北辺の巫女姫(ガノン北辺行その1)
ヴァレチモア大陸の北辺。さらにその北の果てにある海上には、人跡未踏の孤島がある。否。真実を申せば、未踏ではない。すでに何人もの、到達者がいる。未踏というのは、あくまで他者に、到達が知られていないという意味でだ。
見よ。今も氷山の海をかき分け、孤島を目指す船がいる。舳先には顔の下半分を髭で覆った男が一人。その後ろには、幾ばくかの荷物が載せられていた。後ろの方には、櫂を構えた男が一人。どうやらこの男が、船を操っているようだ。
「オーウ。オーウ」
いささか陸の民には意味を伝え難い声を上げつつ、船は氷の海を行く。氷山の動きなどわずかな程の先すら読めぬというのに、その動きには淀みがなかった。櫂一つで、巧みに動かされていた。彼らにもまた、なんらかの神の【加護】がもたらされているのであろうか。外面からでは、その有無はわからない。ややもすると、多神教における加護とは種類が違うのやもしれぬ。
「オーウ……オウッ!」
やがて船は、滑らかに孤島へと滑り込んだ。淀みがないとは言いつつも、我々の目に入ってからはゆうに一刻が過ぎている。それだけの慎重さが、この操船には必要だったのだ。
「よくやった。荷を下ろすぞ」
髭面の男が、船を降りる。櫂を構えた、後ろの男もだ。見れば二人は、毛皮を使ったであろう、分厚い服に身を包んでいた。寒さ極まりない極北においては、必需品とも言えるものだった。それでも今の時期は、まだ風がない。これがもう少し時期が進むと、風が出る。そうすると氷山の動きが勢いを増し、船が閉じ込められる恐れがある。そうなると、とてもこの島までの船は出せない。
「恐らく、今回が今年最後の渡航だ。荷物を水に漬けるんじゃないぞ」
「わかっている。『おつとめ』も、難儀なもんだぜ」
「そう言うな。この院は、おれたちの護り神なんだからな」
「わかってるって」
男二人は、軽口を叩き合いながら荷を下ろす。口ぶりからするに、この孤島における必需品の類であろうか。食料と思しきものも、それなりの量が積まれている。だというのに、筋骨隆々たる男二人は、すいすいと荷を下ろしていた。よく鍛えられているのだろう。彼らの動きには、淀みというものが一切なかった。
「よーし、仕上がったぞ」
「まったく、巫女姫様様々だぜ」
「そういうこったな」
一刻も掛けずに荷下ろしを終えた男二人は、孤島の対岸へと向けて歩き出す。そこには一軒の、白亜の院――多神教で言う、聖堂に近い建造物だ――があった。いつ、誰が建てたのか。男二人は知らぬ。その前の『おつとめ』も知らなかった。ややもすると、北辺の民すべてが、この院のいわれを知らぬのやもしれぬ。されど、彼らにとってはそれで良かった。この院そのものが、彼らにとっての『護り神』なのだから。
「来たぜ」
「ああ、『おつとめ様』。ありがとうございます」
手慣れた様子で髭面が院の戸を叩くと、現れたのは三人のおなごであった。一人は年嵩、二人はまだ、うら若い。いずれも北辺の民が住む村々から、選ばれし者たちであった。彼女たちは清冽な衣服に身を包み、年嵩は長として死ぬるまで、うら若き二人は一定の期間、この島で生活をするのだ。
なお、仮に年嵩が海に送られる身となれば、二人の内のどちらかが年嵩の役目を引き継ぐ。そういう決まりに、
「やるぞ」
「はい」
男二人は己が腕で。女三人は台車を引いて。岸に置かれた荷物を院へと運ぶ。彼ら彼女らの肌は、ヴァレチモア大陸の者に比して赤みが強い。北辺の民に、共通した特徴だった。道中において、髭面と年嵩は言葉を交わす。
「巫女姫様に、お変わりはないか」
「ええ。日々お祈りに、励まれております」
「そりゃあ良かった。ここに来た折には、日々泣き腫らしておられたからな」
「まったくです。当時、ポセドー様のお怒りは激しいものでした」
ポセドー。北辺の者における
「ともあれ。巫女姫様がお役目を全うされているようでなによりだ」
「ええ、ええ。まったくです。ポセドー様のお恵みがなくば、我らは即座に滅びの道を歩むでしょう」
男と女は、にこやかに言葉をかわす。ポセドーという神が、彼らの生活と心に深く根を下ろしている。その証左であった。そうした会話を繰り返す内に荷物は減っていき、二刻ほどを掛けて、すべてが院に飲み込まれていった。
「いつもありがとうございます。我々院の者、おつとめ様の助けがなくば生きられぬ身。巫女姫様に代わって、お礼をば」
「なぁに。おれたちだって、巫女姫様がいなくちゃ猟や狩りにも出難くなる。お互い様だ。巫女姫様に、礼を言っておいてくれ」
「必ずや」
定型的な、さりとて砕けたやり取りを経て、男二人は船へと戻っていく。やがて漕ぎ出された船が、氷山の向こうへと消えて行く。それを見送ったのち、年嵩はようやく口を開いた。
「さあ。巫女姫様に、おつとめ様のご奉仕を言上しましょう」
「はい」
「はい」
年嵩は娘二人を引き連れ、院の中へと向かう。その院は丈夫に見えるが、大変に簡素な造りであった。内装も、右に同じ。祈りのための部屋と、生活のための領域しかない。豪壮という言葉とは、まったくの無縁であった。しかしその中で、唯一中原の聖堂とは異なるものがあるとすれば。
「参りましょう」
「はい」
祈りの領域。その一角に、階下へと降りる階段があることだ。年嵩は蝋燭立てを手に持ち、娘が蝋燭に火を灯す。それだけで、階段一面がまばゆく照らされた。三人はひとかたまりとなり、ゆっくりと階段を降りる。数十段ほど降りたところで、広い空間が三人を待ち受けていた。多数の蝋燭によって明かりが灯された、厳粛さを思わせる地であった。
「巫女姫様。巫女姫様はおわしますか」
年嵩が、声を上げた。すると、即座に『はい』という言葉が返って来た。年嵩は巫女姫の空間に踏み込む非礼を詫び、空間を進んでいく。その先には。
「……」
純白の、花嫁さえも思わせる装束をまとった娘がいた。娘が静かに顔を上げ、年嵩を見る。歳の頃は、十三から十五ほど。少々違和を感じるのは、蝋燭越しにでも肌の白みが強いことであろうか。ヴァレチモア大陸の民に、近しい色合いであった。
「巫女姫様におかれましては、今日もご機嫌麗しく」
「……ええ」
正対ののち、年嵩による、通り一遍の言上が始まる。娘はそれを、言葉少なに受け流した。年嵩も長々と話すつもりはないのだろう。速やかに、流れるように本題へと入り。
「……かくたる働きをもって、此度のおつとめ、あとは港に戻るばかりなり。巫女姫様におかれましては」
「ええ、ええ。ポセドー様の鉾に、確たる祈りを捧げましょう」
「ありがとうございます。巫女姫様のはたらきにより、民の暮らしが成り立ちます。それでは。海に
「あらんことを」
驚くほどにさくりと、挨拶のこと述べは終了した。即座に三人はまた来た道を戻って行き、巫女姫はそれを座したままに見送る。やがて、足音が聞こえなくなったのを見計らって。
「……はあ」
巫女姫は大きく息を吐いた。花嫁めいた装束を脱ぎ捨てたい衝動に駆られるが、それはこらえる。しかし彼女は、端正な顔を物憂げに歪めていた。
「一体いつまで。いつまでここに居ればいいのよ……」
誰にも聞かれていないことを確認してから、巫女姫は大きく嘆息した。そう。実のところ、彼女は北辺の人間ではない。北辺よりも、ヴァレチモア大陸に近い箇所に住む人間だった。幼き頃――およそ十年ほど前に、いかなる経緯によりてか、この地へと連れて来られたのだ。以来あの年嵩に教育を受け、最初は抵抗しつつ、のちに諦め半分でこの職務――ポセドーなる神の鉾へと祈りを捧げ、北辺一帯の海の平穏を祈る――についていた。
しかしながら、彼女は今も覚えている。元の家族との食卓を。温かかった村での生活を。それらを一切合切奪ったのが、この北辺に住まう連中なのだ。許すまじとまでは言わないが、いつかどこかで、この職務から解き放って欲しい。そう考えていた。
「……?」
不意に、蝋燭の炎が揺らいだ気配がした。彼女は訝しむ。この【祈りの間】には、あの階段以外に入口はない。すでに十年も暮らしているのだ。彼女はこの地の構造を良く知っていた。あの階段の入口が蹴破られ、助けがやって来る。そんな妄想を何度繰り広げたかわからない。されど、そんなことは一度たりとて、起きなかった。しかし。
「……あの魔女、なにを考えている。直に送り込むにしても、ほどがあるだろう」
「いっ……!?」
不意に聞こえた声こそが、彼女の不審と妄想を現実のものにした。慌てて振り向けば、そこには容貌魁偉な男が一人。
「おお、驚かせてしまったか」
肩まで蛇の如く伸びた、火噴き山めいた赤髪。
口元を覆う赤髭。
盾の如き五角形、赤銅色の顔面を構築する、大ぶりなその構成物。特に目立つは、黄金色をした瞳。
腰に宝剣めいたこしらえの剣を佩き、豪壮な鎧に身を包んでいる。一見しただけでも、相応の身分にあることは明らかだ。
そして右腕に、なにやら箱を抱えていた。
「な、何者ですか貴方は。答えねば、声を上げますよ」
それでも巫女姫は、気丈にも男を誰何した。身をよじり、視線は逸らし気味。されど、語気は強いものであった。
「済まない。訳があってこの地に来た。ガノンという。今はヌルバダの王を務めている」
「ヌルバダ?」
男――ガノンの素直な返答を、しかし巫女姫は訝しんだ。ヌルバダなど、彼女の知らぬ国の名だったからである。そもそもこの男は、どこからここに入って来たのだ。あからさまに不審である。彼女はやはり、声を上げようとして。
「待て。落ち着いてくれ。済まぬ。北辺の者に、東部域の話をしても通じぬのは目に見えていた。それでもおれは、この地に用があるのだ。むざむざ捕まる訳にはいかぬ」
「言い訳は、捕縛ののちにするがいいでしょう」
ガノンの口上を耳にしてなお、巫女姫は態度を崩さなかった。しかしガノンは、わずかに考え込む。それを諦めと見たか、巫女姫が大きく息を吸う。その瞬間、ガノンは仕草のみで待ったを掛けた。
「っ」
「声を上げる。それ自体はおれが不審者故に、仕方あるまい。だが、同時におまえの立場も悪くなるだろう」
「王の自称に続いて、またもハッタリですか。不審な男を不審と告げて、なにが悪いと」
巫女姫の語気は揺るがない。しかしガノンは、彼女を直視し、言う。
「その装束。おまえは北辺の海神に仕える、巫女姫だろう。巫女とは、純潔を神に捧げるものだ。だというのに、おまえは今。不審な男をこの場に招き入れている。間違いなく、純潔を疑われるだろうな」
「……」
状況をもって構築されたガノンの言い分に、今度こそ巫女姫は沈黙した。彼女は、三人の世話役を思う。同じ年頃と思しき二人はともかくとして、年嵩は間違いなく口うるさくのたまうだろう。純潔に関して、忌々しい確認行為をされるやもしれない。自分の身を守ったにもかかわらず、疑いが掛かる。それは確かに、面倒だった。
「こんな現れ方こそしてしまったが、おれは多神教連中から密使……言伝を頼まれている。おれを捕縛し、尋問したなどとあちらに知れたら、もっと面倒なことになるだろうな」
「……」
今度は、巫女姫が考え込む番となった。面倒に、面倒が重なる手間を取るか。一旦目の前の男による話を聞き、運命共同体めいて策を練るか。いずれにせよ、このガノンなる男は狡猾だ。それでも声を上げるとなれば、己を人質にしてでも抵抗するやもしれない。それはそれで、外交にかかわる面倒が発生しそうだ。
「……私の手には、余る話ですね」
小さく、呟く。彼女が出した結論は、【丸投げ】であった。ガノンという男は、自分の手には余る存在だった。ならば話を聞いた上で、世話役――年嵩に押し付けるのが最善。彼女はそう、判断した。
「話を、伺いましょう。まずはいかようにして、ここに参ったのか。続いて、この地に来た主題。言伝とやらの内容ですね。それらを伺わねば、とても前には進めませぬ」
「いいだろう。話せば少々長くはなるが……。座っても、良いか?」
「構いませぬ。こうなってしまったからには、運命をともにする他ないのでしょう。存分に、お話しください」
「ありがたい」
ガノンが、巫女姫の正面に座る。巫女姫も、男に視線を合わせた。その後方には、巨大な鉾が
「そうさな……少々荒唐無稽なことにはなるが……」
そう言ってガノンは、いきさつを語り始めた。
***
その紫色の空と黒ぼったい大地――かつて駆け巡った荒野とは似て非なる大地は、随分と久しぶりに見るものであった。王たる執務を終え、眠りにつくべく私室に入らんとした瞬間にこれである。ガノンは少々不機嫌気味に、口を開いた。
「……しばらくぶりに、踏み込んだな。それも、随分な仕打ちでだ」
「いんや、今回は『招いた』よ。無礼については、許しておくれ。こうでもしないと、秘密が保てないのさ」
答える声は、即座にあった。ガノンがそちらに目を向けると、常とは異なる出で立ちの【荒地の魔女】、バンバ・ヤガがそこにいた。黒布に顔や身体を包まず、亜麻色の長髪。彫りが深く、ほうれい線一つない整った顔。高い鼻。くっきりとした青い瞳。そのすべてを、【異界】の風に晒していた。服こそは黒布のままではあるが、ここまであけっぴろげな彼女を見たのは、実に初めてであった。
「……どうした、【荒地の魔女】。とうとう聖女に戻ったか」
「そうじゃない、と言いたいところだが……当たらずといえども遠からず、だねぇ。ちょいと、聖堂の連中から無理難題を言付かってね。手持ちの人脈で、頼れそうなのがアンタだけだったのさ」
ガノンの嫌味めいた言葉に対し、バンバ・ヤガはしわがれ声をもって返事をした。あいも変わらずの声である。今の晒された顔からすれば、酷く不似合いな声であった。
「おれの眠りを妨げるのだ。相応の報酬は頂くぞ」
「聖堂の連中に、用意させるさ」
「鎧を脱ぐ前で良かったな。仮に脱いでいたら、意地でも乗らなかったぞ」
半ば脅しめいて、ガノンが言う。無論、半分は冗談である。【異界】にてその主の意向に逆らうというのは、生殺与奪のすべてを主に委ね、己はそれに一切文句を言わないと宣言してしまうに等しい行為である。主を殺せるほどの力量があるのなら別ではあるが、【異界】とはおおよそ、その主が支配権を持つ世界である。よって、ほぼほぼどうにもならないというのが、正しい見解であった。
「だからこそ、そうなる前に【神隠し】たのさ。正式な着衣で向かわないと、捕まって妄言吐きとでも罵られ、あとは斬首で終わりだろうからね。それはアタシも、ごめんこうむるよ。ああ、そうだ。言い忘れていたよ。ヌルバダの王、ガノンよ。戴冠、おめでとう」
「取って付けたように言われても喜ばしくはないが……早く本題に入れ。多少の時空は無視できるにせよ、夜が明けてしまえばコトが漏れるぞ」
「その辺は、いろいろと手を打つつもりだけど……。ともかく、一度小屋に入ろうか」
魔女が手をかざすと、即座に木造りの小屋が現れる。そのかたわらには大釜もあった。かつてと変わらぬ、魔女の住まいであった。魔女はガノンを招き入れると、そそくさと茶の準備を済ませる。変にもったいぶらない辺り、本当に急ぐ気なのだろう。
「北辺、ってのは、ご存知かい?」
円座のテーブルにて対面すると、魔女は即座に話し始めた。ガノンは返事を省略し、うなずく。実際に立ったことはなくとも、聞いたことだけはあった。
「ヴァレチモアの北部域よりもさらに北。雪と氷が大地のほとんどを構成し、中原とはまた異なる生物がいるとも聞く。顔肌も、赤ら顔だそうだな」
「その通り。その最果てにね、連中の海神……その御神体を祀った院があるのさ」
「ふむ」
ガノンは相槌を打ち、続きを促した。己がいちいち割って入っていては、話が長引いてしまう。
「ところがその御神体……【ポセドーの鉾】ってのが曰く付きでねえ。大昔にね。聖堂九十神の御神体から、見栄えの良いヤツを連中に貸し与えるハメになった奴なんだ」
「ならば、取り返せばいいではないか」
ガノンからは、直情なる言葉。しかし魔女は、首を横に振った。
「正論を言うでない。当時、北辺どもはこう言ったのさ。『我々の御神体が賊徒に盗まれ、我らが土地は神の怒りによって危地に瀕している。我々が滅びれば、大陸にも危機が訪れる可能性がある。どうか我々を救うべく、格別のご配慮をもって御神体の貸与を許されたし』ってね」
「つまるところ、窮余の一策であったと」
「そういうことだね」
魔女は肩をすくめた。ガノンも、首を横に振る。一拍を置いたのち、魔女は言葉を続けた。
「まあそんな訳でかれこれ三から四百年は経つんだが、連中は他の御神体を作ることもせず、こっちから借りたものを【ポセドーの鉾】だと言い張るようになっちまった。いろいろアレコレがあったとはいえ、聖堂にしてみりゃ大問題だ。なんとかしたい。さりとて交渉の手管がない。ところが最近、事態が大きく動いた」
「まさか」
「そのまさかさ。真なる【ポセドーの鉾】が、とある盗人のおかげで見付かったのさ。すでに専門の者による鑑定も受けている。おおかた、本物だと見て相違ないそうだ」
「……」
『盗人』という言葉に、ガノンは少々顔を歪めた。しかし魔女はそこには触れず、話を続けた。
「で、聖堂としては北辺に取引を持ち掛けたいわけだが……いかんせん、正式に使節を立てての交渉となると、いろいろ面倒が多い。ましてや、御神体のやり取りも含まれる。アンタだからはっきりと言ってしまうが、本物のやり取りは事前に済ませ、正式な場では
「なるほどな。それで密使。だが」
「だろうね。どうしてアタシが話にかかわることになったのか。それは、【異界】の遍在性にある」
ガノンの訝しみを見て、魔女は即座に話を継いだ。ガノンも、それには素直にうなずく。そう。【異界】とはどこにでもあって、どこにも無きもの。逆に言えば。
「変に使節を用立てずとも、一息で北辺に顔を出せる、ということか」
「その通り。そうでもしなけりゃ、あっちとは距離があり過ぎる」
「なるほど……」
ガノンはようやく、合点がいった。たしかに、己の地位は王である。交渉者の格として、これ以上に良きものはない。聖堂の密命を帯びることには多少の抵抗があるが、そもそも報酬をもって行うのであれば傭兵としては問題がない。要は、極めて短期の雇われ仕事だと思えば良いのだ。結果としてヌルバダの国が良くなれば、それで良い話でもある。細かい部分は差し置いても、自儘以外の反抗手段は皆無だった。
「断る、と言ったら?」
「聖堂の誰ぞが、この異界に踏み込むことになるね。とはいえ、いきなり聖堂との接触は向こうさんも顔を引き攣らせかねない。難しい話になるかもね」
「……わかった。おれが行こう」
遂にガノンは、首を縦に振った。完全に納得したわけではないが、ここで抵抗を続けたところで、面倒が増すばかりである。ならば、さっさと行って話をつける。そのほうが、最善かつ最短だった。
「ありがたい。それじゃあ、真なる【ポセドーの鉾】をアンタに渡そう」
言うなり彼女は、一つの箱を持って来た。決して長くも、大きくもない。魔女の、胴の幅。その程度の、長さだった。
「まあ、これさね」
彼女はすっぱりと箱を開ける。そこには、三叉の鉾が納まっていた。さして派手ではないが、造りがしっかりしているように見える。その辺の鋼による生成物ではないと、はっきりと分かった。
「手垢がついたせいで輝きは薄れちゃいるが、れっきとした神器だ。大切に、扱っとくれ」
「わかった」
ガノンは造作もなく、しかし壊さぬ程度には慎重に、箱を貰い受けた。
「その重みこそが、今回のお役目の重要性だ。頼むよ」
「……」
魔女からの言葉に対し、ガノンは返事をしようとしなかった。
***
「……そんないきさつが、あったのですね」
「ああ。結果、おれはここに空間を繋がれてしまった。……いささか荒唐無稽だろうが」
「少なくとも、不審者よりは良いでしょう」
巫女姫は努めて冷静に、目の前に座る大男へと言葉を返した。しかし同時に、密かな落胆も覚えていた。北辺以外の地からこの場所へと連れて来られ、十年は下らぬ時節をほぼほぼ軟禁状態で費やしている。そんな己に対し、手が差し伸べられる気配がない。その事実は、あまりにも重いものだった。
「ともかく。貴方の存在に関しては側周りの者に通達します。すべてはそれからになるでしょう。それまでは、ごゆるりと」
巫女姫は、立ち上がろうとした。こうなった以上、事態は早めに伝えねばならぬ。伝達が遅ければ遅いほど、あの世話役どもは疑うであろう。そうなっては、自身にとっても面白くない。しかし。
「もう一つだけ、問いたいことがある」
彼女の動きを止めたのは、ガノンだった。先刻までとは打って変わり、やや低く、小さな声。巫女姫は思わず、彼へと近付いてしまう。
「どうされましたか」
「おまえの出身は、北辺か?」
「っ!」
巫女姫は、雷鳴に打たれたかのような錯覚を得た。今この場で、即座に打ち明けてしまっても良いのでは。そんな思考が、脳裏をよぎった。だが、己は理由を知らぬ。己がこの場を去ったところで、他の者が連れられて来ては本末転倒だ。いかなる理由で、この男は己に問うたのか? それを知る必要が、彼女にはあった。故に彼女は深呼吸を行い、平板に応じた。
「なぜに、そのようなことを」
「おれをこの場に送り込んだ女にな、言われたのだ。『伝え聞きであって確証はないが、鉾が中原の物であるが故だろう。北辺の者が近場の中原から娘を連れ去り、巫女姫に据えている……という話を聞いた。仮に真実であれば、鉾を返せば巫女姫も北辺の者で良くなり、連れ去りをする必要も、中原の娘を据える必要もないだろう。なんとか話を、取り持って欲しい』とな」
「……」
巫女姫は、いよいよ沈黙した。答えてもいいとは、彼女は思っていた。されど、誰かが耳をそばだてていたら? そういう仕掛けがこの場にないとは、彼女にはとても言い切れなかった。しかしガノンは。
「わかった。その反応で予想はついた。『そういうこと』だな」
なんたること。彼女の反応だけで、勝手に予測を立ててしまった。巫女姫は戸惑う。これが外れであれば、己は生涯この場で暮らすことになるのやもしれぬ。否、ややもすればいずこかへの幽閉や、海流し――事実上の死罪――さえもあり得る。こうなっては。
「その、私は……北辺の者ではありません」
彼女が真実を明かすと、ガノンは仏頂面のままに返した。
「予想はしていた。肌の色が、中原のそれに近かったのでな」
おお、おお。なんたる僥倖。巫女姫は今こそ、涙をこぼした。ポセドーなる海神にではなく、多神教の神々、特に運命神に祈りを捧げたい心境に襲われた。ああ、神は己を見ていてくれた。その思し召しに応えるためにも。
「ガノン様」
おお、見よ。巫女姫は今こそ、己が立場をかなぐり捨てた。ガノンに向かって、深々と礼をしたのだ。
「どうか、どうか私を故郷へ。お願いします」
「いいだろう。交渉次第ではあるが、努力はする」
ガノンの返事は、素っ気ない。されど、そこには重みがあった。少なくとも、巫女姫はそう感じた。
こうして、王と巫女姫は真に盟約を結ぶ形となった。しかしながら、まだすべてを果たす為の道は遠い。その第一歩が。
「にわかに信じ難い話ですね……。巫女姫様をたぶらかし、いずこかへ連れ去らんとしている。そう考える方が、合点が行きます」
にべもない言葉を放つ、年嵩なる世話役。彼女の説得と、北辺上層部との合議の取り付けであった。
「そう言われるとは、思っていた。だが、ここに真なる【ポセドーの鉾】がある。不審に思うのであれば、鑑定書と参考文献の写しも預かって来た。気が済むまで、とことん検分するがいい」
「良いでしょう。貴君の立場と素直さに免じて、鉾はしかるべき検分の場へとお移しいたします。鉾の真贋……少なくとも当時の文献との照合次第によっては。貴君の命を、ポセドー様に委ねることとなるでしょう」
「……やれるものならな」
年嵩の言葉に、ガノンは短く返した。脳裏で、自国ヌルバダを思う。王の行方不明に対し、廷臣はいかなる思考を巡らせるのか。【荒地の魔女】は、手を打つとは言っていた。しかし不確定な要素が、あまりにも多い。ガノンは一度思考を諦め、年嵩を見た。年嵩もまた、己を見る。彼女の目は、真っ直ぐであった。
「貴君の身柄につきましては……。ああ、そうでした。なんたる僥倖。貴君も、どうやら運が良いようですね」
ガノンへ裁きを下そうとしていたはずの年嵩が、急に文言を改めた。必然、ガノンは訝しむ。しかし年嵩は無視して、言葉を連ねた。
「貴君に、機会を与えましょう。対岸からの『おつとめ船』は、先ほど今年の務めを終えました。それ故、こちらから祭事に用いる小舟をお貸しします。わたくしからの書状も付けますので、それを持って対岸にまでたどり着き、自力にて身の潔白を証明してください」
「まだ疑うか」
「ええ。【異界】による空間接続が原因だとしても、巫女姫様の領域に踏み込むなど、本来であれば言語道断。聖教からの密使だということで裁きを保留していますが、それらすべてが妄言だった場合は……」
年嵩が、ガノンを睨み付ける。強い視線だった。ガノンも応じて、視線を返す。少なくとも彼には、【荒地の魔女】を信じる以外の術はなかった。
***
海岸に、一艘の小舟があった。三人も乗ってしまえば、即座に満員になる。そういう船だった。櫂も取り付けられており、一応は操縦も可能である。とはいえ、海上あちこちにある氷山にぶつかってしまえば、ひとたまりもないことは明らかであった。
「……なるほどな」
「ええ、そういうことです」
防寒装備をまとったガノンの首肯に、同じく防寒具に身を固めた年嵩が満面の笑みで応じた。ガノンは小さく息を吐く。予想はしていたが、ここまで陰険な対応をされるとは。しかし彼は、はたと思いついたように口角を上げた。
「いい機会だ。目が潰れる類の神器ではないようだし、一つ試してみるとしよう」
手に持っていた箱を、彼は地面に置いた。恭しくでもなく、その蓋を開ける。三叉の鉾が、顔を出した。これには思わず、年嵩も顔を引き攣らせた。
「貴君、なにを」
「知れたこと。この氷海を、祈りをもってこじ開ける。祈りの言上は知らぬが、真にこれが【ポセドーの鉾】であるならば」
「海神を試すか!」
一瞬、年嵩が怒りを見せた。しかしガノンは、至極冷静に、彼女を押し留めた。
「試すのではない。ただ一心をもって、祈りを捧げるのだ。それともなにか。言上を知らぬ者の祈りは、海が穢れるとでも」
「くっ……」
年嵩の、やや皺の深くなった顔が歪む。彼女は暫しの間、沈黙した。しかしそののち、せめてもの案を繰り出した。
「良いでしょう。貴君の祈りは、正当なるもの。ですが、誤った祈りで海が荒れては、わたくしどもの生活にも関わります。その言上、わたくしが行いましょう」
「わかった」
ガノンはいともあっさりとうなずいた。騙し討ちの可能性も否定はできぬというのに、なんたる豪胆さであろう。否。おそらくガノンは、彼女の信仰に賭けたのだ。彼女の信仰が真なるものであれば、その対象を、彼を追い込む道具としては扱わない。そう信じる他に、彼の道はなかったのだ。
「…………」
見よ。海岸にひざまずいた年嵩が、祈りの言葉を紡ぎ始めた。ガノンはゆっくりと、そのかたわらで鉾を掲げる。この鉾が、真なるものであれば。祈りは続き、やがて。
「っ!」
最初に声を上げたのは、付き人二人に見張られた巫女姫だった。その声によって、二人も気付く。鉾が、輝きを発していた。そして!
「道が、開ける……」
「海が、割れていく……」
付き人たちが、声を漏らす。氷海を構築していた氷山が、道を開くかのように左右へと分かれて行く。それは、まさに神威であった。それは、まさに奇跡であった。女たちは今、まさしく神話の光景に立ち会っていた!
「…………。どうやら、神器は真なるものだったようですね」
祈りに集中していた、年嵩が顔を上げた。
「最初から、そう言っていたであろう」
応じて、ガノンも口を開いた。年嵩は小さく、首を横に振って。
「我々は神に比してあまりにも小さく、弱き者なれば。神の御業を目にする栄誉がなくば、神の御心を知ることなど」
棘が抜けたような口調で、言葉を紡いだ。続けて。
「さて、こうなれば猶予はございませぬ。船は改めて有事の際のものをお出しします故、わたくしども四人とともに、早く」
「む!?」
「え?」
年嵩の言葉に驚きを見せたのは、ガノンだけではなかった。一番高い声を上げたのは、無論巫女姫である。当然だ。ほんの少し前まで、見張りの直下に置かれていたのだから。
「なにを言っているのです。真実この事象を説明できるのは、ポセドー様の妻たる巫女姫様のみ。文を仕立てている暇などございませぬ。道中の祈りは、わたくしが捧げます。とにかく、この奇跡がいつまで続くかわかりません。早うお支度を」
「は、はい!」
巫女姫が、世話役が、なにかに跳ね飛ばされたかの如き勢いで院へと戻っていく。ガノンはその姿を見つつ、事態の方向性に意外さを感じていた。彼は、年嵩を見る。先ほどまであった陰険さが、あまりにも綺麗さっぱりと消えている。彼は思わず、苦笑いを見せた。
「なにがおかしいのですか?」
年嵩が、困ったような顔を見せる。するとガノンは、苦笑を隠さぬままに答えた。
「いや。おれはおまえほどの人間を、そうそう見たことがない」
「左様ですか。ともあれ、船を出さねばなりません。貴君も、よろしければ」
「そうだな。手伝おう」
「感謝します」
こうして二人は、院へと戻る。両者の間にあった蟠りは、少なからず薄らいだように見えていた。
***
かくておよそ二刻後。四人は船上の人となっていた。先の小舟よりはそこそこの空間――生活という要素も含む――を備えた船は、悠然と海原を進んでいく。その舳先には真なる【ポセドーの鉾】が取り付けられ、年嵩の祈りによって輝き続けていた。
「……対岸の大地まで、幾日掛かる」
「この海の開けぶりでしたら、数刻もあれば」
「存外に近いのだな」
「海神様の加護が、ございますれば」
なるほど。世話役の答えにガノンはうなずき、再び舳先を見る。現状、未だに対岸は見えない。されど、そういうことであれば。
「……おれは、北辺について通り一遍のことしか知らぬ。到着までの間に、おまえたちの知ることだけでも、教えてはくれぬか」
「そうですね……では一つ。北辺とは、貴君たち中原の者から見た呼び方でしかありません。わたくしどもは、我々の国を『ノルゴルド』と呼びます。大王様によって治められし、荘厳なる国でございます」
「ふむ」
ガノンは舳先に目を向けたまま、首を縦に振った。続けて問いを発し、話を促す。
「その大王とやらの人となり……そうだな、好みなどが分かる話はないのか」
「残念ながら……そもそもわたくしどもは、一年のほぼすべてをあの院にて過ごします。今回の事態こそが、大いに稀である。その事実を、貴君にはわかって頂きたく思います」
「……苦労をかける」
ガノンは、黄金色の瞳をけぶらせつつ、世話役をねぎらった。まったく、実に大層なことになってしまったものだ。あの鉾でもって海を開き、出されていた小舟にて、海を渡る算段だったというのにだ。こうなった以上、年嵩と巫女姫は北辺……否、ノルゴルドとの仲立ちとなるはずだ。その事実は、実に大きいのだが。
「……巫女姫君の、監視は解かれぬのだな」
「当然でございます。巫女姫様は、ポセドー様の妻。故に、純潔でなければなりませぬ。そこに疑わしきがある以上は」
「……」
防寒具をまとった巫女姫はうつむき、ガノンと目を合わせようとはしなかった。ガノンにはその心情が、手に取るようにわかった。わかってしまった。己が巫女姫の領域へと踏み込んだばかりに、彼女は今、己が立場を失いかけている。ガノンには、謝ることしかできない。そして、【荒地の魔女】を恨む他なかった。たとえあの女が幾重もの手管を勘案し、結果的にはあれが最良だったとしても。救うべき対象を追い詰めていては、本末転倒の極みである。
「必ずや、約定は守る」
ガノンは、口の中で呟いた。己はただの王であり、吟遊の語る、騎士英雄譚の如き麗しき人物ではない。蛮族呼ばわりが常の、ラーカンツの民だった男である。されど。ああ、されど。
「戦神に誓って、巫女姫は必ずやすげ替えるぞ。ノルゴルドの王」
彼は、まだ見ぬノルゴルド王に思いを馳せた。その人となり、神器や巫女姫に対する考え方は未だわからぬ。しかしだからといって、約定を守らぬという決断はない。神器を返さぬという決断もない。男は静かに、想いを定めた。
そして見よ。狙いを定めたガノンの視界。その先に。おぼろげながらに、大地が見えた。ガノンはただただ、近くなり行く大陸を見据えていた。
のちに【ガノン王の北辺行】と史書に記されることとなるガノンの旅路は、まだ始まったばかりであった。
北辺の巫女姫(ガノン北辺行その1)・完
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