06 水神あらわる

 『念』の湧き出る中心部、香奈実先輩が犬の骨を埋めた場所に集う。

 芽吹いた植物の根本を少し掘り返した樹神こだま先生が、小さく眉根を寄せた。


「粉々になった骨が土に混ざって、この植物によって大地にしっかり根付いてまっとるな。骨を取り除いて多少なり『念』を緩和できんかと思ったが、しゃあないわ。に近いところまで行けば本体がおるはずだ。直接鎮めよう。くれぐれも油断しんように」


 百花もかさんはどことなく気怠げに煙管キセルふかしている。辺りに漂う煙には特殊調合の香が混ざり、清浄な気の流れを作り出す。薄荷ハッカのような、すっとする匂いだ。


「お嬢さんはで留守番しとってね。これあげるで、持っとって」


 手渡されたのは、綺麗なちりめんの布でできたお守りのようなもの。


「可愛い……」

「これは訶梨勒かりろく。悪いものを退ける匂い袋だよ。きっとお嬢さんを護ってくれる。あたし、名駅めいえき西の駅裏通商店街で香りのお店をやっとるの。普通のアロマとかもあるよ。よかったらご贔屓に」

「あっ、はい」


 ついでに名刺が差し出される。このタイミングでちゃっかり営業するという抜け目のなさ。

 しかし、おかげでいい具合に緊張が解れた気もする。


 先生がスーツのポケットから懐中時計を取り出した。アンティークなデザインだけれど、実は中身は特別製のスマートウォッチだ。どこまでも形から入る先生らしいアイテムである。


「電波は問題なし。GPSの測位も正確。零和六年三月十九日、火曜日。時刻は午後二時五十分」


 続いて、懐に入れていたスマホを香奈実先輩に渡す。


「蟹江さん、これを預かっておいていただけますか。我々の命綱です」

「命綱?」

「問題を解決して、必ず戻ってきますので。その担保と思っていただいてもいい」


 香奈実先輩の揺れる瞳が僕に向く。

 僕はそれに応え、笑みを作って頷いてみせた。


「行ってきます」

「……行ってらっしゃい」


 そして先生が、静かだが良く通る声で唱える。



 きぃん、と耳の奥で鋭い音が鳴り、にわかに意識が遠ざかった。




 次に頭がはっきりした時、僕は真っ赤な景色の中にいた。


「うわ……」


 たちまちゾッと皮膚が粟立つ。異様な気配の濃さが今までの比じゃない。

 ここは現世うつしよ幽世かくりよを繋ぐ『狭間の世界』だ。死者の世界に近い分、霊的な存在とも接触しやすくなる。


 視界がチカチカしていた。

 何もかもが不自然なほどに赤い。穏やかに流れる川も、雑草の生えた土手も。太陽のない空は、端から端まで茜色に染まっている。

 夕暮れ色に沈んだ川べりに、香奈実先輩の姿はない。僕と先生、百花さんの三人だけだ。

 座標軸としては同じ場所でも、階層が違う。僕たちはこうして階層間を渡ることで、怪異に対応しているのである。


「服部くん、用心しやぁよ」

「はい」


 『狭間の世界』では通常の五感が鈍くなり、代わりにいわゆる第六感が鋭くなる。

 ともすれば精神の奥まで侵食されてしまいそうな、周囲を満たす負のエネルギー。僕は感覚の回線をぴったり閉じて、身の裡に清浄な気を巡らせた。


「来るぞ」


 先生の警告。

 足元から湧き立つ『念』の奔流。

 そこへ混ざるのは無数の歌声だ。


 ——つぼどん つぼどん

 ——お彼岸みゃぁりに 行こみゃぁか


 男なのか女なのか、大人なのか子供なのか。どうともつかない不特定多数の声が反響し、不協和音を作り出す。


 ——去年の春も めぇたけど

 ——からすという くろどりが

 ——足をつつき 目をつつき

 ——それが怖ゃぁて よぅめぇらん


 その声に応えるように、大地が鳴動する。

 川面にさざなみが立ち、徐々に大きなうねりとなる。

 耳を劈く激しい水音。身に打ち付ける水飛沫。

 思わず目を瞑り、恐る恐る開く。そうして飛び込んできた光景に、僕は言葉を失った。


「なっ……」


 龍か、蛇か。

 水でできた巨大な何かが川から顔を出し、長い鎌首をもたげている。

 ちろりと覗く舌の先が割れており、蛇なのだと認識した。


「な、何ですか、あれ……!」


 一瞬とはいえ、動揺したのが不味かった。

 集中の途切れた隙間から夥しい量の負の『念』が入り込んできて、僕の気を掻き乱す。

 頭蓋骨の内側で鳴り響く轟音。目の前を塞ぐホワイトノイズ。まるで洪水に呑み込まれたかのような錯覚に陥り、喉の奥がぐっと詰まる。苦しい……!


「服部 はじめ


 混濁する意識を切り裂いて、先生の声が届く。

 途端ぱちんとチャンネルが切り替わり、僕自身の感覚が輪郭を取り戻した。

 心臓がばくばく言っている。気を上手く鎮められない。


「自我の主導権を手放すな」

「……す、すいません、うっかりしました」


 『容喙声音インタヴィンボイス』。名前を呼んだ相手の意思に強く働きかける特殊な声。思念伝達テレパシーの一種でもある、先生の持つ異能だ。


 百花さんは煙管の火皿に香の粉を落とした。紅い唇が吸い口を咥え、一息に煙を吐く。

 柑橘系の、すっとした爽やかな匂いが辺りを包む。思考がもう一段クリアになった。僕はようやくまともに呼吸を整える。


「服部くん、大丈夫?」

「はい、もう問題ありません。ありがとうございます……あの、この怪物は……」


 改めて、大蛇と対峙する。

 水神。かつて人々が生贄を捧げた。

 そんな強大な存在を相手にして勝てるのか。

 しかし。


「はぁ、派手な演出だこと」

「まぁ想像通りのベタな感じだわな」


 いつも通りに平然としている二人。


「な、なんでそんなに落ち着いとれるんですか……」

「服部少年よ、君は俺の助手になって何年経つ?」

「えぇと……丸四年です」

「なら分かるんじゃないの。アレが何なのか」

「え? リヴァイアサン的な何かでは」

「あのなぁ……」


 大地から湧き立つ無限の輪唱は未だ続いている。


 ——つぼどん つぼどん

 ——お彼岸みゃぁりに 行こみゃぁか


 水の大蛇が吼えた。

 総毛立つ。鼓膜が破れそうだ。空気までもがビリビリ振動している。

 刹那、三角の首がこちらへ接近する。巨大なあぎとが開かれ、視界を覆う。


「うわっ……」


 先生が懐中時計を翳す。



 その一言は、波紋の如く響き渡る。

 今にも僕たちを呑み込まんとしていた蛇は、寸前でぴたりと動きを止めた。


 先生の時計の蓋には特殊な紋章が刻まれている。容喙声音インタヴィンボイスの周波を電磁波で強化することにより、名を知らない相手にまでその対象を拡げることができるのだ。形から入るのは伊達じゃない。



 低い声がこだまする。

 仰ぎ見るほどの水神は、瞬きする間に霧散して、跡形もなく消え去ってしまった。


「ただのハリボテだと、信じればそうなる」


 あの妙な歌声も聞こえなくなっている。老若男女の声の入り混じる、神のお告げを暗示するような歌が。

 そこで僕はようやくピンときた。


「水害が神さまの怒りっていうのは、人々がそう信じたから……」

「そうだ。神の祟りを畏れた村人たちの負の心が、『念』となってこの地の深層に染み付いている。それが形を取ったのが、さっきの蛇の姿だろう」


 ここは八百万の神の国。人々が祈るところに神は存在する。


 百花さんが優しげな角度の眉の根をそっと寄せた。


「生贄になった女の子の魂が核となって、あの力を振るっとるんだと思うよ。人として弔われんかった……せめて人らしく浄化してあげられやいいんだけどねぇ」

「やってみよう」


 先生が懐中時計を構え直し、形をなくして揺蕩う『念』に突き付ける。


姿


 強い気の波濤が迸る。

 それに対抗するように、広範囲に漂う黒いモヤが集結して盾と成る。


姿


 先生が更に異能の力を解放したのが分かった。熱を帯びた気が、ぴりりと肌に触れるほど。

 大地が震える。水面が逆立つ。今まで僕が見た中でも最も絶対数の多い『念』の集合体。

 だけど、誰より迷いのない強靭な我が師の気は、矢のようにモヤの盾を貫き、核となる魂を正確に捉える。

 そうして、一つの人型が顕現した。


「あれが生贄の女の子の霊でしょうか」


 やや小柄なそれが発するのは、激しく渦を巻くような陰の気だ。

 漂う黒いモヤが無数の棒状の凶器を生み出し、霊体の周りを囲んで浮かぶ。のみか、すきか。平たく尖った先端を持つそれらは、ひと呼吸も置かずにこちらへ向かって飛んできた。


 それでも先生は動じない。



 本日二度目となるその言葉が、先ほど以上の威力で以て霊を拘束する。

 降り注ぐ大量の飛び道具は、一瞬にして消失した。


「ひとまず落ち着きゃあよ」


 すかさず百花さんが煙管に新たな粉を足し、やはり強い気の籠った煙を相手へと吹き付ける。

 薄紅色した香の煙にふわりと包まれて、人型の持つ激烈な情動はにわかに和らいだ。

 しかし。


 ——つぼどん つぼどん……

 ——助けて……助けて……


 残されたのは、虚ろに繰り返される、弱々しい嘆きの声だ。

 生きたまま閉じ込められて助けを求めていたと考えると、胸が潰れそうになる。


「あらぁ……鎮静効果のある香は使ったけど、ちょっと会話は難しいかもねぇ。これまでずぅっといろんな人の負の感情と入り混じっとったもんで、正気が何かも分からんくなってまっとるのかも」


 動きを封じられた霊体は未だ色濃い瘴気を纏っており、はっきりした容姿までは視認できない。


「よし、服部少年よ、出番だ」

「へっ? 僕ですか?」


 上級者たちによる強力すぎる気やら『念』やらのぶつかり合いを前にして、誤って一人だけ中途半端なレベルで魔王城に迷い込んだ名無しの冒険者みたいな顔をしていた僕は、思わず間の抜けた返事をしてしまった。


「あの霊の真名が知りたい。適切な方向へ、確実に導くためにも」

「あぁ、はい、分かりました。任せてください」


 良かった、役立てることがあって。

 僕はきっちり閉じていた感覚の回線を開き、対象となる霊へと向けてピンポイントに引き絞る。

 『念』で覆われた意識の深部を探り当てれば、相手の感覚が流れ込んできて——


 ——助けて……助けて……助けて……


 そこで気付いた。

 この霊の正体について、僕たちが勘違いをしていたということに。

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