ガノン・ザ・ギガンテス

南雲麗

蛮人と女戦士

 強大なるガノン。戦神せんじんの寵愛を受け、戦士として、指揮官として勇名を記した。そして南方蛮人の生まれでありながら、中原の王として時代に名を馳せるまでに至る。

 彼の築いた王国は、ほぼ一代のみの国でありながら壮健を誇り、黒河から白江に至るまでのあらゆる民を尽く、その威光によってひれ伏させた。これはそのガノンが、まだ一人の男、ラーカンツのガノンであった頃の物語である。


***


 ヴァレチモア大陸の中央部には、国境をも知れぬ荒野が広がっている。街道はなく、わずかな草と山々、そして荒涼たる風と獰猛たる野獣どもが荒野に彩りを添えていた。

 そんな殺風景の中に、二人の人間がいた。一人は砂塵に叩かれつつも、紅を基調とした、豪壮な装備に身を包んでいた。豪奢な兜の下には、陽光に照らされた栗色の長い髪。壮健なる鎧の胸元には、胸を納めるためのわずかな隆起。有り体に言えば、女だった。女ながらに、戦士を務めている。


「汝は、何故に鎧を付けぬのだ」


 吹き付ける風を長い薙刀で防御しながら、その女が問うた。重く、厳しい口調であった。道をともにする者の姿勢が、信じられぬといった風情である。


「男たる者、己が肉を鎧とし、四肢を剣とすれば十分だ。この剣とて、形ばかり。惰弱な守りに身を委ねるなど、愚の骨頂よ」


 問われた者は、低い声で応じた。男である。その肉体は壮健で、下穿きと、隆々たる筋肉を持つ背に括り付けた手頃な剣。そして、簡素な靴。それ以外のすべてを、荒野に野ざらしとしていた。小高い山を思わせるような巨体は、背中以外にも類稀なる筋肉を備えており、異様なまでに盛り上がっていた。

 巨体の上には、当然頭部が乗っている。それもまた、五角形の盾を思わせるような造形だった。いかつい顔には、目、耳、鼻、そして口。すべての構成要素が、大きかった。そんな目に備わった力強い瞳は、荒野の向こうを見つめている。その色は、くすぶるような黄金色だった。顔の上には、火吹き山を思わせるような赤毛があった。肩を越えて長く、風に晒され、蛇のようにうごめいている。その髪型が彼ら――南方蛮族の風俗であることは、女も書物にて理解していた。


「それが、汝ら蛮族のしきたりか」

「いかにも。お前たち文明人は戦となれば必ず鎧兜に身を固めるが、それは戦神の御心に反する所業だ。己の肉体で戦ったればこそ、戦神はその神威をもたらすのだ。後、我らは蛮族にあらず。ラーカンツという、部族の名がある」

「そうか。いかんせん、汝らを目にするのは初めてのことなのだ。許せ」


 女が、謝罪の言葉を述べる。風と相対しているためであろうか。男の方へと顔を向けることはなかった。しかし男は、無言のままにうなずいた。許すか否かは別として、謝罪そのものは受け入れる。そんな意志が、彼の仕草にはにじみ出ていた。

 さくりと言えば、二人は行きずりであった。たまたま女が危地にあったところを、男がその五体の暴力をもって救った。以来、数刻ばかりの仲である。未だ互いのことはよく知らぬ。知らぬが、男はラーカンツのガノン、女はローレンと名乗り合い、同行の約定をボメダ金貨五十枚で取り付けていた。


「……しかし五十金貨とは破格だな。蛮族と呼ぶのであれば、なおさらだ」

「それでも頼みたい、相応の理由というものがある。あの折、賊どもをなぎ倒しにした汝の腕前を見込んだことが一つ」


 ローレンは、臆面もなく応えた。彼女は数刻前、ホクソー馬に跨がりし賊徒おおよそ十騎に囲まれ、生死の危機、あるいは貞操を失う恐れに瀕していた。常ならば賊の四騎や五騎など一掃し得る能力を、ローレンは持っている。しかし荒野に出た真なる目的を思えばこそ、全力を振るうのは躊躇われた。

 そこに現れたのが、現在の同行者――上半身が裸の蛮族男だった。男は駿馬を謳われるホクソー馬に匹敵するほどの足の速さを持ち、手にしていた剣を振るって乗り手を一人叩き落とした。ついで彼は類稀なる跳躍力で空馬の鞍上を制し、馬をたちまちのうちに手懐けてしまった。

 ここに至って初めて、賊徒は己らに闖入者がいることを知覚した。男は馬を操ってローレンの前に立ち、口を開いた。


『たとえ戦士の戦にせよ、多数で一人で囲うとは。ラーカンツの民にも、そのような卑劣漢はいないぞ』

『へっ! 俺たちゃ賊だ! 戦の作法なんぞ、関係ねえな!』

『そうか、ならば名乗りは要らんな』


 ラーカンツの民を名乗った男に、九騎の賊が一斉に襲い掛かる。ローレンは声を上げようとした。ひとたまりもないと、思ったからだ。しかし現実は違った。迫りくる騎馬を前にして、男は何事かをブツブツと唱えていた。それが南方蛮族が奉ずる戦神への祈りだったと気付くのには、幾ばくかの時間が必要だった。


『ハッ!』


 蹂躙は、あぶみを蹴ってからの跳躍に始まった。円月を描くほどに反りのきつい曲刀二つをかわした男は、そのまま高々と跳び上がり、ぐるぐると回って剣を振るい、最後尾の首を刈り取った。男は寸分のダメージもなく膝立ちに着地すると、馬の尻を叩いて他の騎馬にけしかけた。


『うわっ!』

『いつの間に!?』


 突然に起きた裸馬の突進に、他の賊徒が慌てふためく。それもそのはず。彼らは一瞬前には、男の首が飛ぶと確信していたのだ。あまりにもあり得ぬ、速さの動きだった。


『くそっ、これじゃ……ぐあっ!』

『ぬがっ!』


 態勢が整わぬ間に、二人、三人と馬から叩き落される。男の身体能力は、恐るべきものだった。馬上の敵を相手にしようが容易く地面から跳躍し、剣をもって叩き伏せる。人の領域にあるのか、疑わしいものだった。しかしただ一人だけ、その仕掛けを理解し得た者がいた。


『これは……まさか【使徒】』


 ローレンである。彼女はその美しい顔を、驚き一色に染めていた。彼女は、己が戦士であるがゆえに理解している。人の身で【使徒】に至ることが、己の身に神の御力みちからを受けることが、いかほどの難行であることか。


『とすれば、先の祈りの文句か』


 女は薙刀を構え、己を守った。男が討ち漏らした賊が、こちらを標的に据える可能性が残っている。せめて威圧だけはと、女は気迫を込めた。


『ちくしょう、覚えてろっ!』


 しかし幸いなことにその危惧は外れた。六人ほどが倒されたところで彼らは攻勢を諦め、馬に鞭打って逃げ出したのだ。暴れた空馬もとうに走り去り、風の中に残されたのは二人のみとなった。


『文明人よ、怪我はないか』

『ない。そして、かたじけない』


 それが二人の、初めて交わした言葉だった。


 ***


 そして、時は現在に戻る。豪奢なる装備に身を包む女戦士ローレンは、言いあぐねていた。蛮族の戦士ガノンを、大枚で雇い入れた二つ目の理由。それは、非常にのっぴきならないものだった。


「言わぬなら、金を返してもいいのだが」

「いや。それは困る。話そう。笑ってくれても構わぬ」


 むう、と男が唸る声がする。女は、ただただ男を注視した。この後話す言葉で依頼を突っぱねられれば、またぞろ手を考えねばならない。己を救ってくれた男の義侠心に、賭ける他なかった。


「実はな。仕えている姫を、悪しき者に攫われたのだ」


 ローレンは口を開いた。ガノンからは、ふむとだけ言葉が返ってくる。続けろという意思表示だと、彼女は勝手に判断した。


「悪しき者とだと言えば、弱く見えるだろう。驚いてくれるな。敵は、【闇の眷属】だ」

「ほう」


 男が目を剥く姿に、女は安堵した。恐らくではあるが、ボメダ金貨五十枚という破格にも納得が行くだろう。女は男が納得するよう、さらに話を持ちかけた。


「足りぬのであれば百。いや、二百を出しても構わない。軍資金が減るゆえに前払いはできぬが、姫を救えば国から褒美が出る。私の手持ちで足りぬ時は、そいつを渡そう。汝を逃すべきではないと、私の勘が囁いているのだ」


 女は、あえてすべてをあけすけにした。相手が【闇の眷属】――身体の一部などを闇に捧げる代わりに、絶大なる能力を手に入れた者――である以上。おそらく【使徒】であろうガノンは、なんとしても伴にしたかった。


「……おまえは、弱き者にもかかわらず荒野に出た。そういうことか?」


 寸刻待って、男が口を開いた。放たれたものは、文句の付け難いほど明快な疑問だった。しかし女は、あらかじめ答えを用意していた。それが一番手っ取り早いと、彼女は理解していた。多少の時間を割いても、やる価値はある。問題があるとすれば、己の力が目減りするぐらいか。だが、先の賊に振るうよりかは見返りは大きい。そう踏んでいた。


「相対すれば、わかるであろう」


 ローレンは紅柄あかえの、長い薙刀を構えた。よくよく見ればその美しい刃筋に、なにやら紋様か文言らしきものが刻まれている。これぞ彼女の武器。鉄工に長けた自国の部族が、鋼鉄神に祈る文言を刻み込んだのだ。

 ヴァレチモアにおいて【使徒】以外の者が神の力を借りるには、これが一番早い方策だった。もっとも、この手合の加工はラガダン金貨でも千枚、二千枚と掛かるような一品物にしか許されない。すなわち。


「ログダン王国、王女近衛部隊戦士長。ローレン・パクスター」


 彼女が高位の戦士であることの証左だった。


「……ガノン。ラーカンツのガノン」


 ガノンも剣を背から抜き、正面に構えた。こちらの剣には、紋様も文言も刻まれてはいない。つまるところ、十把一絡げのものである。今回の報酬をすべて注げば、より良いものが買える。その程度の代物だった。


「戦神に感謝を捧ぐ。良き敵手に出会えたこと。良き戦を下さること。されど此度は命を懸ける戦にあらず。我、詫びとしてこの戦のすべてを捧げん」


 短くも的確な祈りの言葉が、ローレンの耳を打った。これを発する前に叩くという手段も、あるにはあった。しかしその手段を取れば、ガノンは去る。ローレンは侮蔑され、金は行き場を失う。先の戦から、ローレンの頭脳はその未来をはじき出していた。そうなれば。


「いざ!」


 祈りの終わりを待って、ローレンは横薙ぎの一撃を繰り出した。同時に壮健なる鎧、その肩の部分が鈍く輝く。先祖が専門の高位彫金師に刻ませた、風神加護の紋様だ。薙刀は風をまとい、凄まじい速度でガノンへと近付いていく。空を切ろうが、その衝撃波だけで肌を裂きかねない勢いがあった。しかし。


「ハッ!」


 蛮族の武人は、的確な対処を取った。下がるでもかがむでもなく、上に軽く跳んだのだ。もっとも、軽くと言ってもかなり高い。最高点はローレンの背丈、その倍にまで達していた。


「やはりか」


 彼女は小さくつぶやき、薙刀を正対へと戻す。一太刀目は小手調べの大振りとなったが、ここから先は。


「ふむ」


 ガノンも、二歩ほど下がった位置に着地する。じりりとわずかに、両者が動いた。刻時機なる機械からくりの動きから見れば、ちょうど逆回りとなる形だ。


「では、こちらからだな」


 蛮族武人が、声を上げるでもなく地を踏み切った。十歩はあった間合いが、たちまちのうちにゼロになる。飛び掛かるように振り下ろされた剣を、薙刀を掲げて防ぐ。激しい痺れが襲い掛かるが、家伝の鎧に刻まれた鋼鉄神の紋様と合わせれば。


「ぐぬうっ……!」


 類稀なる膂力で押し込まれる剣を、ローレンは兜まですんでのところで押し留めた。美しい女性にあるまじき、苦悶の顔を浮かべながらも。乾いた荒野の大地に、尋常ならぬ亀裂をもたらしても。彼女はガノンの一撃を耐え切った。

 ローレンは胸の内で、先祖と彫金師、そして神々に祈りを捧げた。すべての助力がなければ、己はここで真っ二つに裂かれていたことだろう。


「……攻めも守りも神頼み。されど虚弱にあらずか」


 男がだらりと剣を下げる。その姿からは、戦意というものが窺えなかった。女はたまらず、声を上げた。


「ガノンよ、愚弄するかっ!」

「愚弄? 否。おれは得心した。おまえの強さも、そして弱さも」

「なっ……」


 ローレンは戦慄した。わずかに一度、互いに武器を晒した程度の攻防で、なにがわかるというのだ。彼女は数歩下がり、再び薙刀を構えた。今度は、すべての紋様を使ってでも。


「それよ。おれのような蛮族の言葉に苛立ち、類稀なる力を無闇に振るおうと試みる。それがおまえの弱さだ。神々に、頼り過ぎている」

「……!」


 男の言葉に、女は切っ先をわずかに下げた。己の情動を言い当てた男の言葉を聞く気が、わずかながらも生まれていた。そのまま彼女は、続きを促す。


「【闇の眷属】と相対するには、相応の力が要る。そのくらいは、おれも知っている。紋様、文言の力とて、有限ではない。おまえはここで、脱落する気か?」

「むう……」


 ローレンは、薙刀を肩に掛けた。もはや彼女から、戦意はそっくり失われていた。一から百までとは言わないまでも、こうも言い当てられ続けては気が削がれる。特に最後の言葉が、彼女には深く刺さっていた。


「ここで降りるなど、姫には申し訳が立たん。汝一人で闇の蔓延る敵地に行かせるなど、正気を疑われる。……少々熱くなり過ぎた。許せ」


 彼女は息を吐き、兜を脱いだ。頭に上ってしまった血を、ひとまず冷ます必要があった。栗色の長い髪が、荒野の風に揺れる。数回も呼吸を重ねれば、たちまち平常心が戻って来る。その程度の修練は、彼女とてしっかりと積んでいた。


「良かろう」


 彼女が兜を被り直す頃合いを待って、男は謝罪に応じた。恐らくは彼なりの礼法だろうと、彼女は不問に処した。相手は蛮族である。礼法一つとっても、違いは幾重にも存在する。いちいち腹を立てていれば、身がもたないのは明白だった。


「私の意地が元とはいえ、かなりの道草を食ってしまった。行こう」

「行こうか」


 そうして話をまとめ、二人は荒野を進んだ。風吹き荒ぶ荒野は、ややもすれば己の行く先を見失い、永久にさまようことになる。ゆえに蛮人は、しかと尋ねた。


「文明人よ。おれたちはどこに向かっているのだ」


 彼はなんの変哲もない手頃な剣を背負い、くすぶるような黄金色の瞳を、遥かな未来へと差し向けていた。その大柄な身体は、荒野にあってもずいずいと進んでいく。粗末な靴がすり減ろうと、お構いなしであった。


「マリナ山の麓。そこに古びた砦があるという。【闇の眷属】たる邪教の祖が、狂信者とともに陣取っている。我らは、そこを叩くのだ」

「うむ。あれに見ゆる山嶺の一つだな」


 蛮人は遠くを差した。未だ山嶺は遥かにあり、夜を越えることは明白だった。それらの準備について確認した後、さらに蛮人は尋ねた。


「輩は、いかようにしておまえが尊ぶ姫君を攫ったのだ。手がかりがあれば、奪回に役立つ」

「うむ。我々はその日、都に出ていた。姫君が街歩きを所望されたため、我らは忍んで警護にあたったのだ」


 ローレンは目を閉じた。すでに数日前のことではあるが、つい先刻に起こったことのように思い出せる。それほどまでに、かの事件は壮烈だった。


「日が高くなるまでは、警護は順調だった。姫は十六でいよいよ年頃。我々は万全でことに望んだ」


 ローレンは振り返る。今のところは縁談の一つも持ち上がっていないとはいえ、万が一にも傷物にされてはログダン王国の沽券にかかわる。それだけに、彼女たちは真剣に臨んだ。

 姫への忠誠は、最低限にして当然。その上でなお間違いが起こらぬよう、王女の近衛部隊は武を修めし女性のみで構成されていた。それほどまでに、王国は注意を払っていた。しかし。


「我々としても、鮮やかとみなす他にない不意討ちだった」


 ローレンは思い出す。すべては、彼女たちの緊張と緩み、その隙間を突いて行われた。王女が人気のない道に差し掛かり、ローレンたちはこの日一番に張り詰めた。暴漢、悪漢の類は悪所に集う。いかに王宮への近道とはいえ、そういった連中が行動に出るには最適に過ぎる場所だった。しかし。すべてが起こったのは、その後だった。

 永遠にも似た数百歩の道のりが終わり、姫が日の当たる場所に出る……と思った瞬間だった。突如姫の周囲が、すっぽりと一面の闇に覆われたのだ。無論王女は叫び、救出を訴える。ローレンたちは出遅れながらも隠密を解き、急ぎ近寄る。だが直後。彼女たちは、王女を覆う闇から弾き飛ばされた。


『それがし自ら未来の妻を迎えに来たというのに、なんたる無粋な』


 すでに通り抜けたはずの暗所から、男がぬるりと現れる。それは今しがた、忽然と闇の中から現れたようにも見えた。肌は異様に白く、髪は白の長髪。見る限りでは白皙の美男子だが、まとう気配はどす黒い黒を思わせた。

 多神教の導師が身に着ける白の法服を、そのまま反転させたかのようないで立ち。すべてがすべて、ローレンたちに例えようのない不審感、不快感、警戒心をもたらした。


『何者だ』


 ローレンは衣服の隙間からナイフを取り出す。得物たる薙刀を持たずに来たことを、心の底から彼女は後悔した。警護の任務ゆえに、己を守る重装備もない。配下と組んで、数に頼る他なかった。しかし。


『【闇の眷属】。導師ハクア』


 名乗りを上げた黒導師が手をかざす。それだけで配下たちは地面へと押さえ付けられた。ローレンでさえも身がきしみ、立っていられないほどの重圧を覚える。せめて膝だけは着かぬように耐える彼女の横を、ハクアはするりと抜けていった。


『ま、て』

『待たぬ。ただし手順があるゆえ、婚礼は五日待つ。姫を取り戻したくば……』


 ハクアは、王女を包む闇を手乗りサイズにまで縮めてしまう。その中でなにが起こっているのか、ローレンには思い浮かべることさえも恐怖だった。


『マリナ山の麓。そこに我らの砦がある。万の軍勢で攻めるも良し。選りすぐりの勇士に委ねるも良し。事が終わるまでに、迎えに来るが良い』


 闇の球を手に乗せ、黒導師が来た道を戻っていく。近衛部隊戦士長は、その背中に手を伸ばす。伸ばしたが、届くはずもなかった。黒導師は闇に溶け、ローレンは見送ることしかできなかった。


「……それからはすべてが急ぎ仕事だった。斥候を現地に放って確証を取り付け、王の許しを得て私が奪回に打って出た。そして」

「なるほど」


 最後のセリフを、ガノンが引き取った。彼にとっては、あとのことは既知だった。今知りたいのは。


「導師ハクアとやらは、相応の魔道を持つ。そうだな?」

「うむ。悔しいが先祖伝来の装具、一品物の薙刀ですら、奴を確実に殺し得るか」

「……この世に、確実に勝ち得る戦などはない」


 ガノンは、力強く言い放った。彼は一つ詫びの言葉を口にすると、指で斜め十字――バッテンのような軌跡を描いた。女はそれを、訝しむ。


「戦神は言う。『敵を侮る時は己の慢心。敵を恐れる時は己の臆病』。ゆえにすべての戦を、おれは神に感謝する。神に誓って、必ず勝利する」

「……」


 ローレンは、頭一つ以上は背の高い男を仰ぎ見た。同時に理解する。彼は戦神の言を持ち出すことを、戦神に詫びたのだと。

 そして思う。この蛮人は、今に至るまでにどれだけの苦境を歩んだのか。どれだけの祈りと感謝を神に捧げたのか。立ち姿とその肌からは、知り得ることはほとんどなかった。


「……」


 沈黙の中、夜の帳が迫ろうとする中にもかかわらず、遠くから足並みの音が響いてきた。それが馬のものだと気が付くまでに、さほどの時は掛からなかった。


「もはや夜だというのに」

「闇の者ならば、造作もないのだろうよ」


 不意を突かれた様子のローレンに比して、ガノンは造作もなく剣を引き抜いた。彼は常に、戦を念頭に置いている。ローレンは改めて、彼には学ぶべきところがあると悟った。


「先に征く」


 蛮人が、こともなげに大地を蹴った。女戦士はわずかに迷い、結局己も大地を蹴った。光輝神の加護はなくとも、万金にも勝り得る己の装備がある。これを信じずして、なにを信じれば良いというのか。

 女戦士は迷いを封じ、百騎は優に越える敵勢へと突貫した。男はその前、三十歩は軽く先を行き――


「ハッ!」


 見るもかくやの速度で剣を舞わせ、狂信者の首を飛ばす。地を蹴って宙空に舞い上がる姿は、一見隙有りにも見える。しかし彼の動きは凄まじく早い。狂信者が槍を振るう頃には、すでに次の目標へと差し掛かっている。

 暗夜にもかかわらず、彼の戦闘力は一切鈍っていない。彼が気付かずして振るう戦神からの加護が、彼をそうさせるのか。


「ぬんっ!」


 女は、狂信者の群れに対してその防御力を遺憾なく発揮した。盾はなくとも、装具そのものが彼女の強み。突きを阻み、振り下ろしを受け止め、薙刀で弾き返していく。馬を叩き、四足を薙ぎ、落馬させていく。


「――!」


 人ならざる声で、狂信者の群れが震えた。彼らが跨っているのは、角付きの馬――駿馬たるホクソー馬や農耕用のダブ馬を、魔道にて闇なる獣へと変えたもの――だ。

 乗り手たる狂信者そのものもすでに闇へと呑まれており、肌は青白く、目からは光が消え失せている。こうなっては、もはや人の道へは戻りようがない。トドメを刺すのが、人として出来得る最大の情けだった。


「おおしゃあ!」


 蛮人が吠え、跳び上がり、足にて乗り手を蹴り飛ばす。飛ばされた乗り手が他馬に衝突し、足並みを乱す。蛮人はその隙に角馬を御し、高さの優位を敵軍から奪った。


「なんたる」


 敵勢数騎の攻勢を紋様甲冑にて阻みながら、女は息を呑んだ。祈りによる加護を持つ【使徒】とはいえ、かくも邪教徒を圧倒するとは。恐らくは素の戦闘力の高さがそうさせるのだろう。


「負けられん」


 ローレンは足に力を込め、騎馬を一頭弾き飛ばした。かつてはホクソー馬だった角馬が吹っ飛び、乗り手が落ちて絶命する。悼みはするが、祈りはしない。祈ればそれが、隙となる。隙を作れば、首を狩られる。暗中かつ寡兵ならば、なおさら危険が過ぎた。


「ぬぅん!」


 大地を踏みしめて薙刀を長く持ち、しなりを利して横薙ぎに振るう。それだけで乗り手が吹き飛び、転落する。後方の馬の、足が止まる。急停止させられた馬は大いに暴れ、熟達ならざる乗り手を振り落とす。彼女は叫喚の中を進み、人馬を問わずに薙刀の露へと変えていった。


「――――!」


 狂信者の人馬は隊列を組み、前後の敵に向けて抗わんとした。しかしそれは下策である。騎馬の優位は、その機動力と突進力にある。いかに相手が強力な攻め手とはいえ、守りに入った騎兵は強みを失うのだ。そして――


「フウウウッッッ!!!」


 守りを固めたはずの敵勢に、よく日に焼けた蛮族が砲弾じみて襲い掛かった。角馬の背を蹴って高みへと跳び上がり、上段から陣の中央目掛けて剣を振り下ろす。それだけで邪教徒どもは混乱し、散開する。そこに割って入るのは――


「負けてられんな。オオオッ!」


 男もかくやの重低音の雄叫びに、重装備にあるまじき勢いの踏み込み。暗夜による視界の不利は、紋様の淡い光で打ち払っていた。女戦士が、力のままに薙刀を振るう。足で蹴倒す。次々と屠られていく邪教徒たち。もはや彼らの生き残る術は――


「――! ――――!」


 一目散に、棲家目掛けて逃げ出すことのみだった。蛮人と女戦士は目線を交わし、その行動をあえて見送る。当然、二人には狙いがあった。


「行くか」

「ああ」


 地平線の影に敵勢が消えるのを待って、二人は動き始める。目を凝らさずとも、新鮮な足跡が彼と彼女を導いてくれた。追い付かず、さりとて離されず。ゆっくりながらも早足で、じわじわと二人は敗軍へと近付いていく。そして。


「っ」


 それは手早に行われた。夜陰に紛れて敗軍の最後尾に取り付き、生命を刈り取る。そこに容赦はない。そもそも情けをかけるべき相手でもない。ガノンが馬を黙らせ、ローレンが接近戦用のナイフで首を掻っ切った。ロアザ鋼を使った鋭い刃筋は、邪教徒に声の一つたりとも許さなかった。音もなく行われた殺戮は二度振りかざされ、狂信者の代わりに、二人の勇士が敗北の軍勢へと加わった。

 目指すべき敵地は、もはや指呼の間。二人は一刻ほどにわたって、敵勢の最後尾を行く。すると、いよいよ目的地たるマリナ山の麓が近付いてきた。同時に、古びた砦も視界に入って来る。しかし百騎もの軍勢を繰り出して来たにしては、遠目にはその防備は手薄に見えた。


「どう見る」


 ローレンは角馬を駆りつつ、ガノンに問うた。狂信者が幾人残っているかは、まったくの不明だ。迂闊に城へ侵入し、囲まれてしまえば元も子もない。彼女は慎重に、相棒の意見を求めた。


「一つ。手勢の不足」

「ふむ」


 即座の答えに、ローレンは舌を巻いた。先の判断といい、ガノンがただの蛮人、戦狂いではないことがはっきりとわかった。彼女は無言で、続きを促した。


「二つ。城内に伏兵」

「定石だな」


 繰り出された答えに、ローレンは応じた。兵法を綴った書物には、半ば共通項じみて書かれている話だった。だが眼の前の蛮族が、それをどのようにして知ったのか。彼女は気にしつつも、今は捨て置くことにした。ガノンが今一つ、口を開いたからだ。


「三つ。城内でなにかが執り行われている」

「っ」


 ローレンは思わず、舌打ちを晒してしまった。城内で行われる行為に、思い当たる節があったからだ。そう。彼女が敬愛する王女が、闇の導師ハクアへと嫁ぐことになる儀式だ。しかしそれには――


「まだ一日、残されていたはずだ」


 彼女はつぶやく。敵たる者が示した期日は、五日のはずだ。ガノンと出会ったのは昨日で、出発までに一日、その後に一日を費やした記憶がある。間に合ったはずだと、彼女は強弁した。しかしガノンは、首を横に振った。


「闇の眷属が約定破りをせぬ保証が、どこにある?」

「う……」


 ローレンは言葉に詰まった。己の敵手を思い返す。闇から出て来て不意討ちをするような男が、真に約定を守るだろうか。えも言われぬ不安が、彼女の脳裏を脅かしていく。しかしガノンは、言葉を止めようとはしなかった。


「加えて、だ。おれが聞かされた言葉が正しければ、輩は『手順を踏む必要がある』とのたまっていたな?」

「あ、ああ。そうだ。奴はたしかに、そう言っていた」


 ローレンは記憶から絞り出す。たしかに闇導師は、そのように言っていた。つまり。


「婚礼の儀はともかくとして、それまでの何らかの行為が、姫に対して行われている可能性はある」

「……くっ!」


 ローレンは、馬の手綱を叩こうとした。もはや猶予はなく、いても立ってもいられなかった。だがガノンは、彼女の腕を掴み、それを制した。


「止めてくれるな。私は」

「今駆け出せば、敗勢に尾行を悟られる。ここまでの機知を、無為にするのか文明人」


 腕を掴まれる力が、いや増していく。痛みを覚えたところで、ローレンは力なく首を横に振った。手を離されれば腕はきしみ、武器を振るうにも支障が出そうだった。心なしか、一回り細くなったようにさえ思えてしまった。


「すまぬ。心を乱した」

「構わぬ。おれも不安を煽り過ぎた」


 互いに詫びを入れ、意識を平静に戻す。声を極力押し殺していたこともあり、前方を行く敗軍どもには気付かれることはなかった。


「しかし、いかなる可能性も排除はできん。ましてや、それが戦ならばな。戦神にいわく、『戦場には霧がかかるのが常。希望はすなわち、絶望の引き金』だ」


 ガノンが馬を止め、再び戦神への詫びの仕草をする。ローレンは無言のままに前を、古城を見つめていた。後少しまで来たはずなのに、いまだ遠くに見えているかの如く思えてしまう。王女のもとへと至るまでに、後どれだけの苦難が待ち受けているのだろうか。

 それでも彼女は、思い直す。今は歩みを、進める他にないのだと。そうしてまた半刻。二人はついに、砦の前へとたどりついた。


「開門を待つ」

「上出来だ」


 二人は敗軍から距離を取り、息をひそめた。角馬は荒野へ放した。陽光に弱い闇のしもべは、走り回るうちに骨へと返ることだろう。


「策は」

「一気に踏み込む」

「良かろう」


 城門を遠くに見据えつつ、経緯を見守る。しかしいつまで経っても城門は開かない。敗軍どもが、城門前でオロオロするさまが見える。やがてその答えは、『声』によってもたらされた。


『うぬらの働き、しかと見た。たった二人の少勢に振り回された挙げ句、おめおめと逃げ帰り――』


 上空から響く声に、思わず二人も天を見上げる。知識のない者であれば、神々からの啓示かとさえまごうような状況だった。


「闇ならば、あり得る。だが神は指し示さぬ。見守り、授けるのみ」

「そうか」


 しかしガノンは、冷静だった。ローレンも、素直に従う。神の力は、そこまで近しいものではない。文言、紋様を身に抱く者として、彼女も心得ていた。それを埒外の行為に使った時、手痛い罰を受けることも。


『招かれざる客を引き寄せた。その罪、万死に値する』


 二人が語る間も、声は続く。その意味は、二人にもよくわかった。事実二人は目にする。追い続けていた敗軍の群れが、流砂と化した荒野に飲まれていく。


「――! ――――!」


 敗軍の悲鳴が、荒野に響く。しかし二人は動かなかった。闇に堕ちた者を助けたところで、彼らはもはや人には戻れない。それどころか、最悪の場合は己が流砂に飲まれる恐れがある。動かぬという選択こそが、最善だった。

 やがて、地響きを立てて流砂は止まった。未だ十騎程度は残されていたであろう敗軍は、見るも無惨に、きれいさっぱりとこの世から消え去っていた。


「……」


 二人は、声もないままに砦の上空を見つめた。声の主、おそらくは闇導師たるハクアは、己らの存在に気づいている。最初の計画を阻まれた以上、相手の動きを待つ他なかった。


『さて、招かれざる客……王女の護衛よ』


 果たして、『声』は二人へと注がれた。二人は返事をしない。ローレンたちには、自身たちが見られているという確信があった。


『決めた時限以内に、この砦までたどり着いた褒美だ。入城を許そう。そこにいる、蛮人の連れも含めてだ』

「ラーカンツのガノンだ」

「よせ」


 蛮人呼ばわりされたガノンが訂正を要求するが、ローレンは腕にてそれを制した。『声』に文句を言ったところでなに一つ意味を成さない。おそらくは、聞こえてもいない。


「その怒りは、後ほど食らわせてやれば良い」

「……おれは力ずくでも機会を得るぞ、文明人」

「構わん」

『さあ、準備ができたら入場したまえ。大切な婚礼の招待客だ。無礼はしない』


 戦意をくゆらせる二人に、『声』は指示を下す。二人はそれに従い、城内へと入った。そして。


「おお……」

「なんと……」


 大広間にしつらえられた、荘厳なる婚礼会場に息を呑まされた。


 ***


 それはあまりにも荘厳で、闇の者らしく退廃的な場となっていた。

 参列者……と呼ぶのもおこがましい、青白い肌と光を失った目を持つ人々の群れ。

 広間の中央を貫く、赤というよりは朱色――あたかも血で染め上げられたかの如き絨毯。

 その果てに座すは、人間三人分ほどの幅を持つ巨大な黒鏡くろかがみ――光さえも吸い込むほどに黒塗りされた銅鏡。闇の者にとっての象徴である――と、白布で顔を伏せられた生贄。そして――


「王女の護衛と、連れの蛮人……奇妙な取り合わせかつ、少々装いが場に似合わぬか。まあいい。ようこそ。我が婚礼の場へ」


 肌は異様に白く、髪は白の長髪。黒の気配を持つ、白皙の美男子。白の法服を、そのまま反転させたかのようないで立ち。そして左の手には、小さな闇の珠。誰あろう。ローレンの目指す敵、闇導師ハクアだった。


「婚礼の場だと! ふざけおって、姫はどこだ!」

「おやおや。礼法がなっておりませんな」


 怒りをあらわにするローレンが、今にも絨毯を駆けようとする。しかしハクアが冷徹に右手を突き出すと、ローレンの動きが止まった。あたかも縫い留められたかの如く、彼女は硬直する。


「ぐ、ぬう……」


 ローレンが闇の力に抗わんとするたびに、装備の各所に刻まれた紋様と文言が鈍く光る。しかし刻まれた力が足りぬのだろう。彼女はなおも、動けずにいた。


「クフフ。神々の力をもってしても、総量が足りぬようだな。そんな体たらくで姫を救おうなどとはおこがましい。姫様も嘆いておるぞ」


 ハクアの掌に浮かぶ闇の珠が弄ばれ、ポンポンと弾む。その姿に、ローレンもガノンも理解した。救うべき姫は、あの珠に封じられている。


「……」


 ガノンは、口の中で祈りを執行した。彼は自身を理解していた。祈り、戦うことが戦神の意にかなうことであり、それを続けることが彼に力を与えると信じていた。にわかに力が漲る感覚を得た彼は、ハクアに気取られぬように、ローレンの紅き装備へと手を添えた。


「お、お、お……」


 直後、ローレンの光が増した。より正確には戦神の力を受け取ったローレンが力を増し、それに対して装備に刻まれた文言、紋様が呼応した。じり、じりと女の身体が動き始める。


「おっ!」


 やがて一定量に達したところで、その肉体は爆ぜるように動いた。闇の拘束が外れ、自由を得たのだ。瞬間的に、広い絨毯の道へ飛び出していく。


「ほう! ほうほうほう! では歓迎して差し上げよう!」


 ハクアが、大仰な声を上げた。同時に、右手の五指に闇を作り出す。闇の底は未だ未知数。ガノンたちを冷たく見つめ、引きずり込まんと蠢いていた。


「ハッ!」

「その程度ぉ!」


 おお。ローレンが今こそ、鋼鉄神の祝福を受けた薙刀を振るう。五指から放たれた最初の闇、その無軌道な射線に、見事な迎撃の刃を入れた。芯を食った一撃に闇は霧散し、消え果てる。しかし。


「見事。しかし闇とは飲み込むもの。引きずり込むもの。見よ」

「ぐううっ!」


 ローレンがうめく。なんたること。一品物、少なからぬラガダン金貨をつぎ込んで作り上げた薙刀の刃。そのうちの闇に触れた部分が、きれいさっぱり消え果てていた。神々の祝福たる紋様、文言は、すべてが刻み付けられていてこそ意味を成す。一部が欠けた状態では、力の十全なる発揮はおろか、本来その武器が保有する力さえも運用できない。つまり――


「うぬの振るったそれ。良い薙刀とは見受けた。おそらくは相当の力が注がれていた。だが、もはや無意味だ」

「……無意味か否かは、振るわねばわからん!」


 挑発めいて大仰に振り下ろされる言葉の大鉈に、ローレンの血はいよいよ頭に上った。武器を手折られた、蔑まれた怒りに、心の炎がいや立ち上る。彼女は、薙刀をかざし、横薙ぎに振るわんとして。


「やめておけ。いよいよ元に戻せなくなるぞ」


 それを止める、男がいた。同行者。己がボメダ金貨五十枚という破格で雇い入れた者。南方の蛮族。ラーカンツのガノン。彼の大きな、力強い、くすぶるような黄金色の瞳は。闇の凄まじき力を目にしてなお、強く雄々しく輝いていた。


「ほう!」


 その光に勘付いたのか、闇の導師が大きく叫んだ。同時に闇を二つ、ガノンたちへと差し向ける。それは再び無軌道な射線を描き、一定の速度を保って襲い来たった。


「……」


 それらに対して、ガノンの目が光った。続けて、背に括り付けていた剣を抜く。紋様も文言もない、ただの剣。しかしガノンが手にした瞬間から、鈍い光を発していた。


「文明人よ。闇に刃先で抗うのならば」


 彼の目が、闇を見据える。早くも遅くもない速度で進む闇は、軌道を入れ替え、時にうねり、不規則に向かってくる。だがガノンは、冷たくそれを見据えていた。


「芯では足りん。『核』を狙え。『核』を穿たれれば、闇は闇たるを保てない」


 造作もなく、流れるように。ガノンの剣が、闇を断ち割った。一つ。二つ。淀みなく、まるですべてを知っていたかのように、変哲もない剣が流麗な線を描いた。無論、剣に傷はない。欠けてもいない。十全な剣の、形をしていた。


「なっ……」


 その声は、敵味方から二つ上がった。さもありなん。武具を贄に闇を相殺するでもなく、ただただ断ち割り、かき消したのだから。しかしそんな視線に晒されても、蛮族は泰然としていた。火噴き山の如き赤髪を、蠢かせていた。彼は女に背を向けたまま、一つ言い放った。


「倍額だ。ボメダ金貨を百出せるのならば、この討伐を請け負おう」

「倍額だと……?」


 ガノンから放たれた突然の吹っ掛けに、ローレンは戸惑いの表情を見せた。たしかに己は得物を失ったが、未だ装備も戦意も健在である。あたかも戦闘能力を失ったかのように扱われるのは、まったくの心外だった。


「蛮人。貴様、私を」

「聞け、文明人」


 抗議の声を上げようとする女に、男は言葉を挟んだ。いよいよ憮然とした表情を隠せなくなった彼女に対し、彼は冷徹に告げた。


「その倍額の半金、ボメダ金貨五十をもって、おまえへの依頼がある」

「なに?」


 男の言い分に、いよいよ女は疑問符を浮かべた。それでは、倍額にした意味はどこに行くというのだ。いや、まさか。


「おれは文明人の金貨を持っていないからな。少し雑ではあるが、このような方法でしか頼めない」

「……」


 ローレンは、ガノンの言い分をようやく理解した。つまるところ、最初に交わされたボメダ金貨五十枚の契約のみが、この場においては生きるのだ。


「話すに任せておけば、なにをごちゃごちゃと。それがしを倒す算段か? いくら金貨を積んだところで、すべてが無意味よ」


 しばらく黙りこくっていた闇の導師が、ようやくここで口を挟んだ。未だ余裕を崩すことなく、右の手指に二つの闇を、左の掌に姫君の収められている闇珠やみだまを浮かべている。彼は白皙の美顔を愉悦に歪めながら、大いに口を開いた。


「下手の考え、休むに似たり。それがしにかかれば、うぬらの考えることなぞある程度は見当がつく。蛮族のガノンとやら。うぬは女に、この鏡を砕かせようとしたのだろう?」

「……」


 ハクアの右手から闇が消え、指が大鏡を撫でる。漆黒という言葉さえも生ぬるいほどに黒い鏡は、光さえも飲み込みそうな黒をたたえて、ただただ佇んでいた。


「この大鏡は闇の象徴。我ら眷属はこれを崇めることにより、大いなる闇より力を賜る。この通り」


 ハクアの右手が、鏡から離れる。しかしその腕は、大きく変質していた。法服は肩の辺りで破れ、筋骨隆々、五指に鋭い爪を備えた黒き腕が現れていた。導師はその腕を、大きく横薙ぎに振るう。凄まじい突風が、ガノンたちへと襲い掛かった。


「くっ!」


 ここで前に出たのは、女戦士だった。紅き重装備に身を固める近衛部隊戦士長は腰を落とし、両腕を顔の前に固めて突風をその身に受ける。装備全ての紋様文言が発光し、彼女が吹き飛ばぬように祝福した。その時。


「いいぞ文明人。そのままだ」


 上半身裸の蛮人が、低く声を上げた。彼は軽く絨毯を蹴ると、そのまま女戦士の背をも蹴上がった。


「少し柔らかいか……」


 小さくつぶやきながら、男が真紅の絨毯を駆け抜ける。その両側を埋める信者たちは、動かない。あくまで参列客、ただ見届ける者、ということだろうか。


「かあっ!」

「ハッ!」


 導師の黒腕が、再び空気を薙ぐ。しかしガノンの剣は、突風も衝撃波も切り裂いていく。戦神はガノンに、いかなる力を授けているのか。否。彼は【使徒】である。ほぼほぼ神に等しい力を、今の彼は有していた。見えないものを見通すことなど、児戯にも等しいありさまだった。


「キエエエーーーッ!」


 南方蛮族の鋭い叫びが、いと高らかに広間を叩いた。ただでさえハクアより高い背を持つ蛮人はまたも絨毯を蹴り、跳び上がる。目指すは、黒き腕を備えし導師の……脳天! ハクアは己の第六感で、蛮族の狙いを見抜いた!


「チイイイッ!」


 えも言われぬ高音で舌を打ち、闇導師は左手に携えていた闇を打ち消す。同時に姫が解放され、気品を隠せぬお忍び装束のままに、床に転げた。黒腕を上に、左腕を下に。ハクアはいかようにしてでも、ガノンの豪剣を阻む腹積もりであった。


 ガイィィィンッッッ!!!


 広い婚儀の間に、閃光と鈍い音が広がっていく。主観時間では永遠にも似た刹那の後、ハクアは恐る恐る目を開けた。それこそが、自身が助かった証明であるとも気付かずに。そして慟哭し、痛みに襲われた。


「お、おおおーっ! 痛い! 痛むぅ!」


 ハクアは腕をだらりと下げ、如何ともし難い恐怖と痛みに震えていた。彼の両腕は、肘の少し先からすべてが、見事に裁ち落とされていた。ガノンの豪剣を生身で受けた、絶大なる代償であった。


「ひ、姫……」


 彼は、妻にと望んだ女のもとへと向かった。未だその力は目覚めていないが、その王女には絶大な魔力が秘められていた。彼はそれを、闇の啓示にて知らされたのだ。己の力でそれを目覚めさせれば、己の腕もたちどころに治るであろう。そう信じて、彼は未だこんこんと眠る王女を目指す。しかし。


「それ以上、王女に近付くな」

「一歩でも動けば、殺す」


 左から欠けた薙刀、右から変哲もない剣。首元に突き付けられた刃が、ついに闇導師の動きを阻んだ。ハクアは、逡巡した。舌を噛むか、それとも抵抗して死ぬか。そこまで考えたところで、最後の選択肢を思いつく。かつて己の逸物を捧げたように、今度は、生命を。


「大いなる闇よ!」


 彼は高らかに叫んだ。直後、変哲もない剣が動いた。導師は、己が浮いたような感覚を覚えた。しかし浮遊感はすぐに消える。自らの身体を目にしながら、床へと落ちていく。


「わ、れ、は……も……」


 力の抜けた口から、続けようとした文言が漏れる。しかし、それはもはや意味を成さなかった。闇導師ハクアの首は地に落ち、その身体も、前のめりに崩折れた。

 こうしてログダン王国を覆った闇は、戦士二人の手によって晴らされたのだった。


 ***


 砦が火に覆われ、燃えている。今や王女の救出は終わり、狂信者どもの掃討へと状況は推移していた。とはいえ、ことは非常に簡単だった。ローレンが姫君を連れて砦から退去した後――王女に殺戮の光景を見せるのは酷が過ぎる――、ガノンはその戦闘力のすべてをもって参列者という名の信徒どもを皆殺しに処したのだ。ほぼ一刀でもって闇導師との戦を制した彼からすれば、狂信者の掃討など物の数ですらなかった。もっとも、相応に疲弊はしたのだが。


「……かたじけない」

「構わん。だがそれなりに疲れた。倍額の約定だけは守ってもらうぞ」

「わかっている。百ならば我が革袋の範疇だ。持って行け」


 なおも眠り続ける王女を見守る女戦士が、ガノンに向けて金貨の入った袋を投げてよこした。彼は一度だけ袋を開け、無造作に中身を確認する。一枚、二枚と見て混じり気のないボメダ金貨であることを確認した後、ガノンは袋を腰に括り付けた。その姿に、ローレンは思わず声をかける。


「荒野を行くのに、不用心が過ぎるのでは?」

「これが一番、手っ取り早い」

「……間違ってはいないか」


 男のどこまでも小ざっぱりとした回答に、女はうなずく他なかった。彼を仰ぎ見れば精悍な身体は返り血にまみれ、炎に照らされ、少々けばけばしいほどに輝いていた。女はおもむろに、手持ちの布を投げ渡した。


「なんだ」

「その返り血を拭け。仮にたった今、姫が目を覚まされたとしても。その姿はとてもお見せできぬ」

「……良かろう」


 男は、淡々と血を拭い始めた。しかしその姿は、それまでの老成した感とは異なるほどに細やかなものであった。違和感を覚えたローレンは、不躾とは思いつつも口を開く。


「……汝は、荒野に出て幾年になる」

「一……いや、二年にはなったか。秋の祭りを、一度は見ている」

「年は」

「十と五……ああ、六になったか」

「故郷は」

「ラーカンツのガラナダ。けして悪い土地では……なぜ聞く」


 問われて、女は我に返った。意外と饒舌に語られた境遇に対して、ついつい深入りをしてしまった。戦士としての礼を逸した事実に、ローレンは素直に詫びを入れた。


「すまぬ。聞き過ぎた」

「構わん。おれも話し過ぎた」


 両者は、再び無言に戻った。ローレンは改めて、男の身体を見る。十五、六とは、とても思えぬ体躯であった。この男は、戦場に立てば剛力無比であろう【戦神の使徒】は。この後どこへと向かうのだろうか。


「この後はどうするのだ」

「文明人の土地へ行く。四肢でも大概のことは為せるが、剣の替えと食料。後は備えが要る」

「そうか」


 女戦士はうなずき、会話は短く終わる。もはやすべてが終わりつつあることが、彼女にも感じ取れた。


「うう……」


 その時だった。二人のどちらとも異なるうめき声が、荒野に囁いた。それが誰のものであるか。近衛部隊戦士長であるローレンには、即座に理解できた。


「姫様!」

「ロー……レン……」


 二人は手を取り合い、互いの無事を喜び合う。姫君が闇に侵されていないかは懸案事項だが、今においては些細な事だった。二人は暫くの間語らい、ややあってからローレンがガノンを紹介しようとした。しかし。


「……そうか。行ったか」

「どちらに?」

「足跡の方へ。しかし、もはや追うことはままならぬでしょう」


 ガノンの姿はどこにもなかった。ローレンはわずかに探そうとし、首を横に振った。なぜなら、眼下――彼が立っていたはずの位置に、足跡があったからだ。足跡はただただ遠くへ、孤独に消えていた。それだけが、彼が去ったことをあらわにしていた。


 蛮人と女戦士・完

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