08 彼岸をこえて

「あっ……おかえりなさい」


 現世うつしよにすっかり戻ったタイミングで、香奈実先輩が駆け寄ってきた。その手には樹神こだま先生のスマホ。


「電話鳴ってたんですけど、どうしたらいいか分からなくて」

「あぁ、大丈夫です。こっちの世界へ戻るために回線を繋いだだけなので」

「そっか、だから『命綱』って仰ってたんですね。それで、霊は……」

「えぇ、無事に済みましたよ」


 先生が経緯を説明する間も、僕はまだ半分くらいにいるような感覚だった。

 不意に、弥二郎さんの想いが蘇ってくる。


『なんで神さまなんかの嫁になった』


 神の名の下に殺されたことよりも、それが耐え難いほど不条理だった。


 空の高いところを、カラスが飛んでいく。

 吹き抜ける風は嘘みたいに軽やかで、あれほど重苦しく満ち満ちていた昏い空気はもう微塵もない。

 川岸から眺める、傾き始めた陽の照らす、絶え間なく流れる水の表面は眩しいほどにきらきらしていて。

 今はそのことが、なぜかひどく虚しい。


 百花もかさんに顔を覗き込まれた。


「服部くん、大丈夫?」

「あ、はい……すいません、大丈夫です」

「こういうのって、思った以上に精神にくるでね。引っ張られすぎんようにね」


 柔らかでつよい独特の気が、この身に触れる。


「あたしたち、生きとるからね」


 今になって目の奥が熱を持つのを、僕はそっと隠した。


 先生からひと通りの話を聞き終えた香奈実先輩が、犬の骨を埋めたところに視線を落とす。

 地に根付いた新たな植物は、蕾が綻び始めていた。


「私、お参りしたいです。十五之塚に」


 香奈実先輩の提案もあり、四人で連れ立って十五之塚跡を訪れる。

 それは事前に聞いていた通り、ある会社の駐車場の片隅にあった。人々の営みに紛れるように、当たり前のようにそこに存在している。

 『十五乃塚跡』と彫られた石柱の前には、真新しい花が活けられていた。


「ここねぇ、いっつもお花があるんだよ。誰かがずっとお供えしてくれとるんだね」


 小さな遺跡を包むのは、先ほど『狭間の世界』で百花さんが使った香と同じ護りの気だ。


「今日最初にあたしが様子を見にきた時、この周りもだいぶざわついとったの。生贄にされた女の子も、あの男の子のことが心残りだったろうね。落ち着いたみたいで良かったわ」


 弥二郎さんも、恐らくここにいる。だけど現世の階層では、よほど集中して感じ取ろうとしなければ分からないほど気配が薄い。

 傷付いた魂は、多少なりとも安らいだのだろうか。

 交代で手を合わせ、祈りを送る。それだけしかできなかった。


 百花さんが自分の依頼人に完了報告するのを待って、その場を後にする。

 『十五之塚跡』から戻る道すがら、香奈実先輩が川の方を眺めながら言った。


「私、また堤防の道を歩きます。時々ちゃんと思い出した方がいい気がして。生贄のおかげとは思わないんですけど、なんて言うか……昔の人たちがそうやって生きてた延長線上に、今の私たちの暮らしがあるんですよね。あの景色はハルが教えてくれたものですし、忘れたくありません」


 忘れられた歌。葬り去られた人の名前。無数の嘆きと祈り。

 庄内川の穏やかな流れの中に、それらはある。


 ——お彼岸みゃぁりに 行こみゃぁか


 いつか二人は同じ道を歩めるだろうか。

 此岸しがんから彼岸へ渡って、同じ場所へ行けるだろうか。

 そうであればいいと、胸にぽっかり空いた幻の疵口の奥へと、ささやかな願いを仕舞い込んだ。


 香奈実先輩は、JR勝川駅の改札前まで見送りについてきてくれた。


「本当にありがとうございました。あのままだったら私、どうなってたか分かりませんでした」

「いえ、お力になれて光栄です」


 先生はいつも通りの気障な笑みで応える。


「服部くんも、ほんとありがとね。また部活で」

「えぇ、また。失礼します」


 清々しい表情の香奈実先輩に、同じだけの笑顔を返せた自信はない。


「はぁ、さすがに今回は俺もだいぶ消耗したわ。早いとこ帰ろう」

「はい」


 こういう時の先生は割とドライで、僕にはそれが救いに思えた。




 名古屋で桜の開花宣言が発表されたのは、その翌日のことだった。

 枯れ木に花を咲かせる昔話が否応なしに連想されて思わずどきりとしたけれど、ふわふわ漂う春の空気に心はあっさり絆される。

 以前だったら、あのような体験をした後はずいぶん引きずってなかなか立ち直れなかった。気持ちの切り替えも、少しずつ上手くなってきたのかもしれない。


 満開近くなったら、どこか花見にでも行きたいと思った。

 どうせなら一緒にと、茜ちゃん——僕の大事な人の顔が浮かんでいたころのこと。


「服部くん、今度の日曜とか空いとる? 良かったら一緒に花見行かない?」


 週に一度の全体練習の後、そう声をかけてきたのは香奈実先輩だった。


「えっ?」

「部員の何人かで行こうって計画しとるんだけど、服部くんもどうかなって」


 可愛らしく小首を傾げる香奈実先輩を前にして、一瞬のうちに困惑が頭を支配する。

 確かにあの一件以来、香奈実先輩とは自然に会話できるようになった。だけど他の部員、しかも複数人の集団に混じって、はたして上手く立ち回れるのか。

 僕なんかが加わって、みんな「なぜこいつがいるのか」などと思うのではないか。回線をきっちり閉じて他人の感情を受信しないようにはしているけれど、さすがにそういう空気感は理解できる。つらい。


 いや、そんなことよりも。

 花見は茜ちゃんと行こうと思っていたのだ。


「あっ、ひょっとして予定があった? バイト?」

「あ、いえ、バイトではないんですけど」


 もしやバイトと言えば角が立たずに断れたのではないかと、気付いた時には咄嗟に否定の語を発してしまった後だった。

 もう、仕方ない。


「……か、彼女と、花見に行く予定があって」

「えっ……?」


 変な緊張で、かぁっと頬に熱が上る。

 まだ約束はしていない。これからする。予定の話だからギリギリ嘘は吐いてない。うん。


 香奈実先輩は鳩が豆鉄砲を食ったような顔でぱちぱちと瞬きを繰り返す。


「服部くん、彼女おったんだ?」

「あ、はい、います」

「えっ、えっ、この大学の子?」

「いえ、小学生の時からの知り合いで」

「あー、そうだったんだ」


 やはり僕みたいな陰キャに彼女がいるなんて、誰も想像しないだろう。香奈実先輩の反応も尤もだ。


「そっかそっか、まぁ、満開で花見できるタイミングって限られるもんね」

「いえ、すいません。せっかく誘っていただいたのに」

「ううん仕方ないよ、ぜんぜん気にしないで。ごめんね引き留めて、あはは」


 香奈実先輩は少し慌てた様子で部員たちの輪の中へと戻っていった。途中で軽く蹴つまづいて「ぴゃっ!」と変な声を上げながら。

 そこまで驚くことだったか。さすがにいささか心外ではあるけれど、香奈実先輩なら面白おかしく言いふらすようなことはしないだろう。



 帰り支度を終えて、いつも通り一人きりで駅へと向かう。

 歩道に並ぶ桜の木は五分咲きといったところか。

 僕はスマホを取り出し、LIMEの茜ちゃんとのトーク画面を開いた。先ほどの言い訳を、真実にせねばならない。


『日曜日空いてる? お花見行かない?』


 そのメッセージを送った直後、スマホが震えた。

 さっそく茜ちゃんからの返信かと思いきや、何のことはない、樹神先生からの着信だった。


「はい、服部です」

『すまん、今いい?』

「いいですよ。どうしました?」

『悪いんだけどさ、これから事務所来れる?』

「えぇ、ちょうど部活終わって帰るとこだったんで。また新しい依頼ですか?」

『そうなんだわ。ちょっと急だもんで悪いんだけど』

「いえ、大丈夫です。すぐ行きます」

『ありがとう、助かる』


 通話を終了させると、茜ちゃんからの返信が入ってきた。


『お花見いきたい! どこがいいかなぁ?』


 添えられた可愛いスタンプに、口元が緩む。

 こうして先の約束ができるということは、何気ないようでいて貴重なことなのだ。


 僕たちは、生きている。


 温かな春の風が僕を追い抜いていった。

 進もう、前へ。

 僕は軽くした足取りで、地下鉄の駅へと続く階段を下りた。



 ◇



 この世に生きる誰しもが、思いがけずあの世の闇に触れてしまうことがある。

 それとて、かつては我々と同じくこの世に生きていた誰かの想いだ。

 現世と幽世かくりよを繋ぐ狭間の世界でならば、そうした闇にも声が届くかもしれない。


 僕の名前は服部 はじめ。樹神探偵事務所の助手をしている。

 名古屋の近郊で不可思議な現象にお困りの方は、ぜひ当事務所にご相談を。

 ちょっと気障で蘊蓄語りの長い探偵が、あなたのお悩みをきっと解決いたします。



—彼岸参りをながむ歌・了—

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彼岸参りをながむ歌 〜なごや幻影奇想短篇〜 陽澄すずめ @cool_apple_moon

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