンの恥!」

「今すぐ家を畳んでこの国を去れ!」


 故に、闘技場を再び罵声が満たす。聞くに耐えぬもの、言葉にするのも恐ろしいほどの罵詈雑言が闘技場に轟いていく。そんな中で、再び重戦士が雄叫びを上げた。


「ガアアアッッッ!」


 己が心を奮い立たせるような咆哮とともに、再び鉄塊じみた剣を振り上げ、突進していく重戦士。その鎧は、にわかに輝きを放っていた。今度ばかりは、ガノンでなくともはっきりわかる。重戦士は、紋様の力を解き放っている。先刻の突進よりも、遥かに速い。地響き蹴立てて、突き進んでいく。土煙が、もうもうと沸き立つ。すわ、今度こそ乙女は、剣の錆へと変わるのか? 否!


「ハイヤーーーッッッ!!!」


 重戦士を煽るが如き歓声をつんざくように、再び清冽な声が会場を打った。そして今度は、身体の動きだけで重戦士を転がし、地面へと打ち倒したのである! またも操り傀儡の如くに、軽々とだ!


「……」

「…………」


 再び闘技場は静まり返った。一度ならず、二度までも重戦士の進撃が容易くいなされる。一度ならば、仕組み勝負の台本とも受け取れたであろう。しかし二度、しかも重戦士は紋様の力までも放出していた。なれば。


「ま、まいった」


 天を仰ぎ見たままの重戦士が、力なくくぐもった声を上げる。彼もまた、八大公爵家の眼鏡に適うほどの武人である。これ以上の恥は、晒せぬということであろうか。静けさに満ちた闘技場に、その声はしかと響いた。そして。


「……」


 娘は一礼だけして東門へと去って行く。そこには勝者の奢りも、敗者への憐憫もない。ただただ庶民の風体に似合わぬ、奇妙な清冽さだけが残されていた。


「……」


 すべてを見届けたガノンは、彼女が立ち去ってもなお、闘技場を見つめていた。あの場でなにが起こったか。戦神の使徒である彼には、すべてが見えていた。一撃目はてのひら一つと足の踏み込みだけで重戦士を吹き飛ばし、二撃目は――


「戦士の突進力に合わせて、理合をもって見事にさばいた。恐ろしいものよ」

「む」


 ガノンの思考を知ってか知らずか。横合いから一人の男が割って入った。髪はボサボサ。鼻から下を無精髭で覆い、どことなく、すべてを諦め切ったような空気を纏っている。奇妙だ、とガノンは思った。風体に、纏う空気が噛み合っていない。この闘技場に満ち満ちる野心が、男からは感じ取れなかった。


「『ガナン』……どのでしたな」

「そうだ」


 ガノンの疑念をよそに、男は口を開いた。


「私はな、デルフィンという。貴君、強いな」

「……」


 デルフィンと名乗った男の賞賛にも、ガノンは口を開かなかった。蛮人と呼ばないまでは評価できたが、それ以上に疑わしさが勝っていた。


「まあいい。つれなくされるのも慣れている。だが貴君、次の相手は『アレ』になるぞ? 策はあるのかい?」


 しかしデルフィンは動じず、次なる問いをぶつけてきた。そして、ガノンに現実を提示する。そう。次はガノンが五の戦にて、あの娘と対峙するのだ。


「……これから考える」


 ガノンは短く、男に告げた。それ以上でも、それ以下でもない。ただ今ある状況だけを、デルフィンに伝えた。すると、髭面の男は笑みを漏らした。


「ククッ」

「なにがおかしい」

「いや。これはそそくさと負けていられなくなったな、と」


 髭面に似合わぬ乾いた笑いを、デルフィンは浮かべる。ガノンは、それだけで彼の意図を理解した。同時に野心のなさも。この闘技場における、三人目の異端であることも。すべてが手に取るように、わかってしまった。


「おまえは、負けるつもりだったのか」

「下手に出世しても、いろいろとつまらぬのでな。どうしてもと頼まれてお眼鏡になったが、早々に帰るつもりであった」


 髭面は、カラカラと笑う。つられてガノンも、表情を歪めた。歪めてしまった。微笑もうなどとは、『あの日』以来思ったこともなかったというのに。


「面白い男だ」

「私にしてみれば、貴君のほうが面白い」

「そうか」


 デルフィンの答えに、ガノンは憮然とした。この男の物言いには、一切の邪気がない。思ったことを、サラリと言ってのける。風貌からは不似合いな、一切を諦め切ったような境地。その思いが、彼をそうさせるのだろうか。少なからぬ興味が、ガノンの中で首をもたげた。


「さてさて。そろそろ私の出番ですな。貴君に、武神の加護やあらんことを」

「それはこちらが言うべきことだろう」

「違いない」


 カラカラと笑いながら、髭面の軽装備が戦地へと向かう。武具に一切の特徴はなく、ただただその空気と言動のみが。彼がこの場における異端であることを示していた。


「……見届けるか」


 ガノンが視線を、闘技場へと戻す。その先では戦が始まろうとしていた。そこに狼藉者への制裁を求める狂気はなく、ただ武技と死闘のみを求める声が満ち満ちていた。


***


 長いように思える四戦も、いざ始まってしまえば早いものである。闘技場はわずかに、その役目ならざる時間を迎えていた。もっとも、戦場ではログダン王国軍の兵士たちが所狭しと駆け回っている。地に滴った汗や血など、戦の痕跡を、新たな土砂にて覆い尽くす作業に追われているのだ。


「三戦目は、デルフィンなる軽装髭面の戦士が敵を寄せ付けずに勝利。そして四戦目は……」


 そんな様子を貴賓席にて眺めながら、ローレン・パクスターは戦を振り返っていた。白布無手の少女が重戦士を沈めた後の二戦も、それはそれは圧倒的な勝負ばかりだった。デルフィンはパクスターが述べた通りに相手を寄せ付けず、身体各所に傷を刻み込んで勝利を奪った。そして。


「アンガラスタ公爵家のお眼鏡。王国武術指南役筆頭・パリスデルザどのが凄まじき剣閃で敵を圧した」


 パリスデルザの振る舞いは、まさに王の眼鏡に適うであろう戦士の振る舞いであった。敵を圧倒しながらにしてその矜持を叩き折るような真似をせず、むしろ一定の見せ場さえも与えていた。しかし見る者が見れば両者の差は明確だった。それほどまでに、パリスデルザの技量が勝っていたのだ。ともあれ、パリスデルザは速さと鋭さで敵を征し、確かな差を刻み込んだ。現時点だけで見れば、ガノンとの差は。


「互角か、あるいは……」

「よろしいですかな、パクスター公」

「っ!」


 思考にふけるローレンに、掛かる声あり。すわ、八大公爵のいずれかと首を向ける。すると視線の先には、いかにも武人の出であることが見て取れる、鎧と剣に身を固めた壮年がいた。連れている配下数人も、ほとんど同じ出で立ちである。彼は――


「グシュ公爵どの」

「いやいや。我は末席。どうかそのまま」


 反射的に立ち上がらんとしたローレンを、グシュ公爵は押し留めた。たしかに彼は、戦場での功績と権力闘争のおこぼれで八大公爵家となった新参である。ローレンが立ち上がる理由はどこにもなかった。だが。


「……御家同士の会話が許されているとはいえ、次なる相手同士が語らうは、仕組み勝負を疑われかねません。お引取りを」


 思考を整えた彼女はまず不審を抱き、グシュ公爵を追い返さんとした。これは名目でもなんでもない。事実この場には周囲の目がある。なにげない会話の中に符丁や暗号、互いにしかわからぬ暗示、忍ばせた罠が潜むことなど、掃いて捨てるほどによくあることだった。そうした流れを疑われるような真似を働かぬことこそが、最大の自衛策なのだ。


「おっと。これは失敬。ではでは、語らいは控えましょうかな」


 男は己の迂闊を笑い、素直に立ち去っていく。ローレンは胸を撫で下ろした。ただでさえ、崇高なる大武闘会に蛮族を送り込むなどという真似を働いたのだ。この上に仕組み勝負の疑いまで掛けられては、覚悟の量が足りなくなってしまう。しかし。


「……」


 グシュ公爵の配下の一人が、ほぼ全員の死角をついて己へと動いた。ローレンは自身で隠す形を取って、それを受け入れる。すると配下は、ふらついたていを取って己にぶつかって来た。


「あっ!」

「これ、なにをしている! ……申し訳ない!」

「いえ。このような場ですから、身体も強張るのでしょう。……お気を付けあれ」


 グシュ公爵が振り向き、慌てて配下の粗相を謝罪する。ローレンはそれを受け入れ、同時に罪を免じ、配下に忠言する。すべてが通り一遍のやり取りだ。しかしこの間に、ローレンは配下が取りこぼした懐紙を拾い上げていた。すべては密事を隠すための小芝居である。両者ともに、この程度の腹芸には慣れっこだった。と言うより。このくらいのことはこなせねば、とても八大公爵家には名を連ねられぬのだ。


「……」


 懐紙を手にしたローレンは、折を見て席を外し、厠へと向かう。そこで紙を広げ、文面に目を通した。そして彼女は、おののくことになる。


「なんと……『あの方』がお出ましになっているならば……ガノンは、勝てぬやもしれん」


 誰一人にとて悟られぬ厠の中で、女公爵の震え声だけが響いていた。


***


「……」


 闘技場、西門の先にある控えの間。ガノンは、彼には珍しいことに座り込み、瞑目していた。戦神に祈りを捧げ、気を整えていた。彼は、この後に控えた戦を思っていた。先に見た彼女の武技が確かならば、間違いなく厳しい戦いになる。彼はそのように見積もっていた。


「……」


 同時に彼は、その時に聞いた『声』についても思考を巡らせていた。武技の主は少女だというのに、『声』はひどく老成したものに見受けられた。この間隙ギャップ、違和感の正体は、なんであろうか? 彼には未だ、見えてはいなかった。


「手を合わせねば、わからぬか」


 ガノンは目を見開く。己が『ガナン』を名乗っている以上、戦神の力は大っぴらには使えない。使えば最後、己がガノンと知れる確率が高まるからだ。とはいえ、敗北の憂き目に遭い、行く道行く道で人目をはばかる身の上となる。それもまた旅路を厳しく、生還する確率を低める要因となる。ならば。


「たとえ知られたとしても、使うべき時には使わざるを得ぬな」


 ガノンは、おもむろに立ち上がる。そこに、寄って来る声があった。先刻までは己を含めて四人の戦士がいたこの場にも、残されたのはもはや二人しかいない。つまり、声はデルフィンのものであった。


「お目覚めか」

「寝ていたわけではない」

「戯れよ。して、勝機は」

「わからん」


 ガノンは、極めて正直に言葉を返した。ここでふざける必要は皆無であるし、嘘をつく必要もない。相手が己をいかに見るかという問題はあるが、今のガノンにとって、そのようなことは些事である。ただただ現実だけを、彼は見ていた。


「……まあ良い。貴君の健闘を祈ろう」

「おま……貴殿こそ、だろう。相手は王家の、指南役筆頭だというではないか」

「おお、そうだな。せいぜい抗い、盛り上げるとしよう。貴君がこうして、期待をしてくれていることだしな」

「期待ではない。だが、貴殿の強さは理解した。勝機は少なからずあるだろう」

「ああ」


 ガノンがデルフィンへの呼び方を改めたのは、一応、敬うに値するだけの素養があったからだ。この場に不似合いな奇矯極まりなさと、それでいてお眼鏡に相応しい強さ。この絶妙なバランスが、ガノンの興味を引いたのだ。事と次第によっては、デルフィンと最後の戦を戦うのではないかと思うほどに。


「ともあれ、おれは行く。貴殿の健闘を祈る」

「勝ち負けはともかく、健闘は保証しよう。……貴君もな」

「それでは、第五戦を始める! 東門、グシュ公爵家お眼鏡、ハク! 出ませい!」


 返事をしようとしたガノンだが、それは戦士を招く大音声に阻まれる。続いてまたも清冽な叫びがコロッセオに響き、会場に満ちる罵声を打ち消した。そして。


「西門! パクスター公爵家お眼鏡! ガナン! 出ませい!」

「応ッ!」


 陽に焼けた肌と火噴き山の如き赤髪を持つ男が、呼び声に応える。しかしその時、彼は得物を手にしていなかった。


「ガナンどの……?」

「無手に得物を繰り出すなど、戦いにもとる」


 疑問を抱くデルフィンに、ガノンは短く切り返す。それは彼の矜持。戦神を奉じるが故に、曲げられぬものだった。なおも言葉を連ねようとするデルフィンを置き去りにして、ガノンは西門を出て行く。そこから先はもはや戦士たちの舞台。戻れるのは勝負が付いた時のみ。止められるのは本人たちだけだった。


「早く負けろ! 闘技場の面汚し!」

「どうせどっちが勝っても決勝でパリスデルザ様の剣の錆に変わるんだ! とっとと殺し合え!」


 あいも変わらず投げられる罵声にも、ガノンは動じない。それは少女――ハクも同様だった。だが彼女は、目を見開いていた。その対象は、ガノンである。


「剣は」

「置いて来た」


 つぶやくように放たれた問いに、ガノンは切って捨てるように応じた。しかし少女はうなずくと、即座に構えを取った。右半身はんみ。無手の者がよく取る、正対の構えだった。


「いざ」


 ガノンも同じく、構えを取った。無手の戦に慣れているわけではないが、それでも獣を殺す際や敵将との一騎打ちの際、最悪の場合は無手に至ることもある。その延長で、多少の心得は備えていた。


「始めいっ!」

「ハイッ!」


 開戦のドラがけたたましく鳴るや否や、先に動いたのは白布の少女だった! 次の瞬間には、ガノンの視界から消え去る。なんたる速さか!


「ぐっ!」


 後手に回ってしまったガノンは、あえて動かずに腰を落とす。ここでつられて動いてしまえば、そのまま翻弄されるおそれがあった。動きを見極め、正確な一手を繰り出す。戦神の力を使い難い以上、相手に歩調を合わせるのは愚策極まりない。


「セイッ!」


 ガノンの背後から声が響く。振り向けばそこに、迫り来る少女の姿。ガノンは合わせて、拳を振るう。が。


「ハッ!」


 それは容易く腕で防がれ、逆手の素早い一撃が腹部に入る。しかもそれには、筋肉にくをえぐるような重みがあった。


「ぐおっ!?」


 たちまちガノンの膝が沈む。不可思議に重い。内臓がきしむ。少女の身体からは、想定もできぬ拳の重さだ。だが。


「ぬんっ!」


 ガノンは気合で態勢を戻した。この程度で倒れていては、この先の旅路が思いやられる。これまでの旅路が、無為へと変わる。不可思議ではあるが、いかなる傷よりも重くはない!


「ふんぬぁ!」


 次なる一歩は、ガノンが動いた。少女を追って、歩調を進める。先刻とは異なり、相手の戦い方に踏み込む形だ。相手の一撃が重い以上、己が先手を取らねばならぬ。寄せ付けぬために、勝ち抜くために。ガノンは素早く、思考を組み替えていた。


「おおっ!」

「セイヤッ!」


 蛮声を上げつつ襲い掛かるガノンだが、ハクの清冽な気合に押し返される。ガノンの豪腕に比して、少女のそれはもはや柳のよう。だというのに、的確にさばき、押し込まれない。堂に入ったさばきぶりに、いよいよガノンは訝しむ。訝しむあまりに、それは小さく声に出た。そして、答える『声』があった。


「おまえは、何者だ」

『まだじゃのう』

「!?」


 攻防のさなか、思わずガノンは飛び退いた。第二戦の前、己が確かに聞いた『声』。同じものが今、脳裏に響いた。


『そう驚くなかれ。拳を合わせたことで、より伝えられるようになった。それだけじゃ』

「っ……」


 ガノンは構えを取る。この『声』によって、いよいよ彼は理解した。ハクという少女は、なんらかのすべによってこの場に送り込まれている。その正体こそが、『声』の主!


『蛮人どのよ、あなたは強い』

『わかるのか』


 ガノンは己に強いて踏み込み、少女に向かって仕掛けた。豪腕をもってではなく、確かな踏み込みと小さな連撃をもってである。その間、二人は声なき声を交わし合う。不思議なことではあるが、拳を打ち合う間に限ってのみ、ガノンも己の意志を敵手に伝えられた。


『わかるぞい。そしてあなたの底は、ここではない。そのことさえも、見えてきておる』

『……』


 打ち合い、さばき、避ける。無限にも等しい攻防のさなか、ガノンはわずかに歯噛みした。己が繰り出すわけにはいかぬ底の底、戦神の使徒たる力の存在。敵手はそれを、見抜きつつある。それがガノンには心苦しい。見抜かれるのは苦ではないが、隠さねばならぬことが苦しかった。


『出さぬ、ということは出せぬ理由があるのじゃろう。無理は言わぬよ』

『っ!』

『出させるまでじゃからの』


 その苦しみを突いて、ハクからの攻勢が速さを増した。清冽な気合を添えて、手数でひたすらに押して来る。必然、ガノンは劣勢に追い込まれる。元より、ガノンは無手の戦に熟達していない。やがて有効打が、次々とガノンを削り始めた。


『くっ……!』

『ほれ。見せるが良い。見せねば、望みは果たせぬぞ?』

『ぬう……』


 もはやガノンは確信していた。少なくとも今のところは、己よりもこの少女のほうが強い。否。少女の身体を操る、『声の主』のほうが強い。打ち勝つためには――


「ぬんっ!」


 ガノンは声に出して、少女の拳を払った。技によるものではない。力ずくだ。しかしその力には、今までにないものがこもっていた。その身体に、わずかながら纏わせた暖かな光。そう。戦神の力である。あまりの勢いに少女はたたらを踏み、間合いを取った。


「戦神に詫びる。戦でありながらその力を振るわなかったこと。己の力を、大きく見積もったこと。戦神在りてこそ我は在り。我は戦神の愛し子、使徒である」


 呟くように誓いを告げて、ガノンはゆっくりと少女に迫る。彼らに観客の声は聞こえていない。『声なき声』を聴くために、全集中力を傾けていた。全精力が、この戦へと注がれていた。誹謗中傷、血湧き肉躍る戦いを求める声などに、耳をそばだてる余裕は皆無だった。


「ぬんっ!」

「ハイッ!」


 力を纏わせて振り放った拳を、少女は細い腕を重ねて受け止める。みしり、と響く骨の音に、ガノンは一つの確信を抱いた。手応えあり。腕の一つは、奪い去ったか。しかし。


『そうか。戦神の使徒じゃったか』


 脳裏に響く、『声』の質は変わらない。焦燥や動揺が、まったくもって感じられない。泰然自若。一切不動。これは、いかなる。


『なれば、そろそろこちらも名乗らねばのう。我が真の名はシサイ。ログダン王国王家・先代武術指南役筆頭である』

『!?』


 唐突極まりない名乗りの『声』に、ガノンの姿勢が思わず揺らぐ。その一瞬を逃さず、ハク、否、シサイは。裂帛の踏み込みを闘技場に打ち放った!


「セイイイッ!」

「むうっ!」


 おお、見よ! かさにかかっていたはずのガノンの巨躯が、細身の少女に押し返されている! いや、跳ね上げられている! これが第二戦で重戦士を征した、理合なるものの一端なのか?


「ハイイイッ!」

「おおおっ!」


 見るが良い! ガノンの身体が浮き上がり、吹っ飛ばされる! 放物線を描いて大地に打ち付けられ、陥没跡を残す! しかし真に見るべきは今一つ! 少女の踏み込んだ痕跡が、凄まじい地割れとめり込みを生み出していた! 実質一本の腕しか利かぬというのに、ここまでの力を生み出せるのか? まさに恐るべし!


「ハッ!」


 続けて少女の脚が、闘技場の大地を蹴る。その速さは、それまでに見せていたものとは比にならぬほどのものだった。消えては現れ、と見まごうほどの勢いで、彼女は飛ぶようにガノンへと迫る。しかしガノンもさる者である。その姿を見るや否や、即座に立ち上がった。


「ハイヤッ!」

「フンッ!」


 見よ、少女の繰り出した右足を、ガノンの太い腕が見事に受け止める。しかしその腕には濃ゆい痣が残る。彼は心底より驚嘆していた。シサイなる者の技、あまりにも練り込まれている。


「ぐうっ!」


 それでもガノンは、踏み込んでいく。軽やかに大地を蹴り、巨躯に似合わぬ跳躍を見せた。少女に対して、上から攻める。体躯の差を生かした選択だ。


「ハイヤッ!」

「遅い!」


 少女から迎撃の拳が飛ぶ。ガノンはかわす。返して拳を繰り出す。少女は飛び退く。かがまずに退いたのは、ガノンとの間合いを取らんがためか。ともかく、判断が早い。しかも、正確だった。


『蛮人どの。あなたはなにを望んでこの場に来たるか?』


 そして再び、『声』。シサイが、ガノンに問うて来ていた。ならば、答えねばならぬ。口に出さぬのであれば、真の名を明かしても良いだろう。


『我が真の名は、ラーカンツのガノン。目的は近辺数ヶ国の通行証。そして』


 間合いに飛び込み、拳を振るう。それらはシサイにさばかれる。片腕を折られたにもかかわらず、その技に衰えは見られなかった。なんたる練り込み。なんたる熟達。されど。


『アンガラスタ公爵家による、王家簒奪を防ぐこと』


 ガノンに少女を打ちのめす意図はない。この場での選択は、少女に潜むシサイの意志と言葉を交わすことだった。いかなる技かは不明だが、シサイは間違いなく、この少女を通じてなんらかの話を持ち掛けてきていた。


『……なにかと思えば、意志を同じくする者であったか』

『なんと!?』


 意外な告白に、ガノンの手が思わず止まる。その隙を縫って、少女の身体が雷の如く動いた。ガノンの懐に、鋭い踏み込み。


「ハイナーッ!」

「うぐおっ!?」


 鳩尾みぞおちに差し込まれた、短くも速く、重い一撃がガノンの巨躯を穿ち抜く。その身体は「くの字」を描いて吹き飛び、地面に叩き付けられる。しかし少女に容赦はない。一直線に、ガノンへと迫って来た。


『なれば。なればこそ。我程度は踏み越えてもらわねば、のう』


 脳裏に響く『声』には、曲がらぬ意志が込められていた。


***


「ガ……ナンっ!」


 ガノンが吹っ飛ばされた姿に、貴賓席のローレンは思わずして真の名を発しかけた。身体は跳ね上がるように立ち上がり、食い入るように闘技場を見つめている。貴族としては少々――


「はしたないですぞ、パクスター公」

「お熱の蛮人が危地にあるのです。仕方がないでしょう」

「――っ、コホン。取り乱しました」


 周囲の公爵どもからからかいじみた言葉を投げられ、ローレンは恥辱に顔を赤らめた。席に座り直しつつも、感じた焦燥は癒えていない。『あのお方』が相手では、戦神の使徒をもってしても、勝利はいと得難いものなのか。彼女は改めて、先代武術指南役筆頭の恐ろしさを思い知った。歴代でも、三本の指には入ると聞き及んでいたのだが。ともかく。


「……!」


 彼女は食い入るように闘技場を見つめる。美しき双眸には今や、血走りの跡が見受けられた。どうする。ガノンを諦めさせるか。それとも。いや、彼ならば。


「勝ってくれ……いや、勝つ……!」


 ローレンの視線の先には、遂に戦神の使徒たる力を完全に解き放ったガノンがいた。彼は迫り来る少女に対して瞬時に飛び退き、間合いを広げた。そのまま二歩、三歩と跳ね、息を整える。いよいよ暖かな光が、彼を包み込んでいた。


「あれは……」

「あの蛮人、異様に強いかと思えば、まさか【使徒】か」


 周囲の公爵家の者どもから、次々と声が漏れる。さもありなん。彼らは、敬虔なる多神教の信徒でもある。仮に敬虔でなくとも、教会への寄進、礼拝、繋がりを欠かさぬ善き信徒である。陰に陽に、神の加護を受けたる者のことは知らされていた。


「【使徒】といえば。数日前に、手配の廻り状を持った使者が参りましたな」

「おお。覚えておりますぞ。たしかに『使徒』、『蛮人』などと申しておりましたが」

「類稀とはいえ、まさか」


 周囲の雑音がいや増していく。それでもローレンはあえて聞き入れぬ。こうなってはもはや、ガノンがこの戦いを凌ぎ切るほうが重大事であった。仮に『ガナン』がガノンであると発覚したにしても、彼ならば些少の窮地は切り抜けられる。その確信が、ローレンにはあった。


「故に、勝て」


 口の中で、小さく呟く。あの日出会った蛮人を信じた者として、彼女はその信仰を放棄する訳にはいかなかった。


***


 十歩の間合いを取り、息を整えたガノンは、再び闘技場の地を蹴った。蛮声とともに駆ける姿は、獲物に飛び掛かる獣の如し。されど少女、否、ログダン王国王家・先代武術指南役筆頭は揺るがない。理合をもって、腕一本で進撃を止める。両者の力が闘技場の中央できしみ、またしても大地にひびを生んだ。


『それがあなたの全力か。さすがは【使徒】』

『涼しい顔……とはいかないようだな』


 手合わせする両者は、『声』をもって語り合う。ガノンはもはやこの男を、戦神の加護すら受け止める男を。踏み越えることにのみ力を注いでいた。さもなくば、この先の旅路に光はない。


『神々の御力ですからの。片腕では……』

『ぬうっ!?』

『このくらいが精一杯ですじゃ』


 腕一本で抑止されていたガノンの身体が、突如傾く。少女が巧みに腕を使い、ガノンのバランスを崩したのだ。右膝が砕けるように崩れたガノンは、またしても隙を晒す。そこに!


「ハイナーッ!」

「ぐううっ!」


 突き上げるような、少女の一撃! 臓腑をえぐり、ガノンの身体さえ浮き上がらせんばかりの重い拳! 思わずしてガノンはたたらを踏み、数歩下がる! さらに突っ込んで来る少女! 二発、三発。いや、無数の拳が次々と襲い掛かる! 手数に重きを置いた、ガノンを休ませぬための攻勢だ! 片腕を折られたにもかかわらず、なんたる速さか! 彼女には、痛みというものが存在しないのか?


「ぬぅっ!」

『攻められたら、こちらはひとたまりもありませんからの』


 不遜な『声』が、ガノンを苛立たせる。わかっている。ガノンは理解していた。この、声から察するに老境と思しき闘士は。己に対して壁たらんとしているのだ。とはいえ同時に、この老人は勝つつもりでもいる。ガノンが不甲斐ない限り、老境の闘士は、自身がアンガラスタ公爵家の陰謀を阻みに行くだろう。だが、それは決して許し難い!


「カアアアッ!!!」


 ガノンは腹に力を入れ、拳を迎え撃った。すでに戦いの中で、各所を痛め付けられている。されど、そんなものは関係なかった。片腕の娘に、負けるなど。両腕を振るって、さばき、叩く。


『おお、それですじゃ。嵐の如き攻勢。ようやく、腹が決まりましたかな』

『ぬかせ。俺には最初から戦う気勢しかない』

『ならば、なぜ力を封じて?』


 老境闘士からの問い掛けが、ガノンを苛む。この老人は、敢えてガノンに刺さる言葉を吐いている。ガノンを引き上げ、全力の果てまで連れて行こうとしている。

 しかしながら、ガノンは安易には応じられない。バグダ王国からの指名手配が、この国に届いている可能性がある。ダガンタ帝国の大侵略に関わった以上、あの国が己を逃がすとは思えなかった。さすれば、正体が。


『なるほど。読めましたぞ。思いが、見え申したぞ。貴君、かの【大傭兵】であられましたか。同郷同名でもなく、まさしくの大傭兵ガノンであられましたか』

『っ!』


 さばき合い、打ち合いのさなか。その『声』は唐突にガノンを撃ち抜いた。老境闘士の声色が、かすかに変わった。蛮人に対するそれから、敬意を込めたものへと変わった。されど。ああ、されど。


『なるほどなるほど。全力を出し切れぬ訳ですじゃ。勝利の報酬と、相反する制約。なれば――』


 少女の身体が、前へ出る。それまでよりも一際早い。拍子が崩れる。攻防が動く。


「ハアッ!」


 ガノンを撃ち抜く、三回目の一撃。地面を割るほどの鋭い踏み込み。理合を生かした、小さくも速く、重い一撃。モロに受けたガノンは、遂に吹っ飛ばされ、壁へと打ち付けられた。


『ここで打ち砕き、失望をもってこの国より打ち払うまで』


 残心の構えを取る少女から、老人の『声』が聞こえる。ガノンは悟る。おお、今こそこの闘士はすべてを賭した。その全力でもって、ガノンを倒そうとしている。ならば? ならば己は、どうする? ガノンは、ちらりと貴賓席に目をやる。視界に入るは、ローレンの姿。食い入るようにこちらを見る姿には、あの戦いの折と変わらぬ、『信用』が込められていた。


「すぅー……」


 痛みを堪え、呼吸を整える。そのさなかで、ガノンは己を嘲った。まったく。己はどこまで弱くなったのか。サザンやダーシア、【赤き牙の傭兵団】の皆と居たことで、どこまで腑抜けてしまったのか。此処は荒野。天幕の中ではない。戦わなければ、生き残れない!


「ふぅー……」


 打ち付けられてからややあって、ガノンは己の身を起こした。隆々たる肉体の各所に傷が走り、血が蛇の如く身体を這い回っている。それでも、彼の黄金色にけぶる瞳には。闘志の炎が、爛々と燃えていた。


「いいだろう。この一戦、すべてをなげうつ価値がある」


 彼が吐き出した言葉には、並々ならぬ決意が込められていた。


***


 そして、攻防が始まった。

 互いが一手を繰り出す度に、それ以上の返礼が成された。

 それを受ける度に互いがたたらを踏み、しかし踏み止まって殴り合った。

 もはや観客の嘲る声、蔑む声は皆無となっていた。否。あまりの戦いに、誰一人として声を上げられなかった。


「オオオオオ!」


 ガノンが蛮声を上げ、少女を手酷く殴り付ける。少女の身体はわずかに浮き、地面へと打ち付けられた。


「ハァッ!」


 少女が変わらぬ清冽さを帯びた声を上げ、ガノンに掌を叩き込む。ガノンは数歩ほど吹き飛び、そして倒れた。

 しかし、互いは笑っていた。立ち上がり、また殴り合った。倒れてもなお、互いを傷付けあった。


 後世の史家は、この戦いを以下のように記している。


【後にも先にも、いと残酷なる観客どもを静謐に陥れしは、この戦のみ。奇矯極まりなく、それでいて最も凄絶なる戦なり】


 ともかく、殴り合いは永遠を思わせるかの如く続いた。誰一人としてその数を数える者はなく、それでいて誰一人として目を離せなかった。

 だが、物事には終焉というものがある。永遠にも似た、という表現があるが、真の永遠というものは存在しない。すべてのものには始まりがあり、終わりがある。故に。


『良かろう。腕一つで抗うにはそろそろ疲れた。踏み越えるが良い』

『……っ』

『なに、この身体はきちんと治してから返す。そういう術も心得ておる。行くが良い、【大傭兵】どの』

『……わかった』


 濃密な殴り合いの隙を縫って。ガノンの拳が、少女の頬を手加減なく撃ち抜いた。少女の歯が数本吹き飛び、闘技場の地面へと落ちていく。二歩、三歩とたたらを踏んだその身体はとうとう崩れ落ち、立ち上がることは叶わなかった。その姿を確認したガノンは少女に背を向け、声もなく西門に向かって歩み出した。

 勝者も、敗者も。そして観客も。誰一人として声を上げぬ決着だった。


***


「勝った、かい」

「勝負には、だ」


 デルフィンとガノンが、門の彼方で短く言葉を交わす。


「おみそれしました」

「いや。こちらも冷や汗しか流れませんでした。素晴らしい戦士を、見出されたようで」


 貴賓席で、グシュ公爵とローレンが互いを讃え合う。


「どうすんだ、蛮人が最後まで残っちまったぞ」

「次で勝った方を応援する。それしかねえだろ」

「さすがに、パリスデルザ様ならやってくれるだろうよ」

「そうだそうだ」


 観客どもはざわめき、偉大なる王家、その武術指南役筆頭へと思いを馳せる。思いを委ねる。だが。


「それじゃあ、行くかい」

「勝つつもりか」

「そうさなあ。貴君と戦えるのなら、諸々を突っぱねる価値はありそうだ」

「なるほどな」


 その前に立ちはだかるは、髭面の謎めいた剣士。前戦において、敵を寄せ付けずに打ち勝った者。そのいきさつは謎なれど、侮り難しとガノンは思う。


「行って参るよ」


 男が、飄々と戦場へ歩み出す。ガノンは声なくそれを見送る。だが少なくとも、両雄は決戦の刻を想っていた。それが両者の絆であった。されど。ああ、されど。


「参ったなあ。ああ、参ったよ」

「……良いだろう」


 半刻後。示されたものはあまりにも率直な決着だった。剣を打ち落とされたデルフィンが両手を上げ、調子を崩さぬままに降参を口にしたのだ。それはほとんどの者にとって、まったく予想通りの決着だった。

 しかしそこに至る過程は、まったくもって想定とは違った。むしろ最初は、デルフィンがパリスデルザを圧倒してさえもいた。早さで上回り、手数で押し、鋭さでも優位に立っていた。だが見る者――すなわちガノンを含む強者たち――が見れば、気付いたことだろう。パリスデルザは。


「最後の一手を、決して食わせなかった。押されているにもかかわらず、冷たさを保っていた。……デルフィンは」


 そう。押されながらもとどめを刺させないパリスデルザのさばきに、デルフィンは徐々に心を乱してしまった。心の乱れは、剣の乱れに繋がるとも言われている。彼の剣は少しずつ大振りになり、一撃でもって仕留めんと試みるようになり、やがて隙が生まれた。強者同士の戦いにおいては、わずかな隙一つが致命的なものになる。そこを突かれたデルフィンは、あっという間に守勢に回り。


「あえなく降参となった」


 西門の向こうで見届けたガノンは、小さく呟いた。デルフィンが底を見せたかという疑問があるにはあるが、そこには敢えて触れないことにした。己も底を隠していた人間である。他人のそれを、突くことはためらわれた。


「負けたか」

「ああ、負けたよ。縁あらば、また会おう」


 デルフィンは変わらず飄々と、しかしどこか足早にガノンの前から去っていく。そこから読み取れるものは少なく、ガノンは慮ることしかできない。ともあれ時は戻らず、また決着を覆すこともできない。ならば、進む他――


「従来であれば一刻後に終の戦を行うしきたりなれど! 公平を期すための闘技場修復が適わぬとのお沙汰が下った! よって、終の戦は明日、朝の十刻より執り行うものとする! 両家お眼鏡の戦士よ。観客たる民草よ。今宵は戻り、休むが良い!」


 ガノンの思考が、打ち切られる。原因は、仕切りの者からの大音声だった。拡声器を使った大声に、勝てるはずもない。ガノンは首を横に振り、その場を立ち去った。


***


 そうして、本来ならばあり得なかった夜が訪れた。そしてこの世には、『蝶が西で小さく羽ばたいたらば、それはやがて東に大風を生む』という言葉がある。この言葉自体は、実際には起こり得ぬこと。有り得ぬこと。だが、小さな動きが大きな事象をもたらすことは、往々にしてよくあることだった。


「……」


 夜も更けた頃、ガノンは星々の下に身を晒していた。戦神が座すともいわれる星を、一心に見詰めていた。

 従来であればローレンの用意した部屋に籠もり、他公爵家による策謀――彼らが権謀術策の中で生きる以上、有り得なくはないものだ――をやり過ごすのが定石である。

 だが彼は、その部屋では眠ることができなかった。敗戦の将であり、友を故郷に送る旅の最中である彼にとって、豪奢な部屋はあまりにもの重圧だった。

 彼は星々の下で眠ることを望み、ローレンは天幕と守護の兵士をもってそれを許諾した。それゆえガノンは今宵天幕を出、隙だらけの肉体を夜風に晒していたのだ。無論、警護の兵士は気を張っている。張ってはいるが、その気配を微塵たりとも見せてはいない。さすがは、パクスター家の用意した最精鋭の兵士たちだった。

 しかし今宵ばかりは、その戦士たちに動揺があった。天幕の外周、一面の草原(くさはら)で騒ぎが起きていた。必然、ガノンの耳にもその声は入ってくる。彼は気の赴くままに、その方角へと向かった。


「どうした」

「『ガナン』どの、お下がりを!」


 出て来たガノンに、兵士の一人が告げる。その向こうには、一人の男が立っていた。いと涼やかな剣士。金髪を夜風に靡かせた、いと壮麗なる鎧に身を包んだ戦士である。その姿には、かすかほどの陰りもない。ガノンは直感した。この男こそが、パリスデルザだ。しかし、だからこそ違和感が惹起する。一目見ただけでこれほどの輝きをうかがわせる男が。あからさまな敵地に、たった一人で乗り込んでくるような男が。何故に王家簒奪の謀に加担しているのか。


「おお、『ガナン』どの。この兵たちをどけてはくれぬか。貴君と一献、酌み交わしたいだけなのだ」


 涼やかな男が、こともなげに言う。その右手には、かめが掲げられていた。葡萄酒か。あるいは果実酒か。それとも。とにもかくにも、嘘はないように見える。ならば。


「退いてやれ」

「ですが。……承知しました。」


 ガノンは告げる。兵が不満げに言葉を返すが、ガノンは無言の圧を掛け、反論を封じた。目の前に立つ男と、言葉を交わしたい。己がそう決した以上、この兵たちは邪魔者にしか過ぎなかった。渋々ながらも兵士たちが脇に退き、ガノンはパリスデルザとの正対を果たした。


「お初にお目にかかる。ログダン王国王家・武術指南役筆頭。パリスデルザだ」

「……『ガナン』だ」


 威風堂々にして眉目秀麗。ガノンは、言葉を交わしただけで気付きを得る。目の前に立つ男は、強く、輝かしい。しかし、その根幹は見えぬ。強さか。地位か。あるいは武芸の極みか。彼の行く先のみが、ガノンには見えなかった。


「……我、己が欲望のために王家参入を志す者。引いて、くれぬか」

「……断る。仕組み勝負を望むのであれば、なおさらだ」


 パリスデルザの第一声を、ガノンは取り付く島もなく退けた。なんのことはない。最初から決まっていた話である。ガノンもまた、己の欲望――通行証の獲得――のために、この大武闘会に参加している。引けぬのは、道理であった。


「我は常に高みを目指す。すでに武芸は位を極めた。なれば」

「王位を望むのみ、か」


 パリスデルザが、流れるように草原に座り込んだ。敷物などなし。ただただ当たり前の如く男はそうした。ガノンはその姿を一瞥した後、兵士に告げた。


「器を二つ。その後、この場より去れ。パクスター公にはなにも告げるな」

「……。ははっ」


 兵は再び、抗弁の声を上げようとする。だがガノンの顔を見て取りやめた。先刻以上の圧力が、ガノンの顔に備わっていたからだ。それは殺意にも近い圧力。『告げたら殺す』。そういった重圧が、兵士たちへと降り注いだのだ。

 やがて、草の擦れる音が辺り一面に響く。五十は下らぬ兵どもが、一斉に去っていく足音だった。それでも密偵の類はいるやも知れぬ。されどそれらは、ガノンの預かり知らぬことであった。


「……どうぞ」


 ややあって、一人の兵士が器を持ち来たった。瓶の中身を注ぐに相応しい、白塗りの椀。二つ。見る限りでは、対となる一品物である。そこから、見て取れるのは。


「おまえは」

「御身大事なれば。主も、承知されております」


 ガノンの圧にも、この兵は引かない。肝の据わった兵だと、彼は奥底で感心した。そして、いくつかの思考を巡らす。彼にとっては不本意ながらも、ローレンからの承認が得られた。つまり、この会合を妨げるものはない。ならば、言い争う道理もない。


「良かろう」


 ガノンはうなずき、器を手に取った。それを合図に、器を持ち来たった兵も去って行く。草原に残されたのは、男二人のみ。


「飲もうか、パリスデルザどの」

「そうしてくだされ」


 ガノンが椀を手に取ると、パリスデルザが瓶をガノンへと差し向けた。これは異なことである。起きてはならぬことである。常ならば、下位――無位にして蛮人であるガノンから酒を注ぐのが、礼法であった。まったくもって、礼儀が異なる。余人に見られたならば、たちまちに批難を浴びる行動であった。


「手酌で構わん」


 さしものガノンも、これには異を唱える。しかしパリスデルザは動じない。


「いえ。対等に戦う、戦の相手ならばこそ」

「ならば、おれからやる」

「否」


 パリスデルザの目が細くなる。秀麗さの中に、険が生まれた。


「このような面倒を持ち込みしは我。不躾なる願いに、応じてくださればこそ」

「……わかった」


 ガノンにしては珍しいことではあるが、この時、彼はいともあっさりと意志を曲げた。無論、ただ曲げたのではない。目の前に座る男の、意志を汲み取ったのだ。

 ともあれ、二人は互いに酒を注ぎ合った。両者ともに椀になみなみと酒を注ぎ、目の前へと掲げた。一瞬、互いの視線が交錯し直後、パリスデルザが口を開いた。


「二人の出会いに、祝杯を」

「む」


 掲げた椀を、わずかに動かす。なみなみと注がれていた故に、打ち合わせるまでには至らない。しかし二人は口角を上げ、競うように椀の中身を飲み干した。そして、ガノンが口を開いた。


「クガナチの葡萄酒か」

「ご明察」


 パリスデルザがニコリと笑う。その姿に、蛮人への嘲笑、蔑みの気配は、微塵たりとも読み取れなかった。二人は再び、酒を注ぎ合う。ややあって、パリスデルザが口を開いた。それは、驚くべき提案であった。


「ダガンタ帝国の大侵攻に貢献せし【大傭兵】、ラーカンツのガノンどのに申し上げる。貴君がここで引いてくださるのであれば、我が国は貴君への手配には加担せぬと約定しよう」

「なっ……!?」


 その提案は、ガノンにとってあまりにも魅力的なものだった。さしもの彼ですら、即座に首を縦に振りかねなかったほどにである。己の正体に気付かれたことさえも、吹き飛んでしまうほどだった。

 彼にとって、この提案が魅力的だった理由はいくつか存在する。だが、最大の理由は一つだった。彼は。ラーカンツのガノンは。すでに己の底を晒してしまった。ハク――正確にはログダン王国王家・先代武術指南役筆頭であるシサイ――との戦いで、己の全てを曝け出してしまった。

 すなわち、パリスデルザやシサイでなくとも、『ガナン』がガノンであることへたどり着くことが容易となってしまった可能性がある。そうなれば、終の戦を前に捕縛の憂き目に遭う恐れまでもがあった。ガノンにとって、それは許されぬことである。友の生きた証を、故郷へと届けるためにも。


「……ならぬ」


 しかし、ガノンは踏み止まった。たっぷりと時を掛けて黙考し、ただ一言をもって切り捨てた。何故か。


「なんと」

「ここでおれ――ラーカンツのガノンが引けば、代わりにおまえたちの陰謀が成就する。それは、パクスター公の望むところではない。おれは、公に見出され、雇われたのだ。主人は裏切れぬ」


 彼は言い切る。パリスデルザが指摘した己の正体、それを認めてさえも言い切ってしまう。

 そう。ガノンは今や傭兵であり、友を送り届ける旅人であり、漂泊の武人であった。彼が傭兵である以上。彼は主人を裏切れない。

 無論、時を経て組まれた盟約への想いもそこにはある。あるが、その側面を相手に見せる必要はない。見せるべきものと、見せるべきでないもの。その一線を見誤るほど、ガノンは愚物ではない。


「……我と、我が与するアンガラスタ公爵家。その威信はすでに盤石である。後は王位継承権さえ手に入れば、ログダン王国そのものが盤石となる。暗愚による支配から脱却できる。それが、なぜわからぬ」

「主人は王家に忠誠を誓っている。それに対する簒奪を、ならぬと断じた」


 パリスデルザの説得に、ガノンはゆっくりと切り返す。ガノンにはログダンの政治、貴族の勢力構造なぞわからぬ。わからぬからこそ、ローレンの決断を重んじるのだ。その先にある、ミア姫への忠誠も含めてだ。そして。


「ましてや、おれは戦神を奉じている。奉じる神に、背くことなどできぬ」


 最後、彼自身の根幹をも言ってのけた。彼の力、その源であり、心底より奉る神。神への忠誠を心より打ち明けた。


「……」

「黙るのならば。一つ、おれからもいいか」

「いいでしょう」


 わずかに間が生まれたのを機に、今度はガノンが会話の手綱を握る。彼は、空虚をかげらせた双眸で涼やかな男を見た。そして、おもむろに口を開いた。


「おまえは、なにをもって動いている。簒奪の陰謀に与せずとも、この大武闘会で覇を唱えれば」

「ええ。名実ともに、ログダン王国武人としての、最強の座に立てたでしょう」

「ならば、何故に」

「足りぬから、ですな」


 一陣の風が吹く。涼やかな男の、長髪が揺れる。ガノンは見る。涼しげだったはずの男の瞳に、灯るものがあった。


「最強の位。そんなものでは、我の野心は満たされない。他国の者と争えぬのに、なにが武芸の首座か。狭い一国での覇など、たかが知れている」


 吐き捨てるように、男が言う。ガノンは、敢えて聞き役に徹した。その姿を見て、パリスデルザはさらに。


「最強の位をもって、この国を動かす側に加わる。さすれば、後はアンガラスタ公が動いてくださる。故に、数年もすれば我は晴れて王位につく。さすれば」

「他国に打って出、武芸の覇を競うことも叶う、か」

「いかにも」


 淀みなき答えに、ガノンは男の目を見た。先刻まで涼しげに振る舞っていた男の目は、今や爛々と輝いていた。

 ガノンは思う。目の前の男は、間違いなく武神ぶしんの眼鏡に適っていると。自覚しているか否かにかかわらず、その力の一端を振るえる領域にあると。武を極めることに飽き足らぬが故、神はこの男を選ぶであろうと。だが。


「なるほど。パクスター公がおれを雇った理由がわかったわ。そして、なおさら引けぬ」


 ガノンは取り付く島もなく否定した。


「なぜ」

「おまえの在り方はログダンを変える。パクスター公は、それを望んでいない。おれは勝つ。欲しいものは、自力で奪う。おまえたちが囲もうものなら、すべてを振るって切り抜ける」


 ガノンはかめを奪う。一等品の葡萄酒を己の椀へと注ぎ、一息に飲み干す。据わった目で、対面の男を睨みつけた。


「こいつが、おれの結論だ。これは絶対に変わらない。おまえの説得は通じない。わかったら、帰れ」


 ガノンは言い切る。立ち上がり、巨躯をもって涼しげな男を見下ろす。相手の金髪が、再び夜風に靡いた。気が付けば、パリスデルザの瞳から熱が消えていた。男は、『ふう』と息を吐き出した。


「決裂、ですな」

「そのとおりだ」

「仕方ありませんな」


 パリスデルザも、立ち上がった。両者の視線が、わずかな高低差を含めて交錯する。今や互いの瞳に、闘志が籠もっていた。


「なれば、明日。ついの戦をもって、決着を付ける他にありますまい」

「そういうことだ」


 パリスデルザの言葉に、ガノンもうなずく。すると涼しげな男は、笑みを浮かべてのたまった。


「互いにすべてを賭して。戦いましょうぞ、ガノンどの」


***


 翌日。かくて、決戦の日となった。より正確には開戦のドラを一刻後に控えていた。ガノンは設えられた場所にて、ローレンとの最後の語らいを許されていた。

 この後刻限を迎えれば、ガノンはいよいよ一人となる。先に敗れた男どもは、もはや西門門前にはいない。あの飄々とした、どこか掴みどころに欠ける髭面の男もいない。彼は、すでに旅立っただろうか。あるいは、終の戦を見届けんとしているのだろうか。ガノンには、もはやわからぬことであった。


「強張って、いるのか?」


 不意に、ローレンが口を開いた。ガノンが沈黙を続けるのを、緊張とみなしたのであろう。女公爵のたおやかな口が、言葉を紡ぐ。


「さもありなん、か。この一戦にて、我が王国の行方も左右されてしまう。汝の肩に、すべてがかかってしまった」


 ローレンは、周囲に気を配る。未だこの地に集う者どもの過半は、『蛮人ガナン』が、【大傭兵】ラーカンツのガノンであることを知らぬ。ガノンが、アンガラスタ公爵家の野望を砕くために戦う者であることを知らぬ。それらが露見してしまえば、たちまちガノンは陰謀のるつぼへと堕ち、旅路の目的を果たし仰せぬことになるであろう。ローレンは、ひたすらにそれを案じていた。


「おれはただ、おまえの要求通りに働いただけだ。後悔も強張りもない」

「……そうか」


 しかしガノンは平坦だった。常の通り瞳に空虚をたたえ、ただただローレンを見据えていた。

 彼女には、ガノンの思考が見えなかった。公爵家の姫でありながら武張った道を選び、力量でもって王女近衛部隊戦士長の座を手にした彼女をもってしても、この日ばかりはガノンの内心を見通せなかった。故に彼女は、ガノンへと告げる。


「ならば良し。私の願いはただ一つ。このまますべてを成し遂げ、安全にこの国を旅立って欲しい。それだけだ」

「わかった」


 ガノンが、小さくうなずく。ローレンは、内心で胸を撫で下ろした。これにて正体の隠蔽は徹底できると、確信さえも抱いていた。昨日の死闘で、見る目のある者が気付いていようと。周囲の貴族程度ならなんとでもできる。そう信じていた。その時、割って入る声があった。


「刻限であります」


 未だ一兵卒と思しき紅顔の少年が、それでも胸を張り、精一杯の敬礼をして時を告げる。その姿を見たガノンは、おもむろに立ち上がった。


「行って来る」

「汝に、神の微笑みがあらんことを」


 最後の言葉を、二人が交わす。それきりガノンは、ローレンの方を向かなかった。確かな足取りで、彼は在るべき位置へと向かって行った。そして、半刻後。


「殺せーッ! ログダンを荒らす蛮人を許すなーッ!」

「パリスデルザ様ーッ! やってくれー!」

「殺せ! 殺せ!」


 聞くにも堪えぬ罵声が満ちる中、二人の男は遂に東西の門にて相見えた。西には女公爵がお熱の、赤髪の蛮人『ガナン』。東にはもはや国家の威信までも背負うこととなった、壮麗にして輝ける剣士、パリスデルザ。どちらが民草からの声援を受けているかは、見るも明らかであった。


「……ガノンどの。引き下がるなら今ですぞ。今の我には、ログダンすべてがついている」

「民草とは、そういう連中だ。おれが勝てば、手のひらを返す。返さぬかもしれんが、おれには関係ない」


 罵声の中を進んだ二人が、中央にて言葉を交わす。その声はかき消され、誰の耳にも届かない。ただ二人だけの、大っぴらなる密談だった。


「やはり、刃で言葉を交わす他」

「そういうことだ」


 両者が間合いを取る。ガノンが手頃な長さの剣を抜き、パリスデルザもまた、紋様を刻まれし美しき剣を抜いた。直後。ガノンの身体がにわかにほの光る。これは、もはや。


「素性を隠すつもりはないと」

「昨日のあれで、すでに晒したも同然だ。なにを今さら」

「なるほど。では」


 次の瞬間、ただでさえ壮麗な武具によって輝きを放つ、パリスデルザのそれが増した。否。これは武具の輝きではない。パリスデルザ自身が、光を放っているのだ。


「我も我が全力をもって、貴君のお相手をいたそうぞ」


 輝きの剣士が、不敵な言葉を言い放つ。その時、罵声をつんざいて開戦のドラが鳴り響いた。


***


 両雄の開戦を前にして、時はわずかに巻き戻る。円形闘技場コロッセオにほど近い路地裏にて、違法なる賭博師は暇をかこっていた。


「あの蛮人、こっちの儲けを軒並みかっさらいやがった。畜生め」


 不穏な匂いを放つ薬草を噛みながら、賭博師は愚痴を放つ。さもありなん。かの蛮人――『ガナン』とやらが絡んだ賭けは、軒並み不成立に終わっているのだ。ログダン剣士との戦だった初戦はともかくとして、罵声まみれだった二戦目に至っては誰一人賭けに参加しないという有り様である。これでは商売上がったり。見逃されるために巡警にやる小銭――ちょっとした賄賂だ――さえも、賄えない状況だった。


「ま……パリスデルザ様が勝つのは目に見えてるし、あの蛮人は嫌われ者だ。どうにもならねえわな」


 噛んでいた薬草を吐き捨て、賭博師はその場を去ろうとする。彼は店を構えたりするほど迂闊ではない。あくまで彼を知る者と、わずかな符丁のやり取りで賭けを交わしていた。そうやって小規模に商売を保つのが、彼のやり方だったのだ。


「なあ、旦那」


 その時である。不意に、彼に向かって掛かる声があった。


「あいあい」


 賭博師は、本能的に高い声を上げ、振り向いた。いつの間にやら、揉み手までしている。客――あるいは標的カモを迎える時の仕草だった。


「アンタ、賭博師だろう? 例の蛮人――ガナンの賭け率はいくらだい?」


 しかし、同時に彼は息を呑んでもいた。目の前に立っていたのが、軽装髭面の戦士だったからである。そう。その男は――


「ちょっと待て。アンタは大武闘会の参戦者だろう? 確かに違反ではないが――」

「ならば、儂が賭ければ良かろう?」


 軽装髭面なる元大武闘会参戦者――デルフィンの背後から、また一つ声が響く。それは杖をつき、腰を曲げた老境の男であった。仙境に立つ者めいて白髭を伸ばし、白布をまといて腰の辺りで縛り付けている。おおよそログダンの者とは、異なる雰囲気の人物だった。


「爺さん? コイツは違法で……」

「わかっておる。ほれ、これでどうじゃ」


 老境の人物が、金貨を三枚取り出した。賭博師は思わず目をひん剥いた。老人が手にしていたのが、ラガダン金貨だったからである。さしもの賭博師も、これには。


「爺さん。ちょっとコイツは」

「どうせ、蛮人絡み故に賭けが成立しておらぬのじゃろう? 老境の遊びと思うがいい。ガナンに、これを。ほれ、アンタも。儂に金を預けるが良い」


 老人が、金貨を賭博師に押し付ける。その上で、デルフィンにも賭けを促した。デルフィンは軽く唸ると、促されるままに老人にポメダ金貨を二枚託した。老人はそれを再び、賭博師へと手渡した。賭博師は首を横に振るが、二人は有無を言わせなかった。


「……爺さん。只者じゃないだろう」


 大金を預けられた賭博師が、フラフラとその場を立ち去って行く。その姿を見送ってから、デルフィンは老境へと視線を飛ばした。しかし。


「ホッホ。ただの老境の戯れですじゃよ」


 老人はただ、軽く微笑むのみだった。


***


 罵声の合間をつんざいたドラを合図に、二つの光は真っ向から衝突した。


「ぬぅん!」

「ハッ!」


 もとよりそのつもりであったろうガノンはともかく、パリスデルザまでもが正面から動く。これは見る者にとっては意外な展開であった。先の戦と同じく、華麗にいなしてねじ伏せる。蛮人の心を叩き折り、偉大なるログダンに二度と踏み込むことがないよう振る舞うのだと、観衆どもは信じていたであろう。だというのに。


「……先の戦に比べて、随分と雄々しく振る舞うのだな」

「いかに我といえども、血が沸き立つということはあるのだ」


 互いに打ち合った直後の鍔迫り合いのさなか。両者は罵声に紛れて言葉を交わす。蛮人への憎しみをくゆらせる民草どもには、けして聞き取れぬほどの声であった。


「なるほど、な!」


 直後ガノンが、膂力を利してパリスデルザを押し込んだ。揺らいだ態勢を整えるべく、金髪剣士の足が大きく下がる。そこを突いて、ガノンは強引に鍔迫り合いを引っ剥がした。【使徒】たる能力に任せた、力任せの振る舞い。しかしパリスデルザの脳天はがら空きだ。ここを唐竹に割れば、それこそ完全に勝利ではあるのだが。


「そうはいきませんぞ」


 己の不利を読み取ったのだろう。パリスデルザは、恐るべき速さで回旋して距離を取り、瞬く間に構えを直した。なんたる判断力。なんたる読み。


「やはり、真っ向勝負では貴君が優位ですな」

「……」


 一つ息を吐いて、両者が睨み合う。しかし沈黙もわずかなこと。今度はパリスデルザが、突きに打って出た。しかも。


「だんまりなら、参りますぞ。これが、見切れますかな? 」


 見よ。パリスデルザの突きが、異様に速い。腕が幾本もあるかと見まごうほどの、恐るべき速さの片手突きだ。しかもその中に牽制は一つもない。すべてがすべて、必殺の意志を込めた技だった。


「ぬうっ!」


 さしものガノンも、これには唸る。上半身の動きだけで突きをかわし、機を窺う。恐るべき回避力。しかし、あまりにも突きが速い。戻りも速い。有り体に言ってしまえば、隙が皆無だ。攻め手が見出だせない。ならば。


「チイイイッ!」


 ガノンは蛮声を上げつつ、大きく踏み込んだ。狙いは突き出し、その瞬間。右足を斜め前に踏み出し、回避と攻撃を、同時に組み立てんとする。右手に剣を持ち、横薙ぎに振るう。胴を取れればと狙ったが――


「さすが。ではありますな」


 わずかに半歩、剣速が足りなかった。ガノンの動きを見て取ったパリスデルザは、突きの勢いで歩みを進めた。そしてそのまま素早く構えを直し、気勢を正した。


「なるほどな」


 ガノンは、踏み込まなかった。否、踏み込めなかった。それほどまでに、パリスデルザが速かったのだ。ガノンは剣を腰近辺に構えたまま、隙を窺う。上半身はやや前傾。腰を落とした、獣の如き構えだった。


「さてはて。次はどうしましょうか」


 一方パリスデルザはといえば、構えはなお涼やかなままであった。ガノンに対して正面に構え、剣先は中段。いついかなる攻めが行われたとしても、即座に対処し得る。およそ剣を習う者であれば、初歩の初歩として覚えさせられる構えであった。


「……」


 両者は沈黙したまま、じり、じりと動く。しかし二人は、すでに想像上で幾重もの攻防を繰り返していた。ある時はガノンがパリスデルザを袈裟斬りに仕留め、またある時はパリスデルザの前にガノンが膝をついた。だが、現実の二人は動かない。勝負の形は、まだ起こりすらも発していない。いつ、いかなる形で、この戦は動くのか。


 ひゅううう……。


 不意に、風が吹く。突風ではないが、砂粒が巻き上がる程度のものではあった。風下だったガノンが、砂粒を食らう。瞬間、彼は顔をしかめた。その時!


「っ!」


 中段に構えていた、壮麗なる剣士が動く! 足を踏み出し、剣を掲げる! その狙いは、斬撃! 顔をしかめたわずかな隙を、こじ開けるための一撃!


「ぬうっ!」


 しかし、ガノンとて【大傭兵】と呼ばれし男である。一歩出遅れたとはいえ、その程度で膝を屈する戦士ではない。即断で跳び下がり、間合いを取る。そして、そのまま右へと駆け出し、攻撃を図らんとする。だが、パリスデルザも一廉の戦士、そして【武神】に愛されていると思しき者である。追い掛けるように駆け、隙を与えない。また一度、膠着が訪れる。そう思われたが。


「オオオッ!」


 闘技場に響く、蛮声が一つ。観客の内に潜む、幾人かの才ある者たちは目を剥いた。雄々しく地を蹴り抜いたガノンが、中空高くに跳び上がったのだ!

 それは、概して言えば決死の行動である。仮にガノンが大振りの唐竹割りを繰り出すとすれば、跳躍の高さはともかくとして、胴に大きな隙が生まれる。見切ったパリスデルザに横薙ぎを叩き込まれてしまえば、いかなガノンといえども。それほどの大博打を、彼は繰り出したのだ。しかし。


「っ!」


 パリスデルザの選択は違った。大きく飛び退き、間合いを取ったのだ。直後。ガノンの唐竹割りが、パリスデルザの立っていた位置に突き刺さる。たちまちビシビシと地が割れ、闘技場にまたしてもヒビが走った。なんたる威力。なんたる質量。パリスデルザは、これを予見したのであろうか。なんたる眼力。


「届かん、か」


 ガノンが笑う。


「いま一歩、ですよ」


 パリスデルザも笑う。それを受けて、ガノンが口を開いた。


「おまえは、一刀命奪の剣を知っているか」

「なるほど。剣士の理想ですな。一度ひとたびの傷にて、死に至らしめる。確殺の剣」


 パリスデルザが、言葉に応じる。しかしガノンは、首を横に振った。


「おれにはわかる。あれは良くない」


***


 罵声にまみれていた観覧席も、今に至ってはパリスデルザへの圧倒的な声援へと変わっている。しかしその中にはチラホラと、この戦いの真実を見抜く者どもが隠れていた。


「兄者。今の言葉」


 禿頭とくとう大柄にして、背に大斧を携えた男が口を開く。


「聞こえた。聞こえたぞ弟。あの蛮人、一刀命奪の境地を否定した」


 すると、隣に座りし長髪矮躯わいくの男がそれに応じた。口ぶりからすると、二人は兄弟か。闘技場を圧する声援の中、ガノンとパリスデルザが交わす言葉を正確に解する。恐るべき聴力が、二人からは窺えた。


「さてはて。どうする兄者。あの蛮人、荒野に流れる噂が真なら」

「どうする弟。『ガナン』なるは真っ赤な大嘘。真の名は【大傭兵】ガノン。ラガダン百金の賞金首ぞ」


 二人の語らいは、大歓声にかき消されて周りには聞こえぬ。そもそも、この声量の中で会話が成立していること自体が異様であった。


「そうさな。常ならば、首を取ろうにも相応の痛手」

「だが、この戦の後ならば」

「どちらが勝とうが、負けようが」


 二人の目が、狂気に光る。だが二人は、気付いていない。この闘技場には、他にも殺意、あるいは野心を燻らせた者どもが潜んでいる。そして彼らもまた、闘技場での戦、その終わりを待っている。そして、貴賓席では――


「この囲みはなんだ」

「アンガラスタ公のお指図にて。あの蛮人を引き入れたいきさつについて、終の戦が終わり次第、お尋ねしたいとのこと」


 ローレンが、周囲を屈強なる兵士に囲まれていた。兵士どもは皆重装。鎧兜や武具には、紋章紋様が刻み込まれている。ログダンの軍の中でも、一際精鋭であることには相違なかった。


「我がお眼鏡の戦士が、いかなる仕儀にて」


 内心では心当たりを複数持ち合わせつつも、ローレンは表情を変えることなく兵に問う。この程度のことでいちいち表情を変えるようでは、高位の貴族、八大公爵家の当主などとても務まらぬ。これもまた、教育の賜物であった。


「あの『ガナン』なる者。とある賞金首が名を変え、我が国へと潜り込んだ疑いがありましてな」


 兵――実際にはその中の隊長と思しき者だ――は、あからさまに怪しむ視線をローレンへと投げる。ローレンが、なんらかの意図を持ってガノンを引き込んだ。口には出さねど、そういう疑いを掛けている。アンガラスタ公爵家ならば、そこまで見切るだろう。

 ローレンは、小さく息を吐いた。大立ち振舞いをしているガノンを責めたくもあるが、先の戦からこのかた、彼には重い戦いがのしかかっている。全力を出すなと言う方が酷でもあった。仮に責めるのであれば、彼の内心を見抜けなかった、己の方が適格だろう。


「なるほど。それは重篤な問題ですね」

「いかにも。今は祭典のさなかゆえ囲むにとどめていますが、終わり次第、ご協力を」


 とはいえ、ローレンは表情を変えぬ。変えれば、敏い者には見透かされる。見透かされれば、すべてが終わる。そして同時に、この苦境を切り抜ける術を考えてもいた。しかし彼女にはひらめくものがなかった。あるとすれば、それはガノンの勝利。ガノンがパリスデルザに打ち勝ち、王国簒奪の謀りを打ち砕く。それ以外に、光明は見当たらなかった。


「頼む。勝ってくれ……」


 彼女にできることは、密かにガノンの勝利を祈ることだけだった。


***


 そんな周囲の変化を知ってか知らずか、戦の場には剣呑な空気が漂い始めていた。


「良くない、ですと」

「ああ、一刀命奪。あれは良くない」


 ガノンの言葉にパリスデルザが問い、ガノンがまた返す。ガノンを包む温かな光に、変化はない。しかしガノンの目の色は、一層虚無に染まっていた。ここではない遠くを、見据えているようでもあった。一方、パリスデルザはというと。


「剣士の境地に、なんたる無礼を。貴君は、なにをもって」


 高みを、強さを求める剣士らしく、その手に力が籠もっていた。にわかに音が鳴りそうなほどに、剣の柄を握り締めている。おぼろげに彼を包んでいた光が、鋭さを帯びつつある。彼から、涼やかさが消えようとしていた。


「たしかに、おれは境地に至ったことがない。だが、そういう性質たちの剣を、握ったことがある」

「ほほう」


 ガノンの返しに、パリスデルザは距離を詰めた。腰を落とし、剣を下段に据えている。いつでも斬り掛かれる。そう言わんばかりの態勢だった。


「悪くはない。流石の剣だった。だがな」


 ガノンが構えを取る。両腕を広げ、腰を落とす。どちらかと言えば、拳と身体で戦う者の構えに近い。身体の正中線が、がら空きである。だが、闘志は漲っていた。気勢でもって、襲来を防ぐ狙いか。


「技と、気構えが鈍る。どんなぬるい攻撃でも、当たれば殺せる。その緩みが、気を鈍らせる」


 じりり。ガノンが距離を詰めた。十歩ほど離れていた両雄の間合いが、七歩、五歩と迫っていく。そして。


「それでも、おまえは高みを望むか?」


 ガノンの問いが、すべてを断ち切った。


「蛮族如きが、剣の境地を語るなぁっ!」


 解き放たれたかのように、パリスデルザが剣を振りかざす! ガノンに向かって襲い掛かる! ガノンはそれを受ける! 弾き返す! そのまま二合、三合、両雄は渡り合う! 刃鳴り散らす音が、観客の蛮声をつんざいて響き渡る! 削れた刃金が、両者の皮膚をかすめ、傷を作る! 激しい攻防! 観衆に潜む技ある者も、これには目を見張った!


「キエエエッ!」


 わずかに離れた間合いから、パリスデルザが渾身の突きを放つ! ガノンはこれを身をよじって回避! そのまま踏み込み、横薙ぎを放つ! だがパリスデルザは間一髪で超旋回! ぐるりと回って、間合いを取る! しかし!


「隙あり!」


 回避の際に一瞬だけ目線を切った。それがガノンに、大きな隙を晒してしまった。先にも述べた通り、熟達者同士の争いは一瞬の隙が命取りとなる。

 パリスデルザに襲い来たるは、再びの飛び込み唐竹。それも、一際高い。先刻のものより、威力が高いのは明らかだ。

 彼は考える。飛ぶか? だが態勢が整っていない。さらに言えば目前の敵は、それさえも読み切っている。下がったところで、そこにめがけて叩き込まれる。パリスデルザもまた、有数の剣士である。故に、見えてしまった。ならば。


「オオオッ!」


 パリスデルザは、両手でもって剣を掲げた。この一撃、全力で受ける他なし。彼は覚悟を決めたのだ。パリスデルザの身体が、一際輝きを放つ。彼が自覚しているかはわからぬが、武神の愛が、彼に呼応しているのは明らかだ。この一撃が、勝負を分かつのか。


「ぜりゃあああっっっ!」


 ガノンの蛮声が響く。観客のざわめきが不協和音を描く。諸手の唐竹割りが、パリスデルザの剣をめがけて振り下ろされる。凄まじい刃金の音が、すべてをかき消し、場を染め上げ――


「がぁあっ……!」


 短くも長い沈黙の後、パリスデルザが片膝をついた。わずかに間を置いて、彼が掲げていた剣にヒビが走った。ガノンに振り下ろされた箇所から破断が始まり、パリスデルザの涼しげな顔に、刃が降り注いだ。必然、傷が生まれる。だが、彼は動かなかった。なにかを噛み締めるかのように、ただただそこに鎮座していた。


「……」


 罵声を上げていた観客たちも、気が付けば皆沈黙していた。今起きている現実。その先にあるものは。否定の意志か。言葉を溜めているのか。ともかく、彼らは皆、一様に押し黙っていた。


「……」


 ガノンは、巨躯でもってパリスデルザを見下ろしていた。その目には、今も虚無の陰りが残っている。かつての黄金色は、いずこに消えてしまったのか。


「まい……った」


 その言葉が放たれるまでには、たっぷりの時間が必要だった。それが、パリスデルザにとって必要な時間だったのか。それとも、ただただ現実を否定するためだけの時間だったのか。それは、彼自身にしかわからない。たがともかく。勝負を決する言葉が、今ここに発せられた。


「勝負あり! 終の戦、勝者はパクスター公お眼鏡、『ガナン』!」

「うおおおおっっっ!」

「蛮人が優勝だと!?」

「許せるかっ!」

「ぶち壊せっ!」


 拡声器を持った伝達者が、終の戦、その結末を観客に告げる。すると観客どもの内、血気盛んな者が立ち上がった。あちら。こちら。そちら。円形闘技場コロッセオの、あちこちで。その数、千に至ろうか? そしてその中には――


「兄者、ゆこう」

「うむ。【大傭兵】ガノンを討ち取る好機ぞ」

「賞金首ガノンよ。我が刃に跪け」

「赤髪の牙犬。今こそ、その死をもって罪をすすぐが良い!」


 幾人もの猛者たちが騒擾に紛れ、ガノンを討ち取らんと動いていた!


「いかん!」


 無論軍隊が飛び出し、沈静化を図る。だがその内の幾人かはさり気なくガノンの側を向き、彼に槍の矛先を向けていた。その思惑は明らか。この騒ぎを利用してガノンを捕縛。ひいてはローレンの取り調べを目論んでいるのだ。つまるところ、アンガラスタ公の息が掛かった者である。彼らは彼らでガノンを襲撃者から守らなければならぬ。すなわち、起きるのは――


「あの蛮人をぶちのめせ! 大武闘会をぶっ壊せ!」

「ガノンに死を!」

「陣形を保て! お二人をお守りするのだ!」

「チイッ……!」


 襲う者。守る者。そして脱出を目論む者。三つ巴の大混乱。大武闘会の歴史を汚す大騒乱が起こるかに思われた。その時!


「やめえええいっっっ!!! 静まれえええいっっっ!!!」


 貴族たちの集う貴賓席。その最上段から、一際鋭い大音声が轟いた! 声の主は玉座の傍ら。鼻下から顎にかけて、豪壮たる髭を蓄えた男だった!


***


 大武闘会を終えてしばらくの後。とある邸宅。すっかり旅支度を整えた男と、貴族じみた装いに身を包んだ女が、語らいの場を持っていた。


「では、行くのか」

「ああ、行く」


 旅支度の男――ラーカンツのガノンは、正装に身を包んだ女――ローレン・パクスターに向けてハッキリと応じた。ガノンの手には、幾枚かの札――近隣数カ国の通行証が、しっかと握られている。『ガナン』としてのものではあるが、彼が安全に旅路を行くには欠かせぬものであった。


「通行証は、確かに」

「ああ、受け取った」


 今一度、二人は確認する。これを手にするまでにも、二人は散々に労苦を重ねたのだ。今さら不足や不便が生じるわけにはいかない。その気構えを、両者は共有していた。


「……結局、陰謀は明るみに出なかったな」


 ガノンが滞在期間を振り返り、言葉を発する。すっかり大武闘会での傷は癒え、容貌魁偉の身体には気力が満ち満ちている。それだけの期間を出発までに要してしまったのには、のっぴきならぬ理由があった。


「アンガラスタ公爵家が、二の手を練っていたからな。『万が一にもお眼鏡……パリスデルザが敗れた場合は、あくまで王佐、宰相の役に徹する』。そちらの札を、切られてしまった」

「しかしそのおかげで、おれは助かったとも言える。あの時おれに向かっていた連中の中には、幾人か手練れが潜んでいた。制止がなければ、おれは寄って集って嬲り殺されていたかもしれん」

「それは……」


 ローレンはガノンの言葉を否定しかけ、直後首を横に振った。ガノンがここまで言うことの重みを、彼女とて知らぬ訳では無い。『事の行き来は、賽の目の如し。誰にも操れぬもの』――そんな古い言葉を、彼女は脳裏に浮かべた。


「ともあれ。すべては無事に終わり、アンガラスタ公爵家の陰謀も闇に沈めた」


 彼女は言葉を続ける。あの折、群衆と刺客、そして捕縛を試みた軍隊を止めたのは、陰で糸引くアンガラスタ公爵、その人だった。公爵はガノン……いや、『蛮人ガナン』を称え、終の戦、その勝者と認めた。そして様々に差し障りがあるとし、覇者を称える式典などを一旦繰り延べとしたのである。

 もちろん、これは常ならぬことであった。しかしそもそも、蛮人が大武闘会を制したことそのものが、史上初の事態である。そういう理由もあり、観衆は不満を漏らしつつも、結局は矛を収めざるを得なかった。こうなっては手練れどもも悪目立ちするわけにもいかず、観衆に紛れて得物をしまい込んだ。結果、ガノンはなんとか窮地を脱したのだった。


「公の呼び立てで、おれまでもが招かれたのには驚いたがな」


 ガノンが、その後のことを振り返る。蛮人の優勝。そして、その蛮人が異国のお尋ね者である事実。蛮人をお眼鏡に据えた背景。それらを踏まえて、アンガラスタ公爵の屋敷で密談が持たれたのだ。そしてその場では、いくつかのことが定められた。主としては、下記の五つとなる。


 一つ。此度の大武闘会、その覇者は蛮人の『ガナン』とすること。

 一つ。『ガナン』への褒美は、ガノンが求めていた『近隣諸国の通行証』とすること。

 一つ。表向き『ガナン』は覇者への報奨をすべて辞退したものとし、お披露目や式典は一切執り行わぬこと。

 一つ。賞金首であるガノンがログダンに足を踏み入れた事実は、一切皆無とすること。

 一つ。アンガラスタ公爵家とパクスター公爵家は、これらの約定をもって相互の疑惑一切を不問とすること。


「公爵も汝の姿には驚きを見せていたからな。溜飲が下がった」

「……ならいい」


 ガノンは、いよいよ席を立った。これ以上語らっていれば、誰ぞが気変わりを起こさないとも限らない。密談からさして時は過ぎていないが、位階上昇を目論む貴族どもが、動いていないとも限らなかった。しかし。


「ガノン」

「なんだ」


 ローレンに呼び止められ、ガノンはいかつい顔を振り向かせた。その瞳に映ったのは、時を経ようとも変わらぬ、女戦士の顔だった。公爵と、漂泊にして賞金首の蛮人。立場は変われども、変わらないものがそこにはあった。


「報酬だ」


 ローレンが、袋を投げ渡す。ガノンは表情を変えることなく、それを受け取った。中を改める。混じり気なしの、ラガダン金貨が詰まっていた。重さからして、おおよそ百かそこらか。これにはガノンも、思わず大きな眼をひん剥いた。


「おい」

「私の願いは叶った。汝は、約定を果たした。これは、その報酬だ」

「……」


 ガノンは、しばし無言だった。ローレンの目を、じっと見続ける。しばらくそうしてから、彼は軽く息を吐いた。


「わかった」


 ガノンは、無造作に袋を腰へと括った。ローレンの、笑う声。彼は耳聡く、それを指摘した。


「なぜ笑う」

「あの折と、変わっておらんとな」

「そうか」


 ガノンは、それだけ言って旅路へと向き直した。タラコザへの道のりは未だ遠い。これ以上の時間は、費やせなかった。


「さらばだ」

「ああ、さらばだ」


 かつては交わさなかった別れの言葉を、今度は如実明確に交わす。こうしてガノンは、再び旅路へと向かったのだった。


時を経てなお・完

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