07 断たれた願い

 ——つぼどん つぼどん

 ——お彼岸みゃぁりに 行こみゃぁか

 ——去年の春も めぇたけど……


 彼岸が近づくたんび、誰かが調子っぱずれに口ずさむ。

 村のもんなら、みぃんな歌える歌だ。

 おれも、も、小さい時分に自分のばあちゃんから教わった。


 きよは、おれの隣んちの娘だった。

 きよんちのお父は村の庄屋だけど、おれたちは兄妹みたいに育った。


 ——からすという くろどりが

 ——足をつつき 目をつつき

 ——それが怖ゃぁて よぅめぇらん


 小さくて弱いきよは、他のやつらからよく苛められた。それを守るのがおれの役目だった。


「きよは大きなったら弥二郎やじろうにいちゃんのお嫁になる」


 きよは口ぐせみたいに言った。

 可愛いきよ。いつもおれの隣におる。

 そんな当たり前の日々が大人になっても続いてくもんだと、おれもきよも信じて疑わんかった。


 ——つぼどん つぼどん

 ——お彼岸みゃぁりに 行こみゃぁか


 ある春の彼岸には、お父の墓参りにきよもついてきた。

 おれはいつかきよを嫁にしようと心に決めた。


 その年は、とりわけ雨が多かった。

 村の南を流れる庄内川は、しょっちゅう大水の出る川だ。

 堤を積んでも土嚢を積んでもすぐに壊れて、あっという間に村じゅう水浸しになる。

 アメアメに通じる。人の力じゃ、どうしようもなかった。


 困った村のもんが、通りがかった旅の陰陽師にわけを話すと、こう言われたそうだ。


「こりゃあ水神さまの祟りじゃ。今年十五になる生娘を庄内川の土手に埋めなされ。ほうすりゃぁ祟りは収まる」


 くじで決めようと言ったのは、庄屋であるきよのお父だった。

 そんで、くじ引きで贄に決まったのは、きよだった。


 なんでそんなことになったのか。

 もっと早くおれがきよを嫁に貰っときゃあ良かったのか。

 きよが、生娘じゃなけや良いのか。

 ……だけどそこから、きよにはずうっと見張りが付いて、どうにも手出しができずじまいだった。


 水神さまに供物として捧げられる日。きよは、真っ白な着物を着せられた。まるでお武家さまの嫁入り衣装だ。

 きよが白木の箱に横たわるのを、おれは遠くからただ眺めた。なるたけ誰の目にもつかんように。


 きよが土手に埋められてから、おれは見張りの隙を狙って、たびたびそこへ足を運んだ。

 土の上に出た空気抜きの筒から、きよの鳴らす鐘の音が聞こえた。

 おれはそこへ飲み水を流し込んでは、きよに声をかけた。


「きよ、まぁちょっと頑張れ。おれがそっから出したるでな」

「弥二郎にいちゃん……」

「明後日んなりゃあ、月のゃぁ夜が来る。ほうしたら暗闇に紛れておみゃぁんこと掘り出したる。おれと逃げよみゃぁ。どっか遠く、だぁれも知らんとこによ」

「でも、水神さまは」

「何か身代わりになるもん入れときゃぁいい」


 きよは泣いた。泣きながら小さな声で歌った。


 ——つぼどん つぼどん

 ——お彼岸みゃぁりに 行こみゃぁか

 ——去年の春は めぇたけど……


 それから二日後の、真っ暗な夜。

 おれは村の犬を連れて、きよの埋まった場所へ行った。みんなが可愛がる犬を、きよの代わりにしようと思った。

 普段は田畑を耕す鍬を、きよのいる地面に振り下ろした。


「きよ、待っとれよ。まぁすぐだでな」


 土を深く掘り返して、きよの入った木箱がやっと見えてきた、その時。

 どっかから聞こえた遠吠えに、連れてきた犬が応えた。


「しぃっ! 静かにしろ!」


 犬が高く吠え声を上げ続けるもんで、小屋で居眠りしとった見張りが起きた。


「おみゃぁ、何しとりゃぁすか!」


 おれは逃げ出す。

 どんどん人が集まってくる。

 村の男どもがおれを追い回す。


「弥二郎か?」

「たぁけが、きよは水神さまのお嫁になったんだわ」

「贄を掘り返すなんて、とんでもゃぁことしよってからに」

「罰当たりもんめが、神の祟りが来るぞ」

「罪人じゃ」

「罪人じゃ」


「禁を破った罪人は生かしちゃおけん」


 おれはとうとう捕まって、地に伏せられた。


「まぁ逃げれんでな」

「天罰だ」


 ——からすという くろどりが

 ——足をつつき 目をつつき


 おれの両の脚は、鋤や鍬でめった打ちされて、呆気なく潰された。

 顔を思いっきり殴られた。誰かの拳骨げんこがめり込んで、今度は目ん玉が潰された。

 痛い。痛い。痛いけど、そんなことより。

 どうにも動けん。何にも見えん。


 ——それが怖ゃぁて よぅめぇらん


 これじゃあ、きよを助けれせん。


 おれは雁字搦めに縛られて、川に放られた。身動きの取れんまんま、流されてく。

 冷たい水が鼻や口に入った。天から降った、雨で増えに増えた水が。

 苦しい。苦しい。


 薄れる意識ん中で、きよの声を聞いた気がした。


『きよは大きなったら弥二郎にいちゃんのお嫁になる』


 きよの歌う声が、頭ん中で延々と繰り返す。


 ——つぼどん つぼどん

 ——お彼岸みゃぁりに 行こみゃぁか……


 きよ。きよ。おれのきよ。

 なんで神さまなんかの嫁になった。

 きよ。

 きよ——

 助けれんで、悪かった。

 おれのせいで。おれが早いとこ嫁に貰わなんだせいで。あんな狭いとこ閉じ込められて。

 苦しい。苦しい。苦しくて、どうにもならん。

 誰か、誰か、助けてくれ。

 きよを、助けてくれ。

 誰か、どうか、きよを助けて——




 凄まじい負の感情の渦から、無理やり意識を引き剥がす。


 他者の感覚を我がことのように受信する『共感応エンパス』。それが僕の持って生まれた能力だ。

 以前は意図せずに何でもかんでも受け取ってしまい、自分の感覚なのか他人の感覚なのか区別も付かずに混乱したり、自意識ごと他者に乗っ取られたような状態になったりしていた。

 今ではもう、自我をしっかり保ったまま他人の意識に触れられる。


 だけどまだ、心臓が激しく暴れていた。

 自分に向けられる複数の強い殺意。脚を潰され、目を潰され、縛られて川へと流される感覚。

 命を、奪われる感覚。

 それらがぶり返すように全身を襲い、僕は堪らず嘔吐した。


「服部少年! どうした?」


 樹神こだま先生の声が聞こえる。脂汗が止まらない。


「服部くん、ゆっくり息しやぁよ」


 百花もかさんが僕の背中をさすってくれる。いい匂いのする吐息がうなじに触れ、急に呼吸が通る。

 落ち着いたかと思いきや、次に湧き上がってきたのは神経の凍るような震えだ。

 あんな恐怖、これまでの人生でも感じたことがなかった。


「よしよし、何か怖いもの見たんだね。よぅ頑張ったね、まぁ大丈夫だでね」


 一瞬、百花さんに縋り付きたい衝動に駆られた。だけど、さすがに先生に怒られそうなのでどうにか踏み止まった。

 気を取り直して、顔を上げる。大丈夫、


「……すいません、もう平気です」


 僕は今しがた見てきたものを、掻い摘んで説明した。


「『助けて』というのは、生贄本人の『念』じゃなくて……生贄となった幼馴染を、動けない自分の代わりに『助けて』と懇願する想いだったんです」


 先生が唸る。


「そうか、犬は身代わりだったんだな。村人たちの可愛がる犬を代わりに生贄にすることで、意趣返しの意味もあったかもしれん。いずれにせよ、娘を助けられなかったその若者の『念』が強く残った」

「だから犬の骨を埋めた香奈実先輩に、助けを求めとったんですね……」


 改めて、拘束された霊を見る。

 よく目を凝らせば、それが僕と同年代ぐらいの男性であることが分かる。

 『弥二郎』と呼ばれていた人だ。

 彼の切実な願いを、ありありと思い出せる。胸を掻きむしりたくなった。


「どうしやいいんですか、こんなの。大事な人は守れんわ、自分は殺されるわで。村の人を恨む気持ち、よく分かりますよ。でももうみんな死んどるし、そもそもみんな洪水の被害者だった……」


 だからといって仕方のない犠牲だったとは、思いたくもないけれど。

 誰か、極悪人でもいたら良かった。


「そうだな……」


 先生の表情は見えない。ただ淡々と、力を乗せた言葉が放たれる。


「弥二郎、『


 名を縛ったことで、先生の声音は確実に作用する。一気に解き放たれる『念』。しかし黒いモヤが消えても、弥二郎さんの魂はそこに残ったままだ。


 先生は弥二郎さんの前に膝をつき、目線の高さを合わせた。


「……俺にできることはこのくらいだ。すまない」


 虚ろに揺らめく弥二郎さんは、ぽつりとこぼす。


『きよ……』


 愛しい人の名前。

 喉の奥が詰まった。

 彼は何も、多くを望んだわけじゃなかった。

 大切な人と同じ人生を歩みたかっただけだ。

 たったそれだけのことすら、叶わなかったのだ。


「そうだよな、一緒におりたかったよな」


 先生は立ち上がり、一つ息をついた。

 やにわに、気の流れが巻き起こる。清浄で迷いのない気だ。それが長身のうつし身に引き付けられ、収斂する。

 そうして我が師は、力を解放した。


「弥二郎、


 祈りが、こだまする。

 穏やかでよく通り、自然と心の奥深くまで届く真っ直ぐな声で。


 弥二郎さんの表情がすっと和らいだものに変わった。その姿も薄れていく。


 百花さんが新たな香の煙を注ぎ込む。


「どうか、安らかに」


 優しい護りの気に包まれた魂は、ひゅっと何かに引かれるように飛んでいった。


「十五之塚跡に施したのと同じ香だよ。同じ力は引き合うで、一緒になれるはずだわ。このくらいが関の山だね……」


 残されたのは、ただ夕暮れ色に染まった川べりだ。


「さぁ、戻ろう」


 先生が懐中時計型スマートウォッチを操作すると、鋭い呼び出し音が鳴り始める。二回目のコールで、回線が繋がった。


 途端。空の頂点から膜が剥がれ落ちるように、景色を覆う赤みが抜けていく。

 世界が正しい色彩を取り戻す。

 空の淡い群青に、土手を覆う雑草の緑に、コンクリートの褪せた灰色。


 かつて荒れ狂った庄内川は、柔らかな陽光を弾いて穏やかに流れていた。

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