02 忘れられゆく歌

 名古屋駅から名鉄あるいはJRで二駅。もしくは地下鉄東山線に乗り、栄で名城線左回りに乗り換えてから四駅。

 金山総合駅の程近く、とある雑居ビルの二階に、小さな事務所がある。

 看板は出しておらず、玄関扉の表側にレトロな風合いの小さな表札がかかっているだけ。

 そこには、こんな飾り文字が並んでいる。


『樹神探偵事務所』


 樹の神と書いて『こだま』と読む。

 密室殺人なんかとは縁がないけれど、この探偵事務所にはちょっと変わった依頼が持ち込まれる。 


 僕の名前は服部 はじめ

 ここで樹神こだま先生の助手をしている、名古屋市内の国立大学に通う十九歳だ。


 これからご紹介するのは、愛犬の死をきっかけに引き起こされた怪現象の話。

 聞いたこともない童歌は、いったい何を訴えているのか——?



 ◇



 午後一時過ぎ。僕が事務所に赴くと、お馴染みの気障な笑顔が出迎えてくれた。


「やぁ、服部少年。待ってたよ」

「すみません、急なことで」

「いいや。よほどの事態なんだろう」


 いつものように洒落たスーツベストにネクタイ姿で、長めの髪を後ろで一つに括っている。

 三十代も半ばほどの、長身の伊達男。これが僕の雇用主であり師匠でもある、探偵・樹神 皓志郎こうしろう先生だ。


「で、そちらの可愛らしいお嬢さんが?」

「えぇ、同じ部の蟹江かにえ先輩です」


 僕は背後にいた蟹江先輩を玄関の中へと招き入れた。栗色の髪をサイドテールにし、ピンクベージュのコートを着た女子。色白の頬は先ほどとあまり変わらず、血の気が薄い。


 今日の全体練習を体調不良で見学していた彼女は、新幹部のミーティングを辞退して、一人早々に帰路についた。

 親しい友人のいない僕もまた、談笑する一年生の輪を離れ、さっさと駅へ向かっていた。

 そうして大学構内でうずくまる彼女の姿を見つけたのだ。

 僕だけで対処できるならば良かったのだけれど、どうにも不味い状況と判断して先生に連絡し、今に至る。

 なぜならば。


「なるほど。これは確かになかなかの『念』だ」

「えぇ。一瞬散らすくらいは僕にもできましたけど、気休めくらいにしかなりません」

「『念』……?」


 応接用の渋い革張りのソファを案内された蟹江先輩は、僕たちの会話に首を捻った。

 猫脚ローテーブルを挟んだ対面で、先生は誠実そのものという微笑を浮かべる。


「申し遅れました、私は探偵の樹神という者です。蟹江さん、いつもうちの助手がお世話になっています」

「あ、どうも。あの……服部くんは、この探偵事務所でバイトを?」

「えぇ。ここは怪異事件を専門に扱う探偵事務所です。彼には数年前から私の手伝いをしてもらっています」

「怪異、事件……」


 蟹江先輩は僕たち二人の顔をきょろきょろと見比べている。僕は自分のバイト先のことを大学の誰にも話していなかったので、無理もない。


「あの、さっきの、『念』がどうとかっていうのは……」

「霊的な感覚のない方にはピンと来ないかもしれませんね。実は今、あなたの周囲を『念』が取り巻いているんです」

「え……?」


 そうなのだ。

 僕の目に、それはどす黒いモヤのように映っている。


「『念』とは、思念の塊のことです。悪意や執着など負の感情であることが多いですが、愛情に起因するケースもあります。霊感がない人であっても、あまりに濃い『念』に触れ続ければ体調に悪影響が出ることもある」

「はぁ……」


 僕は先生から目配せをもらい、釈然としない表情の蟹江先輩へと向き合った。

 気の流れを読み、ここぞというタイミングで指を鳴らす。パチンと音が弾けると共に、彼女を苛むモヤの一部が霧散した。


「……あれ?」

「先輩、どうですか。今、少しだけ『念』を祓ってみたんですが」

「うん、なんか、急に頭痛が軽くなったかも。ずうっとひどかったんだけど」

「それなら良かったです」


 少し前から、蟹江先輩の周りの『念』が気になっていた。見るからに調子も悪そうだったのだけれど、ほとんど会話したこともないのに突然『念』だの霊だの言うわけにもいかず、遠目に様子を窺うに留めていたのだ。


「そういえば……もしかしてテスト期間中の自主練の時にも、何かしてくれた?」

「あっ、はい、実は」

「そっかぁ、やっぱりそうだったんだ」


 あの時は、弦を弾くのを利用して気を飛ばしてみたのだ。実験的にやったことだったけれど、意外と上手くいった。


「えぇと……それで、私、悪霊みたいなやつに取り憑かれとるってこと?」

「いや、それが僕にもよく分からないんですよ。とりあえず視えるのは『念』だけで、霊の気配は感じません。でも『念』を祓ってもまた復活しますし、いったい何なのかと思いまして」


 先生に視線を向ければ、任せろとばかりに力強い首肯が返ってくる。


「蟹江さん、心霊関係のお困り事ならば、私どもでお力になれると思いますよ」

「えっ……えぇ、でも……私、霊とかぜんぜん分からないんで……」

「視えないものをいきなり信じろと言われて、戸惑うお気持ちはよく分かります。しかし、このまま放置すると取り返しのつかないことになりかねません。今回は服部の紹介ですし、ひとまずの相談でしたら特別に無料でお受けしましょう。あなたのような可憐な方がお辛そうなのは、どうにも心苦しい」


 甘い声に、甘い微笑み。

 いや、それは。


「先生、逆に何かそこはかとなく霊感商法みがあります。ただでさえ胡散臭いんですから」

「えぇ? 何、せっかく君の顔を立てたっとんのにさ」

「僕まで悪徳業者の手先だと思われたらどうしてくれるんですか」

「ひど……辛辣すぎん?」


 ぶつぶつ言う先生は放っておいて、僕はコーヒーを用意して応接コーナーまで運んだ。


「先輩、すいません。急に連れてきて、変な話して。でも、明らかに大変な状態なのに見過ごすこともできんかったんで……」

「ううん、あの、服部くんが助けてくれたってことだけは分かるよ」


 蟹江先輩は一息つくと、居住まいを正した。


「じゃあ、せっかくなので……私の話、聞いていただいてもいいですか」

「えぇ、もちろんです」

「何から話したらいいのか分からないんですけど……歌が、聞こえるんです」


 曰く。

 ふた月ほど前から、変な夢を見るようになった。暗闇の中で誰かが知らない童歌を繰り返し歌う夢を。その歌声はだんだん小さくなり、最後には何も聞こえなくなってしまう。

 歌と入れ替わるようにして、息苦しさに襲れる。そして呼吸が上手くできなくなったところで飛び起きるのだという。

 以来ひどく眠りが浅く、疲れが身体に蓄積し続けている。頭痛や眩暈は日に日に強さを増し、日常生活に支障をきたすほど。


「知ってる歌ならまだしも、全然知らない歌が急に夢に出てきたっていうのが不気味で……『つぼどん、つぼどん』っていう歌なんですけど」

「ほう、これまたずいぶんマイナーな童歌ですね」

「探偵さん、ご存じなんですか?」

「えぇ、尾張地方の古い歌ですよ。歌詞の訛りがこの辺のものでしょう。他には浜松など遠州の辺りでも歌われていたらしく、地域によって多少のバリエーションがあるようですが」


 ——つぼどん つぼどん

 ——お彼岸みゃぁりに 行こみゃぁか

 ——去年の春も めぇたけど

 ——からすという くろどりが

 ——足をつつき 目をつつき

 ——それが怖ゃぁて よぅめぇらん


「『つぼどん』とは、タニシのことです。彼岸参りに誘われたタニシが、カラスに突かれるのが怖いから行けないと言って断る歌だ。『ずいずいずっころばし』と似た手遊びをするんです」


 タニシがカラスに突かれる?


「先生、どういう意味の歌ですか?」

「残念ながらよく分からないんだよ。君も知っての通り、この手の童歌は古い因習なんかが根幹にあったりすることが多いんだが、『つぼどん』に関しては大した資料もない」

「僕も初めて聞きました」

「薬科大の伝統芸で似た歌詞の踊りがあったり、室町時代の曲舞が起源という説もあるらしいが、詳細は不明だよ。日本でも一部の地域でしか歌われていなかった上、二世代ほども前の歌だ。今や知る人も少ないだろう」


 いつか忘れられゆく歌、ということか。


「タニシは主に田んぼに生息する巻き貝だ。それが持ち場を離れて彼岸参りをしようとすると、外敵であるカラスに突かれる。だから自分の殻に閉じこもって身を守らなくてはならない……そういう解釈をすれば、何某なにがしかの含意を汲むことはできるかもしれない」


 蟹江先輩がこめかみを押さえる。


「じゃあ、外に出るなっていうことなんですかね……今じゃもう頭の中にこべり付いて、気付いたらずっと脳内で再生してる感じで。まるで何かの呪いみたい」

「『呪い』というのは言い得て妙かもしれません。因果関係は分かりませんが、歌が繰り返されることで『念』を増幅していると考えられます」

「どういうことですか?」

「歌は呪文です。例え意味を知らずとも、言葉と節とで特別な力を持ち得る。その歌を思い出すたび、頭痛などの症状がひどくなってはいませんか」

「あ……そうですね、その通りです」

「夢の中で聞こえ始めた歌。夢というのは、現実世界よりも幽世かくりよ——あの世と通じやすい」


 つまり。


「何者かが幽世から、蟹江さんに『念』の籠ったメッセージを送っている可能性があります」

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